株式会社JOYWOW
ほうじ茶飲話【JOYWOW】
ほうじ茶飲話 INDEXPASTwill

2003年10月25日(土)


ここのところ

なかなか更新できずにすみません。
今日明日中には、ペースを戻すように頑張ります。
・・・っていうか、更新できていた日々って、
暇だったのかしら(笑)?

 

2003年10月23日(木)
楽しさと苦さと

9月25日付茶飲話に登場した西方からおでましの彼女と、
都内在住の元同僚達数人で集まることとなった。
この顔ぶれは、いったい何年ぶりだ?というくらい
回顧的宴会模様だったが、外見はさほどかわらず
おもしろいほどみな昔のままなのだ。

楽しい宴会だった。確かに楽しかったのだけれど、
飲むにつれ話すにつれ、それぞれの脳裏に
忘却の彼方に追いやっていた出来事や人の名前が
甦ってくる。昔馴染みに会う時特有の奇妙な感覚。
久しぶりに会えて楽しくて仕方がないというのに、
出来るなら忘れたままでおきたかった思い出が
ざざ〜〜ん、ざざ〜ん・・・・と、姿を見せ始める。
それがわかっているから、たまにしか会わないのかもね。
楽しさと嬉しさに、ちょっとだけ苦さをトッピングした
大人ならではのひと時だった。

* * *
酒宴の場所は、恵比寿、フカヒレで有名な筑紫楼本店。
本当にてんこもりなフカヒレのスープが美味。
もうひとつ美味で有名な杏仁豆腐を食べたかったのだけれど
この日、別腹の空きがなく到達できず。無念。

 

2003年10月21日(火)
心地よさつれづれ

友人が親孝行のために箱根強羅花壇に宿泊したという。
箱根の中でも超高級といわれる旅館で、一人一泊二食付
7万円前後。サービスもぬかりなく、懐石料理もいい味だし
文句をつけるところもない。さすがに辣腕女将の宿だけある。
ここまで話して、ふっとため息をつき、あとを続けた。
「ただね、くつろげなかったのよ。父に宿の感想を聞いたら
『別に』っていうし、確かに高級な気分にはさせてもらったし
外国のお客様を接待するにはいいわよ。でも、もう一度
行きたいとは思わなかったのよね。・・・なんなのかしら?」

それで思い出したのだが、7-8年前にサンディエゴの
ラ・バレンシアホテルに5日間ほど滞在した時のこと。
気持ちよいサービスを提供する素敵なリゾートホテルなのだが、
チェックインからチェックアウトまで、なんとも落ち着かない
気分のままだった。あの気分を言葉にするなら、
     「ホテルに私が合わない」のだ。
今行くのであれば、こう感じることはまずないはずだ。
格か、サービスか、シチュエーションなのか。
NYでサバイバルする私、その私を取り巻く環境の全てが
あいまって、あの時の私にそう感じさせていたのだろう。
個人の世代に加えて、時々に変化する生活スタイルや質、
求めるものによって、感じる心地よさが違う。

今現在、私の友人が求める「温泉旅館での癒し」は、
強羅花壇にはなかったということになる。
もしかしたらそんな彼女も、20年後には強羅花壇に心地よさ
を見出す時が来るのかもしれないけれど。

 

2003年10月20日(月)
三つ子の魂百まで 

大阪と横浜で通った幼稚園時代のことは、ほとんど記憶にない。
が、強烈なインパクトすぎて忘れられない事件がふたつある。
今日はその大阪編について。

大阪時代、親の計らいでオルガン教室に通っていた。
ある日のこと、つきそいの母が私の上履きを持参することを
忘れた。仕方がないので、親に言われるまま大人用のスリッパ
を履いた。その日は、お教室で一列に整列させられ、両手で
前の子の肩につかまるように指示された。
先生が「今から先生がぶんぶんぶんを弾きますから、その
リズムに合わせて飛び跳ねてみましょう」という。
小さな私の心臓はばくばくしていた。大人用スリッパじゃ
歩くことさえ上手に出来ない。どうしたらいいんだろう?
と、思うまもなくオルガンが鳴り響き、飛び跳ねたが
着地すると脱げそうになるスリッパが邪魔になり半拍遅れる。
付き添いの親たちから合わせられない私に苦笑が漏れるし、
母に目で訴えて助けを求めたが、時、既に遅し。。。
その曲が終わるや否や、母は私の手をぐいっと引っ張り
お教室を途中退場するではないか。あわれかわいそうな私は
その教室に二度と通うことはなく、母から「音痴」という
レッテルを生涯貼られることとなった。笑。

この母の思い込みが理由で、幼少時から人前でパフォーマンス
することを極端に避ける傾向がある。幼馴染にも確認したところ、
「うん、Yukariは確かに目立つのを嫌っていたよ。でもさ、
目立とうとしなくても十分目立ってたんだよね(笑)」と。
微妙に複雑な心境である。

 

2003年10月19日(日)
日本人であること

土曜の夕刊で、フィリピン人の母と日本人の父を持つ
無国籍児童ふたりに、日本国籍を与える判決がおりたという
記事を読んだ。日本にも、その数が知れないほど多くの
無国籍児童がいるという。就学・保険診療・免許・結婚・
渡航・就職・結婚、なにひとつ選択することができない。
あたりまえすぎて意識をすることもないと思うが、
私たちは生れ落ちた時から、国と社会制度から与えられる
多くの保証によって守られているのだ。その保証が何もない
人生をイメージすることができるだろうか。

NYにいた間に三度ビザ(査証)を書き換えた。その都度に大枚
US$を払って敏腕弁護士を雇い、書類を作成し、日本にある
アメリカ領事館に出向いて判決を待つ。書類に不備が皆無で
人物像に何の問題もなくても、ビザがおりるかどうかは運と
担当官の気分次第。生活のすべてはNYにあるし、ダメだし
されたらどうしようかと、比喩でなく真剣に、毎回断崖絶壁の
綱渡りをしているような気分だった。そんな不安定な立場の
在留邦人である私の最後のよりどころは「日本人である」こと
だった。

米国には許可を頂いて住まわせてもらっている状態だけれど
日本に帰ったら、私だって立派なもんなんだから!と、
思うことが何度もあった。普段からそんなことばかり考えて
いるわけではないのだが、在留の身ゆえに、もらえないが
払わなければならない労災や失業保険、査証問題に直面する
時々に自分を慰めるために必要な意識だった。

日本の法律は、米国なんて目ではないほど外国人に厳しい。
その中で今回ようやく、日本国籍を手に入れた子供たち。
彼らが大人になった時、「日本人である」ことを心の糧に
できるのかだろうか。生れ落ちてからずっと日本人の私には
想像すら難しい。

 

Yukari |株式会社JOYWOW