■ 日々の歩み。 ■
徒然の考察・煩悩・その他いろいろ発信中。

2003年06月26日(木) サマー☆バケイション。

 そうだ、京都へ行こう。

 ふと思い立ちまして。
9月の終わりの連休に夏休み2日を加えて、3泊4日くらいで、
京都へ行こうと思います。

またか、だなんて言わないで…。

 9月終わりの京都は、残暑でまだまだ暑い上に、祭りは終わっているわ、
紅葉には早いわ、花は大して咲いていないわで、特に見どころナシですが、
とにかく観光客が少ない ため、お寺や庭園の造型をじっくり
見たい方にはお勧めですが、初心者には向かないね。
やっぱり、花や紅葉の頃の方が、綺麗だもの。

 
 まあ、流石に京都もかれこれ6回も行っていれば、そろそろ
目ぼしい観光地はネタ切れ気味なんですが、今回の目標。

① 嵐山の大河内山荘。 (大河内傳次郎の別荘)
② 桂離宮。
③ 嵯峨野の直指庵。

 とりあえず、これはおさえておきたいところ。超ピンポイント。

 桂離宮は、2年前にも同じ時期に行ったのですが、もう一度。
個人的には、宇治にも行きたいんだけど、去年の秋に行ったばかりだし、
考えちゃうのよね。見る場所も少ないしさ。

 日程的には比較的余裕があるので、ちょっと足を伸ばして、市内から
離れた場所にいくのもいいかもしれない。

 それとも、思いっきり修学旅行コースにしてみるか…。
清水寺周辺なんかは、2回くらいしか行ったことないし。
金閣寺も、修学旅行の時以来、行ってないし。


 いろいろ考え中。この時が一番楽しいんだよね。



2003年06月25日(水) 夜明けのスキャット。

 あややの、午後ティーのCMが好きだ。

 スキャットを不自然でなく、それっぽく聴かせるのは、
結構難しいと思うのですが、多少動作が大げさに見えるものの、
さりげない感じで、器用にこなすあややを見ていると、
モー娘。との、根本的な覚悟の違い、というか、

プロアイドル根性 を、改めて感じる今日の頃。

 職業軍人ならぬ、職業アイドル。

 
 ところで、名古屋章氏と聞いて、まっさきに 「ウンナンのやるやら」 を
連想し、「マモーミモー野望のテーマ」をフルコーラス歌える私ですが、
同志を発見いたしました!

ずばり、ウチの妹。

 「野望のテーマ」同好会、只今会員2名で絶賛同志募集中。
家内制手工業な感じで頑張ってます。

♪すす~めみんなで野望の道を、つっぱりおーたく それは違~う

 上記赤字部分を、思わずマモーの物まねで口ずさんだ人。同志です。
更に両手を前へ突き出し横へ流すポーズをとった貴方、名誉会員ですよ。



2003年06月24日(火) エロイムエッサイム。

 今週は、ちょっとゴタゴタしていまして、日記もサボりがち。
書くことはあるんだけど、書き始めると長くなっちゃうんで、
なかなか書けないのよね。

 最近、嵌りつつあるモノがありまして。
暇な時間は、そのリサーチやらビデオ鑑賞やらに
余念がないので、そのせいもあるのよね。

追々、熱く語っていく予定なので、もう暫く勉強させてください。


 ところで、名脇役・名古屋章氏が、亡くなられたそうで。
思わず、ウンナンの「やるならやらねば」でやっていた、
「ナン魔くん」というコントを思い出しました。
名古屋章、出てたんだよね。確か、メフィストの役で。

 ちなみに、同コーナーの主役は、あくまで南原扮する「ナン魔くん」
のはずなんですが、敵役の内村扮する 「マモー」の方が人気があって、
「マモー・ミモー 野望のテーマ」  などというCDまで発売になりましたね。
勿論持ってましたし、今でも歌えますよ。

 マモーの登場シーンで流れる曲が、バッハの「小フーガト短調」だと知り、
たて笛で練習したのも、青春の甘酸っぱいメモリーの1ページだね。
これもひとつの愛のかたち。

 名古屋章氏のご冥福を、お祈りいたします。



2003年06月22日(日) キネマ三昧。

 土曜日の続き。
ジブリ立体造型物展を後にして、両国の「江戸東京博物館」へ。
前々から行きたいと思っていたのですが、バブリーな外観と比例して、
展示内容も、なんともバブリー。面白かった。

 それにしても、人は何故、兵士型はにわを見かけると、
「お~いハニ丸、ハニ丸王子~。」と口ずさんでしまうのか。
そして、馬型はにわは、「ヒンベエだ!!」と決め付けるのか。
そういうお年頃なのね。私たち。


 その後、新宿で映画鑑賞。

「ミニミニ大作戦」 http://www.minimini-jp.com/movie.html

 原題は、「THE ITALIAN JOB」
1969年に公開された、同名映画のリメイク。
秀逸な邦題どおり、白・赤・青のミニ・クーパーが、強奪した金塊を積んで、
渋滞の街中を、縦横無尽に走り回る映画なのです。

 
 ちなみに、予習として前作も見ました。
前作は、本当に車大好き、ブラックユーモア満載、といった感じ。

 イギリスの威信をかけて、イタリアから「イギリス車(ミニ)」で
金塊強奪、なんていう、冗談みたいな設定を大真面目に掲げていて、
良い意味で、B級感漂う作品だったのですが(ラストのオチは、本当にギャグだ)。

 ミニもモデルチェンジされた新作は、前作の特徴だったブラック感が薄くなって、
普通に楽しい大衆娯楽映画になってました。(奇天烈なラストのオチもなし)
残念と言えば、それが残念。


 相変わらず、ミニが滅茶苦茶可愛い。
コンパクトなミニの愛らしさを、全世界に布教するための映画
と言っても過言ではないので、アピール所は満載です。 
大型車の隙間に、チョロっと縦列駐車する姿だけで、幸せな気分。

 CGを一切使わずに、派手なカーチェイスを展開していますが、
実写で ルパン三世 を見ている心地がいたします。
地下鉄の階段を車で駆け下りていったり、もうやりたい放題。

 おかげで、当初予定されていたベニスでの撮影許可が下りなくなって、
後半のクライマックスシーンは、ハリウッドで撮影したらしい。
タイトルは「イタリアン・ジョブ」なのに、イタリアにいるのは前半だけ。

 免許を取ったら、ミニに乗ろう、と固く誓わせてくれる映画。
映画館のチラシ置き場に、ミニのカタログが置いてあるのも、心ニクイ。


 その後、勢いで、向かいの映画館でもう一本。

「チャーリーズエンジェル フルスロットル」 http://www.charliesangels.jp/

 なんつうか、凄えや、デミ・ムーア。 の一言に尽きる…。

 キャメロン・ディアスの笑い皺とソバカスも、ルーシー・リュ-の
目尻から浮いてるつり目アイラインとソバカスも、ドリュー・バリモアの
ドスコイムッチリ具合も、全て吹っ飛みましたよ。

 画面いっぱいに、これでもかと披露される(無意味に水着や下着のシーンが多い)、
改造としか言いようのない肉体から、オーラとなって立ち上る、デミの気迫
の前では、エンジェルたちも、タジタジです。

 それだけで、見た価値はあった。ありがとうデミ。

 ところで、話を転がすきっかけはドリュー、ギャグのオイシイところは
キャメロン、アクションの見せ場はルーシー、と、エンジェル内でも
キチンと役割分担がされているように思えたのは、私だけか…。

 作業員の格好でスッピンに近いキャメロンが、もろオッサンのようで、
ちょっとヤバかった。お化粧って凄いわ。

 ハリウッドの、世界に誇る、驚異の肉体改造術とメイクアップ技術に、
感嘆を禁じえない1本でした。



2003年06月21日(土) そんなジブリに騙されて。

 本日は、お昼からお出かけ。

 東京都現代美術館で開催中の、「スタジオジブリ 立体造型物展」
http://www.ntv.co.jp/rittai/index.html

 ジブリ製作映画のシーンを、立体模型で再現する、という謳い文句に、
企画内容は時々趣味に走ってアレでも、徹底した世界観を持って、職人気質で
丁寧な仕事を行うジブリのこと、きっと凄く精密な模型が…。と期待していたのですが。

 期待大外れ。ブランド名を逆手に取った荒稼ぎだ。あれは。


 とにかく、模型の作りが雑。
製作期間が短かったようですが、それにしても、映像ではあれだけ画面上での
質感に拘るのに、塗装は雑だわ、継ぎはぎが見える状態で展示されているわ、
もう滅茶苦茶。

 
 中には何点か、出来のいい作品もあったけど(トトロとか)、
人型の模型は、全体的に惨憺たる出来。
2次元アニメのキャラクターを立体で表現する難しさを差し引いても、
もう少しなんとかならなかったのか。


 大きな模型の方が、誤魔化しが利かずに粗も目立つし、難しいらしいですが、
あんな出来で大きなブツを作るなら、もっと精巧なミニチュア模型を
作った方が良かったんじゃないか、と思ったり。

 
 その道のプロの人から見たら、充分及第点の出来で、求め過ぎな意見かも
知れませんが、見ている素人は、あの映像と比べてしまうから、
どうにも粗ばかりが目立って、ちょっとゲンナリ。


 ちなみに、ジブリ美術館と同じく、ローソン端末での予約販売のみで
チケットの価格は、大人¥1,000 ナリ。

 値段並みの内容、といえば、そうなのかもしれませんが、仮にもジブリの
名前を掲げた、本家本元の企画なら、例え急ごしらえの作品でも、
ジブリ美術館並みのクオリティを求めてしまうのは、贅沢なのか。


 どうせだったら、テレ東の  「テレビチャンピオン」 と協力して、
「ジブリ造型物選手権」とか銘打って作らせた方が、面白かったんじゃないかと、
下世話な事ばかりが思いつく、そんな展覧会でした。



2003年06月20日(金) 夕焼け番長。

 久しぶりに、夕焼けを見ました。
薄墨色の雲の切れ間から、オレンジがかった朱鷺色の空が輝いていて、
どんなに東京の空気が汚れていても、夕日と朝日の風景は
やはり格別で、敬虔な気持ちにさせられる何かがあります。

 それにしても、随分日が長くなりましたね。
今週の日曜日が、夏至だそうですから、今の時期がいちばん
日が長い時期なんだそうです。

 冬至には、カボチャ食べて柚湯に入りますが、夏至の日って
何かするんですかね。聞いたことがないのですが。



2003年06月19日(木) アツがナツいぜ。

 台風到来の影響か、今日は久しぶりに晴れましたね。
この機を逃すな、とばかりに、我が家の洗濯機はフル稼働です。

 梅雨入りからこっち、蒸し暑い日が続いていて、汗っかきの私にとっては、
辛い夏の到来を、文字通り体感しているため、洗濯物の量もハンパでないのですよ。

 暑い、といえば、「ピンポン」のペコの科白で有名な、

「アツがナツいぜ!」

は、あれがオリジナルなのか、はたまた他に元ネタがあるのか、という議題が
ここ1週間の、我が姉妹最大の謎だったのですが、どうやらオリジナル説が
正しいようです。(妹の会社の同僚談)


 そんな瑣末な疑問で、1週間も話題が持つなんて、ある意味、省エネな2人。



2003年06月18日(水) 紫陽花の下に眠る。

 昨日の日記で書いた、鎌倉・名月院の、紫陽花の話の続き。

 山門を入って、本堂に向かう小道沿いに、紫陽花が植えられていますが、
これが全て青い紫陽花なんだそうです。
「名月院ブルー」(このネーミングセンスは如何なものか)とも呼ばれる
綺麗な紫がかった青。

 一般的に広く知られている通り、紫陽花は生えている土壌によって
花の色が決まります。

酸性なら、青い花。アルカリ性なら、赤い花。
リトマス試験紙とは逆が、正しいらしい。


 そんな訳で、推理小説などでは、「青い紫陽花が咲き乱れる庭」なんていう
お約束な場面があったら、大抵その下に、死体が埋まっているのです。

桜といい、紫陽花といい、日本人は、「花の下に埋められた死体」あるいは
「死体を養分に咲き乱れる花」に、幻想的な美しさを感じるものなんですかね。


 ところで死体を養分とする植物、といえば、、大島渚の永遠のライバル(?)
野坂昭如の 『骨餓身峠死人葛』 を思い出してしまうのですが。

 こっちは、幻想的な美しさなんて、欠片もありませんな。
やっぱり、生命力豊かに生い茂る植物だと、耽美もなにもあったもんじゃない。

 既に絶版の小説ですが、あんなに読んでいて、色々な意味で違和感や
気持ち悪さを感じる小説も、結構珍しい。
野坂氏といえば、代表作はやっぱり、『火垂るの墓』 なんでしょうけど、
過激でぶっ飛んだ言動通り、作品の大半は、やっぱり何だか異様らしい。

 まあ、タイトル一覧見れば、わかります。



2003年06月17日(火) 壁際で寝返りうって。

 寝違えて、洒落にならないほど首が痛い…。
寝苦しくて、変な体勢のまま、ウラウラ寝返りうったのがいけなかったか…。

 朝の番組で、紫陽花の名所として有名な、鎌倉の名月院からの
中継を見ました。青い紫陽花が満開で、噂に違わぬ素晴らしさでした。
行きたいなあ。でもきっと凄い人出なんだろうなあ。

 鎌倉には幼少の砌に1度しか行ったことがない。(鎌倉の大仏の前での記念写真が)
いつか行こうと思うんだけど、近場でいつでも行けると思うからか、
なかなか機会がない。

 そういえば、横浜中華街も、真夜中に前を通ったことがあるだけで、
行ったことがない。ズーラシアも八景島も行ったことがない。


 神奈川に住んでいたこともあるのに。近くて遠い神奈川県。



2003年06月16日(月) こころ。

 通勤時間や暇な時間にポツポツと、1週間くらいかけて読みました。

夏目漱石先生の 「こころ」

 高校の現国の授業で読んで以来、約10年ぶりに通しで読んだのですが。
凄く、心に染みた。ああ、いい作品だなあ、と素直に感動しました。

 高校生の頃は、夏目漱石の作品は、あまり好きではなかったのね。
まあ、それほどたくさんの作品を、深く読んだ訳ではないので、多くを語る
資格はないのですが。


 「私」も、告白の中の若い頃の「先生」も、高校の頃には、独りよがりで
傲慢で、下手に学問がある分狡猾で、そのくせヘタレな、嫌な人間にしか
見えなくて、私にとって魅力的でない、そうした登場人物が、無駄に高い
プライドで押し隠した弱さを告白したところで、面白くもなんともなかった。


 きっと、人間の逃れられない弱さやエゴや、そういったものを単なる知識と
してでなく、実感して吸収できるほど、大人じゃなかったんだな。(今もそうだが)

 それなりに本を読んで、色々なことを知ったつもりになっているけど、
所詮それは、誰かの受け売りで、心の表層だけを上滑っている言葉に
過ぎないと思う。

 若さの無知ゆえの傲慢さを、自分のこととして自覚しなくては、あの作品を
読んで響いてくるものは、半減する気がします。


 そういう意味では、字面を追うので精一杯だった以前に比べると、
多少は、漱石先生が作品に込めたメッセージが、読めたような気がしました。


 小説は、作者が生きた時代背景と思想と、切っても切り離せない関係に
ありますが、明治の文豪たちの作品も、「家」や「立身出世」と「個」の対立、
その狭間で揺れ動く「恋愛」といった要素が、非常に重要になっています。

 「個人主義」が叫ばれて久しい昨今、そんな苦悩はナンセンスで時代遅れだ、
と考える人もいるでしょう。

 でも、その「個の尊重」の中に潜むエゴイズムが、思想の過渡期に生き、
世を支える知識人としての使命感を持った人物たちには、「個」の権利ばかりを
当然のことと、声高に主張する現代人よりも、ずっと鮮明に浮き彫りに
なっていたのではないかと思うのです。


 時代や思想、表現方法が多少変わったところで、人間が根源に抱える問題は、
そうそう変わるものではありません。
その時、その状況だからこそ、よく見えるものがあるかもしれない。


 そして、たとえよく判らなくても、そういった人間の深淵の葛藤や苦悩に
若いうちから触れて、歳を取り、経験を重ねていくことで、実感を
もって共感していくことは、本当に楽しく素晴らしいことです。

 真に優れた文学とは、このように時代を超え、何度読み返しても、
読者の心の成長にあわせて、いつでも新しい真理の発見や共感を、読み手の
心の中に導き出す、そういう作品なのかもしれないと思いました。


 そんな簡単なこと知ってるさ、と言われるかもしれませんが。
最近、日常のごくありふれたことから、色々な再発見があるのだよ。
遅い成長期だと、笑ってやってくれ。

 日々是哲学。


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