ケイケイの映画日記
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2010年03月12日(金) 「シャネル&ストラヴィンスキー」




直前に観た私のテリトリーだった「フローズン・リバー」とうって変って、こちら完全な門外漢作品。ファッションについてあまりわからないし、クラシック音楽に関しても、学校で習ったレベルなもんで、本来ならパスの作品なんですが、私のマッツ・ミケルセンが主演なので観てきました。マッツは元より、シャネル役のアナ・ムグラリスがとても素敵で、結構楽しめました。普通に描くと通俗的になる三角関係を、ランクアップして見せたと言う感じでしょうか?私的にはそういう感想です。監督はヤン・クーネン。

1913年のパリ。シャンゼリゼ劇場で上演されたストランヴィンスキー(ミケルセン)が作曲を担当した「春の祭典」は、その斬新さ故、観客には受け入れられず、野次と嘲笑で劇場は騒然となります。一人ココ・シャネル(ムグラリス)だけが、ストラヴィンスキーの才能に目をつけます。それから七年後、愛するカペルとの死別を経て、ファッション界に確固たる地位を築いた彼女は、パリで経済的に困窮しているストラヴィンスキーに援助を申し出ます。ストラヴィンスキーは妻子と共に、シャネルの別荘に移り住み、作曲活動に専念するのですが・・・。

あんまり知らないとは言え、そこはワタクシも女ですもの、劇中出てくる素敵なお洋服には目を見張ります。何でもアナが着ている衣装は、カール・ラガーフェルドがこの作品のためデザインしたものだそうです。当時にも今の感覚にもマッチしており、シャネル社が全面的に協賛している作品らしく、調度品の数々もシックでゴージャスで、実に素敵です。

で、大ひんしゅくをかった「春の祭典」の舞台場面なんですが、今の感覚で観れば中々面白いです。でも確かに「白鳥の湖」を求めていた観客にとっては、これはただのおふざけと騒音でしょう。だってた山海塾みたいなんだもん。これでストランヴィスキーの才能を見抜いたシャネルは、さすがと言うところです。

才能と才能のぶつかり合いは、丁々発止と言う感じではなく、常にシャネルがリードします。年齢ではストランヴィンスキーの方が上なんですが、何とも手の中で転がされているようなんだなぁ。彼の妻(エレーナ・もロゾーワ)は夫の書きなぐった音を譜面に起こすと言う、作曲の校正みたいなこともしており、公私共のパートナーでもあります。この妻は中々見上げた人で、家族ごとシャネルの世話になったことへの感謝は述べながら、夫を寝どったシャネルに対して、「良心の呵責はないのか?」と、きっぱり立ち向かいます。シャネルの大物ぶりにも、一歩も引けを取りません。礼節と品格は失わず、そして夫へ愛もしっかり示すと言う天晴れなもの。おまけに怖い!ブランコに乗ったシーンなんか、「シャイニング」級の恐ろしさだよ。

大物女性二人に挟まれたストラヴィンスキーなんですが、あっち行ったりこっち行ったり、もうちっちゃいの。確かに溢れる才能は感じるんですが、一人じゃ何にも出来ないんです。しかしですね、長身でマッチョなのに、三叉神経がビリビリしていそうな神経質で優柔不断なインテリなへたれ男を、マッツが演じると、超セクシーなんですねぇ〜〜〜。私の愛して止まないマッツ・ミケルセンのお姿がそこにあるわけで、大変眼福でございました。

アナ・ムグラリスは名前だけしか知りませんでしたが、とっても素敵な女優さんです。クールを越えて辛い辛いジンジャー風味のシャネルを好演。常にタバコを口にし、従業員の賃上げ要求も却下、仕事にはとてもシビアですが、芸術を愛し育てようとする姿には、潤沢なお金の使い方も知っている人だとわかります。ストラヴィンスキーは「君は服屋で芸術家ではない」と言います。私もそう思う。ファッションは文化であっても芸術だとは思いません。これは言いかえれば、そこでしかシャネルを凌駕出来ないストラヴィンスキーの遠吠えなのでしょう。口した途端、負け犬になることがわからないのでしょうね。

妻「良心の呵責はないのか?」シャネル「ないわ」の会話の後の顛末は、あの妻であったからこそでしょう。普通の女が一番怖くて強いんだよなぁ。普通の女ではないシャネルの哀しみも感じました。

二時間ちょっと、別世界に連れて行ってもらえる作品です。大阪は始まったばかりですが、早く終わりそうなので、ご興味のある方はどうぞお早めに。


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