ケイケイの映画日記
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2007年01月19日(金) 「ある結婚の風景」(レトロスペクティブ イングマール・ベルイマン)

昨日「サラバンド」の前編と言われるこの作品と「サラバンド」を、30分の休憩を挟んで5時間弱かかって観て来ました。既婚者なら是非観た方が良いと聞いて幾歳月、やっと念願叶ってスクリーンで観て来ました。しかしスクリーンと言っても、上映は大阪の映画ファンにはお馴染みの九条の「シネ・ヌーヴォ」の二階に新たにこしらえた、まるで試写室のような「ヌーヴォ・X」での鑑賞です。しかしこれがこの壮絶な夫婦劇を見せるのにぴったりの空間でした。まるで私の目の前で、白人夫婦がケンカしているようなのです。結婚10年目の夫婦を25年目の私が観ると、様々な当時の感情が蘇り、一口では言い尽くせぬ感慨をもたらした作品です。

ヨハン(エルランド・ヨセフソン)とマリアンヌ(リブ・ウルマン)の夫婦は42歳と35歳の結婚10年の夫婦。ヨハンは心理学を専門にする学者、マリアンヌは主に離婚を扱う民事の弁護士で、子供は女の子が二人。何不自由なく幸せに暮らしているように見えた二人ですが、ある雑誌のインタビューにより、微かに考え方の違いに気がつきます。それ以降少しずつ諍いが増え始め、ついにヨハンは女学生と不倫、それがきっかけで二人は別居し、離婚に至ります。その後二方再婚ののちの、再会までを描いた作品。

元々は本国スウェーデンで、50分6回だったドラマを、映画用に三時間弱にまとめたものです。「自分自身に対してどう思うか?」というインタビューの質問に対し、美辞麗句を挙げ募るヨハンに対し、弁護士という社会的地位の高い仕事についているにも関わらず、控えめに平凡な職業婦人だと語るマリアンヌ。二人の現在の環境や過去を、これで語らせながら、少しの違和感をも感じさせる上手い演出だと思いました。

インタビューの内容がきっかけで、親友夫妻の壮絶なケンカを見せられて、自分たちは違うと確認したい妻。無関心な夫。これも私のような年齢の妻なら経験済みのことです。違うと確認したい妻の本心は、不安があるから。しかし夫とて、無関心を装っているのかも知れません。それを鈍感と捉えているのかも。

インタビューでは、両方の家族とも円満だと言っていたのに、妻は毎週どちらかの家族と夕食を共にするのがいやだと言います。自分の家族だけで水入らずで時間を気にせず過ごしたい。インタビューの答えは建前なのですが、ここから建前と本音が随所に表れます。気になったのは、この夫婦は会話が多過ぎること。会話の少なさが不仲の理由と言われることが多いですが、一概にそうだとは言えません。話し合いは本音を語ってこそ値打ちがあります。どちらとも正しいと取れることを主張したり、自尊心が傷つくからと、本音を隠して問題を摩り替えて話し合ってみたところで、問題は解決せず、不毛な感情が往ったり来たりするだけです。二人を見ていると、それがわかるのです。何故ならば自分が通ってきた道だから。

そうこうしているうちに、ヨハンは若い愛人を作り、別居したいと言います。最初は全て自分が悪いと言っていたヨハンですが、話すうちに激高して、「夫婦のこと、親のこと、子供のこと、全ていやになった。仕事もだ。自由になりたい。いつからそう思っていたと思う?4年前からだ!」と吐き捨てます。「全然知らなかった。私バカみたい・・・」と呆然の妻。「君は鈍感だからな」と語る夫の横顔は、私は皮肉っぽいのではなく寂しげに観えました。愛人はきっと心の隙間に入ってきたのでしょう。彼女でなくても良かったと感じました。

有能な弁護士として良き母として主婦として、完璧にやってきた妻。表面だけ観れば夫の戯言、我がままです。絶対夫が悪い。しかし夫の4年間の感情に気づかず、むしろ良い状態になってきたと思う妻は、夫の心に鈍感ではなかったか?忙しい毎日の中、仕事や子供には手を抜けない。必然的に夫の心に気を配る時間はなくなっていたのではないでしょうか?話は会話ではなく、要求ばかりになっていたのではないでしょうか?一見夫だけが悪いように思えますが、私は両方に非があるように思えます。

夫に取りすがり、友人に電話をかけ、半狂乱になって出て行く夫を止める妻。こんなみっともなく情けないことは初めてでしょう。半年後一旦帰宅した夫。穏やかに話そうとしてはけんか腰になり、しかし離れることの出来ない二人。カウンセラーに勧められて自分の幼い頃からの心情を吐露するノートを一生懸命夫の読む妻。しかし夫は寝ています。落胆する妻。ここで涙する私。うちの夫というのは、私がどういう「人」であるかは気にならないのです。気になるのはどういう「妻」か「自分の子供の母親」かということ。私は夫の「人としての有り方」に始終気を配るのに、どうして私には「人」としての成長を求めないのか?私も何度自分の感情を訴えたかわかりません。

あきらめの境地に辿り着いた時、子供が自分の母親はどんな女なのだろうとか、どんな人なのだろうとかは、気にしないのではないかと、ふと考えたのです。娘なら母の背景に思いも馳せるでしょうか、息子ならまずないこと。夫というのも、そんなものではないかと思ったのです。自分にとって目の前の女は「自分の妻」以外の何者でもないのだから、「妻」としか見えないのは当たリ前なのです。妻として求め妻として愛してくれているならば、それでいいのではないかと理解すると、私の心は晴れました。それは結婚20年くらいのことです。

その後の長き別居の果て、結局離婚する二人。しかし署名する段まで来て、また壮絶な罵りあいがあり殴り合いがあり、すごいです。あんなに毛嫌いしながら、最後の一歩まで迷いセックスまでする。まだ夫婦なのです。別居の逢瀬の時にも必ずセックスがありました。罵りあい罵倒しあっても、セックスしてしまう、それが理屈抜きの夫婦なのですね。あぁ凄まじい・・・。夫婦のセックスは、長年暮らすとお互いが男と女だと確認する行為でもあるでしょうが、他人だと認識することでもあるなぁと感じました。

二年ののち、何と別々の配偶者がいるのに旅行に来ている二人。観劇で偶然ヨハンを見かけたマリアンヌが、彼のあまりの寂しげな様子に切なくなり声をかけたからです。このプロットに食い入るように画面を見つめる私。

あれは結婚15年くらいの、夫に不満がいっぱいあった時です。ある晩の私の夢は、夫とは離婚して今よりもっと経済的にも豊かに暮らせる男性と再婚し、彼は子供達にもとても良き人です。そんな再婚相手と町を歩いている私は夫と偶然再会します。結婚していた時よりやつれた夫は、私に「元気か?幸せそうで良かった」と微笑んでくれます。私は何故この人と別れたのか、心底後悔して号泣するのです。今思い出しても、あの夢の中の気持ちが蘇り涙が出るほど。この夢が忘れられない私に、マリアンヌはぴったり重なりました。奇しくも旅行に来た日は、ヨハンとマリアンヌの「結婚20年目の記念日」だったのです。

この作品のヨハンには、女優達と数々の浮名を流したベルイマン自身が投影されているとか。マリアンヌ役のウルマンも、長きに渡って公私のパートナーだったはず。愛人に妻役をやらせるとは、一見非情に見えますが、ウルマンに、自分の妻の気持ちを体感してもらい、それを妻に観てもらいたかったからでは?私にはそれがベルイマンの、妻への侘びに思えるのです。

しかし国は違えど、寸分違わず夫婦の事情はいっしょのようです。自分が夫婦ケンカしているかの如く疲れました。結婚10年の時、私はいっぱしのプロの妻だと不遜にも自認していましたが、当時の自分とかぶるマリアンヌの妻としての未熟さに、あの時の私は人の年齢で言うと、15歳くらいだったのだなと思いました。幼くはなくはないが、まだ世間を知っているようでわかっておらず、感情にムラがある思春期、そう感じました。

「今日ベルイマンの映画観てきてさぁ・・・」と、かいつまんで食事時に感想を言う私に、気のない返事を返す夫。そりゃそうでしょうよ。ベルイマン先生の作品どころか、名前も初めて聞く我が夫。話してもわからぬ人に、自己満足で会話をしてもせん無いこと、と学習していたからね。『いつもふたりで』で、ホテルで向かいあって雑誌を読みながら、無言でコーヒーを啜る中年夫婦を、「あんな風にはなりたくないわ」とオードリー・ヘップバーンは言いますが、これはオツなもんですよ。うちもそんなシチュエーションはよくありますが、まったりのんびり、良いものです。よくここまで来たなぁと、つくづく感慨深いです。よくぞ別れず頑張ったよ、「二人とも」。多分私は離婚することはないでしょうが、「絶対」とは言えないのだと、この映画は教えてもくれるのです。


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