東京の片隅から
目次|きのう|あした
保育園送迎時に前を通るお宅がある。 いつも花が絶えず、玄関先には犬。彼は穏やかな性質で、初対面の子どもがなでても怒らないので子どもたちの人気者である。そのせいか、夏休みの間はたいそう詰まらなさそうに玄関先に座っている。 そのお宅の奥さんと朝夕の挨拶をするようになって6年目。 時々子どもに家で作っているブルーベリーやプチトマトを頂くのだが、この日はニラを一束頂いた。 家でニンジンと合わせて卵とじにする。珍しく子どもがよく食べた。この前トイレも貸していただいたし、今度旅行の時に何かお土産を買ってこよう。
NHKの朝の連続ドラマにせよ、大河ドラマにせよ、ちょっとした違和感を感じるときがある。 過去の話なのに、登場人物の精神構造は現代、というかちょっと上の世代の人間のそれであるときだ。 自分の性別が女性だからか、特に、女性、家族関係の話になるとそれを強く感じる。 最近だと前期と今期の朝ドラ。前期の「あさが来た」の場合、戦前の「いい家」なので当然女中がおり育児などは「ねえや」の役目であったりしたわけで、その場合親子関係は今とずいぶん違うものであると思うのだが、戦後の核家族のような描かれかたをしていたりする。 また、自営業の場合、奥さん(女主人)の役目は主婦じゃなく、使用人の采配もするわけで、どちらかというと経営者的な目線だと思うのだが、そういう観点は抜けていることが多い。 これは脚本家が今の人だからというのもあるのだけど、サラリーマン家庭出身なのだろうな、とも思う。 私の実家は両親とも商店で従業員も同じ屋根の下に寝起きしていたし、特に母の実家は祖母が商売の中心だったので母は「○○のおばあさん」という人に育てられたようなものだという。その「○○のおばあさん」は遠い親戚らしいがどういうつながりなのかは母も知らず、戦後すぐのことだからおそらく戦争で自分の家族を失って遠戚である母の実家に身を寄せていたのだろう、ひょっとしたら血縁ではなく血縁者の奥さんだったかもしれないとのことだった。そんな家だから親子関係は結構ドライで、それを見聞きしていると、ドラマの湿度の高い親子関係はニセモノだなぁと強く思う。
今期の朝ドラでも、ヒロインが猪突猛進型でうっとうしいのは定型だから仕方ない(苦笑)にしても、女性が働くことに対して当時は特別に考えるものではなかったと思う。 戦前は女きょうだいしかいなければ父亡き後長女は「戸主」になるから婿を取るか家を潰して(廃家)嫁ぐかしなければ独身で一家の大黒柱になるのは当たり前であって精神的にも物理(金銭)的にも「ととねえちゃん」は特段珍しい話じゃなかったわけだ。樋口一葉とか。 戦後になって法律が変わっても人間の精神構造はさほど変わらないわけで、男手がいないからと言ってぼんやり座っていては食えないわけで、動ける者は働くのが当たり前な時代だ。 専業主婦メインの視聴者の感覚にあわせて(そして視聴者が精神的優位感を得られるように)脚本を書かねばならないとは言え、時代とのずれを強く感じる。
帰宅途中に羽化しかけのツクツクホウシを発見してしまい、しばらく観察。 蚊に刺されまくる。
しかしサナギの殻の中にあの成虫のサイズが入っているとは何度見ても信じがたい。 羽はともかく、胴体や頭部はどうやって収納しているのか。よくできている、としか言いようがない。
「本の雑誌」吉野朔実追悼特集号を読む。 もうあのユニークな書評も読めないのだな。残念というほかない。
一昨日昨日と雑誌「Flowers」の原画展を秋葉原で開催していたのだが、なんだかんだあって行かれなかった。吉野朔実はもとより萩尾望都も最新作「春の夢」が展示されていたとか。ああ行きたかった。夏の間にジュンク堂でやっている吉野さんの原画展には必ず行こうと思う。
毛布をうっかりお湯で洗濯してしまい、心なしか、いや、確実に毛足が縮んだ気が。アクリル毛布だから思ったよりも縮んでいない、と言うべきか。 結婚してすぐに買った毛布なので、そろそろ買い換え時かもしれない、と思うが、今捨てると肌寒くなったときに慌てると思うので、乾いた後はとりあえず衣類収納袋に入れてしまっておく。
庭のスミレに今年もツマグロヒョウモン?の幼虫が大量発生。 去年と違うのは、すでにスズメバチがマークしていること。一匹スミレの葉に留まっていたので観察していたら、やがて団子を抱えて飛び去っていった。 夕方再確認。痕跡からおそらく3匹ほど犠牲になったと推測される。これも食物連鎖だ。 子どもに話したが、普段からそういう話はしているので、けろっとしている。むしろ「蜂さんち今日はごちそうだね!」と喜びを分かち合っている模様。強い。
東京はとても涼しいが、部内の暑気払いであった。間が悪い。
会場に行く前に、本屋に寄る。いつも行っている会社近くの本屋で「本の雑誌」はあるか訊いたら、いかにもサブカルな見た目の兄ちゃんの反応がいまいち。なんと「本の雑誌」そのものを知らないと言うことが判明。人は見かけによらないというか、そんなマイナーな雑誌をここで探したのが間違いというか。 会場近くの小さな本屋を覗くも、そこでは定期購読の分しか入れていないとのこと。まぁそりゃそうだよね。近くに本屋がないか訊いたら、「○○書店はご存じですか?」と。そうだった。そこがあった。あそこはアート系やサブカル系に強い(というか普通の本がない)最後にその本屋に行ったのは10年近く前だと思うが、まだ場所は変わっていないとのこと。そちらへ向かい、無事「本の雑誌」を購入。吉野朔実追悼特集。雑誌で連載していた書評エッセイは発売日に入手済み。 暑気払い開始まで少し時間があったので、ドトールでコーヒーを飲む。隣のテーブルの女子大生らしき二人組がつらつらとおしゃべり。サークルのコーチに怒られた理由がわからない、と愚痴にしてもあっけらかんと話している。ことの経緯をもう一人に説明していて、そりゃ怒るの当たり前だよ、と赤の他人の私でもわかるのに、他人事のような話しぶり。彼女は本当にコーチが怒った意味がわからないんだろうな。コーチも大変だ。
最近、右肩から指先にかけて痺れが出る。四十肩かな。
ガラケーに久しぶりに不正請求メールが来たのだが、「ドコモからのお知らせ」というタイトルなのに発信者はソフトバンク。 お前もうちょっとよく考えろ、と。
妹から「大和和紀の原画展に行ってきた、すごかった」と珍しく興奮気味のメールが来た。 開催は今日までとのこと。全然ノーチェックだった。というか君好きだったったっけ・・・?
家に叔母(24年組リアルタイムフォロワー)の「はいからさんが通る」はあったので、一時期N.Y.小町〜ハイヒールコップあたりまでは自分も読んでいた。地味だけど「眠らない街から」のシリーズが結構好きである。あと、合宿でペンションなどに行くと必ず「KILLA」とか「モンシェリ・ココ」あたりはおいてあるんだよね。そんなこんなで気づいたら結構読んでいるのであった。
最終日の会場はそれなりに人が入っていて、でも萩尾望都の原画展と確実に違うのは、大和先生の場合は作品と言うよりもキャラクターが愛されているんだな、という雰囲気。原画を前に少尉や冬星さんや狼さんへの愛を語る元少女たちの多いこと(笑)。会場の空気が柔らかい。萩尾先生の場合は世界観が愛されているというか崇拝されている印象だった。会場の空気も張り詰めていた。 デスク回りも一部再現されていて、開明墨汁とICの原稿用紙とミスノンに親近感を覚え、ルマのカラーインクに羨望する。もうルマは生産していないので手に入らない。
初めて生原稿を見たが、「はいからさんが通る」の着物の絞りが格子と点で表現されていたり、初期作品の「モンシェリ・ココ」でも縞の切り替えがきちんと洋服のパターンに沿っていたり(あぁこういう型紙で縫うのか、というのがわかる)とにかく服に対する熱意がすごいな、と思った。それが「あさきゆめみし」につながるのか。 しかし「あさきゆめみし」だけ密度が違う。タイトル、キャラクターの顔、着物の柄と色目、背景の植物や風景。込められた情報量も桁違い。この柄でこの構図でこの植物の季節がアレだから源氏物語のあの場面か、とわかる。 普通カラーイラストは水彩用の紙に書くのだが、トレーシングペーパーに描いて重ねたり布地?に描いてみたり。特に絹地とおぼしき布に描いたイラストは、描くとたいてい滲むのだが、滲んでない。どうやってあの微細な柄を描いたのか。絹目の紙なのか。いくら見てもわからない。 キャラクター以外の部分、植物などの描写もすごい。写実でもあり文様でもある。これだけ描くには膨大な量の資料と現物を見て描き慣れないとあのこなれた線は出ない。日本画を学びに行ったのかもしれない。とにかく溜息しか出なかった。漫画の域を超えている。
これだけの下調べや描き込みはデジタル原稿では不可能だ。 萩尾望都の原画展でも思ったけど、ご本人たちはそういう意識はないのだろうけど、「大御所の逆襲」感がある。今の若手にこんなのできるか、とプレッシャーをかけている感(笑)
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