日記×エッセイ...みち

 

 

「Black Box」読みました。 - 2017年10月28日(土)

伊藤詩織著「Black Box」を読みました。

もし仮に読む前に少し恐れを持っていたとしても、どこか気になっているとしたらぜひ読んでほしい本です。
なぜかといえば、「わたし読んだ」って人が増えるほどに世の中が変わるような内容だからです。特に今の日本は伸びしろがかなり多いことがはっきりとわかります。

ちなみに、わたしは本を読む前に10月24日に開かれた伊藤詩織さんの会見映像を見ました。

また、山口氏の詩織さんへした反論(?)に対してその矛盾をついている記事を読んだり、小田嶋隆さんのこちらの記事での「うちの国のメディアでは、犯罪でもなんでもない不倫がおいしい記事にされているかたわらで、明らかな犯罪である強姦やセクハラは記事にならない。」という文章にそうだよなーとか思ったりしてから、本を読みました。

1/4くらい読み、詩織さんの感情が事件後初めて出たとき、その記述を読む前にわたしも一緒に泣いていました。
ただ耳を傾けてくれる、大丈夫だからと受け入れていることを示してくれる、そのありがたさを感じながら読みました。

詩織さんは行動にするのが早い人だと感じられますが、それでもこれかよというシステムの問題(だけではないけど)がたくさん見えて、でもって「難しい」とか「厳しい」とか言われるわけで、これまでのケースがあって難しいとわかってるんだから簡単にしようとしなさいよ、とぶつぶつ言いながら読んでました。

半分くらい読んで、何この無理ゲー!と思いました。
こんなん諦めたくなるわ・・・。叔父さんに元検事さんがいなかったら何が通常運用なのかもよくわからないですよ・・・。

おかしいな、と感じるところがあったとしても、自分がその場にいたとしたらなんとなく見逃しちゃうようなことも書かれています。
読者の神の視点で読んでいて「やばい!それ受けないで!」と思うところをちゃんと受けずに詩織さんは進んでいきます。
・・・これがわたしの悪い癖と自分で思うところでもあるのですが、・・・非常にワクワクしました。

それから、そこに居合わせただけで人は人を助けられるのだな、とも思いました。

様子がおかしいという時点で、事件性を疑わなくてもホテルの対応として救急車を呼ぶことも別の部屋を用意することもできたとか、もっと踏み込めることはあるなと思ったり。
自分がそこに通りがかったとしたら?と自分に問うてみたり。なんかおかしいという状況に、わたしは足を踏み出せるだろうかとか。

軽い応答の週刊新潮の記者さんがかっこいい!とも感じました。ほんと、本人にしたら何でもないことなのかもしれないけど、そうだからこそそれですごく助けられるってありますよね。

NHKあさイチでの調査「性行為の同意があった、と思われても仕方がないと思うもの」も書かれています。
そのすべてが同意と「受け取れるもの」がないというね・・・。
いやはや。

わたしも痴漢にあったことがあるのでシャットダウンする感覚がわかります。それと照らしながら読みました。
それから今はないですが若い頃の職場環境ではセクハラも見てきているので、それを諦めていた過去の自分が解放されていくのを感じました。
「それはおかしいことだよ」って外からはっきり言ってもらえたようなそんな力強い感じがしました。もう笑ってごまかしたり「冗談」がわかるふりをしなくていいんだなと。

「あー。わたしは何をしてたのかな」と改めて思いました。
この本を読む前にわたしはなぜか少し怖かったのですけど、読み終えてみると、ああそうか、とどこか納得しました。
これに参加してるんだなと。参加してきたんだなと。この世界観に。ある部分では作る側にもなってたんだなと。
そして、それ、もうやめようぜと。

それらを認識したとき拒絶するような感覚が出てきました(作る側でも参加していると思ってなかったので)。ですが、まるっと受け止めてみようかと思います。
ちなみに、この拒絶の感覚は読み終えてすぐには出てこなくて、読んだ次の日に出てきました。ほんとうに、自分では気づいていない場所、奥のほうからやっとじんわりと浮かび上がることができた、そういう感じでした。

ご家族とのやり取り。
どちらの気持ちも理解できて、、、

社会になぜ正しい司法システムが必要なのか、それを知識とは別のところから感覚する感じもありました。
悲しい思い、苦しい思いをする必要なんてないもの。

スウェーデンがもうすでに見せてくれてるものを、日本にも得たいです。ほんとうに。

この事件はまだ完了・解決していません。
見続けたいと思います。

時間を長引かせれば相手が嫌になって諦める、みたいな方法がわたしは嫌いです。



...

つらつら - 2017年10月25日(水)

選挙を通じて世の中には名もなき英雄がたくさんいるのだなと思う、ここ数日でした。
すごい。皆さんかっこいいです。かっこいい人たちが目にたくさん飛び込んでくる数日でした。
そうではないものもたくさん目に飛び込んできましたが、かっこよさの影響のほうがわたしには強かったようです。3.11のときみたいだ。



「どこでそういうおもしろい情報を得るの?」とよく聞かれるのですが、かっこいいな、好きだな、と思う「人」を追っていると自然に入ってきます。そういう人に自然に教えてもらえるということもあります。ありがたいものです。わたしがやろうとしてという力ではないから。



選挙は「無言の反抗」が反抗にならない、むしろ嫌っているものの応援になるということを知らない人はわたしの周りにも多数なので、「え?そうじゃないの?」と思うような機会を増やすだけで違うのかもねと思ったりもしました。
というか、選挙だけの話じゃないよね、これね。
日本人によく見るがっかりするような投票理由、しない理由もたくさん見ました。ここを踏まえる。



「これはエゴの誘惑だな」と自分の中の気持ちを認識しながら、「本当にわたしが望むものは何か」ということを指針に最近生きています。
エゴの誘惑もわたしが望むものではあるのだけど、絶対的な望みと比べるとそれは全く勝ち目がありません。でも誘惑はなかなか魅力的なものです。

誘惑されながら、危なっかしいなーと自分を見ながら、これは自分をあからさまにする行動なのかそれとも単にマウントしたいだけか、などなど確認しながら進んでおりまする。



「瞑想っていつもしているの?」
「セルフでプレゼンシングソマティクスをしてよくないことって起こる?」
「瞑想で外側を意識したいんだけど」
などなど問いかけがあって、自分はどうかな?と経験から話すことをしていると、これまでに自分が聞いたことがある言葉が自分の口から出てきて、「あー、言葉にするとこうなるんだ?」と思うのが最近おもしろいです。

言葉で聞いていたときの理解とは確実に異なることを、わたしは言葉で発している感じ。そしてそれが同じような言葉なのが興味深いのでした。

「瞑想で外側を意識したい」というものに対しての返事には「わからない」と言われたけど、わからないよなあ、とどこか納得しました。
言葉で言われてわかるものではないよなあって。

自分が経験したことから言葉にしていると、言葉で伝わるものと言葉だけでは伝わらないものとの違いが見えてきますな。それと相手を見る自分のまなざしがやさしくなるのを感じる。



先日あれ?と思ったこと。
わたしの態度で空気が変わった人がいました。
その人とはこれまでもそんな感じのやり取りがあって、これまでわたしは「こうすると不機嫌になるからしないようにしよう」と思っていました。また違う人とのケースでは、わたしの言動からフォローに入ろうとする行動を見ました。
今もわざわざやろうとはしませんが、先日空気が変わったときにふと感じたのは、「わたしがこうしたからこの人は不機嫌になるとわたしは思ってたな」「わたしがこうしたからこの人はフォローせざるを得なくなっているとわたしは思っていたな」ということでした。

わたしがそうするということと、その人が不機嫌になるということや行動することとをつなげて考えていたけれど、これってそれぞれ別のことだ、と思ったのでした。

お互いに影響しあうというだけで、原因結果ではないのだわ。
わたしの気持ちの変化としては、以前はやらないようにと自分を緊張させたり罪悪感を持ったりしてたところを、「あ、やっちった。まあいっかー。次やらないといいな。」と受け取るようになったところですかね。


...

- 2017年10月19日(木)

選挙。台風来る前に行っておこうかな。
不参加や白紙投票は「今のままでいい」という意思表示と同じことになるので、わたしは投票しますよん。
議席数がーとか考えてどこに投票しようか迷いましたが、わたしは策を練るのをやめました。素直に投票します。



鍼灸にっき。
好調不調の波となるベースは上がっているものの、不調の類は同じものが出てきますし、まだまだおなか壊しやすく冷えます。
最近は施術時間が長くなっています・・・というよりは、おしゃべりの時間が長くなっているというのか。施術時間は30〜40分ということなのに、1時間以上のこともざらに。
通い先の鍼灸師さんとは、好きなものは異なるけれど好きな傾向が似てるのでどうも話をするのが楽しいのでした。
楽しいけど、そちらばかりに引っ張られずにからだを感覚することもするぞ!
(いや、それをしに鍼灸に通ってるんではなかったか)



「あれ?なんで気づいたんだろう?」と思うことがちらほら出ています。
これまでそうしてきてずっと気づいていなかったのに、あれ?なんで突然気づいたんだろう?みたいなこと。
それは自分を見るときにも他者を見るときにも関係してて、例えば『「これが原因だ」っていうような雰囲気でわたしは言いやすいなあ』と思ってると、同じような時期に、他者が「これが原因だ」というように話しているとき、あ、わたしと同じ感じだ、と気づいたりとか。

あとは誰かと話しているときに、話しているそのときの感覚を感じていることで、「あー、結構わたしは、人にこう思われたくない!と頑張ってきたんだなあ、、、相手の人がそう思うのを許しちゃえば、それでわたしはだいぶ楽になっちゃうんだなあ・・・」と気づいたことがあったのですが、そうしてから、SNSでフォロワーがたくさんいるある方にいまいちな言葉をかけている人を見たのですね。
わたしはなんだかなあ。。。と思ったのですけど、本人は何も反応もしていなかったのでした。誉め言葉にも、煽り言葉にも。
(誉め言葉への反応として感謝はありますが)

「攻撃的な言葉に静かに心を痛めてるという場合もあるけど、あれ?もしやこの人は気にしていないってこともあるのか。」
そう、ふと思ったのでした。
「もしそうだとしたら、この人に攻撃的な言葉をかけている人は・・・自分が得ようとしてるもの・自分がこれで得られてると信じてるものが実は得られてないということになるのか・・・」
そう、ふと思ったのでした。
一方だけが信じている図。

そうしたら攻撃的な言葉を使っていた人に対して、、、なんといったらいいのか、この感じは。かわいそうというのとも違うんだけど・・・。
少なくとも、あなたが相手する相手は間違ってるよ!と言いたくなる感じというか・・・、暖簾に腕押しして喜んでる人をみてる気分がしてきて。
わたしは効率を重視しがちなので・・・えっと・・・って思ったのでした。

攻撃を奨励しているわけじゃないのに(むしろ穏やかさを勧めたいのに)、どこか攻撃的な言葉を使ってたその人を応援してる気分になりました。

うん?



...

つらつら - 2017年10月12日(木)

最近、自分の経験から「あ!これってACIMで書かれてたアレのことだよね?」と思うことがいくつか出てきています。

それから、以前はスルーした「なんか嫌だなー」ということがまた現れてみたりしています。形は異なるのですが、嫌の質が似ているのでした。
以前のときは「スルーしたこと」がわたしにとってのクリアポイント、成長ポイントだったのですけど(多分。なんとか頑張ろうとしてしまいがちだったので。)、で今回は、以前のバージョンよりは少し食べやすく砂糖がまぶしてある、みたいな感じで。
それなのでそれに流されてしまわずに「どこに自分は嫌だと感じてるのか」というのを明確にする作業をしっかりやってみよう、それを拒否感からではなく相手に伝えてみよう、みたいな感じになることがありました。

嫌だなと感じた感覚。どんな嫌さなのかな?とみてみると、なんか「古臭くて嫌だ」ってそういう感じでした。
伝統的であっても古臭さを感じないものもあります。うーん?どう違うのかな?と思いました。

古臭さを感じたのは、「昔の形を採用した」ということから感じられるようでした。
その時代にうまくいっていたとしても、その頃とは人も生活も考え方、信じているもの、集合意識などなどいろんなものが変わっているわけで。
それを考慮せずに形だけ同じことをして同じものが得られるかというと・・・それって全く腑に落ちないぜ、という感じ。
そういうのをパッと最初に「古臭くて嫌だ」と感じた、と。

伝統的であっても古臭さを感じないものは、形も意識もどちらも当時と同じものを行っていると感じられるものを指しているのかもしれません。
それはどこから感じるのかな。意識がどうかというところかな。
自分にないから得ようとするのではなく、もうその意識になってる、そういう感じには古さを感じないのかもなとか。

古臭く感じさせたこれが、偶像崇拝というものかもなー。
形だけ。そのつもりがなくとも。

わたしのイメージでは、古臭さは宗教っぽさとも重なるようです。
宗教は苦手なのでした。



逆に、これまで学んできてこれからも学びたいのはこれでしょ?というものにも出会いました。
というか、SNSで流れてきたのですが。

新渡戸稲造さんって、わたしは5000円札のイメージしかなくてどういうことをした人なのかなどよくわかっていなかった(いない)のですが、新渡戸さんの次の言葉がSNSで流れてきたのですよね。

「異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待する。」

わたしはずっと長い間、他者に自分と異なった部分を見ると、諦めたり離れたり接触するのをやめたりしてきました。今も結構そういう自分が出てきます。
そうして自分の「平和」を得ようとしてきたのですけど。

それと全く逆ですよね。新渡戸さんの文章で言っていることって。

だからなのか、わたしはこの言葉を読んでしばらく涙が止まりませんでした。
わたしのずっと望んでいた平和は、人から離れるのではなくて親密さから、個人的な接触から生まれるものだった、と改めて思ったこと。
そしてそれを80年くらい前に亡くなった新渡戸さんが望み、期待したということ。
実際に望んでそう生きた人の存在は、わたしにはとてもインパクトを与えるのでした。

こういったことはずっとジャックさんのところでも学んでいることであって。
ジャックさんのクラスでお話を聞いていて、泣けて泣けて仕方がないけどなんでかがわからないということがわたしは結構あるのですが、その中のひとつがこれだということもわかりました。

まだまだ道半ばでござる。


...

- 2017年10月08日(日)

「わたしはジャックさんのところで学んでいることについて練習しようとしてない」と思いきや、日常を過ごしててその中で練習になるようなことをしている、状況が与えられてることに気づきます。
自分でやろうとしてないのでとても楽です。

ひとつめ。

相談したいのですけど、と言われました。
話を聞いていたら、わたしだったら相手の人にこう言う、というのが出てきてそれを伝えました。相談者の問題に関係してるその相手の方がなんか道理にあってなくて、それにぷんすかしながら伝えました。

でも、「相談してきたこの人はわたしのように、おかしいと思ったら相手に直接言う、みたいなそういうタイプじゃないな」と思って、わたしのやり方を伝えても解決してないよなあと、もう一度話を聞きなおしました。
悩んでいてよく眠れなかったとも言っていたのですが、今のだと眠れるようにはなってないよね、と確認してもう一度やりなおしました(笑)

話を聞いて、どうしたらいいかねえ、これに対してどう思ってる?これはあなたは気になってるの?とやり取りをしてたら、本人からとてもしっくりした答えが出てきました。これならできそう?と尋ねたらできそうだと。
わたしは、この人にそのやり方はすごく合ってる!とも感じたので応援しました。

相談してきた方は前日の夜は一晩うまく眠れなかったそうでしたが、答えが決まると行動が早くて、一時間後くらいには「終わりました!」と教えてくれました。
(悩んでいた重さと解決へかける時間とのギャップに、早!と言ってしまいました)

そしてすごいなーとワクワクしました。
行動の早さにもですが、本人が答えを出してわたしはそれらの情報を整えて確認して応援しただけ。そして本人が行動したということに。
すごいなー。


ふたつめ。

性に関する相談、、、相談ではないか、なんかそういう話題になったのですけど、その人は男の人なのでわたしはようわからん(自分にあてはめられない)ものでした。体の構造が違うしな。自分だったらどうだろうに限界がある。

で、それで思ったのは、わたしが答える必要はないなということ。ひとつめのケースでも「わたしが答えていない」ですが、このケースでもそうだなあと確認しました。
相談に適切な人がいるだろうし、ひとつめのケースのように本人が答えを出すかもしれないなと。

それから、それでも共有できる部分があるなということも思いました。
というのは、そのようにその人が言うってことは、それに関したなにかに恐れがあるわけで。
あー、その「恐れ」に関してならやりとりができるなあ、わたしも恐れなら知ってるぞ、と思いました。
あとはネットで少し調べたりもしました。へええ。(知識が増えた)

地味にケーススタディしております。


...

つらつら - 2017年10月04日(水)

キングオブコント2017のにゃんこスターを何度も見ています(笑)
かわいいー。たのしいー。自然ににこにこしちゃうんだよねー。
どこか懐かしく、でも既存にない「お笑い」。
いいわあ。



先日、出勤時に歩いていて気づいたこと。
歩いていたら、なんか腰が痛いぞと。
その痛みというのは、歩いている振動が腰に直にいっている感じだぞと。
そう感じながら歩いていたら、おしり(骨盤)の筋肉が動いてない感じに気づきました。

なるほどー。おしりの筋肉の動きがままならないから、衝撃が緩和されずに直に腰に行くのか!と観察しました。

で、動きの良くないおしりの筋肉を感覚しながら、おお、動きがよくないぜと認識してたら、自然に膝と足首を柔らかく使って歩いていました。

興味深かったことは、膝と足首の動きも固い感じがあって、どこかままならない動きなのだけど、ままならない膝と足首とおしりが連携することで腰に痛みが走らなくなったということでした。
チームワーク!

さらに興味深かったこととしては、膝と足首は使おうと意識して使ったわけではなくて、おしりの筋肉の動きのままならなさを感覚していたら自然に体が対応したということ。うん、なんかね、どこかをかばったりする動きじゃないんですよ。
もともとの筋肉の固さはともかくとして、そこをさらに緊張させたり頑張ったりせずに連動して動いている様を感じることがちょっとおもしろかったです。
動きは無意識でありながらその動きに気づいている、というのがとてもよいなあとも思いました。



先日またもジャックさんのクラスを受けてきたのですけど、なんで毎回わたしはあんなに新鮮に話が聞けるものなのかと思います。
前にも聞いた話、誰かに言っているのを聞いた話、ある部分はそういう話を繰り返し聞いているはずなのに、いつも本当にその時の自分に染み込んでいく、わたしが変化していく感じがあります。

もう一度たくさん復習したくなったのですけど、ひとつ思ったことがありました。

自信がないとか、自信のなさとか、わたしのそれって、わたしの先回り精神からきている部分があるかもって。

わたしは自信を無くすことで、自分が傷つかなくても済むようにしているなと、なんか思ったのでした。
傷つきたくないから、その痛みを感じないで済むように自信を無くしてるんだなあって。自信がないならそれに踏み込まずにいられて、だから痛みを感じなくて済む、そんなことをしている?あれれ。
なんかそんな感じがしました。

ずうっとそうして胸に痛みが出ないように、胸に痛みが出るようなことは避けるように、そういう状況にならないようにしてきたけれど、

「ハートをオープンにするには、ハートを壊していくこと」

という・・・。
しかもそれがよくわかってしまう・・・。その通りだって。

またも自分が望むところから逆走するわたしに気づきましたので、はい、またUターンです。
いやはや。


...




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