ケイケイの映画日記
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2005年06月24日(金) 「砂の器」(デジタル・リマスター版)

ご存知松本清帳原作の不朽の名作。初公開は1974年とあって、私が観た梅田ピカデリーには往年の映画ファンがいっぱい。きっと初公開時の感動をもう一度、という方たちでしょう。私はテレビ放映で2度観ていますが、今回スクリーンでの再見に大感激。重厚な社会派サスペンスですので、筋がわかっていてもなんら問題なく、返って充分に内容を堪能出来ました。当時のオールスターキャストですが、どんな主演級の俳優より、この作品は、ハンセン氏病患者・本浦千代吉に扮した加藤嘉の作品だなぁと、つくづく実感もした再見です。リバイバル作品なのでネタバレです。

国鉄蒲田操車場構内で扼殺死体が発見され、身元は何もわかりません。手がかりは被害者の残した「カメダ」の言葉。難航する捜査ですが、今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)の執念ともいえる捜査で、被害者は元警察官の三木謙一とわかると、「カメダ」は「島根県の亀嵩」から一気に捜査は進みます。点と点の散らばりが線となる頃、この事件は新進気鋭の指揮者・和賀英良(加藤剛)の哀しい過去とつながって行くのでした。

前2回が随分前に観たものの、捜査が夏真っ盛りの設定だというのを、すっかり忘れていました。うだる暑さがこちらにも伝わる中、科学的考察やプロファイリングではなく、地道に必死で足で捜査していく刑事たちに、その職業が持つ正義というものがひしひし伝わってきます。正直どうして気がついたんだ?というような少々強引なひらめきも、「それは刑事の勘だ」で、辻褄が合います。その方が刑事たちの人間臭さが感じられ、ただの犯人探しではないこの作品に、むしろ深みさえ与えています。

そんなすっかり忘れていた前半から、和賀英良こと秀男がハンセン氏病の父と巡礼の旅に出るシーンに登場した、白塗り・若作りの加藤嘉を観た瞬間、なんと私の目から涙が。そんな人は多いらしく、二人の巡礼が始まるとすぐ、あちこちからすすり泣きが始まりました。そしてそれ以降のシーンは、全て覚えている自分にびっくり。そうなのです、私にとって「砂の器」とは、この作品のテーマである”宿命”を凝縮して見せてくれた、親子の巡礼シーンが全てなのです。

私の号泣シーンNO.1である、有名な「こんな人知りません!」と嘉が泣きながら振り絞るシーンの他、世間の冷たい接し方、学校の子供たちをじっと眺める秀男、親子二人の心の底からの愛に満ちた表情など、「世界に二人きり」を映します。千代吉のしたことは間違いでしょう。しかし当時ハンセン氏病は死ぬより辛い病、世間も妻さえも去ってしまう中、我が子を守ることで生きる支えとする千代吉に、誰があなたは間違っていると言えるでしょう?子供が幼い頃の親を求める強い気持ちが、どれほど親の生きる力になるかわかる私は、ずっと涙が止まりません。加藤嘉の演技は、そう私に思わす強い説得力がありました。冬が過ぎ春の芽吹く姿を映した時、これで二人は寒さから解放されるのだと、これほど日本に四季があることを嬉しく思った映画はありません。

そして愛を注ぐ三木夫婦から逃げ出す幼い秀男は、家を出るとき、三木を遠くから見つめる時、いつも泣いています。この涙は幼く選ぶ言葉を知らない秀男の「侘び」なのでしょう。精一杯三木に感謝しながら、彼の中では、きっと三木は実の父を超えられない存在だったのではないでしょうか?そんな気持ちのまま三木の家にいては申し訳ない、そんな子供なりの誠意のいっぱい詰まった涙のように、私は感じました。

誰からも慕われ、生涯善行の人だった三木は、決して無駄死にではなかったと思います。思春期の頃から自分の出自をひた隠しにして生きてきた英良は、自分の感情を素直に出すことは、決してなかったでしょう。彼の感情を爆発させた三木は、結果として自分の命と引き換えに、彼を和賀英良として自分の宿命から逃げ続けた偽りの人生から、本浦秀男として自分の宿命と対峙させることが出来たのですから。それは芯から秀男の人生を解放させることなのではないでしょうか?

秀男親子の過去に涙し、森田健作の「和賀は父親に会いたかったでしょうね」の言葉に、「もちろんだ」と言い切る丹波哲郎が印象深いです。罪を憎んで人を憎まずという言葉が心に浮かびます。人が人らしい感情を持ち続けるために、繰り返し観る作品だと思います。劇場はどこもかしこも高年齢層に支持されているそうですが、中高生にこそ是非観てもらいたい作品。劇場で観られたことに、本当に感謝しています。


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