つらつら - 2016年11月29日(火) ここのところ、息がしづらい感じがしていました。 職場で自分の担当している機械が連日調子が思わしくなく、その機械は他のものでフォローが利かないものなので、その故障は待っている方々に対して直に遅延を起こします。 調子が悪くなったことに対する対応(メーカー、顧客、機械自体、現場のほかのスタッフへの伝達)、今後の改善のための対応の相談と実施。 その機械を共に担当している部員はちょうど夜勤や休暇と重なっていたので、ある部分は一人で行うことになっていて、それもわたしにとって重かったのでしょう。 今年の11月はなんだか予定が次から次へと入ってくる感じで、メールや電話が来ることも多くて、わたしは基本的に自分のペースで物事ができないことが続くとしんどくなってくるところがあって、ついでに震度5の地震も来たしで、そういうことが全部混ぜ合わせて「息がしづらい」という状態になったかな、と。 簡単に言えば、「疲れた」と。 息が胸の上部まで入っていかない感じがあったので、寝る前にデコルテの部分に手を当てて、置いている手の感覚を体の内側から感じる、ということを数日していました。 手を当てただけで温かくなる、とわたしは思っていたところがありました。手の温かさが胸に伝わる、みたいな。実際そういう部分もありますよね。 でも、今回気づいたのは「手を体の内側から感じる」ということをした時の熱量の違いです。 ただ感覚を感じる、胸の内側から、置いてある手の感触を感じる。どんな感触なのかなって感じる。 呼吸と合わせて内側から触れるのはやりやすいのですが、今回は呼吸がしづらいということもあったから、そこを自分でがんばって呼吸をしようとはしたくなかったんですね。 というわけで意識してではありませんでしたが、それが「呼吸はそれほど使わずに、身体感覚意識だけで体の内側から触れてみる」経験につながりました。 意識をしただけで、体の内側から感覚しただけで、こんなに温かく(熱く)なるんだ!って、パズルのピースがピタッとハマった感じがしました。 これまで4年、ずうっとジャックさんが「意識を入れると温かくなるから、そこからその人がその体の部分に意識を持ってきてくれたんだなとわかるんだよ」と言うのを、何度も何度も何度も何度も・・・聞いていました。 わたしもそれをクラスで体験していて「そうだなあ」とは思っていました。 ですけれど、とはいっても呼吸を入れているしその身体運動で熱量が発生するのだろう、相手の手からの体温もあるだろうし、とも同時に思っていました。 「意識を入れることによって」と名前を付けることはできるかもしれないけど、本当はどうなんだろうなー、という感覚。 それが、「ああ、意識を入れるだけでいいんだ」と今日すっごく腑に落ちました。 なんだろう、このジャンプ。自分の学んだものと感覚とが一致した感じというか。 ジャンプしてからもう一度、「意識を入れて温かくなる」ということについて振り返りました。 「意識を入れる」ということに、わたしはオカルトっぽさを感じていたけど、意識を入れることで生じる身体活動がある、と筋膜についての情報がぴたりと符合しました。筋膜だけじゃないか、皮膚に関する情報も符合する感じです。 (わたしは4年間、一体何を聞いていたのか・・・) 4年か。 なかなか頑固さんです。これで土台を作り直したら安定感の保証があるな。 ちなみに、この息がしづらかったおかげ(?)で、日常で自分がどういうことに心を縮ませて、どういうことで心を穏やかにするのかに気づきやすかった面もあります。 自分が何を思い込んでいたか、何を信じていたか、何を間違っていたか。 今回気づいたこと。 1、心を縮めているときはプレゼンスではない。 わたしは過去に「あったときのこと」を思って胸を痛めたのですが、その時に岡本太郎さんの言葉を偶然見ました。 “永遠というのは時間を超えた瞬間なんだ だから愛に燃える瞬間が永遠で、 その後につづこうがつづくまいが、どのようなかたちであろうと、 消えてしまってもそれは別のことだよ。” 別のものを見ていたな、と気づいた言葉です。つづく、つづかないは関係がない。 2、自分が望むものは、自分がここちのよいあるものから離れないと手に入れられないと思っていたということ。 そのここちのよいものが、ここちのよくないもの(自分の望みを邪魔するように見えるもの)と一緒にあったりするので全然気づかずにいました。 自分がそれに対してここちいいと感じていたことすら、気づいていませんでした。(ヒントはあったのですけれど) 3、人を貶めることは誰にもできないということ。 人を貶めることは間違っていること、ではなくて、人を貶めることができるというアイディアが間違っていること。 そして、前者を信じている人がたくさんいるということ。 4、人は、自分が怖れと共に行いがちな行動に対して「正しい」と固執したがるのかもしれない、ということ。 これらを、某クトゥルフTRPG動画を見てて気づくというね。 何からでも学べるのだわ。 ... つらつら - 2016年11月27日(日) 数か前に職場でストレスチェックを行いました。 まだ結果は届いていませんが、どんな感じで結果が出てくるのかなあと思っているところです。 ストレスチェックのこと自体すっかり忘れていたのですが、同僚がストレスチェックのことを話題にしたので思い出しました。 同僚の弟さんの職場全体はストレスが多い結果になったけど忙しいわけではない、というお話で、人との関係性、自分自身との関係性は重要だなあと思いました。 そこで質問をされました。 もしストレスが高いって結果が出たら病院に行くかどうか、と。 この質問が出るってことは、行くことに関してなんらかの抵抗があるのだなと。 ちなみにわたしは行きます。 ストレス自体への対処というのもありますけど、まあ、というよりは、第一にわたし自身は精神科医にかかったことがこれまでないので、どんなことを話したりするのだろう?どんなふうに?などなど、そういう個人的な興味が強い。 そういう部分に関しては、あんまり「どう思われるか」みたいなことを気にしていないところがあります。 まあ、ずうっとわたしはそういったことについて学び続けてきているので、今更どう思われるもないです。 (思われるならもう思われてるでしょうし) でも同僚と話をしていて、周りの目を気にしてしまって行くことができないとかもあるよなあ、と思いました。 仮に実際には周りはそう見ていないとしても、自分が設定してしまう「周りの目」というのはありますし。 受け取り方や見え方なんて、地域や国や文化によっても異なるわけだし、制限があっての価値観なんだなーと認識できれば、そういった価値観があるとしてもそれに対して怯えたりしなくていいのかなー、なんて思いました。 ということで、いろんな価値観に触れるというのは固定されなくていいなあと思います。 怯えることで、その価値観を強固にもするよなあとも思います。 今回の話だと、ストレスに対しての医学的対処を恐れることで、より「特別」にしてしまう、みたいな。 わたしの中である種のジョークみたいだなと感じてるのは、医療関係者だというところ。 精神的なことと体とを別なところに置くことはない。マインドと体。 そして、精神的なことも、体的なことも、恐れることは何もない。 まずは隗より始めよです。 ... 「マイマイ新子と千年の魔法」見ました。 - 2016年11月23日(水) 話題の「この世界の片隅に」が見たいのですけど、残念ながら県内上映は来月からなので、この待っている間に前の作品を見てみようと、iTunesにて「マイマイ新子と千年の魔法」をレンタルして見ました。 見始めはそれほど熱心には見ていませんでした。 でも、 「このアニメって出てくる人が人っぽいなあ」 「そういうところ好きかも」 そう感じながら見ていました。 人っぽいというのは、定型っぽくないっていうのかな。物語が進むのにこういう人がいると進むよね、とか、こういう時に出てくる女性といったらこんな感じだよねとか、そういうお決まりの感じではなくて、その人自身のしゃべり方、その人だけの癖、とかひとりひとりにそういうものがある感じがして、ちゃんとそこにいる人のように感じられました。 これまで生きてきた時間みたいなものが感じられるのかな。 わたしがハマったのは、先生が結婚するくだり辺りからです。 手紙で、あれ?と思って引っかかって。 後ろのほうはずっと泣いてました。 子どもたちの話だと思って見ていて、でも大人も、ああ、ばかだなあ、・・・でも愛おしいわけで。 噂だけの伝わり方があって、その人を知っている人、関わっている人の物語は別にあって、わかりやすい話だけ聞いたら、「汚い」とか「悪い」とか「間違ってる」とか、そうして閉じ込めてしまうような、でもそれをそう閉じない、そこにわたしは涙が出てきました。 わかりやすい部分だけだとすごく不条理だったりして、でもそこの裏に隠れていたことが一緒に見えると、それらが混じって、混じりあってできているそれが「賢い」か、「正しい」か、と言われるとそういうわけではないのだけど、人が生きるってそういうことじゃないよな、賢いからいい人生だった、正しいからいい人生だった、そういうことではないよなって。 そういった後味がありました。 すごいよかった。 ... プレゼンシングソマティクス復習中。 - 2016年11月21日(月) 復習復習、ということで動画を見ているのですけど、これまでとは違った復習の仕方をしています。 ジャックさんと一緒に真似して動いてみる。 真似して感覚を感じてみる。 真似して言葉を使ってみる。 トレースしてみて気づいたのは、ジャックさん早いな!ということ。 施術を受けている時だったり見ている時は全然早いなんて思わないし、むしろゆったりとした感覚を受けているので、真似してみてびっくりです。 わたしがやっていることとスピードが全く違う! だから、これ、考えてやっていないな、ということがわかりました。いい意味で、考えてやってない。 もちろん理解があってやっているのでしょうけど、理解がないとできないことでしょうけれど、ひとつひとつ計画を立てて、みたいな考え方をすることはこのスピードでは施術中はできないように思いました。 その時を感覚して、流れに乗ってやっているんだなあって感じました。 いや、ジャックさんいつもそう言ってるけどな。感覚として、あ!こういうことね、って感じになったのは今日です。 クラスで習っている時に、部屋の向こう側でやっているジャックさんの手技が見えた時に、それを見ながら同じようにわたしとペアになってる方にやってみる、ということも以前こそっと試してやってみたことがあるのですけれど、あれー?相手の人すごい気持ちよさそう、みたいな。 動きを真似するけど、それだけではなくて手の感覚を感じながらなので、自分だけでやっている時よりもわたしの内部はいろいろ動いている感じがあります。 ジャックさんのやり方って、クライエントとして受けている時に頭を使わせない感じがあって、それがなんでかなあ、ってここ最近ずっと思っていたのですけれど(そしてマインド大活躍のわたしにとっては「かっこいい!真似したい!」という部分なのですけれど)、動作だけでなくて使う言葉もジャックさんの真似をしてみたら、「ああ、頭が使えない!」と、クライエントの時に感じたのと同じ感覚を感じました。 施術側もこの感覚なのだなあ・・・。 最終的に施術をしているうちにプラクティショナー側でもその感覚になる、その経験はあったのですが、あ、初めからこの感覚なんだ、、、って思った感じです。 ああーすげえー・・・。 ねえねえ! あれ、できるようになりたーい。 (聖霊さんの裾を引っ張る) ... 接遇研修でプレゼンシングソマティクスの復習 - 2016年11月19日(土) 先日、職場で接遇研修を受けました。 つまらないなあと感じたところと、おもしろいなあと感じたところとがありました。 いくつかワークをしました。 目が笑っていないとマスクをしている場合はお客様に笑顔が伝わらない、というお話で、表情の表し方の練習をしました。 眠そうな目をして、そのまま頬を上げると目が三日月型になって笑っているように見える、というお話で。 眠そうな目をして・・・ そのまま頬を上げる・・・ とやっていたら、思わず吹き出してしまいました。 それ、笑ってないじゃん!と思ったら、それがすごくおもしろくて。 「眠そうな目をしてる」=「相手に微笑んでいる顔」 その組み合わせというか、その考え方にすごくおもしろくなってしまいました。ある意味、笑顔になれるルートを発見した気分になりました。言葉にするとその考え方をばかにしているように読めますが、そうではなく本当に、発見!という感じでした。 ペルソナを作るというワークは初めてやったなあというか・・・おもしろかったです。 どちらかというとこれまでは、仮面を使い分けない、みたいな方向でのワークをやってきていたのもあって、今回のワークは逆にわたしにとっては「仮面を作ってはいけない」的な思い込みを壊すのに使えるなと思いました。 うまく言えないですが、認識しながら作ってみるのはおもしろいかもしれません。変わらない自分が、ただいろんなお面をかぶる、みたいな感じなので。 お互いに肩もみをする、というワークもしました。 バージョンがふたつあって、ひとつは黙って肩をもむ。受けている方は反応を返さない。もうひとつのバージョンは、コミュニケーションをとりながらの肩もみ。 このワークは、わたしにとっては改めてプレゼンシングソマティクスがわかる、という感じでよかったです。 今回の研修を受けている人たちはボディワーカーではないので、そこにいる皆さんそれぞれの反応を見るというだけでもわたしはおもしろかったです。知識があるからそういう反応、というわけじゃないということが確認ができる感じで。 個人的には、言葉をかけて、感じていることを教えてもらって、というやり方の方が、体の反応がわかりやすく表れてくることを感じて、やっぱなー、なんておもしろがっていました。 1分間のワークだったので、その短時間でこのわかりやすさか、ということも個人的には興味深く感じていました。 もうひとつワークがあって、一人がその人自身の今興味があって取り組んでいることのお話をして、それをペアになった人は聞いて、その時間が終わったら今度は聞き手話し手を交代して、聞き役と話し役を時間を定めてする、というワークをしました。 これ、傾聴のワークだなあと。 こういうこと、お金払ってこれまでやってきたので、ただで職場でできるっていうのはすごく楽しいです。 で、これまでやってきた分、つまらない、と感じる部分は出てくるのかもな、と思いました。 でもそれは、おもしろいことをもう知っているからだな。 素晴らしい先生方に巡り合ってきていたってことだな。 それはわたしにとってとてもうれしいことです。 ... つらつら - 2016年11月17日(木) 今日は、マインドフルネス(プレゼンス)は仕事をする時に使えるなあと改めて思いました。 自分が焦っているという時に、焦っている時の感覚を感じていて、自分は今焦っていることを認識しているのなら、人に助けを求めることもできるし、自分で通常よりも少しゆっくり丁寧にしてみようと工夫することもできます。 でも焦っている時にプレゼンスでないなら、焦っていることに焦っている最中は気づくことがないかもしれません。 何かを終えた後に、ああ焦った、とかいうかもしれないけれど。 プレゼンスにいない人に対して声をかけることで、その人を「今」に迎い入れることもできるんだな、ということも思いました。声に気づくのは、「今」だからできるわけだから。 そうやってお互いが助け合えるのかもな、と思いました。 人に相談を受けたことから、その会話からそういうことを思いました。 それから今日は、これまでできなかったことができた日でもありました。 難しいなあと思っていたことでした。 相手の方が努力しているなということは感じるし、それが他の人に伝わりにくいというのも理解するし、わたしのほうもできるようになりたいとは思うけどなかなかうまくいかない、そう感じていたことが、できました。 できたことに気づいたのは家に帰ってお風呂に入っている時です。 一日を振り返っていたら、あれ?これって・・・、とそこで初めて気づきました。 あ、できてた。 できるようになりたい、もっと意識してやらないと、と思っていたのに、無意識にできました。 だから、とても軽くできたことに驚いています。 もっとすごく頑張ってできるものなのだと思っていたのだなあ、ということもわかりました。 「もっと意識してやらないと」という力みが、本当に要らないものなんだなあと思いました。力んでいなかったし意識もしていなかった。 意識をしていないというか、意識をしていたのは別のことだったんですね。それは力む必要がないことでした。 ここの違いを自分の中でもう少しはっきりさせたいなあ。 意識をしていたけれど力んでいない。もっと意識してやらないと!と力む。この違い。 わたし一人ではできなかったし、わたしもわたしのこれまで学んできたことが、やろうと思ったり教えようとしたりそういうのがなしにできて、最高です。 やろうと思ったり教えようとしたり、そういうところに力みが関係するみたいですね。なんだろうな、承認欲求かな。何かあるんだな。 そんなのどうでもいいくらい、理由は別になんだっていいよ、ってくらいいい日だった。 ... 片づけと内観 - 2016年11月15日(火) ボディワークのセッションができる空間を確保するために、片づけをしていました。 いらないけど捨てるのが面倒くさかったもの、買ったときは高かったもの、今は使わないけど使えるから置いておいたもの、あることすら忘れていたもの、などなどを片づけていました。 片づけ期間、いろんな感覚が出てきました。 今日は母関連の書類を処分しましたが、大部分処分するけどまだ少し残しておくことにしました。 ひとつひとつ書類を見ていきながら捨てていったのですけど、この時には母はどんなだったなとか、わたしはこんなことを感じていたなとか、そういうのが病院の名前だったりわたしの書いたメモだったりから、ひとつひとつ感じられて。 捨ててしまうことでなかったことになってしまうような気持ちがしてきて、少し残すことにしました。 なかったことにならなくしよう、というか、もう母に対してではないけど、別の誰かに対しての機会、わたしの準備ができて消化できるという機会に向けて、そのヒントに残しておこう、と思いました。 あの頃の自分の感覚を思い出せるように。仮に忘れてしまったとしても。 全部をいっぺんに出す、置き場所をまず決めて、何があるのかを全部見る、みたいな片づけ方をしたので、部屋の中は一時すごい状況になりました。 その状況から思い出されることがあって、わたしはそれを思い出したくないのだなあ、と感じました。 思い出したくないのだなあ、と感じていたら、これまで全く意識していなかったこともふたつほど出てきました。 ひとつは、わたしが片づけが苦手だったそのルーツがわかった、みたいなこと。 簡単に言えば、わたしの父はすっきりと片づけていました。わたしの母は片づけを始めると結果的に散らかしてそのまま終わっていました。子供の頃のわたしは、父のやり方のほうがいいと思っていました。 でもわたしの好きなやり方は、母のやり方経由で結果父のように終える、というやり方なんだな、ということに気づいた感じがします。最初の部分の母のやり方に対して否定的だったので、わたしは「片づけが苦手」だったのだろうなあと思います。 意識していなかったことのもうひとつは、自分が我慢していたことに気づいたということです。 わたしが我慢していたことって、今我慢する必要が本当にないことだったりしていました。子供の頃に我慢した、そのままずっと本当に引きずっていたなということがわかります。 しかも、「え、わたしが我慢するのってそういうことに対してなの?」と自分で意表を突かれた感じがしていて、個人的にはそこが興味深かったところです。 気にならない人は気にならないだろうけど、嫌だという人は普通あんまりそういうの我慢しないんじゃないかな・・・というようなこと。 例えば、風呂場の足ふきマットが濡れたままなのが嫌だけどそのまま使う、とか、そういう感覚というか、住み心地的な類のものをわたしは我慢しやすいことに気づきました。 もうね、自分で洗って干して、あるいは新しいのを買ってもいいし、自分の気持ちよいように使っていい、使えるにもかかわらず、そうできるということに気づかない。そして「もうちょっとなら我慢できるかな・・・」とか感覚を使っていました。 ・・・こうやって書いているとその我慢をする意味が謎ですが、実際そうなんですよね〜。(~_~;) 変な話、なんかちょっと感動的でもありますが。こんなに気づかないんだ!ってことが。 ミステリ物が好きなわたしとしては我ながらほれぼれしました。 子供の頃に嫌だって感じてたのだな、慣れて嫌ではなくなるのではなく嫌だったことに慣れた、その嫌な状態が普通だと思ったんだな〜、と振り返ったりしました。 片づけをしていたある日は、とても時間が長く感じました。 三、四時間くらい、いつもに比べて時間があるように感じました。その日は、一日二十七時間はあったような体感。 不思議なことに、朝ゆっくり起きても、のびのびとさぼっていても、ずっと集中していても、時間が思っているよりも全く進まなかった日。 時間がないように感じやすいわたしは、とてもうれしい一日でした。 ちょっと思ったのは、住み心地、居心地と体感時間って関係しているのかなーと。 あの感覚でいつも過ごしたいです。 ... 夢と猫さん的な毛布 - 2016年11月11日(金) 昨日見た夢は、わたしが苦手としてるAさん(仮)が「今日飲み会があるけど参加だよね?」と言ってくるというものでした。 夢の中のわたしはとっさに断っていて、どうにでもなること、変更もできること、今日じゃなくてもいい予定、実際予定はしていたけど特に今日の予定にはしていなかった予定を使って、「もう予定があるので行きません」と言いました。 起きた後に、これは何だろうなあ、と思いました。 親しい個人で飲むなら別ですが、「大勢での」飲み会というものがあまりわたしは好きではないところがあります。 ・・・別なことを書こうと思ってこうして書いていたのですが、「あ、大勢での飲み会、わたし好きじゃないわ」と書いていて今、気づきました。 これまで、親しくしている人の誘いの時にも乗り気じゃない感覚がふっと現れてきていて、飲み会自体が嫌いなわけではないのもあったので自分を気分屋だと思うことが多かったのですが、なんかそれが少し解決というか腑に落ちたというか。 意識していない部分でなにかがあったぞと。それがなにかは今のところわからないけど、ここら辺にあるのだな、とわかっただけだけど、楽な感じがしました。 「自分は気分屋だ」という評価に罪悪感が絡んでいたので、「あ、罪悪感いらないんだな」と感じられて、それが楽なのかな? Web日記ではない、自分用の日記も書いているのですが。 昨日の日中、わたしは咄嗟に怒りが出てきて、表現はしなかったけれど怒りが出てきて、これはなんでかな?と、昨日日記を書きながらわたしは見ていました。 そして、何かを恐れている、という結論は出たのですけれどそれは何かはわからなかったので、「その何かが知りたい」と文をしめました。 気分屋という判断と罪悪感の関係に気づいたわけですが、それを踏まえて、昨日の事柄には罪悪感が絡んでいるかな?と、改めて昨日書いた日記を今もう一度読んでみました。 そうしたら、もう言葉として自分で書いていることに気づきました。 昨日のわたしはわからなかった、わたしが恐れていたものが何かということがわからなかった、でもその「何か」は自分の筆跡で書かれてありました。 昨日のわたしはそれを恐れとしては扱っていませんでした。「こうしたくない」と思っている事柄として書いていました。 わたしは「こうしたくない」ことを「してしまうこと」を恐れていました。「こうしたくない」だけではなかった。 ということが今、こうやって書いていて判明しました。 自分で書いてわかって、自分で書いたのを読んでわかって。 わたしはなにやってんのかな?と思いつつ、楽になったからまあいいかとします。 今日見た夢では、亡くなった父と母が家に親戚を招いて新年会(つまりは飲み会)をするというもので。 うへえ、となりました。 その場合のわたしは真っ先に断るという行動にはならなかったのだけど、じわじわと「やっぱり出たくないなー。その時間は外に出かけてようかなー。もしくは覚悟して出るか・・・。」と迷い始める、と。 父と母はわたしにとって苦手な人ではないので、苦手なAさんと何が違っていて、どうしたことでAさんをわたしは苦手と感じてるのかな?ということも見てみました。違いは何かなー、断れるか断りにくいか、というところがあるなーとか。 (個人的には、なぜ断りにくいと感じているかな、と続きます。) 今日の夢の中では、昔恐れていたことも出てきて、今は恐れていないのにその恐れだけ今も使っているな、ということに気づいたりもしました。 こんな感じで、「気づく」ということに関して、わたしは夢を超使っています。 以前ジャックさんにボディワークの個人セッションをしていただいた時のこと。 その時わたしは母を亡くしたばかりで敏感になっていたということもありますが、マッサージテーブルや上にかけていただいた毛布の柔らかさにわたしはすごく感動しました。 (しかもお値段据え置き・・・) セッションで、より体の感覚に意識を向けるようになって、セッションを終えて、ジャックさんの手がわたしの体から離れて、わたしはわたしだけで自分の体の感覚を内側から感じてみるという時間に、そのベッドと毛布の柔らかさがまるでやさしさのように感じられました。 本当に、ふんわりと包まれている、心が満足するそういう感覚を、外側からも味わえました。 今、セッションを始められるように準備中で、セッション用に毛布を手に入れようとする時にそのセッションの時に受けた感覚を思い出して選びました。同じ感覚というわけではないのですけれど、同じ方向のものを選ぶぞと。 で、自分用にも同じものを買いました。 もうこの2、3日使っているのですけれど、その毛布がまるで猫さんのようで。 猫さんといるみたいで、やわらかくて、幸せ・・・。そんな感じで眠っています。猫さん好きなので最高です。 その感覚は夢にも影響しています。 亡くなった父と母に夢で会って、それは全く生前と変わりないもので。 実際にそう関わっていた時は気づいていないし夢を見ている最中は気づいていないのですけれど、こうやって夢から覚めると、ずうっとそこに存在していた感覚というものが見えて、その感覚は毛布のやわらかさとつながっています。うまく言えないのだけど、そこにいたわたしたちをふんわりそのまま包んでくれている、みたいな感覚。 夢の中のわたしはいつも夢の続きをしていて、 「いつもお父さんをもう死んじゃったものと思っちゃうのをどうしたものか・・・。」 と思います。 あ、死んじゃったと思ってたけど死んでなかった、夢の中の記憶をそのまま使ってる、と夢の中で思います。 母は去年亡くしたばかりなためか、夢の中のわたしは母が死んじゃっていることすら気づいていません。 でもそっちが本当なのかもなあ、とこうして日記を書いているわたしは思ったりもします。 というか、何度も夢でも現実でも「あ、これ夢で見た記憶か」とやっているので、若干その境がゲシュタルト崩壊ぎみではあります。どっちでもいいよもう、みたいな。 今日の朝、目覚めた時にわたしは自分の腕を抱きしめていたのですけれど。 それがまるで赤ちゃんが抱っこされている時に、自然に重さをくれている時のような感覚がして、ああ、この感じか、と思いました。知りたかったんですよ、この感じを。 体がゆだねている感じ。体にゆだねられている感じ。 その頃には猫さんの毛布は、ベッドの端っことかどこかへ行っています。 ああ、つれない。 ... つらつら - 2016年11月09日(水) 前回の日記に書いてから聖霊さんに渡そうと思ってはいるものの、何かが起きた時はスポンと渡すことを忘れます。 忘れたことに気づくことから始めています。(仕方がないので〜) それから、渡すことにしてからいくつか気づいたことがあります。 ひとつは、これまでわたしはエゴの相談役をしようとしていたのだなということ。 いやあ、そんなできるはずがないことを。 エゴさんも先輩にお任せするのだわ。 もうひとつは、嫌だなっていつも思っていたことがあったのですけど、それを渡すと思った時に、 「それはどうなの? 感じないようにしてるんじゃないの? ちゃんと感覚しないとダメなんじゃないの?」 というのが出てきました。 自分から出てきた考えなのに、それが頭に浮かんだ時にわたしは怪しく感じました。 いつもそういうふうな思考パターンがあるのに、怪しく感じました。 それほんとかよ?って。 何を怪しく思ったのかというと、「嫌なそれを感覚しないといけない」と思いながら、本当にそれを感覚しているのかどうか・・・、と疑問を感じたのでした。 というのは、どこか「変化させないようにわたしはしているんじゃないか?」と思ったからです。 なぜそう思ったかというと、感覚しているのならそれに変化が起こらないというのはおかしいぞ?と思ったからです。 感覚することから変化していく現象を、ボディワークを通してここ数年散々体験しているので、いやあそんなはずないな、と感覚で思ったのでした。 というわけで。 「ずっと変わらず嫌なことのままにしておきたい」という、すごく矛盾した望みを自分の中に見つけました。 ずっと変わらなければ、それのせいにしておける。 ずっと変わらなければ、それを攻撃していられる。 愚痴を言うことや悪口を聞くことがこれまで好きではなかったのですけど、渡すぞと決めてから、あまり気にならなくなりました。 気にならなくなったというか、楽になりました。 わたしは何が好きでなかったかというと、愚痴や誰かの悪口で「楽しくなる」ということ。 でも、自分が思っていることを共感してもらえることは好きなこと。 ここで葛藤していました。 楽しく時間を過ごすために、掛け合いや反応するように言葉を交わすことも、よくやります。 それは本当に相手の話に耳を傾けていることではないけれど。 楽しさを優先しちゃうことがあります。 相手の話に耳を傾けるというよりは、相手が言った言葉にどう返そうか、というような会話。 聖霊さんに渡そうと意識してから、それらがわかった感じです。 これまでも、理屈では自分の中で何が葛藤しているかわかってはいましたが、これまでとの違いとしては、今は整理してそれぞれの棚に入れた、って感じ。 AもBもどちらも持っていて、AとBをそれぞれをそれぞれの置き場所に置いた、置いたものを眺めて「こういうふうに置いてあるんだな」とわかった、という感じ。 これまでは、AもBもどちらも同じ場所にぐちゃーっとあって、それを「持っていること」と思っていたって感じ。 そのせいなのか、久々に嫌いな自分が出てきました。 昔と違うのは、それを直そう、無くそう、と思わないところ。 なんか、他人を見てるように自分を見て、そういうところ好きじゃないけどでもそこがおもしろいところなんだよね、と思いました。 おもしろい。楽しい。 それをどこまでにするか。 それぞれを置く棚を作る、棚の幅を決める、その棚に収まるように選別する、というのが、わたしには大事なのかもしれないなとも思いました。 ... ACIM集中クラス2に参加してきました - 2016年11月06日(日) またまた参加してきました。ACIM集中クラス第2弾。 今回のテーマは、聖霊との関係性を発展させる、というものでした。 クラスを受けてみて、もう1回テキストやワークブックを読み返したくなりました。 これまで読んできたとは違った、もっと親しい、近しい人が言っている感覚、それから近しい人にわたしが言っている感覚、そういう感覚で読み返してみたくなっています。 今のわたしにとっての聖霊の印象は、 「聖霊パイセン、マジぱねーっす!」 という感じ。 (どういう感じだ) 確実に頼れて、わたしが超懐いている先輩、みたいな感じ。 これまでの関係性を例えるのだったら、わたしは懐いていないんですよね。 頼れるっていうのはなんとなくわかる。すごいなーと思うこともある。でも懐いてはいなかった。わたくし警戒心旺盛なものですからー。 わたしが懐いたのはどこでかと振り返ると、罪悪感をパイセンに渡すワークでした。 大したことはしていないのです。超シンプル。 いちばん最近感じた罪悪感を思い出して、それを聖霊に渡す、それだけの、それほど時間もかからないワークでした。 いちばん最近感じたことというのもあって、わたしがワークで扱ったのは、日常で、それをしなかったけど特に問題もなかったけれど「あ、悪かったなあ」「本当は昨日言っておけばよかったよね」と軽く思った程度の感覚のものだったのですが。 パイセンに渡したらすごく軽くなって。 「大したことではない」と扱っていたようなものの重さが、意外と結構重いんだ?と知ることができた、みたいな感じがしました。 思い出そうとしたから思い出したような程度のものだったので、すごいなと思いました。 ・・・「大したもの」はどのくらいの重さなのよ。 (「・・・」に含まれる恐れ成分) そういったことを、もうこれから先、わたしが頼んだらずっとやってくれるってわかるんすよ。 パイセンは肉体とか時間とか制限とかあるわけじゃないので、いつも頼んでわるいなあ、なんて気を使う必要もないんすよ。 これまでも頼んでたらやってくれてたんすよ。 わたしが頼むというアイディアがなかっただけで。 わたしばっかりいつも頼むってわけではなくて、聖霊がやってほしいことをわたしが代わりにするということもできるし。 ぱねーっすよ。 これまでは、遠い国のおとぎ話とかそういう感覚でもあったのですが、そういうものではないのだな、そういうことを言ってるんじゃないんだな、と今回のクラスで感じました。 それは多分「重さ」という感覚で味わったからかもしれません。 わたしが体で感じられる感覚。 おもしろいもんです。 ...
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