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2007年06月27日(水) |
変えなきゃいけないもの |
夕方になって、ふいに「食事」に誘われました。
きょうは水曜日。
母といっしょに夕飯を食べる日です。
でも、そのふいに誘われるほうがかなり、ホントにかなり珍しくて、誘われるがまま、食事に行くことにしました。
母に電話をしました。
「きょう、外で食べる」
「……。あ、そう……。待ってたけど、もう食べるね」
「………。」
とてつもなく「申し訳ない」気持ちになりながらも、「私には私の『時間』がある」と自分に言い訳をし、十年ほど前によく聴いていた「スチャダラパー」のある1曲を思い出しながら、「私も、私の生活を変えないと」と思い直しました。
自由はいつまでも、続かない。
自分ひとりで、生きているわけじゃないんですから。
おやすみ。
4月から始まって、ちょっとしんどかった「仕事」が、きょう、終わりました。
終末期の医療について。
話を聴くにつれ、命の消え入る瞬間をどうしても思い出してしまい、毎回、涙をごまかすのに必死だったけれど、でも、あのときの医療者側の態度や行動への意味づけができるようになりました。
「最後に体をきれいにしたいので、外に出て待っていてください」
父が息を引き取り、私が死亡の確認をし、それから10分もしない間に病室の外に出されました。
「いっしょに病室の中にいて、見ていていいですか」と喉まで出掛かっていましたが、言えませんでした。
母が心配だったし、私にはやることが山積だったから、というのは表向きの理由で、ホントは父の体に何をされるかを知るのが怖かったから。
そのまま、外に出て市役所と葬儀屋さんと告別式の打ち合わせ。
母はベンチのすみっこでで小さく、とても小さくなっていました。
終末期の講義のなかにあった「死後の処置」。
最後に講師の先生が言いました。
「世の中にあまたの職業はあるけれど、死んだ人の身体に触れる職業は限られています。だからこそ、心をこめて最後のケアをしなければいけません」
ビデオで見た死後の処置に、あのとき、中に入らなくてよかった、と思いながら、処置をしてくれたナースの顔を思い出したいのですが、思い出せません。
ただ、私がずっと腹立たしく思っていた医療者のあのときの行動は「最善」だったのかもしれないな、と思えるようになりました。
心がこもっていたかどうかは、別として。
いつか、遺族でもカルテ開示に応じてくれるようになったら、真っ先に請求したいと思います。
父にされた最後の治療を、知っておきたいのです。
おやすみ。
2〜3日ほど前から、携帯メールにいきなり「迷惑メール」が届くようになりました。
出会い系サイトです。
以前、登録していたネットスケジューラーを使用するときに使っていたハンドルネーム宛てに届くので、その会社からアドレスなどの個人情報が流出したとしか考えられません。
とにかく。
夜中をのぞいて、1日に100通ほど届きます。
ほぼ2分置き。
インターネットで対策法を調べると、「そのアドレスからの迷惑メールは、アドレスを変更するしか手段はない」と書かれています。
たしかに、そろそろアドレス変更しようかな、と思っていたところ。
ということで、きのうから新しいアドレスを検討中です。
なかなかいいのが思いつきません。
ま、そのうち、いいのが思いつくのでしょう。
それまでしばらく、我慢、します。
おやすみ。
あ〜、あしたがやってくる。
どうしようどうしようっ!
カー・オーディオを買いました。
純正で装備されていたものはテープとラジオしか聴けません。
しばらく長い旅に出ることはないので、このままでもいいかな、と思っていたのですが、やっぱりCDが聴けないのは、ほんのちょっと寂しい。
夕方、久々に時間ができたので、帰宅途中にオートバックスへ寄り道。
できるかぎりシンプルで安いやつ……と思っていましたが、展示品はどうもピンときません。
予算も合いません。
もすこし今のでガマンしよう……と帰りかけたところ、オーディオコーナーの端っこにちらりと気になるポップが……。
「限定5台! 8000円」
その40分後。
私の車に新しいオーディオが装着されていました。
自分のためのお買い物。
最近、疲れていたココロもちょっと元気になったかな。
って、単純なワタシ。
さ、まだまだがんばるぞ。
おやすみ。
きょうは「夏至(げし)」でした。
1年中でいちばん昼が長い日。
なんか夏もまだ来ていないのに、フシギな感じ。
でも、1日を通しても正午より昼下がりのほうが暑いので、夏至を過ぎた8月が暑くてもフシギではないのかな……、と子どものころからのこじつけの疑問を、必ずといっていいほど毎年の夏至の時期に思い出します。
かといって、調べたことはありません。
子どものころの無邪気な疑問は、そのまま残しておこうと思います。
最近は、行動の「根拠」を問われることが多くなりました。
「なぜそう思うのか」
「どうしてそうなったのか」
「では、どうすればいいのか」
たとえば「そのコップをなぜそこに置いたのか?」
漠然と心の中で思っていても、それを言葉にすることはとても難しく、聞かれるたびにどぎまぎしてしまいます。
意味のない行動をよくする私としては、いちばんニガテとする作業です。
「すべてに意味がある」
無意識のなかでの意識。
無意味と思っていることにも、意味がある。
こんな私の行動ひとつひとつにも、意味があるのでしょうか。
以上、いつものとおり意味のないまとまりがつかない日記でした。
はぁ〜〜。
おやすみ。
忙しい日々。
心身ともにくったくた。
だけど、がんばるっ(>_<)
暴走族って、何が楽しいんだろ。
って思うくらい、
タバコを吸う人って、何がうれしいんだろ。
って思います。
精神安定剤なら、他人だけでなく友人・知人にも迷惑のかからないものにしてくれ。
と言いながら、私も飲酒をやめられるのか?って言われれば、辞められません。
でも、ひとりではまったく飲みませんが。
ひとりじゃない夜が多すぎるのが難なのか?
さっさと、寝よ。
おやすみ。
「死ぬのが怖くない人、いますか?」
終末期の講演会で、講師が会場に問いかけました。
つい3カ月ほど前の私なら「怖くない」と手を挙げていたことでしょう。
でも、今は挙げられません。
私のうしろの席の人が、手を挙げました。
「もし、死んでも亡くなった父と祖母が迎えてくれると思います。だから死ぬのは怖くありません」
そう。
そうなんです。
自分が死ぬのは、怖くないんです。
ただ、そのとき考えたのは。
私が手を挙げられなかったのは。
もし、私がいなくなって、その後、遺された人に「悲しみ」を残すのが、とてもとても、怖いのです。
だって、私はいないのだから、その人の悲しみを慰めることができないのですから。
私は、私を知る人たちに多かれ少なかれ悲しみを与えないために「生きなきゃ」と思います。
今は、毎日、悲しみに明け暮れる母のために。
そして、そんな母を見ながら、何の手のほどこしようもない父のために。
今日は、父の3回目の月命日です。
月日って、ホントはゆっくりと経つんですね。
おやすみ。
当時。
私の長い長い入院生活を支えてくれたのは、そばにいる友人や親戚、そして遠くに住む家族の存在が大きかったのは確かですが、ホントに私の「世話」をしてくれた「付き添い」さんだったんじゃないかな、と今、思います。
北海道の北見出身で、中学校のときにブラジルに家族で移住したソノキさん。
ブラジルで同じ移民の日本人と結婚して、それから数十年後に、なぜか日本で病院の「付き添い婦」として「出稼ぎ」に来ていました。
もちろん、日本語はぺらぺら。
というよりも、ブラジル語はほとんど話せません。
40年住んでいても、ブラジル人と接する機会はほとんどなく、日本人社会の中だけで育ったそうです。
入院のストレスが積もって、ソノキさんに冷たく当たったときもありましたが、私と同室の中国人患者さんに、仕事とはいえとても献身的にお世話してくれました。
ときどき、火を使わずできるブラジル料理を作ってくれて、病院のつまらない食卓を賑(にぎ)わせくれました。
私が退院してしばらくしてから、日本の病院が完全看護になり「付き添い婦」が廃止になりました。
どうしているかな……。
もう、ブラジルに帰っているかな。
ソノキさんの存在を調べる手段は、いくらでもあります。
調べられない言い訳はただ「時間がないから」。
今度、休みができたら、調べてみようかな。
なんだかむしょうに、ソノキさんのあけっぴろげの明るさに、接してみたくなりました。
その明るさの裏に潜んだ「苦労」と。
今日は「海外移住の日」だそうです。
1908年(明治41年)のきょう、ブラジルへの第1回移民158家族781人がサントスへ上陸した日。
父と同じ歳のソノキさん。
お元気ですか?
生きていてくれて、いますか?
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