”BLACK BEAUTY”な日々
Paranoia Days INDEXDid The Old BoogieWanna Do The New Boogie


2006年08月29日(火) タイという国

家内と息子と義母がタイのプーケットに行ってきた。大切な家族の海外旅行だから、たくさん楽しんできて欲しい思いと無事に帰ってきて欲しい気持ちで俺は留守番をしていた。

日本人の気質を表す言葉に「義理と人情」などが用いられれるが、タイ人の気質は「マイペンライ」という言葉によって表現される。

「マイペンライ」とは「大丈夫です」「どういたしまして」という意味が本来なのだが、多くのタイ人はこれを「まあ、いいじゃん」とか「気にしない気にしない」といった、極めて楽観的な意味合いで用いる。

このタイ人のマイペンライ精神が見事に開花したのが「バンコク地下鉄化計画」である。

バンコク市民の足は基本的には乗り合いバスなんだが、この街の交通渋滞はハンパではない。バス同士がすれ違う時、運転手が互いに顔見知りだったりすると、両バス共に緊急停車し、運転手同士が世間話を始めてしまう。
こんな日本ではあり得ない光景も渋滞の原因の一つになっている。

そんなこんなで、「バンコクに地下鉄を作って交通渋滞を解消しましょう」というプロジェクトが発足して、日本のODAは約2000ドルの開発援助を行った。

タイ首相はこれにいたく感激して、「必ずや2002年までに完成させる」と公言した。

ところが工事は一向に進まず、未完成のまま約束の2002年を迎えてしまった。

ここでタイ首相は何をしたかというと、テレビ演説で日本のみなさん、タイのみなさん、本当にごめんなさい」と謝っちゃったのである。

日本だと、工事の納期遅れは信用問題に関わるし、仮に完成が遅れたとしても多方面からのバッシングが予想される。

しかし、タイにおいてはその様な動きは皆無だったらしい。
まさに「マイペンライ精神」ここに極まれりである。

問題の地下鉄は2年遅れの2004年、無事に開通したのだが、やれ運行中にエンジンが火を噴いただの、犠牲者は出なかったが衝突しちゃっただの、トホホな状況が続いているらしい。

だけど俺はこの街が大好きだ。学生の頃から何度もここを訪れたが、何度行っても飽きることがない。

少しオーバーワーク気味の時など、バンコクの喧騒が頭をよぎり、旅情をかきたてられたりするもんである。

妻の土産はペンダントトップがクロスのシルバーのネックレスだった。

大切に使おうと思う。


2006年08月08日(火) 安部公房

日曜のスタジオ到着すると、顔見知りのバンドが練習を終え、テーブルに座っていた。
挨拶を交わすと、テーブルの上に一冊の文庫本が置いてあった。

それは安部公房の本だった。

安部公房という作家を知らない方も大勢いらっしゃると思うけど、昭和の前衛文学をリードした、大江健三郎と並ぶ偉大な作家さんです。

この人の書く物語はもの凄くドラッギーで、最早「あっちの世界」に行っちゃてるようなストーリー、表現が多い。
正直、自分のような凡人には理解することが不可能な作家である。

ネットで調べてたら、安部はピンクフロイドの大ファンでシンセサイザーも所有していたらしい。

「日本のシドバレット」

なんとなく、二人が重なって見えた。


2006年08月03日(木) 日米開戦の真実

小泉首相が提唱した「東アジア共同体構想」これは日中韓3ヵ国と東南アジア諸国連合(ASEAN)で構成する、幅広い連携を目指すという内容のことなんだけど、当然いろんなとこからいろんなツッコミが入っています。

「オーストラリアやインドが『アジアに属している』なんて思っているわけがねーだろ」とか「中国が言うこと聞くわけねーじゃん」とかとか。

で、やっぱり決定打なのは中国、韓国が戦前日本の「大東亜共栄圏」を引き合いに出して「日本は戦前の軍国主義に戻るのか?我々への数々の迫害を忘れてしまったのか?どうなんだい!」との批判だろうと思う。

自分も含めて戦後昭和生まれの子供達は太平洋戦争について、大筋でこんな風に学校で教わってきたと思う。つまり、

「日本はどう頑張っても勝てる相手じゃなかったアメリカとイギリスに無謀にも宣戦布告して、中国や韓国の人達にひどい事をしました。で空襲でたくさんの命を失い、若い兵隊達もたくさん亡くなりました。最後は原爆を落とされて戦争は終わりました。日本人は集団催眠にかかってこのような無謀な戦いをしちゃったんです」

「戦争後は日本は民主主義の国として生まれ変わりました。みなさんは自由で平等なかけがえのない存在です。だから戦争は二度としない事に決めました」

当然の事ながらこういった歴史認識はアメリカによって植えつけられた後付けの理論なんだが、ここ最近になって「それは違うんじゃないの?」的な本を本屋で見かける事が多くなった。
つまり、日本人は集団ヒステリーの頭がどうかしちゃった状態になったから真珠湾を攻撃したのではなく、正当な論理の元で開戦に踏み切ったという内容の本が結構出版されてきた。

そいで、その決定版といえる一冊が出版された。
「日米開戦の真実」(佐藤優著 小学館)がその本である。

この本は戦前、戦後を通じて活動した大川周明という思想家の「米英東亜侵略史」というテキストを前文掲載して、その内容を読み解くという構成となっている。

試しにグーグルで「大川周明」と検索してみると、終戦後の東京裁判の映像を見る事ができる。
その映像の中で東条英機の後ろになんとパジャマ姿で座り、しかも東条のハゲ頭を後ろからぶっ叩く「変なオジサン」がいる。この人こそ大川周明なんである。

さらに法廷でも奇声をあげるわでA級戦犯で起訴された大川は精神鑑定を受け、ノイローゼと診断され、A級戦犯の中でたった一人死刑をまのがれた。

だけどこのノイローゼ説は大川の芝居であったというのが真実らしい。
アメリカもそれを認めた。にもかかわらず、大川は二度と法廷には呼ばれなかった。どうしてでしょう?

それは大川の「米英東亜侵略史」があまりにも完璧な内容だったため、逆に大川に法廷に出てこられて証言でもされようものなら、アメリカは日本の戦犯を裁く事ができなくなると判断したからだ。

もし大川の証言が裁判の結果に重大な影響を与えたとすると、歴史は大きく変わったであろうと、著者の佐藤氏も指摘している。

「米英東亜侵略史」というなんか難しそうなタイトルだが、元々このテキストは大川がNHKラジオで一般国民に向けた放送をテキスト化したものなので、
内容はとっても簡単で誰でも理解できる内容だった。
だけどその理論的な完成度がハンパじゃなかったため、アメリカも恐れたのだろうと思う。

自分も含めて、これからは自分達が「昭和」という激動の時代を子供達に伝えていかなければならない。
俺は特に右派の思想者ではないが、「無謀な戦争、大東亜共栄圏という妄想、洗脳された当時の日本人」といったステレオタイプの歴史観はそろそろ限界に来ている気がしてならない。

ちょうどあと少しで終戦記念日。紹介した「日米開戦の真実」は本屋さんで平積みになってます。興味ある方はご一読を。


2006年08月02日(水) ミュージシャンの死

初期ストーンズのリーダーであった故ブライアンジョーンズの死因を巡っては自殺説、他殺説と諸説入り乱れているが、他殺説に立った映画が公開されるらしい。

この事で今日友人とメールをやりとりしていたのだが、自分にとってリアルタイムで最も衝撃を受けたのはロニーレインというミュージシャンである。

ロニーレインは60年代、スモールフェイセズというモッズバンドでベーシストとして活動していた。その後、ギター兼ボーカリストのスティーブマリオットがハンブルパイという新バンドを結成するために脱退。バンドは解散の危機を迎えるが、当時ジェフベックグループに在籍していたロッドッスチュアートとロンウッドをメンバーに加え、フェイセズとして新たなスタートを切ることになった。

フェイセズは「世界一の酒量を誇った」とも言われる、元祖酔いどれロックンロール・バンドとして「ステイウィズミー」などのヒット曲に恵まれる。

ところが、ボーカリストのロッドシュアートが自身のソロワークにどんどん傾倒していき、フェイセズはロッドのバックバンド的な扱いを受ける事となってしまう。

それに嫌気がさしたロニーレインはフェイセズを脱退、ドラムのケニージョーンズは亡くなったキースムーンに代わりフーに加入。ロンウッドはストーンズに加入、ロッドはソロとして活動を始め、フェイセズは解散した。

解散後、ロニーレインは、スリムチャンスというバンドを結成し、「エニイモア・フォー・エニイモア」(74年)、「スリム・チャンス」(75年)、「ワン・フォー・ザ・ロード」(76年)と3枚のアルバムを発表。いずれもフェイセズ時代とは異なるアコースティック調で地味ながら哀愁を漂わせた、独自の世界を演出した。

順調に思えたロニーを、77年悪夢が襲う。彼の生命を奪うことになる多発性脳脊髄硬化症の発症である。
この病気は現在でも決定的な治療法がなく、ロニーは車椅子での生活を余儀なくされ、長い闘病生活に入る。

それでもロニーは車椅子でステージに上がり、極めて小規模でのツアーを行った。

そして1990年には待望の来日公演が実現した。同時期にはストーンズの初来日公演が、日本中を席巻しており、メンバーの名前さえ知らないような、無知なファンや芸能人らが東京ドームに集結していた。

ロニーの来日公演は渋谷のライブインで行われた。
車椅子に座ったまま、歌い続けるロニー。元々繊細な声がさらに繊細な声になっている。観客のほとんどの人が涙を流していた。

そして1997年、ロニーは帰らぬ人となった。

今でも俺はふと思い出したようにロニーのアルバムを聴く。
繊細で派手さとは無縁のアルバムだが、心に染み渡る穏やかな感覚は他のアーチストにはない、ロニーだけの大切な宝物だ。

もし、これを読んで頂いた方で興味のある方は是非彼の音楽に触れてみて欲しい。オススメはファーストのエニイモア・フォー・エニイモア」です。



JIN |MAIL TOThrill freaks offcial web.

My追加