♀つきなみ♀日記
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世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(在原業平)
って、あんたは女がいれば、どのみち「のどけからまし」じゃねぇだろよ!なんて突っ込みを入れてみる、風流に縁遠いつきなみ♀です。っつうかモテナイひがみ<=おい!
えー、桜と日本ってのは、古来から縁が深いってもんで。ご存知、日本書紀には、履中天皇の即位の宮に「磐余稚桜宮」(いわれのわかさくらのみや)っつう名前が付けられたなんぞという、逸話があったりいたしやす。こいつぁ、天皇様が磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)て処で宴をもようしたんでゲスが、そこに桜の花びらが飛んできやして、盃にへぇりやしたのを祥瑞として、宮の名前にしたとかなんとか・・・・。
失礼。江戸蕎麦について昨日書いたら、江戸っ子になっちまいやしたぜ旦那。なんちゃって。
それはともかく、日本の春と桜は、膣痙攣になったカップルというか<=おい!やっぱ一対っつうか切っても切り離せないものだよね。
少し真面目に戻すと、桜の花に寄せる心に、その時々の大和心の変遷が垣間見られる。前述したように、古来より桜は祥瑞とされていたようで、自らも釈迢空として桜の歌を詠んだ折口信夫も、民俗学者としては著書「古代研究」の中で「豊穣への期待を込めた予占の花であった」と記している。また、家内に桜を植えるのは「厄災を遮る結界」であったとも述べられている。
古来の桜は、田の神が山から降りる道案内であったり、その足跡として位置づけられていた。但しこの桜は、現在もっともよく見られるソメイヨシノではなく、山桜なのである。桜は咲くことの力の美しさと「生」の賛美を元に、春のおとずれを祝い、豊穣を祈る花だった。
ソメイヨシノは江戸ヒガン(ヒガン桜)とオオシマ桜の自然交配によって生まれた事はほぼ間違いないようなんだけど、1700年代初期説と1840年代説があって、未だに定説とはなり得ていない。でも、全国に浸透していったのは、明治維新後、文明開花によって、「東京の桜」としてであることは間違いないようだ。
明治期以降に山桜を好んで詠んだ歌人に若山牧水が挙げられる。
うすべにに 葉はいちはやく萌えいでて 咲かむとすなり山桜花
ソメイヨシノが登場する前は、概して西日本には山桜が多く、東日本には彼岸桜が多かったとされる。牧水の歌にも現れるように、山桜はまず葉が芽吹き花が咲く。花期はソメイヨシノに比べて長く、また葉の無い木に花だけが繚乱と咲き誇る現在一般に想像される満開の桜の風情とは異なる物だった。
明治に入り、日清・日露戦役の忠魂碑の側には、必ずソメイヨシノの花が植えられるようになる。この頃から「咲いた花なら散るのは覚悟」という散華思想と桜が結びついてゆく。そして、終戦(1945)から数年の間、桜は「軍国の花」として、各地の桜は伐採され、美しく町に溶け込んでいた桜並木の多くは、この世から姿を消した。
まだ書きたい事はいっぱいあるんだけど、今日はこのへんにしておくね。
研究により桜は豊穣の印であったと記した釈迢空(折口信夫)は養子を硫黄島戦で亡くし次の歌を詠む。
たたかひに 果てにし子ゆえ 見に沁みて ことしの桜 あはれ散りゆく。
じゃまたね!
テキスト庵
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