ほうじ茶飲話【JOYWOW】
2005年10月04日(火)
諦めの満足
先日、友人と名の通ったホテル上層階にあるラウンジでお茶をした。宿泊料も高いし、立地もいい。その地域では最高ランクであることに間違いない。
混んでいるわけではないが、席に案内されるまで5分ほど待たされ、入り口が見渡せるソファーに座っていた。
あまり外見に気を配っていないサービスの女性が、私物の赤いバッグをぶらぶらさせ、入り口受付に立つ同僚と私語を交わしながら行ったり来たりしている。マネージャーらしき男性は、それを気にも留めていない。
所詮、この程度のラウンジでありホテルなわけかと値踏みする。
お茶は普通においしかったし、展望はすばらしかった。 まあ、いいか、と自分に言い聞かせる。 でも、景色に救われるサービスはけっこう悲しい。
2005年10月02日(日)
ところかまわず
昼過ぎ、適当に混んでいる上り電車内のシートに座り、 残りあと25Pほどになった文庫本『椿課長の7日間/浅田次郎著』を読み始めた。泣かせの佳境部分であることはわかっていたが、本を閉じられなかった。
うるっときた。左人差し指でなんとなくぬぐう。 五行読み進めてぽろっと決壊した。そのままぽろぽろと続いてしまったのだが、時すでに遅し。目は矢継ぎ早に文章を追い、我慢できずにタオルを取り出す。鼻にきた。涙どころか鼻水まですすりながら読む。隣のおばちゃんが不思議そうに見ている。だが、止まらない、やめられない!一気にいくしかない。
電車を降りる時にはタオルを握り締めていた。 ああ、なんてヤツだよ、アタシは。いくら涙もろいといったって、日曜の晴れた昼間の明るい電車の中で、タオルで鼻と涙をぬぐいながら本読んでるって恥ずかしいじゃないかっ!!まったくもうっ!と、自分を叱責しながら改札に向かった。
でも、いい本だった。ほろっときたい方におすすめ。 くれぐれも佳境部分は電車内で読まないよう。
2005年10月01日(土)
神無月
時折、脳裏に年末年始という単語が掠る時期。 夏の名残が随所にあっても、来月に入ればクリーニング店の預かりになっていた冬の衣料が配達されてくる。こんな日常が、日々の連続に季節感と安心をもたらすのだろう。
バリでまたテロがあったという。 平和な日本と日本人。 どんな状況も維持するためには相応の努力が必要だ。 このあたりまえがあたりまえのまま存続することを心から祈る。
2005年09月30日(金)
一瞬で本質を見分ける感性
プロ麻雀士である桜井章一さん曰く。 感性を鋭くさせていくと、意思が強くなってくる。その結果、約束を守るとか、仲間を大事にするとか、そういうあたりまえのことがあたりまえに理解できるようになる。感性さえ研ぎ澄ませてやれば、自然にあふれるように愛は出てくるのだという。
そうか、そうだよね。感性か。 この桜井さんの文章は体で理解が出来る。 が、まだ自分の言葉に置き換えられない。
何かを人に伝えるには、その事柄を噛み砕いて自分の体に落とし込み、自分というフィルターを通した言葉にする作業が必要になってくる。伝言するならそのままでいい。そうでないなら、読んだまま、聞いたままを伝えても意図はこれっぽっちも伝わらないことが多いからだ。
一瞬で本質を見分ける感性の大事さ。 これを自分の言葉に出来るのは、いつだろう。
2005年09月28日(水)
歩き方教室
男性の立ち居振る舞いは知性の現れ。 ・・・というのはヨーロッパで言われていること。 はて日本では?と思っていたら、男性のウォーキング教室が出来て繁盛しているらしい。好感のもてる歩き方、名を呼ばれて振り返る所作、背中の伸ばし方etc.
確かに、男女の区別なく颯爽と美しく歩いている人はそれだけで素敵だと思える。自分の歩き方に癖があるかどうかは、愛用している靴の踵の減り具合でチェックするとわかりやすい。なにはともあれ、自分の歩く姿を見てみないことには現実認識が出来ない。が、姿見に向かって歩く我が姿を鏡に見るという行動を考えると気が遠くなりそうなのだ(こういうところ、とても日本人な自分を認識している)。
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