飛行機で1時間で瀋陽へ。空港から車で40分。瀋陽の市街地に差し掛かると、広い道路の両側に新しい高層ビルや高層マンションが立ち並ぶ。蓮舫さんが10年前に来たときは、道路も舗装されていない農道で、古びた平屋が並んでいたという。金ピカのバブリーなホテルだなぁ、と思ったら我々が泊まるマリオットホテルだった。ちょうど我々の1時間後に武部・自民党幹事長が到着。偶然日程が重なったらしい。
世界遺産となっている瀋陽故宮(清の時代の宮廷)を見学。
次いで9・18抗日記念館へ。99年に出来たらしいが、盧溝橋事件に始まる日本の侵略を、そのムゴさ(虐殺や拷問)を強調してこれでもかこれでもかとリアルに展示してある。照明も落として暗い雰囲気。見学した誰もが、日本人はいかに残虐で、そしてそれをはねのけた中国人はいかに勇敢だったか、と胸に刻み込まれるのだろう。
中国は、文化大革命やチベットやベトナム侵攻など、日本よりよっぽど残虐なことをしている。ある意味、世界のどこにおいても、戦争は残虐なものなのだ。日本の残虐性を強調した記念館に、反日教育の一端を垣間見た。
岡田前代表の希望で瀋陽大学を訪問。日本語を学ぶ学生30人と対談。大学で応募したところ、希望者はほぼ全員女性だったとのこと。彼女たちからの質問の9割は「靖国参拝はどうするのか?」。たまりかねた岡田前代表が、学生に対して「日本と中国の未来についての夢は?」と聞いたが、それに対する回答も「首相が靖国参拝をやめたら日中は仲良くなると思う」だった。学生が、日本の第二政党の元党首に対しての質問を考えれば、どうしても政治の分野になってしまうのだろうが、それにしても靖国ばかりでガッカリ。
李克強・遼寧省委員会書記(日本の県知事)と面会。彼は、中国共産党の出世頭。
会食の後、ホテルにもどったが、若手議員連中(=岡田前代表をのぞく5名)はホテルの外へ。徒歩10分と聞いて歩いたら20分以上かかったが、なんとか料理店に到着。スーパーのように食材(魚介類・肉類などなど)が並び、それを選んで調理してもらう。これまで、中国の要人との会食は、汁ものが多く(1回に3〜4種類)、どうも似たような感じで、やや飽きてきていたので、皆、「これが中華料理だぁ。おいしい!」と口を揃えながら、紹興酒を楽しんだ。
ホテルにもどって、ホテル内のロビーで少し歓談。メンバーで唯一の独身、津村君が「女の子の好みは?」など集中砲火にあった。
午前中は、岡田前代表が今まで14回訪中しているにも関わらず一度も行ったことがないとのことで万里の長城へ。小型バスで1時間あまり。素晴らしい天気の中、写真で何度も見ていたとおり、エンエンと続く城壁。その上を歩いた。アップダウンが結構激しく、急勾配を上ると、皆、息を切らせていた。あの時代に、いったいどれだけの人たちが働かされたのだろう。想像を絶する。
北京にもどる。北京は、街全体がかすんでいる。スモッグで、これでも以前よりはまだ良くなっているとのこと。自動車が急増しているから、今後も、公害はますます深刻になるだろう。日本大使館の公使と昼食。
午後は、外交部(日本の外務省)の副部長(日本の副大臣)、そして中央台湾事務弁公室(台湾の担当部局)の副主任と面会。昨日の中連部も今日の外交部も本来は部長に会えるはずだったようだが、ちょうどAPECの日程と重なってしまい、両部長は不在。
夜は、人民大会堂(日本の国会議事堂)へ。共産党中央政治局委員と面会。そして北京市委員会書記(北京市長)と会食。
ホテルに戻って、8時半から北京駐在の日本記者への記者会見。後日聞いたのだが、友人が当日上海にいて、ニュース映像で私を見たらしい。
さらに、中国側の日本担当記者5名と面会。
岡田克也・前代表に声をかけて頂き、同期の馬淵澄夫議員・津村啓介議員、参議院の蓮舫議員・藤本祐司議員とともに中国へ出張することになった。私は中国に行くのは初めて。19日までの5日間、北京と瀋陽を訪問するという計画だが、私は19日にどうしてもはずせない地元の予定があり、やむをえず1人だけ18日に帰国することに。
岡田前代表は訪中は15回目。ほぼ毎年訪中しているとのことで、中国共産党&政府と太いパイプを築いている。幹部との面会が多く予定されていて、楽しみ。
昼に成田を発って4時間。北京に午後6時に到着。ホテルまで車で移動中に初めて見る北京の街並みは、予想を超えるものだった。立ち並ぶ高層ビル。オフィスビルはもちろん、マンションも20〜30階建のものが林立している。道路は広く、4車線の道路も結構ある。北京オリンピックに向けて、道路などの整備を急ピッチで進めているとのこと。10年前に1年半、北京で語学研修をしていたという蓮舫さんも、その変わりように驚いていた。
夕食は共産党中連部(外交部門)の副部長と会食。ホテルに帰ってきてから、議員同士で歓談。さらに、財務省から在北京大使館に出向している先輩と久しぶりの再会を楽しんだ。
ちなみに今日11月15日は、ちょうど1年前、初登院して議員バッジを付けてもらった日。それから1年以内に選挙があるとは全く予想だにしていなかったが、とにもかくにも、こうやって議員活動を続けていられるのは、一重に応援して下さっている皆様のお蔭です。
北京への飛行機の中で、皆様への感謝の気持ち、そして「初心」を新たにしました。
22日に地元へ帰る始発の新幹線の車中にて盗難にあいました。
朝5時起床で3時間しか寝ていなかったため、車中で寝てしまったところ、背広の内ポケットから財布を抜き取られ、現金数万円とキャッシュカードなどを盗まれてしまいました。議員証明書(下記注参照)も盗難されたと報道されていますが、前回選挙までで有効期限が切れたものです。
私の不注意でした。議員は24時間気を引き締めていなければならないと改めて認識し、反省しています。
(注)議員証明書とは、社員証や学生証のようなラミネートされた紙です。従来、国会議員にとって身分証明書に当たるのは議員バッジで、議員証明書は全員に配布される訳ではなく、希望者が申請すると交付されます。クールビズが実施される際、上着を脱いでしまうと議員バッジを持ち歩くのは不便なので、私をはじめ多くの議員が議員証明書をつくりました。衆院解散とともに無効になっていたのですが、そのまま財布に入れてしまっておりました。
今は小学校の就学旅行シーズン。沢山の小学生が国会議事堂を訪れている。先週あたりから増えたのが議員会館への陳情団。数名から多いときには100名ほどの団体が次々と議員会館を訪れ、入口周辺は満員電車状態になることも。
来年度予算への要望を議員や中央省庁に陳情するため、全国各地から首長・地方議員・役所幹部が大挙して霞ヶ関と永田町に押し寄せる、というのは古くからの日本の「風習」となっている。実際には、議員会館の事務所や省庁の担当部署を回って陳情書を渡すだけ。有益な議論をするわけでもない。全国で膨大な出張費がムダ遣いされているのだ。こういう「悪習」をやめる勇気を持った首長が増えることを心から望んでいる。
政治評論家の森田実氏の講演を聞いた。
『アメリカはずっと前から、日本に対して毎年、改革要望書を提出している。小泉首相が、4年前の就任以来、実行していることは、すべてそのアメリカ改革要望にのっているもの。郵政民営化は、以前からのアメリカ要望の大きな柱だった。今、在日アメリカ大使館を中心に来年度対日要望をまとめているが、その中心は医療改革』とのこと。
「小泉はブッシュの子分。日本はアメリカの属国に成り下がっている。」との主張をする専門家は森田氏だけではない。私は、日本がアメリカにあらゆる面で従属していればいいと小泉首相が考えているとは思わないが、日本の国益が何かを考える際にそういう視点も重要だ。
『今回の衆院選については、マスコミが政権与党と結託してしまった。マスコミと政権が適度の距離を保つべきというのは、まさに、体制翼賛が第二次世界大戦へつながったことへの反省からきていた』との森田氏の懸念は私も共有する。また、『小泉自民党は、電通の戦略チームが、15秒のニュースの中で主張が完結するように小泉首相のセリフを考えたり、今回の選挙では、郵政法案が衆議院で僅差で可決された頃から、選挙に向けて作戦を練りだした。解散直後には、テレビのいいCM枠は全部押さえた』との話は、民主党も敵に見習い、しっかりした広告代理店と組み、広報・選挙戦略を練り上げる必要があろう。
ニュースや情報番組で、前原代表のコメントは10〜20秒しか取り上げられないが、杉村大蔵議員のことは、年金未納やスキャンダル発覚の後も、何事もなかったかのように何分も取り上げられる。
臥薪嘗胆。
選挙の後、初めて国会で質疑に立った。財務金融委員会で、銀行代理店の参入規制緩和のための銀行法改正がテーマ。この法改正により、例えばスーパーや百貨店などが銀行の窓口を設けることができるようになる。この規制緩和が遅かったのではないか、銀行代理店への参入を許可制とすることについて、銀行の自己責任でやればいいことであり、行政の過剰介入ではないのか、といったことを伊藤金融担当大臣に質問した。
その模様は衆議院TVでご覧下さい。
総選挙での民主党惨敗の責任を取って岡田克也代表が辞任表明をした。それを受けて、今日、民主党の代表選挙が行われた。従来、2年に1回の代表選挙(昨年9月は岡田代表への対抗馬が出ず、無投票再選。)は党員・サポーターも投票するが、今回のような緊急時には議員のみでの投票。
一昨日、真っ先に前原誠司衆議院議員が出馬表明の記者会見を行い、昨日、菅直人前代表が出馬表明した。出馬が噂されていた小沢一郎氏は出馬を見送り、2人の一騎打ちとなった。
民主党には自民党のような派閥は無い。マスコミ上でよく書かれる「グループ」としては、鳩山グループ、菅グループ、旧民社党グループ、旧社会党グループ、前原・枝野グループ、野田グループというように分類されることもあるが、これは勉強会で、どこにも所属していない議員もいれば、いくつかの勉強会に所属する議員もいる。自民党の派閥は、カネも含めた親分子分関係であり、民主党のグループとは決定的に違う。私は、前原氏を応援した。
2人の立候補演説。菅直人氏は従来と変わらないトーンであったのに対し、前原誠司氏は「敗戦に打ちひしがれている余裕は無い。一緒に闘おうではありませんか」という力強い訴え。両者の演説を聞いて決めるという議員が20名ほどいたようだが、かなりの議員が前原氏に投票し、わずか2票差で前原氏が勝利。
43歳の新代表の誕生だ。イギリスのブレア首相もアメリカのクリントン大統領もロシアのプーチン大統領も就任時は40代。日本でも、この激動の時代を乗り切るには40代のリーダーが必要とかねて思ってきたので、本当に嬉しい。
巨大与党に対峙する厳しい船出となるが、私も前原新代表を支えるべく頑張りたいと思う。
民主党は大惨敗を喫しました。自民党が296名(うち新人83名)と大躍進。公明党31名と合わせると327名。衆議院議員480名の3分の2を超える議席を与党が確保。一方、民主党は177名から113名へ。同期の議員は60名から33名に。
選挙戦を通じて、私は小泉旋風をそれほどは感じませんでした。解散直後から、お会いする方のほとんどに「郵政民営会についてはどう考えるか?」と聞かれるようになり、小泉首相の影響力の強さは感じていましたが、選挙戦において街宣車で回っている際の反応(すれちがう車や家からの手を振ってくれる人の数)は、公示初日でも、前回選挙に比べてはるかに良く、日増しにさらに良くなりました。
私の97,330票に対し望月義夫議員は116,045票。前回の76,865 vs 102,761と比べると、私は約2万票上乗せし、差も約6000票詰めることが出来ました。都市部では東京で1議席(菅前代表のみ)、千葉で1議席(野田佳彦議員のみ)、神奈川は全滅というような小泉台風の中で、この結果は、ひとえに支援者の皆さま、スタッフ、そして妻が死に物狂いで頑張ってくれたお蔭です。心より感謝申し上げます。共産党候補が出なかったこと、望月義夫議員が郵政民営化法案で棄権をしたため党公認が遅れたことも、私にとってはプラスに働いた、いわば「運」とも言えます。
静岡県で見ると、5区の細野豪志議員と6区の渡辺周議員は選挙区で当選し、1区の牧野聖修前議員、2区の津川祥吾前議員、8区の鈴木康友前議員、3区の平島候補、4区の阿部卓也候補は落選。中部に民主党衆議院議員は私1人、私より西側に民主党衆議院議員はいなくなりました。
私の「自民党政権のままでは日本はダメになる。財政も破綻する。それを救うのは民主党の政権交代しかない」「小泉首相は国民をだましているだけ」という思いは変わりません。残された民主党衆議院議員として、責任は一層重いと自覚しています。応援して下さった方々のご期待を決して裏切らないよう国会で活動するとともに、地元では次期衆院選で必ず選挙区で勝てるよう、引き続き必死に頑張っていきます。
いよいよ投票日。
午後6〜7時頃に、マスコミ各社の出口調査によると、全国で民主党が大苦戦していて、自民党が300議席を超える勢いという話を聞きガクゼンとする。
9時すぎから開票スタート。私と妻は富士宮のホテルで、選挙特番を見ながら待機。10時すぎに望月義夫氏の当確が出た。富士宮事務所に出向いて敗戦の弁。そして清水へ行き、御門台事務所で敗戦の弁。その後、いったん事務所を出る。後は比例がどうなるか。午前1時頃までには私の票はほぼ確定し惜敗率は84%。民主党比例東海ブロックの議席数は7つで私は9番手。
落選を確信して再び御門台事務所に戻ったところ、後援会の方々が「まだ分からない」と言う。半信半疑だったが、比例東海ブロックの民主党の議席数が8に増え、そして私が9番手から8番手に上がって、1時40分頃、テレビで当確の報。
最後まで残って下さった支援者の方々と抱き合って喜んだ。万歳三唱。前回は繰り上げ当選だったので、開票日という意味では「初」当選。支援者お一人お一人のお力をヒシヒシと感じた。富士宮事務所にもどったのは2時すぎ。そこでも万歳三唱。
帰宅したのは4時頃だった。