砂漠の図書室
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2003年01月20日(月) 『水のいのち』

「降りしきれ雨よ
降りしきれ
すべて
許しあうものの上に
また
許しあえぬものの上に」



今日は朝から雨。
冬に逆戻りしたかのような寒さの中、夕方、教会に向かう。
途中、いつものように公園の中を通っていく。
冷たい雨と風の中で、それでも桜はひたむきに、美しく咲いている。
ほかの木々も凛として立ちつくしている。


そんな中を歩いていたら、昔、合唱団で歌った曲を思い出した。
合唱界に身をおいた人ならきっと誰もが知っている『水のいのち』という合唱組曲。
冒頭はその1曲目「雨」の中の一節。
おそらく聖書の「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ 5;45)という言葉から生まれた詩のように思われる。


この曲は大学4年の12月、信州での演奏会で歌った。
私たちの学年にとっては、2年越しの念願かなっての演目だった。
私にとっても、日本の合唱曲の中でたぶん最も好きな、とても大切な一曲となっている。


作詞は高野喜久雄、作曲は高田三郎である。

あの頃は、高田三郎といえば合唱曲の作曲家としてしか知らなかった。
ましてや、作詞の高野喜久雄という方のことは何も。
この方は「呼ばれています」(一般賛歌409(典礼聖歌)
賛美歌83(賛美歌第2編))という曲の作詞者でもあることをつい最近知った。

「呼ばれています」は、大学の礼拝でも時々歌っていた。
「水のいのち」と同じ作詞者・作曲者だとはまったく知らないまま・・・
昔から好きな曲で、今もミサのオルガン当番の時、閉祭の歌としてこれを選ぶことがある。


学生時代、すっかり無神論者という気持ちだったにもかかわらず、
なんと神は近くにおられたことか、と思う。

そして、立ちかえったことの喜びを・・・


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「雨」 高野 喜久雄 詩


降りしきれ雨よ
降りしきれ
すべて
立ちすくむものの上に
また
横たわるものの上に


降りしきれ雨よ
降りしきれ
すべて
許しあうものの上に
また
許しあえぬものの上に


降りしきれ雨よ
わけへだてなく
涸れた井戸
踏まれた芝生
こと切れた梢
なお ふみ耐える根に


降りしきれ
そして 立ちかえらせよ
井戸を井戸に
庭を庭に
木立を木立に
土を土に


おお すべてを
そのものに
そのもののてに


2003.4.5 記


2003年01月15日(水) 東方のコブシ

先日、『アルメニア正教会の礼拝』(King Record KICC5713) というCDを購入。
「世界宗教音楽ライブラリー」というシリーズに入っているもの。
演奏はソフィア・アルメニア聖歌隊。


何年も前になるけれど、FM放送でアルメニア正教会の典礼音楽を初めて聴いた時、
それまで知っていた教会音楽とあまりに違っていて、思わずその場で録音してしまったことがある。
簡素で、とても力強い歌だった。
ずっと持続されている低音の上に、独特の節まわしの旋律が乗せられていく。
一緒に録音したアナウンサーの解説によると、5世紀の賛歌だという。
アルメニアは、世界で最初にキリスト教を公認した国なのだいうことも、その解説で知った。

東方教会への憧れは、この時から始まったのかもしれない。


このCDを聴いてみて思ったのは、西欧音楽の影響ということ。
残念ながら、FMで聴いたような曲は収録されていない。

数ヶ月前に、同じく「世界宗教音楽ライブラリー」の『バルカンの正教会聖歌』(King Record KICC5710) というCDを聴いた時にも同じことを思った。

こちらのCDは、いろいろな曲が年代順に収録されているので、そのことがもっとわかりやすい。
最初の3曲は、13〜14世紀に活躍したイヴァン・ククゼレスという作曲家のもの。
この3曲の雰囲気は、先に書いたアルメニアの5世紀の賛歌とほとんど同じ。
時代がかなり違うけれども、古いスタイルがずっと伝えられてきたのだと思う。

その後、時代がくだって、西欧に留学した作曲家の作品になるにしたがって、東方の雰囲気がなくなっていく。
あの独特の持続低音、節まわしがない。
西欧の合唱作品とほとんど変わりないように聞こえる。

(ロシア正教会のCDを初めて買ったときも、想像していたよりずっと西欧的な音楽だったので驚いたものだった)

実はそのことが残念で仕方ない。
川端康成ファンの西洋人が、成田空港に降り立って感じる残念さと同じかもしれない。
勝手といえば勝手なのだが。
でも私はあの東方的な節まわしというか、うねりというか、コブシとでもいうか、
あれが好きでたまらない人間なので。

いわゆるクラシック音楽でも、モーツァルトの世界より、ロシアとか東欧の作曲家の世界にくらくらしてしまうのは、あのコブシの存在が大だと思う。
ブルガリアン・ヴォイスもそう。
(そういえばこの『バルカンの正教会聖歌』の解説によれば、ブルガリアン・ヴォイスは正教会聖歌の唱法が数世紀のあいだに民俗化し、多層化したものだという)


そんなわけで今後、東方教会系のCDを買うときは、収録曲の時代をよくチェックすることが大事だと、あらためて思ったことであった。


☆ちなみに『アルメニア正教会の礼拝』に収録されている曲は、合唱部分はもろに西欧音楽だけれども、独唱部分は東方コブシの世界である。


2003 02/28 12:39 記


2003年01月10日(金) 『Vocalise』 Slava


私は、
愛する御方のうちに、
造られた美のすべてを見た。


知的な美、
思考の深さ
(中略)
天性の才の崇高な飛翔、
芸術の霊感を。
(中略)
倫理的な美を、
善いものと純粋なものの輝きを。


また、
被造界の目に見える美をも。


つまり、
秩序ある均衡ある無限なる美。
調和の美。
形や色の美。


(中略)


魂は見る -- 造られざる美が、造られたものたちのなかに、
その壮麗さの何かを注いでいて、
神は、いわば、
美しいものの、美である。
そして、
このことはすでにすばらしい眺めである。

-- リュシー・クリスチーヌ --

『神、この、もっとも曲解された名』
アンリ・カファレル著 ; 高橋たか子訳
女子パウロ会 2001.2

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先日、スラヴァという男性ヴォーカリストの『ヴォカリーズ』(VICP5782)というCDを買った。
タイトルにひかれて、
「G線上のアリア」等を含む曲目にひかれて、
帯にあった「声の奇跡 魂をゆさぶる言葉なき世界」という言葉にひかれて、
そしてスラヴァという名前自体にひかれて。
(私はスラヴ系の国とか音楽が好きなようなので)。


それ以来、毎朝、毎晩聴いている。
特に「The quiet melody」という曲。
原曲はラフマニノフの無伴奏合唱のためのロシア正教会典礼音楽『聖ヨハネ・クリソストモスの典礼』の中の1曲だという。


朝は、ゆっくりと明るさを増していく窓の光を見ながら。
夜は、ルブリョフの聖三位一体のイコンを眺めながら。
昼間も、ふと気がつくと頭の中で曲が鳴っていて、
仕事の忙しさが先週、一段落したこともあって、静かさと共にいることができる。


そう、でもやっぱり夜、家に帰ってきて、
イコンを眺めながらくりかえしこの曲を聴いていると
あまりに美しくて泣けてきそうになる・・・


聖三位一体の憩う世界の、天上の世界の、
あまりの美しさに・・

その美しさが
地上にも、たえまなく
降りそそがれていたことに・・


2003 02/20 08:29 記


2003年01月05日(日) 『いつくしみ深き』


先週、あるサイトが閉鎖された。
とても美しい名前の女性が運営する、掲示板が一つあるきりのサイトだった。
閉鎖は、その方の体調のためだった。

7月に開設されてから閉鎖されるまでの半年間、その掲示板では毎日、美しいことについて語られていた。

一日にひとつ、美しいものを見つける。
目に映る自然の美しさ、ふと通りすがりにかかわりを持った人の美しさ、いのちの美しさ・・・
そうした神の現れの美しさを、管理人さんや参加者の方々が日々持ちよって、分かちあっていた。

私は開設されてしばらくして、その掲示板の存在を知った。
昼休みになると、毎日見に行っていた。
そのころ個人的にとてもつらい日々を送っていたので、そこに寄せられるメッセージの一つ一つが心に沁みて仕方なかった。

いつだったか、どなたかがその掲示板に「ここは天国のようですね」と書かれていた。
ほんとうにそんな感じだった。
それぞれ本名も知らず、職業も肩書もまったく知らない人同士が、お互いを祈りあったり、どなたかのご家族やお友達についてみんなで祈ったり・・・そんな姿が天国の風景のようだと思った。


掲示板を続けていくというのは、じつはとても大変なことではないかと思う。
書いてくれたメッセージに答えて何かを伝えたいと思ったら、相手のことを思いめぐらす時間が必要だから。(内容によって、かかる時間はちがってくるにしろ)
そしてどんな管理者にも、日々の生活が掲示板とは別にあって、人間には1日24時間という限られた時間しか与えられていないのだから。

その方はいつも、じつに丁寧な、祈りのこめられたレスをつけておられた。
毎日ではなくても、あのレスの深さとその方の体調のことを思うと、そこにかける時間とエネルギーはたいへんなものだったと思う。

管理人さん自ら、ご自身の病のことを書かれていたこともあった。
小さなことの背後に神を見る・・そうした霊性が好きとも言っておられた。
でもその小さなことをしていくだけでも、今の体調ではとても大変なのだと言われたのは、最後の最後になってからだった。

でも参加者の誰もがずっと、その方のお身体のことを気づかっていた。
その方に無理をかけたくないと、書き込みを最後まで控えた方もきっとおられたと思う。
誰もが管理人さんとそのサイトを慈しんでいた。
そんな優しいつながり方がとても好きだった。
奇跡のような掲示板だった・・・


「いつくしみ深き」という讃美歌がある。
どなたかが、その歌詞とともにメッセージを寄せ、以後、ときどきその讃美歌のことが話題にのぼった。

ある祈りの集いに行った折りにその曲が歌われて、私はその掲示板に集う人々のことを思い出さずにはいられなかった。
そのことを掲示板に書こうと思っていたら、次の日に管理人さんが「昨日、祈りの集いに行ったところ、『いつくしみ深き』が歌われて・・」と書かれていた。
私と同じ集いに参加されていたのである。
お互い、まったく知らないままに、同じ時間に同じ聖堂で、同じ掲示板の人々のことを思いつつ祈っていたのだった。

サイトが閉鎖される日は夜半まで、いろいろな人の「ありがとう」のメッセージが書き込まれつづけた。
管理人さんが最後のメッセージでくりかえし書かれていた言葉。

「主の御国が来ますように・・・・御国が来ますように・・・」


天国はこの地上で始まっている、という三位一体のエリザベットの言葉がある。
天国はすでにあの掲示板で始まっていたと思う。



「いつくしみ深き」・・・この曲は学生時代の合唱団で何十回となく歌って、じつに思い出深い。
指揮者の先生がクリスチャンの方で、練習の最後には必ずなにか讃美歌を1曲歌っていたが、先生のいちばんのお気に入りがこの曲だったのだ。

出だしの、あの優しさに満ちた旋律を思っただけで胸がいっぱいになる。


「いつくしみ深き」

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。



MIDI および この曲の解説
http://www.geocities.co.jp/Broadway/3875/whatafriend.html


2003 01/22 21:54 記


2003年01月01日(水) ***** ここからは、音楽/映像作品について *****


ここからは、音楽作品や映像作品について書いていきます。
図書室には視聴覚資料のコーナーも必要、ということで(笑)

実際には、Diary で書いたことを収蔵していく場所と申せましょうか。



2001年07月01日(日) ミシェル・クオストの言葉



1. 神に聴くすべを知っているなら

神に聴くすべを知っているなら、
神のみ声を聴こう。
わたしたちに語っておられるみ声を。
神はほんとうに語っておられる。

福音の中でも、
生活の中でも、
毎日の生活に新しい1ページが加えられ
この新しい福音を通して、語っておられる。

だけど
わたしたちの信仰はよわく
わたしたちの生活はあまりにもわずらわしいので
神のみことばに心を開こうとしない。

キリストとの親しい交わりのはじめに
彼が今日生きている人々に
福音をときあかして
何とおっしゃるかを心にえがいてみよう。


2. 生活に目をとめさえすれば

(前略)

信仰をもつということは
なにも目をあげて神に思いをはせるだけではなく、
キリストの目をもって、
この世に目をそそぐことでもある。

キリストをしてわれわれの全存在にしみこませ、
われわれの瞳をきよめるなら、
この世はもはやさまたげにはならない。

むしろ、キリストによって
み国が天になるごとく地にもなるために、
父のために働くことへのたえざる招きとなる。

われわれは人生に目をとめることを知るに足る信仰を
祈り求めねばならない。


3.生活のすべてがしるしとなる

もし、神の目から生活を見るすべを知っていたら、
それは創り主なる神が
造られたものを愛される計りがたい愛のかたみに見えるだろう。

父なる神がわたしたちをこの世に送ってくださったのは、
この世から目をそむけて歩くためではなく、
物質やできごとや人間を通して
ご自身を探し出させるためである。

すべてのものは、わたしたちに神のみ心をあらわす「よすが」となる。

日々の小さなできごとの中でキリストにほほえみかけるためには、
長い祈りは必要ではない。

(後略)


4. 生活のすべてが祈りとなる

もし神に聴くすべを知っていたら、
もしわたしたちのまわりを見回すことを知っていたら
生活全体が祈りになるだろう。

神の目のもとで展開される生活は、
すべてどんなものでも、
自由に神に捧げられずにはいない。

わたしたちは、
はじめことばで神と交わるが
それはのちになって、必要でないかもしれない。

ここにしるされる祈りのことばも
ちょうどくだものの皮をむくように
やがて、すぐにすてられる。

ことばは手段にすぎない。
しかし、ことばをこえたなにものかが
静かな祈りとなって
日ごとの生活の中から
たえずほとばしりでるものでなければならない。
毎日の生活こそ、祈りの素材なのだから。


『神に聴くすべを知っているなら』ミシェル・クオスト著
日本基督教団出版局


2001年06月11日(月) C.J. エンツラーの言葉


もう一人の私よ、
祈りが活動の代用品ではなく、
その土台であることを、
あなたは悟っているだろうか。
祈らない使徒は考えられない。
そのような人がなし遂げたことは、
彼自身の取るに足らぬ努力によるものではなく、
他の人々の祈りによるのである。

私は活動を要求する。
だが、
それは祈りに基づいていなければならない。
祈りの生活を送れば送るほど、
必ずあなたの働きはますます実り豊かになる。
祈りと活動は氷山に似ている。
海面上の9分の1の見える部分が活動で、
海面下の9分の8の見えない部分は祈りである。

だから、
第一に祈りによって、
第二に活動によって、
私の使徒になりなさい。
真剣に働きなさい。
しかし、
いっそう真剣に祈りなさい。
祈らずに過ごす日が一日もないようにしなさい。
私はあなたの霊魂の中にいて、
あなたを見、聞き、知り、理解している。
この事実を悟って、
私に話しかけなさい。
あなたの親友として、否、もう一人のあなたとして、
私に語りかけなさい。

私との交わりである毎日の祈りを決して省いてはならない。
必要なら、それを短くしてもよいが、
決して省いてはならない。
なすべきことが多ければ多いほど、
ますます静かに落ち着いて働かなければならない。
そして、祈りこそ平安の鍵である。


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祈りと働きが一つの連続した行いであるかのように、
祈りから働きへ、
働きから祈りへと、
極く自然に移っていける自由な心を、
あなたのうちに育みたいと私は望んでいる。


祈りを捧げるように、
働きも捧げなさい。


あなたが祈りを終えて働きに移る時、
私を後に残しておくのではない。


私はあなたと共に、
あなたの内に居て、
仕事が立派にできるよう、
力と霊感を与えている。


働いている時、
内的なまなざしを度々私に向け、
「主よ、これをあなたのためにしています」
と、静かに語る事を忘れないように。


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どんなに忙しくても、
祈りの時間を取っておきなさい。
愛に満ちた一瞥を私に投げかけるだけでもよいから、
時間をさきなさい。

これは、あなたのなし得る最も賢明な <時間の投資> である。

心を私に上げるために用いた数秒間は、
深い平和と
鋭い精神力によって
豊かに報われる。




『もう一人のわたし』庄司薫訳
聖体奉仕会発行 1987.1 より


2001年06月10日(日) マザー・テレサの言葉



神は沈黙の友です。
わたしたちは神を見つけなければなりませんが
騒音や興奮の中に 神を見いだすことはできません。


自然が、
木が、
花が、
草が、
深い沈黙の中でどうやって成長していくかを見なさい。


星が、
月が、
太陽が、
沈黙の中でどう動いていくかを見なさい。


沈黙の祈りの中で受けとれば受けとるほど、
活動の中で
より多くのものを与えることができます。


沈黙は、すべてのものを
まったく新しい視点から見せてくれます。


魂に触れるためには、
この沈黙が必要なのです。



『聖なる者となりなさい : マザー・テレサの生き方』
(写真・編訳 片柳弘史 S.J.)
ドン・ボスコ社



2001年06月01日(金) ***** ここからは 「観想と活動」 について *****

ここからは、マザー・テレサの言葉などを記していきたいと思います。


2001年05月30日(水) 祈りについて ・ 覚え書き



「沈黙の祈り」をしていると、かならず雑念がやって来て、
意識がすっかりからめ取られてしまうこともしばしば。
そんな時はどうしたらよいか。


これまで、祈りについての本を読んだり、
どなたかのお話を聞いたりして、
自分にとって効果があるように思えてきた方法がこれ。


1. 祈りに誘う音楽を聴く

たとえば、テゼの Veni Sancte Spiritus を1回だけ聴く。
何回も聴くと、今度は音楽の方に意識と心が行ってしまうので。


2. 祈りに誘う言葉を読む

たとえば、最近ここでご紹介しているような、三位一体のエリザベットの言葉など。
これも1フレーズだけ読む。
長く読みすぎると、読書の喜びに浸ってしまうことになるので。
1つの文、1つの言い回しだけで十分なことさえある。


3. 沈黙を意識する

いま、自分を取り巻く沈黙を意識する。
この沈黙は与えられたもの。
たとえ自分で時間をつくって、自ら神のまえに身を置いたのだとしても、
人は与えられなければ、受けることはできない。
そのうち、外的な要因でこの沈黙を明け渡さねばならないかもしれない。
そのことを意識し、味わう。
一瞬一瞬を意識して、味わう。

それだけで、自分の中に満ち満ちてくる。
御言葉が。
あるいは沈黙そのものが。
あるいは・・・


4. 定型の祈りを唱える

たとえば、「天使祝詞」や「イエスの御名の祈り」など。
こうした定型の祈りというのは、エンジンやアクセルのような役割を果たす。
口に出して唱えなくても。

それでも、どうしても意識が集中しないようだったら、
思いきって「とりなしの祈り」、すなわち「誰か1人のために祈る」という祈りに切り替える。
「沈黙の祈り」を終えて「とりなしの祈り」をする時間になったのだ、ということを覚えつつ。


「とりなしの祈り」は、たとえば「天使祝詞」を10回(=1連)唱えて、
必要だったら2連くらい行なう。
1連でだいたい、意識は落ちついてくる。
この種の祈りでも雑念はやって来るけれども、
なにしろエンジンでありアクセルであるから、
強行突破することが可能。


以上、1〜4のどれを試すかはそのとき次第だったけれど、
最近は全部やっているので、
なんだかこれが私の祈りのフルコースとなっている。


ところで、三位一体のエリザベットの言葉に

「騒音は心の表面をよぎるだけで、
奥深くには主のみおいでになります」

というものがある。

この「騒音は心の表面をよぎるだけ」という状態、
近頃ロザリオの祈りに開眼して、この事が少しわかってきたような気がする。

あの感覚を「沈黙の祈り」でも再現できればいい・・・


2003.2.8 記


clara-p |MAIL