ケイケイの映画日記
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「マイケル・ナイト・シャマラン、プレゼンツ」。この作品の予告編をボ〜と観ていて、面白そうだな思っていた私を襲った、あのショッキングな文字が忘れられません。だってあなた、前作が「レディ・イン・ザ・ウォーター」ですよ?もう一度言います、映画以前の脚本でした。もう完全にシャマランのキャリアは終わったと思いました。それがまた、ハリウッドで作らせてもらえるなんて。何故?どうして?アラブの大金持ちのパトロンでもいるわけ?(大妄想)。バーホーベン先生だって、ハリウッドに見捨てられて、故国オランダで撮ったというのに。それがあの「ブラック・ブック」なんですから、ハリウッドってアホなのよ。そうか、アホだからまだシャマランに撮らせるのか!(結論)。ということで、期待値最小限で臨みました。観ると言う事は、私もアホなのだ、わーはっはっは!。しかし今回は期待を上回る出来だったので(注・「はるかに」ではない)、映画なんてわからんもんですね。
ニューヨークのセントラルパークで、突然人々が立ち止まるかと思うと、集団で自殺を始めるという出来事が起こります。最初大規模なテロかと思われたこの現象ですが、対応策も原因もわからず、全米へ広がっていきます。フィラデルフィアの科学の高校教師エリオット(マーク・ウォルバーグ)は、同僚教師のジュリアン(ジョン・レグイザモ)の誘いで、妻のアルマ(ズーイー・デシャネル)、ジュリアンの娘ジェス(アシュリー・サンチェス)とともに、安全と思われるジュリアンの故郷へ向かうのですが・・・。
ある種、地球の終わりを描いた作品だと思いました。終末観ものだと、「北斗の拳」や「マッドマックス」的な、暴力的ですさんだ光景が私などは浮かぶのですが、この作品はごく普通の生活を送っている人々を描くことで、恐ろしさを煽ります。ちょっと「ミスト」も連想させますが、出来が良かった代わりに、超のつく後味の悪さを残した「ミスト」と比べ、ハッタリ満載ツッコミ満載のこちらは、優しさと愛が残ります。
主役のエリオットは救世主とはならず、とにかく逃げ回ることばかりを考え、頼りないことこの上ないです。アルマは常日頃から夫のそんな様子を苦々しく思っていたのでしょう。しかし、懸命に妻と友人の娘ジェスを連れて、「何者か」から逃げるエリオットからは、ヘタレとは言わせない誠実さも溢れていました。
アルマもそうです。小悪魔チックで手がかかりそうな風情は、恋人ならチャーミングですが、妻という名にはふさわしそうではありません。その辺を見抜くジュリアンは、友人の妻として彼女を受け入れ難く思っていて、アルマも彼が苦手のようです。しかしジェスに対しての彼女の気遣いは、そんな大人の事情はそっちのけ、寄る辺ない身の上になったジェスを、心から案じる姿は、純粋さと母性に溢れています。そして人生の一大事になって夫婦の絆が深まる様子は、観ていてやはり気持の安らぐものです。ここで小悪魔妻が、「子供は足手まといになるわ・・・」と夫に囁けば、サスペンスとしては面白い展開になるんでしょうが、人の善なる部分を押し出した描き方に、私は好感を持ちました。
劇中自殺を促すものの正体が、様々に語られます。ただ今日本は、昔からは考えられない亜熱帯のような夏で、毎日毎日暑いというより、熱いという日々が続いています。地球の温暖化により、あちこちで天変地異が起こり、文明の恩恵に預かる私たちが、負の一端を担っていることは確か。他人の子のジェスを必死で守るエリオットたちを通じて、直接周りで被害はなくても、世界中を見渡してエコロジーについて考えて欲しいと、シャマランは考えているのかも?多分深読みですが、そう感じるとオープニングの青空と雲の爽やかさは、いつまでも未来に伝えたいとも思えます。
前半は手際よく大量の自殺の様子を見せ、ジュリアンの乗ったオープンカーの幌の裂け目から絶望感を煽り、この先どうなるんだ?と、なかなか面白く見せてくれるものの、いつもの「シャマラン・クオリティ」が中盤から顔を出し、投げっぱなしで終わってしまう展開が、やっぱり惜しいかな?特に終盤近くに出てくる気味の悪いおばちゃんは、もう一つも二つも捻られたと思うなぁ。まぁシャマランだから、こんなもんでしょ。
相変わらず「起承転結」の結がありませんが、人が何かで犠牲になる時、何故そうなったか意味を求めても、辛さが増すばかりになることがあります。それなら何の罪科がなくても、運が悪かったのだと思う事で、救われることもあるでしょう。私は今も「ミスト」は傑作だと思っていますが、意味を深く求めるあまりが、あの後味の悪さなら、ぼんやりとしたこの作品のまとめ方も、優しくてありだと思います。
驚くなかれ、ラインシネマには人がいっぱい・・・。「インディー・ジョーンズ4」より、お客さんが入っているなんて、信じられません。アメリカでもそれなりにお客さんが入ったそうですが、それはもしかして、反省ばかりを求められるアメリカ人が、誰にも罪を問わない、この曖昧さに救われたからかも知れません。
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