感情の露出。 |
最近自分の中に、感情を出したいという欲求があるらしい。 『喜怒哀楽』の表現。 私がもっとも苦手とする部分だろうと思う。 『素』の部分は見せてはいけないと思って来たし、 それが当たり前になってしまってからは、 出そうとしても、恥ずかしくて出来なくなってしまっていた。
ここ2,3年で、自分の中に変化が起きて来ているのは気付いていた。 それが、ここ半年くらいで加速してきたように思える。 何がどう関係してそうなったのかは分からないし、 そこの所は深く考えなくてもいいのかもしれない。
とにかく、私の中で変化が起きている。 という事だと思う。
テレビを見ていて、ほんの些細な事で泣く。 涙をポロポロ流しながら泣く。 フィクション、ノンフィクション関係なく。 登場人物の悲しみに共感しては泣き、 また、優しい気持ちや言動に癒されては泣き、 旦那のささいな一言や行動に感謝しては泣き。
昔から、明るい番組やお笑いが好きだった。 放って置くと暗くなってしまう自分を、上昇させるため。 家にいる時も、車を運転している時も、 テレビかラジオが付いていないとダメだった。 不安になったり、暗くなったりしてしまうから。 でも、最近は音の無い時間が過ごせるようになった。 というか、音が無い方がいいなって思う時がある。 静かな沈黙の中で、ゆったりとした気分でいたい。 そんな余裕は以前はなかった。 いつも何かに追い立てられていた。
怒りは昔から大きく表現されていた。 といっても、社会の人間関係に直接向けることはない。 それは親子ケンカであったり、夫婦喧嘩という形で現れていた。
ある時気付いたことがあった。 ケンカをした後の私は、すっきりさっぱりしている。 私はケンカをしている最中も、我を忘れることはない。 いつもどこかに冷めた自分がいて、 とんでもない行動をとらないように抑制していた。
ケンカをして大声を出したり、泣き叫んだり。 私はそれをする事で何かを振り捨てているようだった。 自分の中にたまった、さまざまなどうしようもないものを、 吐き出すための手段として、ケンカをしていたように思う。
たとえ相手にケンカをする気が無くても、 ひどいことを言って挑発する。 相手が乗ってくれば、しめたものだとばかりに応戦する。 だからケンカが終わってみると、 なんでケンカになったのかが分からないくらい。 私にとってのケンカは、ストレス発散のためのものだった。
『喜・哀・楽』が感じられるようになったのと反比例して、 『怒』は勢いを失っていった。 穏やかになった。荒れなくなった。 発散して、振り捨てなければならないものが、 私の中で、確実に減ってきているようだ。
私の短気は、元々の性格なのだと思っていた。 しかし、そうじゃなかったようだ。 こんなに穏やかな自分が存在するという新鮮な発見。 もちろん、今でも怒りを感じるという事は出来る。 まったく怒りを感じないというのも、不自然なことだから。
怒る必要のない事で怒らなくて済む。 それがまた精神の安定を生む。 旦那と付き合い始めてから何年か前までの私と、今の私はかなり違う。 ケンカの数も、激減している。
昔は、自分の中に渦巻いていた苦しみや怒りを、 家の中で、なんとか発散させて生きてきたんだと思う。 そうしなければ、生きていけなかったんだ。 PDという形でも現れてきたその膿。
私の中にたまった何かが消えていくことで、 PDも和らいで行くような気がする。
|
2004年04月14日(水)
|
|