ケイケイの映画日記
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2005年09月07日(水) 「マザー・テレサ」

この作品が上映されるというのは、早くから耳にしてして楽しみにしていました。勤め先の若先生がこういう題材はお好きなので、お教えしたところ、速攻観てこられ痛く感激され、ただいま左の画像のポスターが、病院の待合室に貼ってあります。ミズテンで薦めてしまったので早く観なくっちゃ、ということでレディースデーの今日、ナビオTOHOにて鑑賞。ヒットしているらしく、大きな第3スクリーンが7割くらいの入りでした。

カルカッタの修道院内の女子高で教鞭を取るマザー・テレサ(オリビア・ハッセー)は、院長との考えたかの相違から、ダージリンへ戻るはずの汽車のホームで、「私は乾く」と言い残す、貧しい行き倒れの人に出会います。このことが神からの啓示と受け取ったマザーはカルカッタに留まり、捨て子、ハンセン氏病、ホームレスの人々など、貧しい者の為に一生を捧げる決意をします。彼女の考えに共鳴する人々はたくさん現れ、やがて新しい修道会「神の愛の宣教者会」を作ります。

誰もが知っている実在の修道女マザー・テレサの30代から87歳で生涯を閉じるまでの伝記映画です。演じるハッセーは20年来の念願の役だったそうで、冒頭彼女が登場のシーンは息を呑むほどマザーに生き写しでびっくりしました。実際のマザーとオリビアは全然似ていません。しかし中年期はつけ鼻をするくらいで特殊メークもないのに、私が頭に描いていたマザー・テレサそのものが目の前に居たのです。人の清らかな心、善なる心をとても高揚させるストーリーの中、「オリビア・ハッセー」はどこにもおらず、そこにいたのはマザー。オリビアのこの役にかける気概がとても伝わってきます。

しかしながら、話の展開がNHKの大河ドラマのダイジェスト版のような感じです。調べてみると、イタリアではテレビドラマとして3時間の作品として放送されたそうです。聖女としてではなく、一修道女として人間味溢れたマザーを描こうとしているのはわかります。しかしそれにしては、事が上手く運びすぎる。金銭的苦労、保守派のカトリックの神父や修道女との対立、異なる宗教が混在するインドでのカトリックへの無理解、彼女の功績を利用しようとする人からのスキャンダルなど、物の見事に一瞬で解決してしまうのです。

「神がお望みなら、私の願いは叶うでしょう」のマザーのセリフがありますが、確かに神の思し召しかも知れませんが、これでは綺麗に描きすぎ。マザーとて挫折や自分の思い通りにならなかった苦悩はあったはずで、、彼女の思いが全て神と同化しているような描き方は、人間臭いマザーの描写とちぐはくで、やはり彼女は神に選ばれし特別な人のような印象が残ります。それは謙虚に神の使いとして生きた、マザーの本意と離れるのではないのでしょうか?

私は俗っぽく下世話な人間ですが、マザーのような恵まれない人々のため一生を捧げる人に、強い憧れの気持ちもあります。この作品を観て、マザーのようには出来なくても、私にも人のために何か出来ることは?と考えたりします。ですので、私の心に響く言霊はたくさん出てきました。しかし私がテレビで見た、本当のマザー・テレサに仕えた修道女たちの、心の底からの輝く笑顔の訳は、残念ながら見つけられませんでした。そういった無条件に人の心をひきつける強さには、少し欠けていたように思います。

本気で貧者を救いたいと思うなら、政界に進出すべきだというマスコミの問いに、「私は自分に出来ることをするだけです。」と語ったマザー。私が「ニワトリはハダシだ」で書いた、50歳になったら障害者の授産所で働きたいとの思いは、実はマザーのこの言葉から影響を受けました。私が「自分が出来ること」は、これだと思ったからです。

急ぎ足で編集したため、味わい深さには少し欠けますが、上記に書いたように、人の清らかな善なる心は充分に刺激されます。それは作品の完成度より遥かに上だとは言い切れる作品です。帰りの電車で、ダウン症と思われる女性が、下車駅を通り過ぎて気が付き、パニックのようになっていました。引き返し方を教えようと私が駆け寄る前に、彼女の隣の若く綺麗な娘さんが彼女の手を引き、ホームの反対側の電車に乗せてあげていました。自分が教えてあげるより、もっと嬉しい光景を見て、これも末っ子が20歳になるまであせらなくてもいいよという、私に対する神の思し召しかもと思いました。


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