東京の片隅から
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| 2020年12月17日(木) |
「西のはての年代記」 |
ル=グウィン「ギフト」「ヴォイス」「パワー」西のはての年代記シリーズ、読了。
みっちり組まれた世界設定はさすがル=グウィンだなぁと・・・。本の冒頭に地図があるだけでもワクワクですよ。 そして人物の造形が重層的。善なる面と悪なる面の両面が自然。 あと、主人公の一人称で語られるのが何だか新鮮だった。(「闇の左手」は一人称小説だけど) 全体を通して「ことば」「文字」がキーになっていて、結構重い話ではあるんだけど、ページをめくる手は止まらない。 主人公たちが自分の「ギフト」と向き合う過程は「影との闘い」を思い出したり。「ギフト」をどう使うか、というのはキリスト教世界の考え方かもしれないけど、東大入学式の上野先生式辞にもあったように、普遍的なテーマだと思う。
会社でアンケートに答えるように言われたストレスチェック、あまり意味ないなぁと。 これで「問題あり」と出るのはよほどの状態のときだ。
子どもにあれこれ本を薦めたら「お母さんみたいに読書ガチ勢じゃないから」と言われてしまった。 ええ・・・? 4年なら「ゲド」や「ナルニア国」はちょっとまだ早いかもしれないけど「冒険者たち」3部作、ケストナーやランサム(古いとは思うけど)、「はてしない物語」「モモ」神話伝説民話の類、ルパン、ホームズ、乱歩とか、いわゆる名作文庫あたりに載っているのは既に読破してるんじゃないの? 何か本当に違う人種なんだなぁということをひしひしと感じる。
ボールペンの芯を使い切ると気分がいいですねえ。
ベランダからふたご座流星群を見る。 今夜は雲もなく、絶好の天体観測日和だ。 流星群のきらめきは星の今際の際の最後の輝きなんだな、とふと思う。 オリオン大星雲も見える。 まだベテルギウスも見える。
最近テレビCMにアニメーションが増えたのかもしれない。 実際はどうだか知らないけど、これまではタレントを使っていた会社があれ、実写じゃなくてアニメになったんだ、と思うことが何回かあった。 広告宣伝費を削っているのかもしれないし、撮影現場の密を避けたせいかもしれないし、2次元のキャラクターならスキャンダルで炎上しないしという判断かもしれない。 これが流行として一過性のものなのか、それともこのままそういう流れになるのか、それはまだわからない。
那須雪絵の読み切りマンガに、顔のいいアンドロイドをモデルとして売り込もうとするけど今どきは全部CGだったかアニメだったかになっているので需要がない、という話があったな。
帰宅時の電車の車内、酔っ払いがとても少ないというかほとんどいないのが、例年と違うところ。電車の中が酒臭くない。忘年会をやらないところも多いんだろうなぁ、と思う。うちの会社もやらない。
このところの社会の空気に既視感があってそれは何なのか考えていたんだけど、あれだ、昭和末期の「自粛ブーム」。 天皇陛下がご病気だから歌舞音曲は控えるべしみたいな空気が蔓延していて、お祭りも延期されたり縮小されたり、テレビもバラエティ番組を控えたり、CMの台詞が不謹慎だとして台詞がなくなったり(あれはあれでさらに不謹慎感を増した気がする、だってにやけてる井上陽水だよ?)、なんというか窮屈な感じだった。 病気だからいつまでという期限がない。いつまでこれが続くんだろうと子どもながらに思った。
今もあのときに似ている。
あくまでシングルカットされてテレビで流れたりする曲での印象だが、ハロープロジェクトの一人称は歌っている当人たち=若い女性という印象を受けるが、AKBや○○坂の方は曲の作り手や聴き手=男性という印象を受ける。 一人称が「僕」だからだろうかとも思ったが、女性が「僕」と歌うのは別に今に始まったことではない。浜崎あゆみだって「僕」だった。今年流れまくっている「紅蓮華」も「僕」だが、あれはアニメのオープニングで主人公の立場から歌っているから「僕」である必然性がある。 秋元康だからかとも思ったのだが、彼が昔手がけた「おニャン子クラブ」は一人称が「私」だったような記憶があるし(小学生くらいなのでうろ覚えだが)歌い手のアイドルの一人称感が出ていたので、あくまで「今」の秋元康及びその周辺のおじさんたちが自分の気持ちを10〜20代の女の子に語らせてるんだろう。 って書くとなんだか歪んでいて気持ち悪いな・・・。 でも最近までそれが受け入れられていたわけだ。
おなかがへるとかなしくなるんだな
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