ケイケイの映画日記
目次|過去|未来
2011年04月26日(火) |
「イリュージョニスト」 |
素晴らしい!誰にでも来る人生の終盤を、哀愁を込めて温かく見守るように描く作品です。監督はシルヴァン・ショメ、脚本はジャック・タチ。大人の、それも中年以降の人のためのようなアニメです。すみません、今回もネタバレです。
老手品師のタチシェフ。時代に取り残され、場末の劇場を回るドサ周りの日々です。次の仕事場所はスコットランドの離島の大衆酒場。そこで出会った小間使いの少女アリスは、タチシェフの事を何でも願い事を叶えてくれる、魔法使いだと思い込みます。やがてタチシェフが島を離れエジンバラに向かう時には、アリスも付いてきます。いつしかアリスに幼い頃に別れた娘を重ねるタチシェフは、アリスの喜ぶ顔見たさにプレゼントを重ね、二人の風変わりな生活が始まります。
冒頭寂れた劇場で、時代遅れの手品をするタチシェフ。ロック人気に追いやられたり、古臭い手品は見破られたりで、本来は痛々しいだけなはずなのに、画面からは洒脱なユーモアが漂い、うらぶれながらも荒まない、タチシェフの品の良さが浮かびます。
スコットランドの大衆酒場では、彼の芸で盛り上がり、何だか私までホッとした気分。気分も良かったんでしょう、身の回りの世話をしてくれるアリスに、ちょっとしたプレゼントの赤い靴を手品で渡すタチシェフ。アリスは14〜5歳でしょうか?本来なら、もう少し大人になるまでここで奉公、分相応の若者と結婚し、慎ましやかにこの島で暮らすはずだったでしょう。そんな自分の未来に漠然と不満があったのかもしれません。無邪気で無知な心が、タチシェフへと向かったのは、私には納得できました。
タチシェフはと言うと、ピークはとっくに過ぎた初老の芸人。老いた身で若者から親愛と尊敬を集めるのは至難の業。おまけに別れた娘をアリスに重ねた彼は、彼女の望む魔法使いたるべく、慣れない副業までして願いを叶えてあげます。
タチシェフが彼女のため、段々芸ではなく、ただの見世物になっていくのに対し、垢抜けない島の少女だったアリスは、洗練されたレディになっていきます。飄々と描いていますが、タチシェフのアリスへの献身です。そこには実の娘への償いがあり、アリスと娘が同化していたのだと思います。そしてアリスの同世代との恋。何も言わず去っていくタチシェフ。これは「父親の愛」ではなく、「娘と別れた父親の愛」だと思いました。
裸で生まれた娘を手塩にかけて育てた父親なら、こんなに苦労して育てたのに、父親に一言も告げず、何だお前は!となって当たり前。しかしタチシェフは、自分の娘の成長を見ていない。娘の事は忘れた事がなくても、お前を愛しているよと、抱きしめたことはないのです。そんな悔恨が戒めとなり、潔く身を引く決心がついたのでしょう。
そんな品格のあるタチシェフにしたのは、アリスの存在です。老いた芸人たちが、次々人間としても落ちぶれていく中、彼に人としての尊厳をもたらしたのは、アリスの笑顔が観たい、ただそれだけで無償の愛を注いだからだと思います。愛するという事は、人に自分の力を超えたエネルギーをもたらすものです。アリスの奥に見える娘を見つめていたタチシェフは、やはり「父親」だったのですね。
段々大人になっていくアリスは、タチシェフが魔法使いではないと、気づいていたでしょう。利用したと映るかもしれませんが、私はそれで良いと思います。若い愛らしさは、無条件に人から愛される理由になると思うから。アリスに残した「魔法使いなんかいない」のタチシェフの言葉は、若さはすぐ過ぎるもの、愛されるだけではなく、愛することを学びなさいと言う、はなむけの言葉のように感じました。
間に挿入される、ユーモアとペーソス溢れる芸人たちの姿は、悲喜こもごもの人生の縮図のように感じました。これから老いに向かう我が身には、とても切なくしみじみ感じ入ってしまいました。特に「戦友」のうさぎを野に放す場面では、泣けて泣けて。
私も大好きな「素晴らしき哉、人生!」という映画、この作品が世代を超えて愛されているのは、人生は素晴らしいと、胸を張っては言えないのを、本当は人々が知っているからだと思います。私も死ぬ時、言えない気がします。でも人生は愛しいもの、そうは言い残せるかもしれない。「イリュージョニスト」は、そんな小さく慎ましやかな希望をもたらしてくれる作品でした。
|