ケイケイの映画日記
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2008年07月10日(木) |
「シークレット・サンシャイン」 |
こんな内容だったんですか!ポイント倍押しに惹かれて「美しすぎる母」を優先したため、延ばし延ばしになっていたこの作品を、やっと観ました。「オアシス」で、障害者・前科者には特に差別観の強い韓国の現状を、これでもかというほど見せつけながら、最後には力強い魂の救済を示してくれたイ・チャンドン監督。今回彼がテーマに選んだのは、伝統的な韓国の教えである儒教を凌駕せんとする勢いで、信者を増やしている(らしい)キリスト教です。運命に翻弄されるヒロインを軸に、信仰することの是非を問うのではなく、その姿勢を観客に問うているように感じました。この作品も大変厳しい内容ですが、やはりラストには大きな包容力と、魂の再生を感じさせます。
韓国・慶尚南道の田舎町の密陽(ミリャン)。夫を交通事故で亡くしたシネ(チョン・ドヨン)は、息子ジュンを連れてソウルから引っ越してきます。この地は亡き夫の故郷で、いつか密陽に帰り子供を育てたいというのが、夫の願いだったからです。車の故障で、自動車修理業を営むジョンチャン(ソン・ガンホ)と知り合うシネですが、何くれとなく彼女に世話を焼き、好意を示すジョンチャンにはつれない様子です。シネが町に馴染み始めた頃、ジュンが誘拐され殺害されるという事件が起こります。
すんません、大阪は終映まじかと言うこともあり、今回ネタばれです。
シネという人は、とても不器用な人です。韓国では感情を顕わにする人が多く、彼女のように喜怒哀楽の表現が不足している人は、「変わった人」と観られると思います。自分に対して無償の好意を示すジョンチャンに対しても、「俗物」と罵りながらも「感謝はしているのよ」と、ボソっとだけ言うのが精いっぱいです。なので善良そうだけど、彼女の嫌う「俗物」の塊であるような保護者や中年婦人たちと、居酒屋やカラオケに興じるシネは、相当無理しているなと感じました。
その無理は何のためかというと、やはり一人息子の存在ではないでしょうか?誰もが知り合いのような町で、しっかり根を張りたいのでしょう。しかしその不器用さは、素のままの自分ではなく、「資産家」として取り繕いが必要でした。彼女はソウルに住む実父とは確執があり、亡くなった夫も当時浮気をしており、決して円満な家庭ではなかったようです。夫の故郷に根を張ることで、一番愛されていたのは私たちだと思い込みたいシネ。誰も知らない土地で、頼る人もないシングルマザーが、人に馬鹿にされないように、ピアノ教師を生業にしたり、資産家を装って自分を飾る姿に、彼女の屈折した哀しみを観る気がします。
シネが唯一解放されたように喜怒哀楽を表に出せた相手が、息子のジュンでした。世に愛情表現に不器用な善人は多いですが、我が子を得た事で素直に愛情を表現出来るようになった、と言う人は多いと思います。薬局店のキム執事は、シネが夫の亡くなった不幸を嘆いているだろうと、キリスト教を布教し、心の拠り所を与えようとします。しかし「私は不幸ではないわ。息子と暮らしているもの。だから必要ないの」と答えるシネ。しごく当然な答えだと思いました。
しかしジュンが亡くなる事で、またシネの感情は閉ざされます。葬儀に泣かなかったシネに、亡き夫の姑は「子供が死んだのに、何故泣かない?私の息子まで殺し、孫まで死なせて、お前は鬼だ!」と罵ります。息子を殺しというのは、夫婦仲が悪かったことを言っているのでしょう。ジュンの死も、シネに責任がないとは言えないと、私も思います。
韓国では昔葬儀の時「泣き屋」という、葬儀の間中盛大に泣いてくれる人をお金で雇って来てもらう習慣がありました。悲しみが大きいほどよく泣くとされ、死者への哀悼の念の深さが表現されると思われていたようです。今は都市部では廃った習慣だと思いますが、ここ密陽は田舎です。日本の人が想像する以上に、姑の年代の人が、自分の子供の死に涙しない母親など、絶対認められなかったのでしょう。しかし涙の出ない自分に罪悪感を一番感じていたのは、私はシネ自身だったと思うのです。
ふらふらと導かれる様に教会の会合に足を運ぶシネ。心配で着いて行くジョンチャン。そこで彼女は体中の涙が出ているのかと思うほど、慟哭します。やっと泣けたのです。神の愛に包まれたからだと、シネが思い込むのも無理からぬこと、彼女は以降信仰の道をひた走ります。
決してカルト風ではなく、きちんと信仰している様子を映していても、この急速な変化は危ないなぁと思って観ていました。しかしそれで彼女が幸せならば、救われるのならばいいじゃないかと思っていた私は、シネが町の中年婦人たちに布教している時に、意外な言葉を聞くのです。
一人が「私も義母が死ねば信仰するわ」と言うと「祭祀(チェサ)しなくてもいいからでしょう?」と、別の一人が囃し立てます。あぁ!と私は虚を突かれました。キリスト教に入信すれば、信仰上の理由からチェサをしなくても良いとされているようです。これが全てではないでしょうが、キリスト教が急速に信者を増やしている一端ではなかろうか?と、監督に問われている気がしました。
チェサは日本でいう法事に当たりますが、一周忌・三回忌・七回忌という日本式とは異なり、毎年命日に行われます。正式には取り仕切るのは代々本家の長男で、祀るのはさかのぼること五代前まで。それぞれ夫婦なので、10人です。それプラス盆と正月もやります。それ以外にも結婚しなかった先祖筋も人数に入るところもあり、私の知る限り一番たくさんチェサをしていた家は年16回でした。用意がこれまた大変で、一族郎党集まるのでその妻たちで作ります。お皿が見えないようにごちそうを盛りつけなければいけないので、チヂミやナムルなど死ぬほど作らなきゃいけません。盆と正月以外の命日のチェサは、夜中12時から始まり、それが終わってからは供養と称してお供えもののごちそうを食べ(残すといけない)宴会のようなものが始まるわけです。
日本のように前倒しで休日やその前夜にするというわけにはいかず、必ず当日です。お金も膨大にいるし、次の日は寝不足で仕事をするわけです。ソウルなど都市部ではだいぶ簡略化されているようですが、ここ密陽は田舎です。どの国でもそうでしょうが、田舎はまだまだ古いしきたりを捨てられないものです。なので先ほどの「義母が死んだら」と語った女性も、「子供のためよ」と言います。親の世代にはチェサをしないなんてとんでもないはずで、子供のために自分の代で切りたいということでしょう。このシーンは、韓国では話題を呼んだのではないかと、思います。
シネはというと、純粋に魂の救済を願い信仰の道に入った人です。しかしここから映画は急展開。やはりぬぐい切れない哀しさからかでしょう、自分の信仰心を試す為に、シネは犯人に面会に行くと言い出します。相手を許せれば、本当に自分は救われるのだと思ったのでしょう。しかし神は彼女に試練を与えます。何と犯人は獄中キリスト教に触れ、入信していました。そして自分は神によって赦されたと語るのです。
何故私が許す前に神が許すのか?疑問を通り越して憤懣やるかたないシネ。当然のことです。ここからのシネの壊れっぷりが凄まじい。急速な変化は、やはり反動を起こすのですね。万引きしたり投石したり、集会で意味深な音楽テープを流したり、果ては自分を信仰の道に導いてくれた人の夫まで誘惑する始末。そして自殺未遂。その時々に陽光降り注ぐ空に向かい、不敵な眼差しを向けるシネ。光の中の神に、自分の悪態の限りを見せつけて、挑戦しているのです。
そしてまた泣けなくなったシネ。何かする度、過呼吸状態になったり、嘔吐してしまいます。それが涙の代わりなのですね。観ていて非情に辛いです。しかしここで先のシーンが頭を過る私。監督はシネの試練を通じて、信仰の厳しさを表現し、もし仮に、チェサ一つのことで信仰の道に入るとしたら、それは間違いだと言っているように感じるのです。何も悪い事をしていないシネに下る試練の厳しさは、安易な考え方をする人たちには、警鐘となるのかも知れません。
しかし監督はキリスト教を決して否定してはいません。シネに誘惑されながら、「神の前でこんなことは出来ない」と、思い留まるキム執事の夫は、人間くさく立派だと私は思いました。決して据え膳食わなかった意気地無しではなかったと思います。
そして何よりも素晴らしいのはジョンチャンの存在です。シネに踏まれても蹴られても、どんなに自尊心を傷つけられても、無償の愛を与え続け、片時も彼女の側を離れません。例え彼女がどんな姿をしようともです。一度だけジョンチャンが怒ったのは、「あなたも私とセックスしたい?」と、嘲笑するように彼女が言った時だけ。
シネが信仰から離れても、彼はまだ続けています。「最初は彼女目当てだった。でも教会に行くと心が安らぐんだ」と語る彼。何度も劇中で出てくる「目に見えないことを信じることが大切」という言葉。ジョンチャンこそが、目の前のシネの現象に惑わされることなく、目には見えないシネの不器用さや哀しさを受け止め、愛しているのだということがわかるのです。 自殺未遂のため精神病院に入れられたシネが退院する時、ジョンチャンが彼女のために買った服は、少女が着るような清楚なワンピースでした。何があっても、シネはジョンチャンにとって、永遠に「聖女」であるのでしょう。
退院後のシネを襲う更なる試練。神様って本当に意地悪だなぁと思う私。しかし美容院をカットの途中で飛び出したシネを見つけた、心やすいブティックの女主人は、「あなたの言っていた通りにインテリアを変えたの。お客さんも増えたわ」と、嬉しそうに伝えます。そしてカットの途中のちぐはぐな髪形を見咎め、「何しているの?頭がおかしいんじゃないの?あっ・・・」と言って口ごもります。シネが精神病院に入院していたことは、町中が周知のことでしょう。それでも偏見を持たず、彼女が喜んでくれるだろうと駆け寄った女主人なのです。その善意に心を溶かせたシネは、初めて心から声を出して笑うのでした。私はこの映画の中で、このシーンが一番好きです。
「オアシス」にも似た、ラストの力強い再生の姿。彼女が嫌っていたはずの俗物であるジョンチャンに、私は必ず心を開くと信じたいです。ジョンチャンと同じ、愛すべき俗物たるブティックの女主人へ向けた彼女の笑顔は、その前振りだと思います。そしてその後、また信仰の道に入るも良し、入らぬも良し、それは彼女次第だと思います。
シネは父親とは和解せぬまま、最後まで確執を持ったままでした。対するジョンチャンは、鬱陶しく思いながらも母とは適度な距離を持ち付き合っています。儒教の考え方では、親を否定する者は決して許されません。二人の心の様子の対比は、ここにも繋がるように感じます。
ドヨンはこの作品でカンヌの主演女優賞を取ったそうです。本当にすごい演技で、心打たれました。この題材はヨーロッパの人にも身近なもので、理解しやすかったのはないでしょうか?ガンちゃんも素晴らしい!愚直なジョンチャンの姿は心が洗われるような気がします。
とてもとても個人的に起こった出来事を通じて、社会情勢への提言としても観ることが出来、そのどちらから観ても、とても秀逸な作品だと思いました。この辺の作りは「オアシス」と同じですね。私は未見ですが、「ペパーミントキャンディ」もそうなのでしょう。イ・チャンドンは寡作の監督ですが、多分韓国一の監督なのでしょうね。
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