ケイケイの映画日記
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2008年10月13日(月) 「宮廷画家ゴヤは見た」




私的に久々に観るミロス・フォアマン監督作。(ちなみに私の一番好きな監督の作品は「ラリー・フリント」)有名なゴヤと彼が描いた絵画を狂言回しに配して、18世紀末から19世紀のスペインの激動の時代を描いた作品。歴史好き・絵画好きさんは元より、私のような門外漢でも楽しめる作品となっています。

18世紀末のスペイン。画家のゴヤ(ステラン・スカルスガルド)は、宮廷画家として活躍する一方、世相を風刺した版画も世に出していました。その頃カトリック教会では、揺らぎかけている威信を取り戻すため、ロレンソ神父(ハビエル・バルデム)の提案で、形骸化していた異端審問を強化します。ゴヤの知り合いである裕福な商人の娘イネス(ナタリー・ポートマン)は、兄たちと居酒屋で食事をしていた際、豚肉を嫌った事を潜入していた教会の手のものにより密告され、ユダヤ教徒の疑いありと、審問にかけられます。

堅苦しく作ると、壮大で高尚な歴史劇になってしまうところを、フォアマンは格調は落とさずに人間臭く、そしてちょっぴり下世話にも感じる悲喜劇として作ってあったので、私のような歴史に疎い人間にも充分物語についていけました。

独裁政治にも似たカトリック教会が権威を振るう様子、それを許した王室を、スペイン人民の解放を名目に武力で追い出すフランス軍、しかし指揮を執ったナポレオンは、次の王には自分の兄弟を据えるのです。結局誰が政権を執ろうと、一向に人民は解放されません。その様子を冷静かつ憂いを込めて見つめるゴヤ。私は本当に絵画には疎いもので、彼の絵にこんな背景をあったとは全然知らず、勉強になりました。

創作であろうイネスとロレンソの人生。不当な審問にかけられ人生を台無しにしたイネスは、本当に可哀想なはずなんですが、私には何故か精神の清らかさ強さを感じてしまいます。それは長く繋がれた牢獄の最初の方で、彼女が生きるよすがを得たからだと思います。精神に異常をきたそうが、美しい容姿がどのように朽ち果てようが、同情だけではないものをイネスに授けた数々の演出が、彼女をただ時代に翻弄された可哀想な女性とは描いていなかったと思います。これでもかと言うほど試練を与えられながら、イネスの真の姿を観客に知らしめたナタリーの演技は圧巻で、今回本当に感心しました。

ロレンソは壮大な風見鶏的人生を生きます。しかし彼の負の部分は、当時の彼の力で「抹殺」出来たはずなんですが、「なかったこと」に留めるロレンソに、心の底に残る彼の良心を感じます。狡猾で小心、卑怯者の彼ですが、どこか憎めないものを私が感じるのは、この辺です。ハビエル・バルデムは、どんな役をやってもまぎれもなくバルデムなのですが、全く違う役を演じて、どれもこれも素晴らしい演技です。カメレオン役者ではないという点が、これからハリウッドで活躍する強みになると思います。

審問と言う名の拷問は、神への忠誠心を試すためのものだとか。どんなにひどい拷問も、神を信じる者には神の愛が下り耐えられるのだとか。ロレンソの講釈はこんな感じだったかな?私はキリスト教は全くわかりませんが、それは本当のキリストの教義を、歪曲した解釈ではないのでしょうか?人間は神ではないのですから、拷問には耐えられないのは当然です。自分たちは神に選ばれし人間だという、選民・特権を意識を持った当時のキリスト教会を表現していたように思います。

監督がそれを鼻で笑う様子で描いたのが、ロレンソの姿でした。そして時代のうねりに巻き込まれた異端審問所長にも、その様子が表れています。しかし審問所長は、そこで感じた労苦を無駄にしませんでした。ロレンソに「悔い改めるなら・・・」と、彼に恩情を与える所長は、上記の解釈など嘘っぱちだと肌で感じたのでしょう。以前の彼なら考えられないことです。これは人間は決して神とは同格には成り得ない、ちっぽけで弱い存在だと、所長が身に染みて感じたからだと思います。この演出は、私にはとても印象深いものでした。

で、ロレンソはどうしたか?彼の選択もまた、心から自分の人生を「悔い改めた」からの選択であったように思います。こんなギリギリの状況になって、本当の悟りが開けるのですから、人間って本当に業が深いもんだよと、つくづく感じます。

ラストのイネスの様子に、私はトリュフォーの「アデルの恋の物語」と似たラストだと感じました。何と悲痛な悲劇的なラストだろうと、脳天を一撃された当時思春期の私でしたが、今回のイネスは、皮肉で残酷ですが幸福感すら感じます。イネスが待ち続けたものは、もうどこへも行かないのですから。傍がどんなに同情し可哀想だと感じる状況でも、当人は心から幸せなのかもしれないという事を、改めて実感したラストでした。


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