ケイケイの映画日記
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2008年02月17日(日) 「何が彼女をそうさせたか」(帝キネ映画・故郷に帰る)

昭5年作の無声映画で、その年のキネマ旬報の一位に輝いた作品。大正から昭和の初期に活動していた「東洋のハリウッド」と呼ばれていた帝国キネマの作品で、活動場所は東大阪でした。残念ながら隆盛誇る時代に火事で全焼し、その後撮影所は京都の太奏に映ったそうです。その跡地に私の母校の一部が建てられたことで、「帝キネ映画・故郷に帰る」というタイトルで、私の母校の講堂で上映が実現しました。当日は友人のシューテツさん、タカさん、ぼんちあげさんと四人での鑑賞で、まず軽くお茶しながらのミニオフ会で盛り上がり、いざ我が母校へ。

8年通った母校へは、実に20数年ぶりに訪れましたが、それほど雰囲気も変わっておらず懐かしさがいっぱい。中・高・大学と、行事の度に使いまわししていた講堂は、冬はアラスカのような寒さが記憶に残っていましたが、それなりの(というか、物珍しい)暖房装置が入っており、おかげで鑑賞に集中出来ました。私の鑑賞後の第一声は、「これ『嫌われ松子』やん!」です。いや松子の方がずっと可哀想でしたが。実に有意義な鑑賞でございました。今回全編ネタバレです。

昭和初期の日本。貧しい境遇の少女すみ子(高津慶子)は、失業中の父から手紙を託され、叔父の元へ行くこととなります。そこでは学校に通うことが可能だと思っていたすみ子ですが、数奇な運命に弄ばれる始まりでした。

もっと退屈するかと思っていたんですが、とんでもない!冒頭の畑の中の一本道のロケ―ションは、私が通い慣れた学校の大昔の風景だったんだなぁと思うと、その時代は影も形もなかった私ですが、観ていて何故か懐かしさがこみ上げてきます。小阪という土地への愛情をくすぐられたのでしょうね。

人の好い車夫のおじいさんの好意で、口いっぱいにご飯を頬張るすみ子の健啖ぶりは、貧しさとはひもじいことだと教えてくれます。その後叔父のところに身を寄せた彼女。そこは絵に描いたような貧乏人の子だくさんで、彼女は厄介者扱いなのですが、父から叔父にしたためた手紙にはお金が包んであり、すみ子の父は自殺したようです。あろうことか、お金だけ取り叔父は彼女をサーカスに売り飛ばします。

一目で人買いとわかる人が出てきて、「あぁ女郎になるんやわ・・・」とてっきり思っていた私ですが、売られた場所はサーカスでした。鑑賞後四人で感想を言い合ったのですが「あそこは女郎さんになると思ってました。子供も観る映画やから、ああしたんですか?」と私が言うと、シューテツさんが「女優が老けているのでわかりにくいけど、あの子は子供やねん。」と仰る。なるほど!そう言えば私が子供の頃でも、日が暮れて外で遊んでいると祖母が、「子盗りにさらわれて、サーカスに売られるで」と、呼びにきたもんです。
(しかし幼い頃の私は、たくさんの小鳥が椅子に私を乗せて、空中ブランコのように空まで運ぶと思っていたので、一度さらわれてみたいと思っていたのだな。)

サーカスでも過酷な日々が待っていたすみ子。そこはすみ子のような孤児たちが集められ、みんなが劣悪な環境に身を置いていました。団長の横暴に我慢出来なくなった団員たちは、暴動を起こします。正に「芸人一揆」。昔の人は過酷な運命に我慢するというすり込みのある私は、ここでちょっとびっくり。でもこれは小気味良かったです。

その中で淡い恋心を抱き合っていた新太郎と出奔したすみ子ですが、運命のいたずらで離れ離れに。この時のすれ違いのシーンや、車夫のおじいさんが、心づくしの小金をすみ子の財布に入れたことが、数々の出来事を引き起こすなど、小技の演出は今でも充分通用する手法です。

一人ぼっちになったすみ子は、訳も分からず詐欺団の手先に使われ、警察に捕まります。裁判の後養育院送りへ。養育院というのは、どうも自立支援所のような感じですが、ここでも環境は劣悪です。院の中の一人が「ここは私立なので、院長が金をぼっている。やっぱり公立でないとダメだ」というセリフが入ります。この作品の原作は左翼作家の藤森成吉だそうで、この辺のセリフは面目躍如というところでしょうか?

その後若い彼女は議員の小間使いとして仕事を斡旋されます。しかしブルジョワで高慢な奥様とお嬢様に疑問を抱き、自分をあざけ蔑む奥様に、啖呵を切って皿を投げつけるすみ子・・・。

はぁ?はい?あんた、ちょっと辛抱が足らんのんちゃう?

この時代、女が皿を投げるなんてね、70年代に星一徹がちゃぶ台ひっくり返すよりインパクト大ですよ。屈辱を跳ね返すその心意気は良しなんですが、「ヒトラーの贋札」で、ひどい屈辱に耐え、自尊心と引き換えに己が命を守ったユダヤ人たちを観たばっかりだったので、貧しいことは、命までは取られないのだと認識してしまいました。

そしてまた養育院に送り返されたすみ子は、その後琵琶のお師匠さん宅の住み込み女中となります。そこで偶然に新太郎と再会。その様子を見ていた師匠は、憎からず思っていた彼女に手をだしますが未遂。謝罪する師匠を尻目に、すみ子は新太郎の元へ。そして二人は晴れて結婚。

まぁここまで観るとね、いたいけな可哀想な少女を観る気で臨んだ私ですが、実に旺盛な行動力と生命力であると、感嘆しきりになります。鑑賞後に読んだパンフレットには「見事に少女の孤独を表わし」とありますが、どこが孤独やねん、ガシガシたくましく、運命を乗り越えてるじゃないかと思う私。

しかし幸せな生活も束の間、新太郎の仕事が失敗し、金の算段もつかなくなった二人は心中をはかります。しかし一命は取り留めます。そしてすみ子は、自殺しようとしたことで、宗教団体の「天使の園」送りに。ここで夫に宛てた手紙がバレ、(修道院のようなところなので、男に手紙を書くなんてもっての他)、みんなの前で懺悔しろと教主に迫られるすみ子。壇上で恥ずかしくて出来ないすみ子に代わり、事の顛末を話そうとして教主をすみ子はさえぎり、「私は何も悪い事はしていないわ!神が私を救ってくれるなんて、全部嘘っぱちよ!」と、教会に火をつけます(!!!!!)。そして逮捕。

あまりの出来事に目が点になる私。すみ子は大人になるに従って、どんどん自我が芽生え、耐え忍ぶと言う部分が全くなくなるのです。「全然歯を食いしばってませんでしたね」とその辺にびっくりした私に、シューテツさんいわく「プロレタリアは、歯を食いしばったら、あかんねん」、だそう。なるほど、怒りを社会に向けて、戦わねばならないのですね!

でもそう思うとですね、失業で心中というのは、如何にも軟弱なんと違います?それとも這いつくばって、体売ってでも生きようと言うのは、資本主義の手先であり、プロレタリアでは極悪なんでしょうか?(シューテツさんに聞いてみようっと)。私ならあんなに可愛くて若かったら、例え妾でも養ってくれそうな男の人を、まっ先に探すと思ったので不思議でした(へたれで申し訳ない)。

貧乏は諸悪の根源、格差社会を作る政治に全て罪がある、という作りでした。そう言えばすみ子の父の手紙は、文盲のすみ子は読めず、その他の人々も読めない人多数でした。思えばあの手紙をすみ子が読めれば、この悲劇は起こらなかったので、平等に教育を受けられないことを、批判していたのでしょう。

貧乏人は全て善で、支配者階級は全て悪という描き方は、資本主義にどっぷり遣った私には、少々違和感がありましたが、昔の虐げられた人々は、全てが歯を食いしばって耐え忍ぶと思っていたので、ある種痛快なすみ子の人生でした。この今の時代に通じる感覚は、すごく新鮮でした。でも当時は悲劇として受け取られていたのは、よく理解できる作りでした。最初と最後だけフィルムが欠けているので、台詞で修復していたのがすごく残念でした。こんな機会があれば、また足を運ぼうと思いました。上映に尽力して下さった皆さん、どうもありがとうございました。


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