”BLACK BEAUTY”な日々
Paranoia Days INDEXDid The Old BoogieWanna Do The New Boogie


2006年06月26日(月) 意思決定に伴う孤独

先日、あるきっかけである事を知り、そういえば18歳の頃にも同じような経験をし、その時にある一冊の本と出会ったなあと思ったのだが、どーしてもその本が思い出せなかった。

ジャックケルアック?ギンズバーグ?ブコースキー?ジムキャロル?
どれでもない。ただなんか一人忘れているような気が……。

そーだシリトーだ!アランシリトーの「長距離ランナーの孤独」だ!

この作品は「文学界のパンクロック的名作」と呼ばれ、当時夢中になって読んだ一冊だった。

日曜日に実家に帰り、自分の部屋の押入れのダンボールを全て開け、やっと見つけた。
ペラペラめくっていくと、当時シビれた主人公の台詞に強い筆圧で線まで引っ張ってあった。俺も当時は「怒れる若者」だったのだった。

ストーリーはいたって簡単で、窃盗を繰り返す主人公が少年院に収容される。窃盗を生業としてるので主人公はとても走るのが速い。
その才能を院長が注目し、通常の公立高校のマラソン大会に主人公を参加させる。
主人公は2位以下に圧倒的に差をつけ、ゴールを目前とした。
ところが主人公はゴール直前で走る事を止め、優勝を自ら逃す。

「単なるひねくれ者の自己陶酔物語じゃねーか?」

確かにそういう捉え方もできると思う。

しかしこの小説の本質は全く別の次元にある。
主人公は「走らされる」事より「自らの意思で走る」事を選んだ。
しかもその意思決定を完全な「孤独」の中で行った。
そういった「他者に流されない姿勢」が後のUKパンクスの圧倒的支持を受け、名作と呼ばれるに至ったのだろうと思う。

人生は意思決定の連続だ。進学したい高校、大学の選別、就職したい会社選び、はたまた主婦の考える今夜の夕食のおかず、他人へ対する評価、などなど、その内容は星の数ほどある。

まして今日はネット社会である。ある意思決定を行う際、参考になる情報を得ようと思えばすぐに入手できる便利な世の中になった。

だが、気をつけなければならないのはネット上の情報は完全な「数の論理」が成立している点だ。

もし、あなたがある事に関して一定の評価を下さなければならない状況にあったとする。
ネット上で参考情報を検索する。そこにはマイナスの評価とプラスの評価が両方存在している。そして気が付けばあなたは、より数が多い評価を選択してしまう。マイナスの情報が多ければマイナスの評価をし、プラスの情報が多ければプラスの評価をしてしまう。
それは「数の論理」それだけの理由で、気が付けば評価を下してしまっている事とイコールである。

だが、多数派が常に正しいわけではない事は歴史を見れば明らかだ。
ましてネットでの意見表明はキーボードを叩けば簡単に行える。
根拠の全くない情報も残念ながら存在しているわけである。

意思決定は本質的に「孤独」の中で行われるべきである。
確かに「孤独」を恐れる意識は誰もが持っている。
けれど、仮に「数の論理」で決定したした意思決定が仮に間違っている場合、その責任をネット上の情報に求める事はできない。情報に踊らされた後悔のみが残る。それは悲しむべき事だ。

決断は最後は自分一人で、孤独の中で行い、責任も自分自身に向けられる事が正しい姿だと俺は考えている。

それは人の人生はその人自身のものでしか有り得ないからだ。

「長距離ランナーの孤独」を読んだ10代の頃から、今に至るまで俺はずーっと孤独と共に意思決定をしてきた。

だから自分の意思決定を誰かに非難されようが、自信を持って歩む事ができる。

責任をとるのも俺自身。だから昨日も今日も俺はこんなにも身軽だ。


2006年06月24日(土) 散文

プールの底、水死体で発見された金髪のロックスターに祝杯を。
マーシャルのフィードバックに祝杯を。
明け方のトーキョーを走るワゴン車に祝杯を。
レスポールのハーフトーンに祝杯を。
結局一度も使われなかった安物の傘に祝杯を。
たった今、産声をあげた父親似の女児に祝杯を。
自分に言葉を教えてくれた父と母、そして師たちに祝杯を。
路上でオリジナルのポストカードを売る少女に祝杯を。
安物のプレゼントに祝杯を。
多忙な天使に祝杯を。
明日、パーティーの主役を務める二人に祝杯を。
地下鉄のくすんだ匂いに祝杯を。
休日出勤の世帯主に祝杯を。
全てを受け入れる事を決意した男に祝杯を。
全てを否定する事を決意した女に祝杯を。
夢中でいつづける少年に祝杯を。
銀色のネオンサインに祝杯を。
ムササビのように世の中を渡ってゆくやり手の営業マンに祝杯を。
ヘドロのような汗をかき続ける労働者に祝杯を。
あぁ毎日をコンピューターみたいにリセットしてみたいと願う初老の男に祝杯を。
同じヘマをやらかし
同じ奴を愛し 同じ奴を憎み
同じラベルの酒を飲み
同じ怒りでテーブルを叩き割る毎日に祝杯を。
化粧のしすぎで死んだババアの死体に祝杯を。

新しい息をして 新しい歌を書きたい
武器にも薬にもなる言葉を探したい
あのどうしようもない糞ったれどもに
本物の苦痛をプレゼントしてやりたい

村社会の住人に百万粒の唾を。





2006年06月23日(金) 71歳の現役ロックンローラー

最近は仕事も落ち着き、時間的な余裕が出てきたため、平日にもライブを観に行ける機会が増えた。渋谷とか新宿のライブハウスをネットで調べて、面白そうなバンドがあれば観に行ったりしている。

昨日は秋葉原のドレストーキョーというライブハウスにワルアパを観に行ってきた。

この日はスペシャルゲストとして、ジミーエンジェルという71歳の現役ロックンローラーが登場するという。プロフィールによると、NYヤンキースの2軍でショートを守り、 その後エルビスと共に時代を駆け抜け、マフィアともつながりを持ち、現在千葉に19年間在住するロカビリー歌手だそうだ。
すでに胡散臭い香りが漂っている。

ライブハウスに着くと、すでにジミーエンジェルのファンと思われるおっさんとおばさん達が酒を酌み交わし、いい感じに酔っていた。

すると、イタリア系の外人さんが入場してきた。
しかし、どう見てもロックンローラーには見えない。カウンターバーの兄ちゃんに「あれがジミーエンジェルさんなの?」と問うと、「多分そうだと思います」との事。大丈夫なのだろうか?

さらに時間が経過し、最初のバンドが演奏を始めた頃、リーゼントをキメた安岡力也風の外人さんが現れた。この人こそ、ジミーエンジェルだったのである。
あやうくカウンターバーの兄ちゃんにだまされるところだった。
最初に来たイタリア系の外人さんはどうやらマネージャーらしい。

ところがこのジミーエンジェルさん、どう見ても頭が「ズラ」なんである。
おまけに御大なんだからデッシリ構えてりゃいいのに楽屋出たり入ったり落ち着きがない。
何か飲んでると思い、よーく見てみるとなんと「紙パックの牛乳」をクピクピ飲んでいる。マフィアとつながりがあるくらいなのだから、バーボンでも飲んで欲しいところだが牛乳である。もう一度言う。牛乳である。

ワルアパを観た後、次のバンドのセッティング中に、ジミーエンジェルのインタビューがモニターに流れていた。それによると、

「最も尊敬するのはエルヴィスです。野茂選手のような存在だからです」
前段はもっともな意見だが、後段は意味がイマイチ分からない。

さらに日本移住のきっかけについては、
「その時、私は知ったのです。東京には50年代があるのだと!」
そんな簡単な理由で移住なんかしちゃって大丈夫なのだろうか?

そしてトリのバンドが数曲演奏した後、ついにジミーエンジェルが登場。

歌う曲はエルヴィスの「ハウンドドッグ」バディーホリーの「ペギースー」
王道のロックンロール名曲たちだ。

気がつくと俺の周りではおっさんとおばさん達の大ツイスト大会が始まっていた。ひえ〜、もっと後ろで観てればよかった。

ジミーエンジェルは実に気持ち良さそうに歌っている。そして間奏になると必ずステージを降り、客席の女性とダンスをする。どの曲でも同じ女性とダンスする。よっぽどその女性好みなのだろうか?

そして曲がカールパーキンスの「ブルースェードシューズ」になると興奮したツイストおやじがステージに上がり、自らマイクを握り歌いだした。
その様子を見ていたイタリア系のマネージャーは最初は親指を立て、飛び入りにOKサインを出していたのだが、おっさんがなかなかステージを降りず、歌い続けてしまった為、今度は「ステージから降りろ!」のサインを受けてしまった。後でマフィアに消されないか心配である。
こうして71歳の現役ロックンローラーのステージは盛り上がりの中、幕を閉じた。


終演後、ライブハウスの出口でワルアパのメンバーとしゃべっていたら、ジミーエンジェルがやってきた。これから千葉へ帰るのだろう。しかも総武線で帰るのだろう。「アリガト」「サヨナラ」を連呼するジミーエンジェルは女性連れだった。その女性はダンスの相手の女性だった。多分奥さんなのだろう。そりゃ他の女性とダンスはできないわな。

今年に入って、外人アーティストを2回観ている。1回目はタイガーバンドが前座を務めた「デッドライズ」2回目はジミーエンジェル。

そろそろ「ちゃんとした外タレ」のライブが観たい。





2006年06月22日(木) グーチョコランタン

この日記の読者の方の中で「グーチョコランタン」をご存知の方はあまりいらっしゃらないと思うので、簡単に紹介することにする。

国営放送の長寿番組に「おかあさんといっしょ」という番組がある。
基本的には、歌のお兄さんとお姉さんが司会進行を務め、子供達と歌い、踊るという、内容はいたってシンプルな番組である。

この番組の中で「グーチョコランタン」というコーナーがあり、4匹のぬいぐるみ達がいっしょに遊んだり、時に仲間割れを起こしたり、仲直りしたりと、内容的にはなんてことのないコーナーである。

ところが、この「グーチョコランタン」が大変な事になっている。

あるオンエアの日、歌のお兄さんである「いまいゆうぞう」氏と歌のお姉さんである「はいだしょうこ」女史がグーチョコランタンの主人公、「スプー」の似顔絵の絵描き歌を披露したのだが、しょうこお姉さんの書いたスプーが余りにも悪魔的で、これが2ちゃんねるで話題となり、ついにはその動画がネット上に流出してしまった。

これがさらに各方面に波及し、パロディー動画は出てくるわ、悪魔的スプーの手作りマスコットがヤフーオークションに出品されるなど、えらい騒ぎになってしまった。

現在は著作権の関係上、NHKが動画配信サイトでは似顔絵のオンエア動画の削除を要求したため、見る事はできないが、下記アドレスに詳細が記されているので、興味のある方はご覧頂きたい。

http://magic3.net/item/835




2006年06月21日(水) 書評 「国家の品格」

著者は藤原正彦氏。お茶の水大学理学部の現職教授の書いた大ベストセラー本である。

書店に行くと必ず平積みされている本書の初版が昨年の11月20日。この日付に注目してほしい。その後約3ヶ月後にライブドアが地検の強制捜査を受け、堀江氏をはじめ幹部の逮捕に至る。さらにその5ヶ月後、村上ファンド代表の村上氏の逮捕を迎え、日銀の福井総裁の進退問題まで波及する。

本書がベストセラーとなったのは、著者が市場原理主義を真っ向から否定し、「マネーゲームは下品かつ卑劣」と斬った上で、武士道精神の復活を主張している点である。
つまりライブドア、村上ファンドの両事件をあたかも予言するかのような記述がなされていた為、ライブドア事件後急速に売り上げを伸ばし、現在に至っているのである。

この数年、M&AだのTOBだのホワイトナイトだの、ついこないだまで海の向こうの出来事だったこれらの言葉がメディア上に踊った。
俺もついに日本にアメリカ式の資本主義経済原理が幕を開けたのかと思った。

ところが、その幕はあっという間に閉じてしまった。
結局、日本人は「右にならえ」が元来大好きで、それが骨の髄までしみ込んでいる為、本能的に競争を回避するDNAが刻まれているのであると思う。

昨年、モトリークルーのライブを観にいった。客は全員ステージを凝視し、お決まりの曲のお決まりの場面で拳をあげていた。
ところが、先日発売されたアメリカ公演のDVDでは観客のスタンスが日本人とは全く異なっていた。
ステージなどろくに見もせずに客同士が向かい合って踊るわ、お姉ちゃんの乳をもむオッサンはいるわ、全員が勝手に好きなようにライブを楽しんでいた。

やはり日本人はたとえアメリカ製のギターを買えても、アメリカ式の思想を取り入れる基盤がない。

本書では後半「武士道精神」について詳細な記述が展開される。
日本人本来の持ち味を再確認せよということか。

そんなこんなで、結構楽しめる一冊ではあった。
ただ、俺には少し右に寄り過ぎてきつい面もあったが。


2006年06月20日(火) 愚か者 遅まきながら春を知る(結局こんな事を思いました編)

男女雇用機会均等法の改正、あるいは男性社員の育児休業の容認等、政府は法的、制度的に既婚女性の労働機会の提供を幅広く認めるようになった。

だがしかし、「育児は母親に与えられた天職である」という固定概念はいまだに覆される事はない。おそらく今後もこのテーゼは続いていくと思われる。

育児に関する父親と母親の違いは松本清張ではないが、「点と線」に喩えられると思っている。

父親はウィークデーは会社に行く。もちろん残業もある。そうなるとウィークデーに子供と接する機会はゼロに等しい。毎日帰宅後に子供の寝顔を見つめ、「明日も頑張ろう」と心に思い、遅い夕食の中、家内の口から伝えられる今日の息子に起こった出来事を聞くのが関の山だ。

そうなると、父親が子供と接する機会は土曜日と日曜日が基本となる。
つまり、「点」という極めて限られた時間の中でのみ、育児に関わる事になる。

それに対し母親は365日あらゆる時も欠かすことなく子供と接することになる。だから母親と子供の関係は「線」だ。

こう整理すると、父親の育児は負担が少ない反面、機会が限られている分、失敗が許されないリスクを背負うことになる。限られた時間の中で誉め、共に笑い、時には叱り、諭す事をしていかなければならない。

母親は接する時間が長い分、負担が大きい反面、子供に対し間違った対応をとったとしても、それを挽回するチャンスがある。
そして、母親にとって最も負担となるのが「待つ事」であろうと考える。

子供が言う事を聞かない時、叱る事はたやすい。また叱ることで母親は自身のストレスをある程度解消する事ができる。
だが、子供を叱り続ける事は子供の人格形成に悪影響を及ぼす場合も少なくない。母親の前でだけ「いい子」でいればよいという知恵を植えつける可能性もあるし、また叱られる事への脅迫観念を芽生えさせる危険もある。

俺の家内は毎日この「待つ事」を育児の基本と考えている。まずは叱らずに、息子と対話し次の息子のアクションをただひたすら待つ。
これは並大抵の事ではない。思わず声を上げて叱りたくなる欲求を抑え、毎日「待つ事」を繰り返すのだから。
その意味で俺は家内を心から尊敬している。

育児は子供が成人を迎えるまで続く長い道程を経る。
その中で両親は逆に子供から教わる事も多い。

俺は他人の薄っぺらい自慢話を聞くのが大嫌いだ。まして自分の自慢話をネット上で全世界に発信するなど、ヘドが出る。

だが、このバカ親に一度だけ自慢話をさせて欲しい。

ポップコーンをほおばる直人に「どんな味がする?」と聞いた時の彼の回答だ。

「眩しい味がする」

どんな文豪、詩人をもってしてもポップコーンの味をこのように評する事はできないと思う。

こんな時、親をやっててよかったな、としみじみ思うのである。


2006年06月19日(月) 愚か者 遅まきながら春を知る(お教室編その2)

教室でまず催されたのは「朝のご挨拶の歌」だった。
どうやらこの楽曲を息子達は毎日歌っているらしい。

「チュンチュン スズメさん おはよー!
 ピョンピョン ウサギさん おはよー!
 ワンワン   犬さん   おはよー!
 つくし組さん おはよーーー!」

平和だ。この空間には、根回しも強行採決も出世争いもトラウマも二日酔いも何一つない。あるのはただただ、イノセントな感性だけだ。

歌が終わると、担任の先生からこんな前フリが。

「お友達のみんなー。今日のためにみんなでお父さんにプレゼントを用意したんだよねー」

「はーーーーーい!」

来た。そう「アレ」が来た。

「じゃあみんな、お父さんにプレゼントを渡そうね!どこにしまってあるか覚えているかなー?」

「はーーーーーい!」

トコトコトコトコ(園児達が自分のロッカーに歩み寄る足音)

直人が何やら丸い筒状の紙を持って俺の隣に戻ってきた。

「じゃあ、みんなお父さんにプレゼントを渡そうね。せーの!」

「おとうさん、ありがとーーー!」

丸い筒の正体は予想通り、父親の似顔絵だった。
おまけに似顔絵の上部には「お父さんの×××なところが好き」というメッセージ欄があった。

ここで「お父さんのギターを弾いているところが好き」と書いてあったら、俺の涙腺はオーバーヒート必至だったのだが、実際はこう記してあった。

「お父さんの会社に行ってるところが好き」

なんか現実的だ。確かに俺の稼ぎがなければ、息子の衣食住に支障をきたすのは確かである。我が息子は早くも資本主義経済を理解していた。

「みんなー!あともう一つお父さんにプレゼントがあるんだよねー!」

「はーーーーーい!」

「じゃあ、みんなで練習したお歌をお父さんにプレゼントしようね」
先生がピアノに向かい、イントロを奏ではじめた。

今度こそ、泣いてしまうだろうと俺は腹をくくった。
そりゃそうだ、俺は音楽に関してはちったーうるさいクチだ。息子の歌声にギブアップするのは時間の問題だ。

ところが、息子をはじめ、ほとんどの園児は歌うというよりひたすらシャウトに徹していた。明らかにリハーサル不足だ。

さらに痛恨な事に、シャウトのおかげで歌詞が聞き取れない。これでは息子のメッセージを受け取りたくても受け取ることができない。とほほ。

歌詞カードでもあれば話は別だが、少なくとも俺はキッズ達の熱いメッセージを受信する事ができなかった。

こうして、全てのイベントは終了し、息子と家路についたのであった。





2006年06月18日(日) 愚か者 遅まきながら春を知る(お教室編その1)

熱気ほとばしるディスコティックの後、再びアナウンス。
「お父様方、お暑い中お疲れ様でした」
これは最早、全ての向井秀徳への皮肉以外、何物でもない。

「それではこれより、お教室の方へ移動して頂きます。お友達のみんなー、パパをお教室まで連れていってあげられるかなー?」
「はーーーーい!」

てなわけで、直人の案内でつくし組の教室へ移動。
おっ、冷房が入ってる。いいあんばいだ。

すると、俺の視界にある男が入ってきた。俺はこの日、ミッシェルガンエレファントのTシャツにブーツカットの黒Gパンだったのだが、そいつは下半身が俺と同じでなんとメタリカのTシャツを着ていやがった。

ほどなく、相手も俺の存在に気づき、無言のにらみ合いが始まった。

「ヘイ!そこのスカしたファンキンロックンロール野郎。3コードと8ビートしか知らないクセによくもまあ、父親参観に来れたもんだな。悔しけりゃ、ヘヴィネスとタフネスを身につけな。このカッティング馬鹿が。だけどお前には刑務所で囚人相手にライブをやる勇気なんてありゃしないのはとっくにお見通しだがな!」

「はあ?よく聞こえねえなあ、マザーファッカー!俺達にはエルヴィスから永ちゃんに至るまで、とてもお前には背負いきれない重たい歴史ってもんがあるんだよ。オメーが言うヘヴィネスとタフネスなんかとは次元が違うってもんだ、この刻み馬鹿が。刑務所でライブ?チャックベリーは50過ぎで刑務所にぶちこまれた男だぜ。てめえらにチャックのアウトロー気質なんてこれっぽっちもねえんだろうな。嘆きの唾を吐きかけてやるよ」

なんて会話があったら面白いのだが、実際は笑顔で会釈。だって俺達大人だもん。

教室ではどんなイベントがあるのか、俺は予測していた。

そう「アレ」だ。


2006年06月17日(土) 愚か者 遅まきながら春を知る(親子でダンス編)

息子の通う幼稚園の父親参観に赴く。

前日まで自分の心には何らの変調もなかった。
しかし当日を迎えると、俺の心にかつてない緊張が走りはじめた。
ライブの前の緊張、仕事上での緊張、これらとは全く異なるこの緊張感を以前1度だけ経験したことがある。

それは結婚式の当日に感じた緊張感に極めて近いものだった。
それはつまるところ「これから起こる出来事に自分の心がどう反応するのか全く想像できない」という種の緊張であった。

直人の手を引き、家を出る。
「お父さん、ドキドキしてるの?」
「してるよ。直人は?」
「直人してない」
そりゃそうだ。父親参観に緊張する幼稚園児など、いるわけがない。

家から幼稚園までは徒歩で10分強。道すがら、他の園児とその父親の姿が数組。このお父様もやはり緊張しているのだろうか?

幼稚園に到着。もうすでに多くの園児とお父上がグラウンドに集合している。直人は「つくし組」に所属しているので、つくし組とかかれたプラカードに向かう。

まず驚いたのが、父君達のルックスと服装だった。
元ナンバーガールの向井秀徳風の方が実に多い。
よくよく考えてみると、向井氏はステージ上以外では「休日のお父さん」的な空気を漂わせている。なるほど。

園長先生のご挨拶を頂き、いよいよ最初のイベント「親子でダンスタイム」が始まった。

子供達が毎日行っているダンスを今日はお父さんと一緒にやってみましょう、という趣である。

直人と向かいあい、ミュージックスタート。ところが周りを見ると踊っているのは子供だけで、どの向井秀徳も苦笑いを浮かべ、突っ立ったままだ。
オイ、コラ、やる気ねえならわざわざ来んな。見てみろ、田淵ひさ子ちゃんが泣いてるぞ!

俺は全力でダンシンした。ヘドバンも織り交ぜながら、終了時には大量の発汗に加え、息が上がってしまった。でもいい、傍観者になるよりマシだ。

こうして、第一イベントは終了した。


2006年06月14日(水) 原始風景

我が息子、直人氏は4月から幼稚園に通っている。
担任の先生から親の呼び出しをくらっていないところを見るとどうやら集団生活に順調に馴染んでいるようである。

本人の弁によると、毎日の幼稚園生活で、こんな事を経験しているらしい。

1.上履きから下履きへのチェンジを同じクラスの女の子にやらせている
2.しかも、毎回違う女の子にやらせている
3.同じクラスの女の子と「チュー」をした
4.おまけに担任の先生とまで「チュー」した

トホホ。これでは父親とうり二つではないか。

DNAとは恐ろしいものである。


2006年06月09日(金) お買い物

今日はTシャツを二枚買った。

一枚はビーチボーイズが5人並んでサーフボードを抱えてる写真がプリントされているが、顔だけはニューヨークドールズというシロモノ。
写真の上には「BITCH BOYS」とロゴがついている。

もう一枚はツェッペリンのファーストアルバムの飛行船がヴェルベットのバナナマークになってるヤツ。

あと、CD数枚とモトリーのライブDVDを購入。

今夜聞いて、観る予定。

みなさんも楽しい週末を。


2006年06月08日(木) タイミングが悪い

iPODのnanoを愛用している。
色んなジャンルの色んなバンドやアーチストをつめこんで楽しんでいる。

スライダーズの「スクリュードライバー」っていうアルバムを聞いていたら、電池切れで音が途切れた。
大好きな「ありったけのコイン」の途中で切れやがった。

どうにもタイミングが悪い。


2006年06月07日(水) 循環

出典が明らかではないから、氏名を書くことはできないが、ある冒険家の言葉。

 「銀行は国債を買う。日本は日本の国債でアメリカの国債を買う。アメリカの国債はミサイルを作る。だからミサイルを買うための融資をしない銀行を求めないと、世界は変わっていかない」。

 低金利のこの時代に、人々は何とか自分の今後のために、資金を増やそうとする。例えば、国債を買う。その国債がこんな「循環」を生み出してるなんてことは、俺も含めて、殆どの人は知らない。「モノを売る」ことには責任があると、俺は思う。このことが、きちんとアナウンスされていたとするなら、あるいは我々が知ろうとしていたなら、国債を買う人は減っていたかもしれない。先日、米国某社の社長の言葉を聞いた。記憶が正しければ、

「経営者として、責任を取らなければいけない相手は、株主でも社員でもなく、地球の今後である」と。

深い感銘を受けた。どこかに落とされる爆弾に、巧妙な形で、自分が関わっているなんてまっぴらだ。だから、自分なりに目を開いて、いろんなものを見ておきたい。


2006年06月06日(火) お知らせ

携帯でも小説が読めるようにさせて頂きました。

ご通勤、お昼休み等でお楽しみ頂けると幸甚です。

http://k2.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/dycl00104/?pnum=0_0


2006年06月05日(月) ビンテージギター

どうもレスポールの調子がおかしい。
ギターのジャックに差し込まれたシールドに触ると、ガリガリと不快なノイズが出る。

近いうち、ギター屋さんに診てもらおう。

俺が利用してるギター屋さんの店長さんは当然ながらギターフリークである。

なので、ボディの裏にステッカーが貼られた俺のギターを見ると、「あーもったいない!ダメだよー、こんな事しちゃ。ステッカー貼っていいのは国産の安いギターだけだよ。」と言われる。

実は先日、あるバンドのステッカーを追加した。

また怒られるのだろうか?


2006年06月04日(日) 「エモ」とは何ぞや?

今日、地元のファミレスにて本を読んでいた時の話。
隣のテーブルに20歳前後の若者が4人が何やら熱心にミーティングらしき事を行っていた。

どうも、話の様子からすると彼等は4人でバンドを組んでいるようだった。
「ハイハットの入り方」が云々、「ベースとギターの絡み」が云々と俺にも馴染みのある言葉が飛び交っていた。

その会話の中で俺にとって馴染みのない言葉が登場した。

「エモ」である。

「エモバンドである以上・・・」とか「エモバンド的にはやっぱり・・・」

そういえば、バンドメンバーを探そうと四苦八苦していた頃、ネットのメンボサイトに「エモ系を好みます」とか書いてあるバンドが散見された。

じゃあ、この「エモ」なる音楽は一体どんな音楽なのだろうか?

その後タワレコに足を運ぶと、あったあった。レコメンドに色々と書いてある。

「単なるメロコアに成り下がったエモシーンの最後の切り札!超オススメ!」

この文章からするとメロコア<エモという力関係が結論できる。

そこで、メロコアより偉いとされるエモバンドを試聴してみた。

感想は「普通のロックでテンポが速い曲」という感じだった。

普通のロックなのになぜ「エモ」なるカテゴリーが存在するのか?、またそもそも「エモ」の語源は?「スクリーモ系」というのもあるらしいが、それはエモとどう違うのか?

疑問の尽きない週末であった。
ご存知の方がいたら、ぜひご教授願いたい。


2006年06月03日(土) トーキョーシティー ヒエラルキー

トーキョーシティー ヒエラルキー 名乗らないのが彼等のルール
誰も過去を語らない 今日に生きるのが彼等のルール
でも空が好き 話すことが好き 焼き立てのパンの匂いが好き
ビルの谷間に沈みゆく夕陽に
「独りじゃないさ」と路上の天使はそっと囁きかける

トーキョーシティー ヒエラルキー 笑わないのが彼等のルール
いつものオフィスにジョークがあるとしても 金を産むためのひとつのツール
での彼は娘が好き 我が娘の寝顔が好き モミジのような掌が好き
家具の谷間に身を横たえて
「これでいいのさ」と多忙な天使は天井につぶやきかける

トーキョーシティー ヒエラルキー 自分を探すのが彼等のルール
けれど何ひとつ見つかりやしない それが世の中のいつものルール
でもあの娘が好き たまらなく好き かよわく美しい二の腕が好き
長い髪をかき上げながら
「何とかなるさ」と未熟な天使は彼女に囁きかける

トーキョーシティー ヒエラルキー 静かに生きるのが彼女のルール
帰りを待つ連れ合いはもうこの世にはいない 期待しないのが彼女のルール
でも散歩が好き この街に咲く花が好き 日々の匂いにときめくのが好き
夕暮れ時に小さな灯りをともし
「もうすぐまた会えるから」と寂しげな天使はそっと囁きかける

トーキョーシティー ヒエラルキー 賭け続けるのが彼等のルール
道のひとつは明日へと続き もうひとつは墓場へ堕ちてゆくレール
でもこの瞬間が好き この興奮が好き 高なる心臓の鼓動が好き
ポケットの中で汗ばんだ手を握りしめ
「今度こそは」と不運な天使は空に囁きかける

トーキョーシティー ヒエラルキー この街はムンクの手の中にある
誰かが叫び 何処かで渦巻き とてもいとおしく 何故か美しい
そして醜い あまりに醜い 醜いけれど何故か美しい
今日もどこかで 沢山の天使達は夜のトーキョーにそっと囁きかけている


2006年06月01日(木) ルースターズと大江慎也

ルースターズのDVDを見る。
2004年のオリジナルメンバーによるリハーサルから、本番のフジロックのライブまでをドキュメントタッチで収録した2枚組みである。

大江以外の花田、井上、池畑は「ロックンロールジプシーズ」でルースターズのカバーをやったりと今でも現役のバンドマンである。

ただ、大江だけは20年近いブランクがある。
大江は「φ」というアルバムを最後にルースターズを脱退した。
色んな噂が当時流れたらしいが、重度の精神障害により、音楽活動の維持ができなくなったというのが真相らしい。

その後、大江は音楽シーンから完全に遠ざかり、博多の実家で農業を行っていたらしい。

再結成のいきさつはスマッシュの日高氏の熱烈なオファーがあったらしいが、20年のブランクをおいて、果たして大江は歌いきりギターを弾ききることができるのであろうか?

DVDは20年ぶりに博多のスタジオで4人が音を出すシーンから始まる。
大江はほとんど声が出ていなかった。音程も外してしまう。ギターもぎこちない。

その後、4人で居酒屋にてミーティングが行われる。
20年のブランクをまざまざと思い知る大江を少ない言葉でフォローするメンバー。

その後、都内での何度かのリハが行われ、いよいよ本番のフジロックを迎える。
本番においても大江にはかつて、狂気と正気のはざまを歩くようなカリスマ性はまったくなかった。
知らない人が見たら、爆笑問題の田中によく似たおっさんがヘタクソな歌を歌っているようにしか写らないだろう。

だけど、俺はそれでも満足だった。何より大江慎也が再びステージに上がることなど到底考えられなかったし、何度ものメンバーチェンジを経てもルースターズとはこの4人のバンドである事を改めて思い知ったからだ。

それにしても、大江はダメダメのまま本番に挑んだ。
ある意味大江慎也らしい潔さも感じた。
買って損しない作品である。


JIN |MAIL TOThrill freaks offcial web.

My追加