紫
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ちょっと、気持ちをぶつけてみようかな。
そう思い、少しずつ語り始めました。
この人なら、何か答えを出してくれるかも。
そして、静かに聴いてくれました。
私が言葉につまると、私の言いたいことを、わかりやすくまとめてくれました。
やっぱり。
この人は、どこか私と似た感覚を持っている。
少し前から、ときどき感じることはあったけれど、きょうは実感しました。
性格が似ているわけではありません。
そのときに起こっている事象を受け止める心の場所が、きっと同じ深さのところにあるのでしょう。
そして、私よりもっともっと広大な心を持っている。
お互いに、いろんな話をしました。
5年前の話や、4カ月前の話。
気にかかる一家の話。
そこに集まる仲間たちの話。
時間が経つのも忘れながら、泣いて、大笑いして。
きょうの夜、私のなかでくすぶっていたものが、すぅーーっと消えていきました。
どうも、ありがとう。
ありがとう。
疲れちゃったよ〜。
おやすみ。
「子犬の里親を探しているねん」
先週、友が言いました。
猫派の私は「ふぅん」とだけ返事。
会話がはずまないまま、駅で別れました。
その後。
偶然、ほかの友とその父と会いました。
「子犬を飼おうと思っている」
去年、かわいがっていた犬を交通事故で亡くした一家。
同じ種類の犬を……と言っていましたが、さっき聞いたばかりの里親探しの話を、ちらっと言ってみました。
そのときは、あまり気乗りがしなかったみたいで、その話はそこで終わってしまいました。
点と点は、うまく結びつかないもんだな。
そんなことを考えながら、すっかり犬のことなんて忘れていたのですが、先日から、点が線になりかけています。
縁って、不思議。
おやすみ。
あの年と同じ、暑い1日になりました。
痛いくらいに照りつける日差しに、心がきゅうっとうなります。
ちょっと早く起きて、ほんの少しだけ掃除。
「きょう」の準備をするのは今年で5回目になります。
去年までは、遠くからやってくる友といっしょに、朝から買い出しに行ったり、写真をプリントしたり、友を迎えに行ったり、ちょっと温泉に行ったり……と、まるでいつも何かをしていないと、きょう1日が過ごせないかのように、用事をどんどん作り、あーだこーだと友と相談しながら準備を進めていました。
でも、今年は私に予定があり、準備ができません。
なんだか、いつもと、違う夏。
それでも、できるだけ早く帰り、夕方の準備には間に合いました。
よかった。
暑い暑い夏の1日。
しかも、平日にもかかわらず。
たくさんの仲間が「彼」を慕って集まりました。
きょうは「彼」の命日です。
「おーー、久しぶり!」
「いま、何やってんの?」
仲間同士のそんな会話が繰り広げられるなか、親戚の法事に訪れたようなどこか心地のいい感覚にとらわれました。
今年、初めてバイクで北海道を旅した夫妻が言いました。
「あいつが語っていた景色が、そのまま、そこにあった」
このひとことで、どれだけ多くの旅人が、北の大地に思いを馳せたことでしょう。
彼が熱く語ったあの景色が、あの風が、静かに呼び起こされ、そして感覚として残っていきます。
生きて、いるんだな。
彼は、人の心のなかで、じっとなんかしていないんだ。
あちこちを旅して、そして出会った人たちに語りかけているんだ。
暑い夏の始まりです。
さぁ、旅に、出よう。
おやすみ。
予約、しました。
おやすみ。
そういえば、先日、飲み会がありました。
久々、といえば、久々。
例によって例のごとく2件目の店ではぐーすかとお休みモードでした。
もう言わずと知れたこと。
ただ、いつもと違ったのは、2件目の店は、なんと「立ち飲み屋」だったのです。
もう、寝にくいこと!
それでも、ぐーぐーと寝ていたらしい私は、なんとつわものでしょう。
ということで、次回はきちんとイスのある場所で飲みましょう。
だって、寝不足になるんだもん。
おやすみ。
久々に、近所の温泉でのんびり。
あ〜、気持ちよかった。
おやすみ。
脳梗塞で、ずっと寝たきりの人。
食事も鼻からチューブでとっています。
排泄も、尿はチューブで、そして便はおむつです。
意識もほとんどありません。
この人の、生きがい、ってなんだと思いますか?
生かされているだけだと、思いますか?
私は、つい最近まで、生かされているだけだと思っていました。
でも、その人の表情がとあることでほんの少し変わることを見つけたのです。
生きていたいんだな、って思った瞬間です。
そう。
生を自分から断ち切るのは簡単だけど、生きるのは、どうも難しい。
その人に「ありがとう」という言葉を繰り返して、お別れしました。
もう、二度と会うことはないでしょう。
それでも、生きる気力を見せてくれて、ありがとう。
生きるすばらしさを教えてくれて、ありがとう。
脳梗塞で、寝たきり。
意識もほとんどないけれど、ときどき目を覚ましている様子。
私が知るかぎり、とても無表情で、いやなことをされたときだけ、顔をしかめっつら。
そんなしかめっつらしか表現ができないことに、一種の「哀れみ」を感じていました。
個人的には、かわいそうって思う心って、なんだか「上から目線」のようで、キライなのですが、それでも「かわいそう」としか感じることができないことが、とても悲しかったのでした。
この人の生きがいってなんだろう。
もしかしたら、生かされているだけなのかも。
そんなふうに思い出したころ。
とあるひとりの看護師さんがやってきました。
その人を昔からよく知る人。
ふと、その人の表情が変わりました。
なんだか笑っている様子。
一生懸命に、意思を表現している様子。
「お孫さんがいてね。毎週、遠くからお見舞いに来てくれるんだよ」
泣いちゃいけない、と思いながらも、やはりこぼれ落ちる涙の数に自分の弱さを重ね合わせて。
でも、こうして、笑える表情を作り出すことのできるその人に、その人の生きがいを感じながら。
生きがいをなくした人に、生きがいを感じてもらえるような医療があるんだ、って。
それは、医療の力ではなくて、「人」としての力なんだって。
いのちの現場は、私にとても大事なことを教えてくれます。
生きとし生けるものに。
生きていたくなくても、生かされているものに。
おやすみ。
もうすぐ、おわり。
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