きまぐれがき
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2004年05月20日(木) いろはにほへとへの郷愁

心当たりに頼んでおいたアダム・クーパーの「オン・ユア・トウズ」
と劇団四季の「アイーダ」のチケットが手元に届いた。
「アイーダ」は先日観て、またまた観たくなったのだ。

座席が前列からABCDE.....と並ぶのを、頭の中で「いろはにほ
へと.....」と変換しながら指を折っていかないと、座席から眺める
舞台までの距離がどのようなものかがいまいち掴めないのは、
子供の頃にさんざん通った建て直す前の東宝劇場と、関西に
越してきてから通いつめた宝塚大劇場の座席の影響だ。

戦前に建てられたこの二つの劇場の座席は、前列からい列ろ列
は列.....というように並んでいた。
観劇デビューが2.3歳だったとして(親も、宝塚歌劇だったので
幼児を連れて行く気にもなったのだろうけれど)、その頃から、
チケットを手にした母が、いろはにほへと.....と呟きながら自分の
座席を確認している姿を、傍らでじっと見てきたのだから、こう
なってしまったのだ。


2004年05月13日(木) ザッピングの果てに

人のザッピングにはイライラさせられるけれど、私だってリモコン
を持てばついカシャカシャしてしまうのだ。
そのザッピング中「経営者の資質がどうとか...」に釘付けとなり、
やっと手にしていたリモコンを手離す。

「経営者資質」が認められなければ出世はないと、通信簿を渡さ
れている社員が映し出されているのは、かつて私の職場だった
某電機メーカーではないか。
番組は地元のテレビ局での「ガイアの夜明け」で、キー局では
4月末に放映されたものらしい。

私が社員だった頃は、配属された部署が秘書課だったからなのか、
和気あいあいとした家庭的な職場で、生き馬の目を抜くなんて
空気は何処にも誰にも感じられず、長閑そのものだったように思う
けれど、時代が変れば企業も社員も生き残りをかけて必死なのだ。


私は東京支社(現在は組織が変っていると思う)だったのだが、
本社は大阪なので本社の秘書課とは役員たちのスケジュールに
伴い頻繁に電話連絡が行われていた。
その電話の声を訊いただけで、姿を見たことがないにもかかわらず
猛烈に憧れたのが、○○専務の秘書をされていらしたずっと先輩の
Nさんという女性だった。

「○○専務室のNでございます」と、少々大阪弁のアクセントが
入ったなめらかな言葉だけれど、声質が澄んでいる分どこか冷たく
も感じられて近寄りがたい女性のように思えるところが、なんだか
知り合いの修道女によく似ていて、逆に親近感がわいたのかもしれ
ない。
秘書としての能力も完璧だと上司の評価が高かったこともあり、
そんなNさんに実際に会ってみたいという思いがつのって来たちょ
うどその頃、本社へ出張することになったので、この時とばかりに
専務室へ訪ねて行った。

ひっつめにした髪をシニヨンにまとめて、白いブラウスの襟を立て
モノトーンのタイトスカートはやや膝上、ヒールの高さは9センチ。
(なんだか世間でイメージする秘書そのまんまのようですな)
などと、電話での声から想像が勝手にどんどん膨らんでいる私の目
の前に、聞き覚えのある声で「Nです」と現れた女性。
とても小柄でくるくる〜とした目がなんとも愛くるしく、私よりもぐんと
年下に見えて、ピンクハウスのお洋服にクマのぬいぐるみが似合って
しまいそうなムードに、私はガシャンとしゃがみ込みそうになったの
だった。



2004年05月12日(水) リンクを辿って何処へ

インターネットの世界は広いようで、以外にも狭いじゃないかと思
ったのは、とあるサイトで従姉妹を見つけてしまったからなのだが、
7・8年前の親戚の葬儀の時に会ったきり、子供の頃は夏休みなど
によく一緒に遊んだ思い出はあるものの、大人になってからはまっ
たく行き来をしていない従姉妹の近況をネットで知るとは。

自衛隊関係の検索から、リンクをあれこれと巡っていた時に、ふと
立ち寄ったある大学の卒業生の近況報告らしきリレーエッセイの中
に、従姉妹はいた。
この大学の卒業生だったことも、結婚後の苗字も、忘れていたのに、
たまたま読んだ文面に、私にも心当たりがあることが書かれてあっ
たので「おや?」と名前を見ると、どうも従姉妹らしい。
そこで薄ぼんやりと思い出してきた。
そうだった大学も苗字も。これは間違いなく従姉妹だよぉ。


そもそも何故自衛隊関係などを検索したかというと、高校時代の友人
との会話で自衛隊に入ったクラスメートがいたなぁと、思い出したのが
始まりでその他いろいろ。

自衛官になったクラスメートは色白で、立ち居振る舞いは優美で、彼女
のか細い声を私は聴き取ることができず「えっ!?」と訊き返してばかり
いた。
宝塚音楽学校への合格者とか、もろもろの音楽コンクールの受賞者に
は冷静な学校も、自衛隊入りには驚いたようだった。
私も、ほんとに自衛隊なの?防衛庁の職員ではないの?きびきび行進
などできるの?としばらく信じられなかったことも同時に思い出してきた。



2004年05月04日(火) フリーダ「バーン・イット・ブルー 」

映画や舞台のなかのある場面で流れてくる音楽に、魂が震えるほどの
感動を味わった経験など誰にだってあることだろう。
連休前にレンタルしてきたDVD「フリーダ」の最後、フリーダ・カーロが
人生を終えーーフリーダが自らの最期を描いた飛び散る火花と燃え盛る
炎につつまれた絵によってーー魂の昇華を見送ったときに、その曲は流れ
てきた。 「バーン・イット・ブルー 」。

何を今さらと、映画ファンの方々からは呆れられそう。
今年のアカデミー作曲賞を受賞しているのだそうだ。
授賞式ではガエル・ガルシア・ベルナルがこの曲の紹介をしたらしいが、
やや!どうしたことか、確かにアカデミー賞のTV中継は見ていたはずな
のに憶えていない。

生涯フリーダを苦しめることになった心と身体に負った深い傷、それに
伴う痛みからは、やがて訪れる死が解放してくれるだろう、そんな心情を
表現したかのような絵は、残酷すぎるほど悲しくて。
でも、寝台で眠るフリーダの顔を見れば、ほほえみを浮かべて穏やかだ。

「死んだら焼いて。 もう寝るのはたくさん。 焼いて。」

そしてあの曲「バーン・イット・ブルー」。
嗚咽が咽喉をつきあげる。
音楽の効果によって、印象深いシーンとなり忘れられない映画となった。

セルバンテスのピアノ曲「さらばキューバ」が少しだけ使われた「苺と
チョコレート」も。
キェシロフスキ監督にすっかり騙されたブーデンマイヤー。
哀調をおびた旋律には永遠に騙されていたいと思った「デカローグ」や
「トリコロール 赤の愛」も。
私の心に計り知れないほどの深い相乗効果をもたらして、たまらなく好き
になった映画だ。


2004年04月27日(火) 花は落ちて

春眠不覚暁   
処処聞啼鳥   
夜來風雨声   
花落知多少
   ー孟浩然ー 

この漢詩といっしょに思い出したのは、ぷっくりと腫れた手の
指先で教科書の頁をめくりながら座席の間を歩き回る中学
時代の国語の教師のこと。
やけに大きすぎる背広を着ていることにも(親指がほとんどかく
れていた)気が散ってならなかった。

   
昨夜の強い風雨で、今がさかりの花水木とコデマリの花は
どれくらい散ってしまっただろうかと、窓を開けてみる。
西風にあおられた花びらは、東の庭で白い大小の水玉模様と
なっていた。

唸り声をあげて吹いてくる風、しなる幹、睫毛の上にハラ〜と
落ちてきて貼りついてしまったコデマリの花びらにおびえる
サーシャ。そうでもなさげ?

 

ゆきちゃんの陣地は、抜け毛も噛み砕いて散らばったテニス
ボールも、風が綺麗さっぱりお掃除サ。



2004年04月22日(木) 思い出してしまったじゃないの

「ワインは2万円以上のものじゃないとな」なんていう輩には近寄
りたくない。
ずっと昔、平然とそう言ってのける男がいた。
今でこそ、確かにそうかもしれない(うぅぅ...)とは思うものの当時
学生の分際でそれを言ったのだ。

男の父親は、私でも名前だけは訊いたことがある財界人で、母親
はお妾さんだった。
その男の家に遊びに行くと、盆暮れの時期には玄関の上り口から
廊下にいたるまで贈答品が積み上げられてあり、まっすぐ前を向い
て歩くとこができなかった。
蟹歩きで奥のリビングまで行くと、そこにも贈答品の山が室内の
ほとんどを占めているのにびっくりし、隣のダイニングに入って
みるとそこも同じ光景だったのであきれた。

その中にはワインだってあったのだろう。
贈る側は、受け取る側の名前に見合ったものにしないと、と考える
かもしれない。金額で競おうと思えば、天井知らずのお品物があの
中にあったって不思議ではない世界。
そんな環境で育ったために口がこえたとしても、彼のせいではない。
厭味なことを言うなと攻めるかわりに遠ざかることにしただけで、
あら、ふられたのでしょと言う声は無視。

今は父親も亡くなられ、普通のサラリーマンのあの男。
毎夜高級ワインを飲んでいられるのだろうか。
などという心配を何故せにゃならん。

あの言葉を耳にするたびに、「安ワインだって私が美味しいと感じた
ものを、私は好きなの」と、剥きになって言い返していたのを思い出
したのは、本日デパチカのワイン売り場でだった。
ああ嬉しい、私は迷わずにフリウリのイエルマンの白に手を伸ばす。
須賀敦子が愛してやまなかったトリエステがあり、ダヴィデの故郷で
もあったフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州。



今宵はワインに酔い、ライラックの香りにも酔って、昨日の雨に濡れ
た犬は雑巾のような臭いをふりまき、窓から見える三日月が綺麗で...
....後片付けなんかしないで、ソファーに身を横たえ、変わりゆく月の
様子をただただ眺めていたい。


「安ワイン道場」などというサイトを見つけてしまった。
門下生にしていただこうかしら。


2004年04月18日(日) いのち

数日前のニュースで、ちょうどイラクの人質事件の行方を見守って
いるさなかに、作家の鷺沢萠さんの訃報が伝えられた。

いつもメールを下さる方が、鷺沢萠さんのWeb上の日記を読んで
いらっしゃることを知ってから、私も更新されるのを楽しみにして
ちょこちょこと覗いていたのだが、ここのところ体調がすぐれないよう
な記述に、それはひつこいお風邪のようで.....辛そうだなと思って
いたところだった。

自死と知って、ほんとうに驚いた。
若くて知性に溢れ、そのうえ美しい方なのだから、どんな生き方だっ
てできただろうに.....と思うのは、心の深みにあって取り除けない
苦しみを知らない者が、言う言葉なのだろうか。
4月9日を最後にもう更新されることのない日記、静に冥福を祈ろう。




玄関脇の金木犀に、鳥の巣があるのを見つけた。
テニスボールがやっと収まるほどの可愛らしい巣だ。
すでに巣立った後なのか雛の姿はなく、そういえばどこからか
ピィピィ鳴き声が聴こえてきたことがあったけれど、まさか頻繁に
人が出入りするこんなところに巣があるなんて思わなかった。

今まで、我が家の樹木の中に見かけた鳩の巣のように
「こんな危なっかしい巣で子育てできるのかい?」と心配せずには
いられないような雑な作りではなく、これから生まれる卵と、雛が孵っ
てから巣立つまでを心に描いて、お父さん鳥とお母さん鳥が

「ここの枝が尖っていて危ないわ」
「ここに青いビニールの紐を編み込んだら、丈夫だし見栄えがいいかも」

などとピーピーさえずりながら作ったのかもしれないと思わせる
とても丁寧にできた巣だった。
なんの鳥だったのだろう?


2004年04月12日(月) 小栗旬お目当ての舞台のはずが

深夜あれから、マニュキアを乾かしながら佳境に入ってきた
「供述によるとペレイラは.....」を読んでしまったので
2時間程眠っただけで「JOKER」を観にドラマシティへ。

前回の日記に書いた「さんまが、さんまでないことを期待して」
なんてどだい無理な話で、もうさんまでなくて誰であろう〜 
さんまの為の、思いっきりさんまの舞台だった。
それがイヤだったはずじゃなかったの?
ところが、笑いすぎて座席から滑り落ちそうになったりして、
結構気分良くはまった舞台だった、と言ってしまう私はなんて
いい加減な女なの。

小栗旬君はどう言ったらいいのだろう、役柄以前に演技者として
の熱いものほとばしるものが感じられないのが、せっかくいい
舞台にめぐまれてきているのに惜しい気がするなぁ。

今夜の舞台を観に行っているたぷろうさんは、きっと全裸の
小栗君に大満足で帰宅あそばすだろうけど.......へへ〜〜

観劇後、日曜日のごった返している人ごみの波に乗って歩くと
いうことが出来ない私は、行き交う周囲の人たちの歩調を乱し
ながらヨタヨタとハービスプラザに辿り着くと、さっきの舞台の
浮かれ気分と人の群れからの開放感とが入り混じって気が大きく
なったのか、むしょうに無駄遣いがしたくなった。 
アン○・モリ○ーリで前から目をつけていたニットを、季節柄
今は必要ないのではと思いつつも買ってしまった。
帰りの電車の中で早くも後悔。







2004年04月11日(日) 葉桜にかわって

今年こそは京都で花見だ、勝持寺に行くぞぉと、思えば
辻邦生の「西行花伝」を読んでからずぅっと吠えているの
だから10年近くにもなるのか.....

未だに実現しないのは、桜の咲く時を選ぶかのように決ま
って体調をくずしてしまうからなのだが、今年はかえすが
えすも惜しいことをしたものだ。

体調は最悪だったけれど、前回の日記に書いたようにせっ
かく京都に行きながら、今が盛りと咲き誇る桜を見かけた
のは結局タクシーの中からだけだったのだから。



K美ちゃんからは、「有名所の桜はひと通り見ることができ
ました。京都まで来たカイがありました。。。。。」
さらに「この冬は人麻呂さんで逢いましょう」と訳のわから
ない方には謎めいているメールが届き、そこには私に逢えた
ことを喜ぶ言葉は一切なかったというのが、ちと釈然としな
かったのでありますが(笑)

「体調万全にととのえておくよ、ダンナにも人麻呂さんを見せ
ておあげ」と、これまた訳のわからない方には皆目解らない
だろう返信をして、K美ちゃんが年末に帰国して逢えるのを、
もう今から楽しみに待っているけなげな私。


その後K美ちゃんから、京都を経つ時に投函したらしい分厚い
お手紙が届いた。
嵩山堂はし本で買い求めたという和紙の便箋には、達筆で愛に
あふれたお言葉がつらつらとしたためられていて、不肖私「釈然
としない」なんて思った己が心を恥じたのであった。


これからひと眠りして(ただいま深夜2時19分、お風呂に入って
マニキュアもしなくちゃ)本日は、たぷろうさんに触発されて私
も気になってきた小栗旬の舞台を観に行くのだ。
共演者のさ○まは、どうにもこうにもイヤだけど、台本があるの
だから、役を演じるのだから、さ○まが、さ○までないことを期待
して。
まだ眩暈感が残っているけれど行ってしまおう。


「人麻呂さん」については、4月5日付けの日記を読んで
いただければ、あっ!そう!と思われるのではと。





2004年04月05日(月) K美との話は混乱するのだが。。。。。

カナダから帰国したばかりのK美ちゃんが、京都に桜を見に来ている
というので宿泊先のブライトンに逢いに行く。
鴨川べりの、かつては料亭旅館「鮒鶴」だったザ・リバー・オリエンタル
で食事をしようよ。鴨川のほとりをお花見しながら歩こうよ。と、言い出
した私なのだが、このところ体調すぐれず、今朝も京都に向かう近鉄
電車の中で微熱もでてきたようだったし、くらくら眩暈感もしてきたので
大幅に予定変更となったのだった。

京都に着くと悪寒もしてきた。
ホテルに辿り着くなりK美ちゃんのベッドにドタッと横になる。
K美ちゃんも横になっておしゃべりと相成る。
このだらしなさは学生時代とちっとも変らないね、などと言いながら。

お父様が東京銀行に勤めていた関係で、海外での生活のほうが長い
K美ちゃんが、結婚して現在住んでいるカナダの話をしていた時に突然
「ヒンガシノニーナに行ったことある?」と訊いてきた。
どこ?そこは?ロシアあたりの町なのかしら?と思っていたら、それは
場所ではなく歌なのだという。

「人麻呂さんが」とK美ちゃんは言うが、柿本人麻呂が奈良県の
大宇陀町というところで詠んだ歌なのだった。

   ひむかしの野にかぎろひのたつみえて
               かへりみすれば月かたぶきぬ

「ヒンガシノニーナ......」とは「ひむかしの野に......」のことだった。
それならば、「奈良県の大宇陀町に行ったことある?」とか
「柿本人麻呂が、ひむかしの.....と歌った場所、知ってる?」と、言って
ほしいものだ。
K美ちゃんは、かつてその地で見た幻想的な美しさが忘れられないの
だそうだ。

大宇陀町には行ったことがあるけれど、その場所は知らない。
「行こう行こう」というので何時よ?と訊くと、これには時というものが
大事であって、その時の判断を誤ってしまうと、ただの田舎の風景の中
に置き去りにされているだけになってしまうのだと、K美ちゃんは厳かに
言った。

冬の、霜柱ががっしりと立つような寒い寒い朝で、前の日から天気予報
をじっとうかがい、夜間から晴れわたり夜明けも間違いなく晴れるだろう
という時を選んで、それぇ!とその場に駆けつけるのだそうだ。

しばらく日の出の時を待っていると、今まさに日が昇るという瞬間に
山々の稜線が赤く燃えるようになり、夜明けとともに次第に空の色も変
っていく様子には目を奪われてしまう。
そしてふと西の空を振り返って見ると、月が静に沈んでいくところである
という。
「その神々しさには泣けてしまうのだから」と言ったK美ちゃんの眼は、
やけに力が入っていた。
私は、これは寝転がって訊く話ではないように思い起き上がってみたが、
またくらくらと眩暈がした。

人麻呂さんが感動して歌にまで詠み、K美ちゃんが泣けてしまうという
その情景を私も見たい。
夏だってまだ来ていないというのに、もうお正月前後の天候を気にして、
しっかり行く気になっている。

今日は、桜の下を散策できなかったけれど、K美ちゃんから倭を学んだ
のだと思ったら、とっても愉快になった。




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