きまぐれがき
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2003年06月23日(月) 新たな眠り....墓石の下で

体調を崩して寝込むことなどあるのだろうかと、頑強な身体が
羨ましかった義姉の思いがけない入院は、死への序奏だった。
入退院を繰り返し、その間の痛みや苦しみや不安は、あまりにも
若すぎる死によって解放された。

あの日から2年が過ぎたのだ。
梅雨の晴れ間となったこの間の土曜日、新しく建てた義姉の
墓石の前で僧侶に読経をしていただいた。

お坊さんは新入社員のような、初々しい若坊さま。
調子が外れないように懸命にお経を唱えている姿を斜め後ろから
見ると、頬から首筋にかけてなどまだ少年のようでもあった。

義姉の仮通夜の時にはこの僧侶ではなく、故人と家族ぐるみの
お付き合いがあった僧侶に、お経をあげていただいた。
こちらの中年僧侶は、うちに遊びに来たときなどヒソヒソと小さ
な声で世間話をしているうちは恥ずかしそうにしているのだが、
お酒がまわってくると「夫の警察官が帰宅した気配に、女の家の
窓から袈裟をかかえて飛び出して逃げた」話とかしだしたあげく、
不倫相手の女性の写真を車の中から探してきて、見せてくれたり
するのだ。

あちこちの旅行先での二人の写真は、なんとアルバムにまでして
ある。
「このナマグサ坊主が!」とグラスの水をひっかけたい衝動に
かられるものの、ついうっかり「あら、若くて綺麗なひと」など
と言ってしまうと、それで気が済むのかドアや壁にバタンバタン
とぶっかったり、つんのめったりしながら帰っていく。

そんなナマグサの読経を、私は初めて仮通夜の席で聴いたのだ。
それは深い悲しみから慰められるような、くぐもりのない清らかな
響きで「私が死んだときはヴェルディの「レクイエム」のCDを流して
くれればいいから」と思っている気分がゆらいでしまうぐらい感動
したのだった。

「聖職者の生き様...」なんていう言葉が、少しだけ胸をよぎりは
したけれど。


義姉は新しいすみかで、やすらかな眠りについただろうか。
花盛りの紫陽花、植えた人はもういない.....




2003年06月20日(金) ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』

『ある家族の会話』につづいてナタリア・ギンズブルグの『モンテ・
フェルモの丘の家』を読む。翻訳は須賀敦子。

モンテ・フェルモに建つ館マルゲリーテに関わりを持った人物
たちの書簡のみで、それぞれの人生を浮かび上がらせていく。
流れ行く時のなかで登場人物たちは何を考え、どのような日々を
歩んでいくのか?
求めるものを掴むことができたのか、失ったものは何なのか?
過ぎてしまったあの頃をどのような思いで眺めているのか?
読んでいる間中、よるべない流木の行方をはらはらしながらも、
ただ遠い岸の上で見つめていることしかできない夢を、みている
ようだった。

かつて恋人どうしだった一方の最後の手紙は「ぼくたちは、
あまりにもながいこと離れすぎていた。そのあいだに、きみにも
僕にも、あまりにもたくさんのことがおこった。」で締め括られて
いる。
この二人にかぎったことではない、別々の人生を歩みだした者たち
になら当てはまりそうな、人生とはそういうものだ的でさほど気に
止まる言葉でもないように思えるが、うつろな心となっているもの
にとっては、なんともいえないやり切れなさで胸に迫ってくる。


訳者のあとがきに、登場人物の一人アルベリーコはギンズブルグ
と親交のあった監督パゾリーニに捧げられたレクイエムにも似て
いるとあった。そうだとしたらあの無残な死にかたをしたパゾリーニ
を、他人のために犠牲となって命を落とした若者として蘇らせたのは
偉大な詩人にたいしての敬愛にほかならないだろう。

それにしてもマルゲリーテ館とコルシア書店が重なってしまうのは、
私だけではないはずだ。
さらにあとがきで「この訳本をイタリアと日本と、そして世界の、
《あの時代に若者だった》友人たちに捧げたい」とあるように、
須賀さん自身のコルシア書店の活動から、日本に帰国されるまでが
まさに《あの時代》でもあったのだから。






2003年06月18日(水) 新PC

ふらふら〜と入ったPCショップで買ってしまった。またノート。
あのPCは初期不良品だったのではないかと疑いを深めている。
あんなに都度々修理入院を繰り返していたら最期の日も近いに
違いない。まぁ夏のボーナスもそろそろだし〜




これが14日の土曜日のこと。
それからというもの、前のPCがオダブツになる前にと、データの
移動やなんやかやでほとんどPCの前で過ごす。
ところが、新PCで自分のHPのファイルを開くことができなくて、
とうとう助っ人Y子ちゃんに来てもらう。

Amazon仏に発注していたDVDのうち、私の分もちょうど
届いているからと、それを持って仕事帰りに寄ってくれた。
となれば、まずはなんてったってDVD鑑賞でしょう!

セロファンを破るのももどかしく、Y子ちゃん注文分でお待ちかね
だった『Cravate Club』を観てみる。コメディー。
なんなんだ〜 この役者。シャルル・ベルリング。
口をあまり開けずに台詞を言い、表情も変えないのが持ち味だと
ばかり思っていたのに、機関銃のようにしゃべくりまくって、
あろうことか大口開けて笑っているではないの。
二人でシャルルに黄色い声をあびせつづけて乱れる。

そして私の『La Vie Promise』『La Confusion des genres』と
「愛する者よ、列車に乗れ」のフランス版。
前記2作の日本での公開は望めそうにないのではないかしら?
怖いわ〜怖いわ〜新作ごとに年老いていくのだもの、
パスカル・グレゴリー。
二人は鎮まりかえって観る。

どうしても開かなかったファイルは、いとも簡単にY子ちゃんが
設定をし直してあっけなく解決したのだった。その時間2分。


2003年06月13日(金) PC不調

PCが不調。この半年でいったい何回目!? 
大枚はたいて修理をしたのはついこの間のことではなかったの。

電源を入れると勝手にスキャンが始まって、2時間かかって
やっと終了したと思ったら不良クラスタが見つかったので、
毎日スキャンを実行しろだって。
再セットアップをしてみろだって。

不良か〜 とうとうグレちゃったというわけね。

キッチンのガステーブルでは、冷蔵庫の残りもの野菜と解凍した
お肉のかたまりなどをぶち込んだポトフ風のスープがグツグッと音を
立て始めたところだったので、そばのテーブルにPCを移動させて
とりあえず大事なものだけWinの解説本を読みながらバックアップする
ことに。

ところがどうしてもアドレス帳だけがバックアップできない!
記録されているデータがとんでしまう。
何度やりなおしても、これだけがうまくいかない。

かれこれ3時間はPCと向かい合っているけど、そういえば、プツプツ
としぶきが外に飛び出して煮えたぎっていたスープはどうなった?と、
お鍋を覗いてみると、すっかり溶けてしまった野菜たちと繊維のような
細い糸状に姿を変えたお肉がドロドロとお鍋の底でこげつき始めていた。

ギャ!怯える!
こうなってしまった「肉」というのは、いつか読んだ猟奇殺人の
裁判記録を思い出させて怖い。

もうまったく二つのことを同時に出来たのは何歳ぐらいまでだった
だろう......と、PC不調からあちらこちらへとお話は飛び散りました。

アドレス帳については、メーカに問い合わせたところ、
「マイクロソフトに訊いてみてください」との回答だった...う〜ム。


遊んでいる場合ではないのに...


2003年06月08日(日) この花は.....ラーラ



ラーラが11年前に死んだ時、遺骨は動物霊園の墓所に納めたが、
ほんの少しだけ小さな小さな骨壷に入って、我が家に帰ってきた。
その骨壷はリビングの棚で、生前されていたように、ひつこく撫ぜ
られ頬を寄せられ、抱かれたりしながら、やっと土に還されたのは
2年後のことだった。
「もうちょっと.....もうちょっと.....」と離れがたくて、
時が過ぎてしまったのだ。

ずい分前にTVで、キダタロー(難波のモーツァルトとか言われて
いる作曲家)の可愛がっていたニワトリのピーコちゃん(だったかな?)
の骨壷が、キダ家の本箱に大事に並べられていたのを見たことがあった。

その時キダタローは「埋葬などしませんピーコちゃんはずっとここです」
いけませんか?あんたへんなこと訊くね〜と言わんばかりの不思議そうな
顔でインタビュアーに答えていた。
ニワトリが死んだ時には、夫妻で涙が枯れ果てるまで泣いたのだそうだ。
そのニワトリは、まだ夜が明けないうちから時を告げて啼きだすので、
ご近所からとっても憎まれていましたと、真面目な顔で口調はおだやかに
言ったので、キダタローの横でそれを訊いた関西の芸人が思わず吹き出
していた。

ラーラの骨壷は、どんな季節でも、まず1番に朝日があたって窓からも
よく眺められて、家の中の家族の声がきこえるあたりに埋めた。
そして、同じ場所に芍薬の苗も何本か植えてみた。

色は白とはんなりとしたピンク。今年も咲いてくれたんだね。




私は今だってあの犬を思い出すと、声をあげて泣くんだ。
1本道に立って、ずっと続く道の遠くを見ると、首に白い襟巻きを
巻いたかのような豊な毛を風になびかせて、耳をさげ一目散に
こちらに向かって走ってくる姿が見えるような気がしてならないのだよ。


2003年06月05日(木) 遠い朝の本たち

『遠い朝の本たち』の感想をUPしました。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/9392/list3.htm
あらとばなかった...コピペしてね。



ふきを煮てみました。
味付けは関東風濃い口醤油。



アスパラにセロリ、うど、ふきと繊維が歯の間に引っかかるような
ものが好き。


2003年05月30日(金) ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』

ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を読んでいると、
子供の頃のように「それから、それから.....」と気持ちがはやり、
頁を繰っていくのがこんなに楽しいものなのかと思えるほどだった。
もっともっと丁寧に味わいながら読めばよかったかな。

イタリアのファシズム政権下の不安な時代を乗り越えてきた
家族の記録。 著者であるこの家族の末娘ナタリアの目を通して、
折々の家族の会話から過ぎた日々をよび起すように描いた小説だ。

翻訳は須賀敦子。須賀さんそのもののようなこの文体に、
懐かしい人と逢ったような気がした。


だれかれかまわずバカよばわりして、気に入らない者には
なにかにつけて「あのロバが」と言い放ち、マナーにうるさく
厳格なユダヤ系イタリア人で反ファシストの父親。
プルーストが大好きで「オデットは素敵だわ」とうっとりし、
子供達が幼い頃は、お金がないと愚痴をこぼしながらも
いいお洋服が欲しいとため息をついていた優しい母親。

この両親の子供たち5人が、成長するにつれてそれぞれ反ファシスト
運動と関わりをもつことになり、当初は満更でもなさそうな顔をして
いた父親も、だんだん母親ともども心配ごとが尽きなくなる。
なかでもナタリアのユダヤ人の夫は逮捕と釈放を繰りかえして、
やがて一家で流刑地に送られ、そのあげく夫はドイツ軍によって
拷問のすえ獄死するという不幸にみまわれるのだが、そんな過酷な
体験もナタリアは怒りを表面に表さず、淡々と綴っていくのだ。

この時代に、北イタリアに住む中流のインテリユダヤ系家族の生活と
いえば、ジョルジオ・バッサーニの小説を映画化した『フェラーラ物語(
原作「金縁眼鏡」)』と『悲しみの青春(原作「フィンツィ・コンテイーニ
家の庭」』の2作品のなかで描かれていたバッサーニ自身を投影したか
のようなユダヤの青年の家庭が、まず思い浮かんだけれど、父親が
ユダヤ系で医学部の教授だったナタリアの家も、子供が多かった以外
は同じような様子だったのかもしれないと思う。

そういえばこの映画の中に、ボローニャの大学に通う青年が
「ユダヤ人の教授は追放された」と言うと、父親は「イタリアは
昔から新ユダヤだ。良識が勝つと信じているよ」と答える場面が
あった。
『ある家族の会話』にも、ナタリアいっ家の流刑地での
エピソードで、政府に対して楽観的とも思えるものがあったが、
ファシズム・ナチス政権下であってもユダヤ人の意識は、さほど
危機迫るものではなかったのか?と、イタリアの政治的な背景を
解っていない自分がもどかしかったりもした。

ヴェルレーヌの詩『枯葉』の作曲者、モディリアーニの娘、
オリベッティ社などとの繋がりに、あぁそうなんだと新しい発見の
ような興味深いところも数々あった。

やがて新しい時代を迎えても、年老いた母親の歌うようなさえずる
ようなおしゃべりと、これまた同じように年老いた父親の相も変らぬ
いつものぼやきが、昔のように続いていく......。
なんて軽快で清々しく、愛に満ちているのだろう。

「小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う」と
須賀敦子全集のイタリア文学論にあったが、須賀さんがめざして
いたものはこれだったのだと、今更のように思う。

『トリエステの坂道』や『コルシア書店の仲間たち』で描かれている
『ある家族の会話』を手にしたときに須賀さんが感じた衝撃を、
もう一度読んでみる。
ミラノでのあの時、夫のペッピーノによって渡された1冊の本。
「好きな作家の文体を自分にもっとも近いところに引きよせておいて
から、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる...
このうえない発見だった」
しがみつくようにして読んでいる姿を見て、夫は笑いながら「わかって
たよ、これはきみの本だって思った」
須賀敦子とナタリア・ギンズブルグが出合った、忘れることのできない
場面だ。

さらに友人から、ある時代のイタリアの歴史が、これほど、さりげなく
、語られたことはないだろう「きみは、どう思う」と問われた時には
「自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。
...小説ぶらないままで、虚構化されている...これは、自分が書きた
かった小説だ、と思った」こうして須賀さんにとって『ある家族の
会話』は、いつかご自分が書く時への指標となったのだ。


「取りあえず買って手元に置いてみたら? 
そしたらちょっとずつ読んだりして。ホントちょっとずつでもいい、
ゆるしてくれちゃう物語なの」と、この本を私に薦めてくれた
Mちゃんは「あ〜 終わってしまう」のが惜しくって、もう少しで
終わるというところでページを先に繰ることができないでいるのだよね。
私、今度は、同じ作家の『モンテ・フェルモの丘の家』を読むからね。
訳はもちろん須賀敦子です。




2003年05月23日(金) 隣の席から

夕方の電車は学生でいっぱい。
なんだか懐かしい、埃と汗の入り混じった臭いが充満していた
部活の部屋を思い出しながら、座席でぼんやりと本の頁を
繰っていると、どうも隣の席からの視線を感じてしかたがない。

頭を動かさずそっと横目で見てみる。
さっきまで、私の肩にほとんど頭をもたせ掛けるようにして居眠り
をしていた女子高生が、すっかり目覚めたらしい。
もう私の肩に頭は乗っていないが、こちらの手元の本をひかえめに...
どころか、堂々と見ている。

「いいおばさんが、若い子の本なんか見て〜」と思っているのだ。

この本は、友人と待ち合わせの時間よりも早く目的地に着いて
しまった為、通りかかった本屋で時間つぶしに買ったばかりだ。
同じシリーズの本を持っていたので、小ぶりでカラフルな装訂が
すぐ目に入り、内容をよく見もしないで買ったのだ。

パリに住むクリエーターたちのアイデァが一杯詰まっているアトリエ
の写真が満載で、出来上がった作品を見るよりも仕事場を覗くのが
好きな私には、見ているだけで楽しくなるうってつけの本だった。

女子高生の見やすいように、本の向きをちょっとずらせてあげる。
それにしても、この本のどこがそんなに気になるのだろう。
一心に見入っている様子が伝わってくる。

どうしよう、私は次の駅で降りなければならないの......
「続きが見たかったら本屋さんで探してみてね....」の言葉にかえて、
思いきって頁を閉じ、表紙のタイトルを読めるようにしてあげる。

すると女子高生は、本から目を離したのか、私に寄りかかっていた
身体の重心をたてなおしたので、私の身体はいっきに軽くなり
涼しくなった。

ホームを歩きながら、通り過ぎて行く電車のさっきの座席を見ると、
あの女子高生は前かがみになって頭をガクンと下げ、もう眠りこけていた。





2003年05月17日(土) クレマチス・モンタナ.....エニシダ......

ある朝、庭に出ておもわず歓声をあげてしまった。
クレマチス・モンタナが一斉に花開いたのだ。

  


数年前に、この苗木を見た時は20cmほどの高さしかなく、弱々しく
儚げで枯れ木のような姿をしていた。
これが、建物の外壁を覆い尽くすように一面に咲くクレマチスなの
だろうか、テラスの柱に絡んでくれるのだろうかと、少々疑わしい
気持ちで植えたのだった。

ところが5月になると、清楚で凛とした花をつけ、ツルは優雅に
どこまでも伸びていく。
さらに嬉しいことは、クレマチスに絡み合うように、だけど遠慮しがち
に咲いているジャスミンの小さな白い花が、甘い香りを放っているのだ。

まだ冷たい夜風にあたりながら帰宅して、この傍を通ると、室内から
もれるわずかな明かりに照らされ幻のように浮かびあがる白い花たち
と香りが私を迎えてくれる。

あり合せの針金を頼りなげに張っただけなのに、けなげに絡みついて
美しい花を咲かせてくれてありがと〜と、手をたたいてほめ讃えたい。



数本植えたうち、かろうじて1本だけが美しい花を咲かせたエニシダ。



須賀敦子のエッセイで、E.M.フォスターの原作をJ.アイヴォリーが監督
した『眺めのいい部屋』について少しだけ触れているのを読んでいたら、
こんな個所があった。

『小径の両側からおおいかぶさるように咲きこぼれる黄金のエニシダ』。
あれ?そうだったかしら?

主人公たちがトスカーナ地方の広々とした丘へピクニックに出かける
場面で、確かキリ・テ・カナワの歌声が流れていたなと、それだけしか
思い出せない。ビデオを早送りして見てみる。
ところがだいぶ画質が悪くなってしまった手持ちのビデオでは、
はっきりと確認することができなかった。

あ〜それにしても、丘を黄金色に染めるエニシダだなんて、
どんなに美しいことだろう。



2003年05月10日(土) 毛糸のベビー靴下



Dから『うちに遊びに来ない?』と誘われて、初めてDの住む
マンションを訪ねたのは何時だっただろうか。
離婚してパリから日本に戻って来たDは、「なんとかやって
いけそう」な仕事が見つかったと、べつに嬉しそうな様子でも
なく言っていた頃だった。

独身の頃には、華やかな業界に身をおいていたこともあった
けれど、「今は自分一人が食べていければそれでいいから」と、
ある大使館に職をみつけたのだった。

駅からちょっと遠いいし、方向音痴のあなたが家に辿り着く
はずがないと思ったからと、改札口まで迎えに来てくれていた。

奥沢の静かな住宅街を歩いていると、どこからともなく甘い香り
が漂ってきた。
「くちなしね」「くちなしの花は八重よりも一重が好き」などと
言いながら、子供のように二人で鼻をクンクンさせた。

幾つかの角を曲がると、「もうすぐよ」と言ってDは小脇に
抱えていた小さなバッグから、白い毛糸で編んだベビー靴下を
取り出した。手のひらよりも小さい靴下だった。
茶巾絞りのように足首を結ぶ紐の先端には、同じ毛糸で作った
ボンボンがついている。
きっとDが不器用な手先で、生まれた娘にと編んだ靴下なのだろう。

あれ?と思うまもなくDはサッとベビー靴下の蝶々結びの紐を
ほどき、中から部屋の鍵を取り出した。

私は、胸が絞めつけられるような思いでいっぱいになりながら、
Dが右手で形を整えるように、そっと撫ぜているその靴下を
じっと見た。
離婚するにあたって、まだよちよち歩きの一人娘は前夫の元に
残してきたのだ。
二人が決断を下すまでにどのような事情があったのかは、
知る由もないが、このことはDにとってかなりの痛手になって
いるはずだと察していた。

「私のアイディアではないの。なにかの本で見た気がする。
あぁこういう使い方もあるんだなって」

そう言ったDが、再びパリを訪ねることなく娘にも逢うことなく
亡くなったのは、翌年の同じ季節のことだった。



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