♀つきなみ♀日記
DiaryINDEX|past|will
2001年07月03日(火) |
バス車内の風景@「卒業」そして「真夜中のカウボーイ」 |
今まさに、誓いの言葉を述べようとする花嫁を、教会からさらって逃げる名家育ちのボンボンの瞳には、明日の暮らしは写ってはいない。バスの最後部の席に座る二人に浮かぶ笑顔は、いわれなく教会に取り残された新郎になるはずだった、ほとんどプロフィールさえ明らかでない男や、経緯をまったく知らずに祝福するために集まっていた、友人や近しい人々の痛みには無縁だ。例えそこに一抹の不安を暗示する影があったとしても、二人の背負う明日を暗示するほどではない。
「恋愛」
その不確かな存在に与えられる免罪符に人々は憧れる。しかし信頼や慈しむ心と、「恋愛」には遥かな距離がある。
勿論、信頼に裏打ちされた揺るぎ無い愛はあるし、揺らぎつつも手放せぬ絆もある。それは確かにあるとは思う。
私は「ダスティンホフマン」を「真夜中のカーボーイ」で知った。ラッツォと呼ばれるその男は、夢にまで見たフロリダへ向う、明るい陽射しを切り裂いて走るバスの中で、不幸せなエンディングを迎える。
この映画で相棒を努めるジョン・ボイドは「コンラック先生」で知った。サウスカロライナの孤島で、読み書きもままなならい子供達に、教育ではなくいっしょに体当たりで学んでゆく姿は、映画としての評価は別にして、未だに私の思考に影響を残している作品だ。
俳優は勿論、作品ごとに別の人物を演じる。しかし、私の中では、同じバスの車中という空間で、異なったエンディングを迎えるダスティンホフマンを、何故か同一視してしまう。そしてこれこそ関連はまったくないのだが、思いやる心の欠けた権力の理不尽さと戦い、そして「ここではないどこか」を夢見て都会を目指したジョンボイドを、繋がりをもって認識してしまった。
私の中での「卒業」は、決して嫌いな映画ではないのだが、青春の彷徨としての作品として残念ながら未だに認識する事は出来ない。約束も無ければ、恋愛も無く、信頼の形も見えはしないのだが、ジョン・バックとラッツォに心惹かれる。
今日の帰り、空に浮かぶ夏雲を夕陽が染めている。作り物の椰子の木が置かれたアーリーアメリカンデコレートのオープンカフェでは、何故だかピートシーガーのランブリング・ボーイが流れている。
>あいつは男。一緒に苦しみ、一緒にさまよった、あいつは流れ者。 >今祈る、流れ者、あいつに、幸あれと、今祈る流れ者 あいつに幸あれと。
>一人残され、この世の旅の終りに、あいつにあったなら、また2人して旅に出よう >今祈る、流れ者、あいつに、幸あれと、今祈る流れ者、あいつに幸あれと。 (訳詞 つきなみ♀)
この歌を聞いて、そんな映画を思い出した日だった。
って事でまたね!
テキスト庵
日記才人の投票ボタンです。
|