日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2016年10月29日(土)

今日は、職場で大変お世話になった方の送別会でした。
いろんなことが思い出されてきました。時間を長く共有してきたけれど、共有したのは時間だけではないんだなあって思います。

お別れが寂しくて泣くのを我慢している子がいたので、泣いてこい!と押してみました。
こういうのはちゃんと体験した方がいいとわたしは思っているので。
その光景は見ていて、とても甘やかなものに感じました。

送別会に参加された方の中には、久々にお会いしてお話しする方も多くて、それはそれでとても懐かしい感覚もしました。



楽しい時間を過ごして家に帰ってきたら、はたと、わたしはずうっと何かから逃げようとしてきたのだなあと感じました。

何かというのは、ACIMで言うならば「愛」ってなっちゃうのですけど、「愛」って言っちゃえば簡単ですけど、でも「わたしにとってそれがどういうものなのか」というのが言語化できるくらいにはわかっていないなあ、わたしはそれが知りたいなと思いました。

わかることといったら、それは一緒に関わる瞬間があって、共有するものがあって、生まれてくる感覚というか・・・、というぼんやりした感じ。それをよりどころに見つめてみました。

この感覚と、エゴによる「人と一緒にいたいというもの、寂しさみたいなもの」との区別がよくわからないなあ、って思いました。



わたしは、自分のやりたいことを自由にできない、と感じがちなところがあって、それはなぜかといえば、誰かといるとその人とのやりとりをすることなく早々に何かを我慢をすることにしてしまったり、自分のしたいことを脊髄反射で後回しにしてしまうような癖がある、と。

だから、一人になる時間をとてもほしがります。



で。
今日を過ごして感じたのは、わたしは何かを勘違いしている感じがする、ということでした。

めんどうくさくて、わかってもらえなくて、自分の嫌な部分を見て(ジャッジをして)、だからずっとずっと避けていたものがあって。

でもそれ、勘違いしてるよね、とふんわり感覚が出てきました。



そういうのがあるなあ、なんだろうなー、と思って、いつものように自分の日記に書き、そのうち(いつかはわからないけど)わかるだろう、とノートを閉じようとしたら浮かんだことがありました。

わたしにとって「愛」というのは、「つながり」自体なのかもしれないな、ということ。

正直、「絆」とかあんまり好きじゃないんですけど、それをわたしが嫌うのは「つながったから何かが得られる保証になる」とか、「つながった方がいい、正しいことだ、それを望んでいない人もその人の意思は関係なく皆をつなげよう」とか、そういうものが見える時ということなだけで、だからってつながり自体を自分から離そうとすることはなかったんだな、と感じました。



相手の価値観を尊重したい。
それで正直になれないことがあって、嘘をつくことが自分自身を攻撃しているように感じるところがあるので、しんどいと感じる状況にすることもあります。
わたしの価値観もどちらも尊重してつなぐ、つなごうとしてみる。
それがうまくいくかどうか、それは別のこととして。

それだけだったなーと、着地しました。


自分が何を感じているのかを、もっと言語化できるようになりたいものです。



ちなみに。
セルフでプレゼンシングソマティクスをしてる時に気づいたのですけど、
体に置いている手の温度を感じたり、
圧を感じたり、
あるいはそれと作用して手の置かれている体の内部から感じるものを感覚したり、
ということはよくしているのですけど、
「手自体、手の存在自体」の感覚を感じようとする、
それをわたしはあまりしてないなーと感じまして、意識してそれを最近試しているところだったんですね。

これをした感覚というのが、今日感じた「甘やかさ」だったり「つながり」だったりの感覚と似ている感じがしています。
感覚が似ているけど共通項がわからない。

なんだろうなあ。なんで似ているって感じてるんだろう。


...

セルフプレゼンシング日記 - 2016年10月26日(水)

数日前のこと。朝起きると気持ちが悪かった。

吐きたくなるわけではないけれど、気持ちが悪い。
起きてしばらくすると、体を動かすからかもしれないけどその気持ち悪さはなくなくなります。
でも明朝はまた気持ち悪い。それを繰り返していました。


ということで、朝起きた時と夜寝る前にお腹に手を置いてセルフプレゼンシングしてみました。
セルフプレゼンシングは、治すためにではない感じで行いました。
実際治したいなら、薬を飲むとわたしはすぐに治っちゃうほうなのですけど、薬を飲むと感覚がなくなっちゃうんですよね。それを「治す」というのかもしれませんが。
せっかく感覚が現れ出てきているのに感じることをできなくしちゃうわけなので、わたしとしては「もったいない」と思う感じです。
感覚することで得られるものを知ってしまったので。
体がしんどい時にも薬を飲まないというポリシーはありませんし、薬を飲んだら飲んだで体の感覚の変化を感じようとするのですけども。



お腹でセルフプレゼンシングをしたら、胃の上に置いた手のあるところがポカポカと温かい。

数日間それをしてみました。
でもあまり変化はなく、朝は同じように、気持ちが悪いなーと起きました。



で。
お腹に手を置いている日を続けていたからかわかりませんが、ふと、「あれ?お腹ではないんじゃない?」と思いました。
あれ?息がしづらい感じあるよね?と。



ということで、その発想が出た日の夜は胸の辺りに手を置いて、セルフプレゼンシングを行いました。
手を置いた胸の辺りがポカポカと温かく、それを手のほうと胸のほうとで感覚します。
しばらく感覚を味わっていたら、涙が出てきました。
セルフなのに涙!という自己ツッコミを頭のどこかで聞きながら、十分な時間手を置いて、それから眠りました。



その翌日の朝。
気持ち悪く感じませんでした。当たりを引いた気分でした。
胃じゃなかったんだなあ、呼吸ができていなくてそれで胃もそれに連動していた感じだったのかも、と思いました。



うまくいった!と思ったわたしはその日の夜も、まず初めに胸に手を置いてセルフプレゼンシングをしました。あ、胸だな、と思ってたので。

なのですが、またふと「あれ?首じゃない?」と思いました。
というのは、日中に「正直さ」について思うことがあったからでした。



わたしは人によっては自由にやっているように見られるし、それから物事を正直に言う方だと自分では思っていました。
でも、「正直に言えない、言ってはいけない」と思っていた自分にその日気づいたのでした。
自分ではとても意外で、そこから判断していることは正直に自分の思ったことを言っている状態のわたしとは真逆な判断をしていて、それにもびっくりしました。



前の日に友人と話していて、
「ジャックさんのところに行くと、施術をするとかクラスで話を聞くとかそういうことでというより、行っただけで、あの場所でみんなでお茶を飲んでたりするだけでもすごく楽になるのよね。」
ということをわたしは話していました。

それは、「うまく感覚できてなかったのは、胃じゃなくて胸だったんだな」って思った後のことだったので、胸の楽な感じとリンクして話が出たんだったと思うのですが。


日常を過ごしている時は、ジャックさんのクラスに出た時の「楽になった感覚」とは異なる、とわたしは思いました。

日常でわたしが何に反応しているのかはわからなくて、ジャックさんのところでわたしが何を感じているのかもわからなかったけど、違いがあるんだよ、とその時話していました。

日常では息がしづらいような苦しいような感じが出てくる。
それはわたしが何に反応してるものなんだろうな、と。わからんなあ、と。



「正直に言えない、言ってはいけない」
ジャックさんのクラスに行って、それを感じることはわたしは全くありません。

「正直に言えない、言ってはいけない」
わたしがその信念を使う時ってどんな時だろう、と思い、自分の感覚を探ってみました。
そうしたら、「自分の話を聞いてもらっている感覚がしない」時にそう感じてるなあ、と思いました。

「ただわたしの言い分を聞かれる機会があるかどうか」ということではなくて、傾聴という意味での話を聞いてもらっている感じ。
それが感じられていない時、わたしは反射的に「正直に言えない、言ってはいけない」と思うのだなあとわかりました。


それがわかったとたん思ったのは、

「別に相手がわたしに対して傾聴の態度でなくても正直に言っていいよなあ」

ということでした。

聞こうとしていない状態の人に自分の正直なものをそのまま相手に言わなくてもいいけど、自分の正直な感覚を自分自身に隠すことはないよ、と思いました。



ということがあったので、その日の夜は首に手を当てて感覚しました。腹、胸、ときて、首、と。
本当は人にやってもらった方が気持ちいいけど、自分で自分の胸から首、頭部のワークもしてあげました。

首の辺りのワークは涙が出ることはありませんでした。
ただ、こちらの感覚はすっごい気持ちよかったです。ずっとやってたい!みたいな感じで。

で、そのまま心地よく眠りました。



そして次の日。
わたしの話を聞こうとしていないな、と感じるような状況が起こりました。

でも、それが自分に影響しない感じも同時に感じられました。
この人は今傾聴をしていないな。以上。
これまでくっついてきていた「正直に言えない、言ってはならない」が出てきませんでした。



プレゼンシングソマティクスのわたしが好きなところのひとつは、こんな感じで体の感覚を感じることから日常の感覚も共に変わる、というところです。

今回わたしがおもしろかったのは、胃、胸、首、と順番にワークしていったけど、胃をワークしたから胸に気づき、胸でワークした後に出てきた発想があってそれが首のワークに導いて、それが日常の感覚にも影響して、というこの流れでした。

このおもしろさが伝わるだろうか。


...

過去日記読み日記 (エンドネシア感想日記の読み返し) - 2016年10月20日(木)

グーグル先生経由で読まれた日記があったので、何の日記が読まれたのかな?と自分の過去の日記を読み返しました。2001年6月のエンドネシアの感想を書いた日記です。15年前。


いやあ、なんか・・・。すごいなと。

今これを自分で読むと、なんかとても迫ってくるものがありました。

というのは、エンドネシアを当時プレイして感じたことは、今のわたしが人生に対して考えていることととても重なるからです。


確か当時は、人生とゲームは違う、と思っていたと思います。人生を今より重く深刻に捉えていたのだと思いますが、人生とゲームを一緒に捉えるなんてばかじゃないのかと思っていました。
思ってたなあ。


今はどうかというと、人生はゲームだ、とまるきり別の考えになっています。
でも、当時とまるきり反対の意見かといえばそうでもなくて、当時の考えは今と共通するものがあるままなので、発展していって熟成していって今の状態になっている、そんな感覚ではあります。
なのに意見としては見かけ上反対に見えるのが興味深いところです。


今この日の日記を読むと、「あ、こういうところに罪悪感を感じるのだな」というのも見えるのですけれど、それだけではなくて、「うわあ、その通りだ」と今思うことも過去の自分が言っていました。
当時は「ゲームについて」言っていたことですが、人生について言っていると捉えたらすごく新鮮な気持ちになりました。
当時人生とゲームを一緒に捉えるなんて、と思っていたわけですから、人生についてなんて言っていないわけですし(笑)



それはどこの文章だったかというと、3箇所あります。


「もう1度、隅々までエンドネシアの世界を歩みたくなりました。次のプレイはクリアを目的としたものではないから、島の人々と話したり、誰かひとりの10日間の生活について行ったり、ひたすら世界を楽しむ。」

ここを読んで、クリアを目的にした人生の生き方と、クリアを目的としたものではない人生の生き方は全く質感が違うかもしれないな、と思いました。
ゲームをして、クリアを目的として遊んでいる時と、クリアを目的とせずに遊んでいる時との質感を覚えているので、その体感が「今」に重なってきました。
人と話したり、時の流れについて行ったり、ひたすら世界を楽しむ、そんな人生はどんな質感かな、と思い浮かべました。
クリアを目的とした人生はどんな質感かな、と思い浮かべました。



「難しいからブーイングも聞こえて来たりするけれど、それはその人との相性の問題であって、ブーイングが似合うゲームでは、決してない。言い切ります。
早解きしたいタイプの方は、ゲームの中に生活時間の存在しないゲームを選ぶべきさ。」


人生はブーイングが似合うゲームでは決してない、と。
つよい。強い言葉だ。
早く解こうとしていると、不満が出てくる。でも、この「ゲーム」は早く解く性質のものではない、と。



「明日になったら、もうきみはぼく(主人公)のことを知らない。だからそれから、会いに行けませんでした。今度は行くね。はじめましてからはじめましょ。」

自分が昨日会った人は、昨日のままの人だと思っている。
本当は、昨日とは別の人。
新たに会う人。
日々変わっている。
自分も変化している。
お互いに変化しているのに、それを見ずに同じことを繰り返すのはとても変なことだ。
ゲーム内での10日間の流れでも登場人物は変化をしているけど、過去の蓄積もその時点では見ている。

そうではなくて、10日間の流れが終わって全くこれまで会ったことがない、あの感覚を毎日繰り返してみる。
これまで会ったことがない感覚を持ちながら、これまでの記憶は持ちながらそれに振り回されない。
もうきみはぼくのことを知らない。もうぼくはきみのことを知らない。
知ってる、と思っているんだよなあ、とACIMの最初のほうのワークを思い浮かべました。


わたしは何も知らない。わたしは意味のあるものを見ていない。


...

恐れとチャクラワーク - 2016年10月16日(日)

人に怒りをぶつけられると、嫌だなあと感じます。

怒りは恐れからくるもの。
自分自身に恐れがあるとそれが不快なので、その不快なものを怒りとして他の人にあげようとするのだそうです。

しかーし。
そうなんだなーそういうことなんだなーと頭でわかったとしても、実際に自分に怒りをぶつけられると嫌だなあと感じます。
少なくとも、今のところわたしはそうですよ。

その人の恐れ自体に共鳴しないとしても、その人の「怒りをぶつける」様に対して不快感を感じる、ってそんな感覚がします。



で。

「怒りをぶつける」様に対して不快感を感じる、ということは、わたしもその不快さは自分自身の中に恐れがあってそれに反応する感じなの?
(まあ、そうかもね)

それも自分自身の恐れを見ていったりワークしていったりする感じなの?
(えー、めんどうくさい)

と、思いました。



ジャックさんの秋冬のクラスはまだ受けたいものがあるので、受講した時にでも質問しよう、と思いました。めんどうくさく感じない別の方法があるならそれを聞きたいなと。
(じゃないと、わたしはやらないと思うので)

ですが、過去の録音を聞き返していたら、しっくりする答えが浮かびました。



それはチャクラのワークをしていた時の録音でした。
喉、胃、ハート、とそれぞれのチャクラと呼ばれるエネルギーセンターの部位に手を置いて、体の内側からと外側から感覚し、それに気づいている時間をとります。
そうしてからそれぞれのチャクラをつなげていくというワーク、その時の録音を聞いたのですが。

なるほどね、と思いました。

それぞれのチャクラを感覚して、
つなげて、
そしてハートから相手に関わる、

そうした時、相手が怒りとして表現している恐れ、それに対してのわたしの感覚が、何もしていない時に受け取る感覚とは別のもののような感じがしました。
どういう仕組みかは今のわたしには説明ができないけれど、感覚的に、そうだわ、と。
怒りの表現に対して脊髄反射しない感じがするなと。

脊髄反射をする自分と、しない自分。
何が違うのだろう。
チャクラが整った、とか、チャクラのエネルギーが高まった、とか、表現方法はあると思うのですが、言葉上はそうだと思うのですけど、それはどういうことなのか、もっと具体的にどう影響するものなのか知りたい、とわたしは思います。
人に説明するという場合に、自分の言葉になっていないと自分の言葉を自分で聞いて説得力ないなあなんて感じてしまってあまり好きではなくて、だからもっと理解したいなあと思います。


試してみたい事項です。
まずは、本当に怒りの表現に対しての感覚が変化するかどうか。


...

ACIM集中クラス1と、ハンズオン認定復習クラスに参加してきました。その2 - 2016年10月12日(水)

ハンズオン認定復習クラスの方は、同じ時期にプレゼンシングソマティクスを習い始めた方たちと一緒に受講になりました。
いつものメンバー、久々にお会いした方、今回はわたし含めて4人で受講。
前にも受けられる機会はあったのですが、その日は希望者がわたし1人だったのでやめたんですね。(希望すれば1人でも受けられました)
1人で受けなくてよかった、と思いました。楽しかった・・・!


本当に、あの場にいるとわたしは楽なんだろうなと感じます。
今、わたしがクラスを受けていた時のわたしと一緒にいるとしたらどう感じるかな、とその時のわたしの感覚と共に感じてみると、そう思います。
自分の知らない自分が見られます。
え! あ、こんなこと思ってたの?とか、こんなに嫌だったの?とか、自分でびっくりします。本当に。

人の話に耳を傾けるということをワークしてきて、そして自分の話に耳を傾けてもらえるという安心感がある場で、皆が自分の内側の感覚に正直になって話そうとしている場で、だから引き出されるのだろうなと思います。

帰ってきてから、表現としての顔のワークのクラス、それを以前受けたことがあるのですがその時の録音を聞き返しました。とてもおもしろかったです。
苦笑するのは、当時はこのインパクトが感じられていなかったこと。「前にもこの内容は聞いたことがあるから」。そういうことではないんだなと、改めて思います。
今、その時の録音を聞くと、本当の自分の顔ってあれだ、この間のクラスで言うならあの時だ、って感じるものがあります。
何度も聞いたことがあるのにもかかわらず!

たとえ、今の自分の顔が正直なものではない、というのがわかっていたとしても、それをもうやめたいんだと思っていたとしても、だからわたしはどうしたらいいんだ、という感じになります。わたしはそうでした。
でも、こうしてぽろっと出てきた正直さを認識して。取りこぼさないように気づいて、ちゃんと拾って、感じてみる。
そうして、自分が普段着けてしまっている「仮面」との隙間を感じてみるのはいいなあ、と思いました。隙間がある、って感じが今はしています。「仮面」はしています(笑)


お互いに生徒同士でセッションし合った時には、わたしの場合はもう少し「よりクライエントが自分の体の感覚に参加できるように招くこと」を意識して組み立てた方がおもしろくできるんじゃないかな、という気がしました。終わってからの雑感として。
そうじゃないとなんか・・・わたしのやることって地味?(笑)というか、自分が自分のクライエント役として受けたと想像すると、メリハリがもっと欲しいと感じるよなーこれなー、と思いました。

クライエント役になった時には、肩の辺りをワークしてもらっていたら、頭のてっぺんと手首に痛みが出てきました。それなので、まずそこにワークをしていただきました。
受け手として感じたのは、ワークの仕方がいくつかあった時に、クライエントが心地いいと感じる方を先にワークしてもらう方が満足度が高いな、ということと、それから、充分に時間をかけていいということ。ただ同じところの筋肉を縮めているだけだったりしても、クライエント役としてはもっとやっててもらってもいいくらいの感覚を感じました。

ちなみに、痛みの出てきた箇所はその後どうなったかというと、手首の方は痛みはなくなって、頭の方はエネルギーが活性化する感じというのか流れが出てきたような感覚になって、痛みはそれと混じりあって違うものになる材料のひとつになった、みたいな表現がぴったりしているかな。
頭は、痛みはなくなって感覚が増した、という感じ。


腕のワークもパートナーを替えて行いました。
・・・最高です。
受けるのも気持ちいいですが、やるのも楽しくて、「そこのあなた、腕のワークをしませんか!」って誘ってやりたくなる感じ。
腕という体の一部分だけでも、指と腕のつながりを感じられる、2人で探求ができる、お互いにプレゼンスになれる、そういう感じ。

あ、腕のワークならカフェとかで対面で座ったままでできそうですね・・・。
セッションする場所に困っていたのですが、あ、なんだ、ありあり!とちょっと自分の中で何かを突破しました。
場所がない、ともやもやしてたけど、もやもやの元はそれじゃないんだなーって感じがしました。


腕を文楽のように動かす、というワークも練習しました。
重力を感じるのはこんなに楽しいんだったわ!と思い出せました。自分の腕の重み、クライエント役の腕の重み、それを感じるのがこんなに楽しいとは!忘れてた!と。
練習の相手がプロのボディワーカーさんなので(「プロ」が好きなわたしにとってはそれはとても贅沢なことで、わたしがここにいていいのかといつも思いますが)、こっちだったらどんな感じかやってみてほしい、と提案してもらって試したりもできて、そしてその違いをお互い感じられたりして、大変!勉強になりました。

ちなみにクライエント役をやった後は、わたしはずっとニコニコしていました。自動的に顔が笑う。
皆に、顔が変わった、と言われましたが、すっきりしたとか頬の位置が上がったとか形が変わったのかもしれないけど鏡を見に行ったりとか別に確かめなくていいというか、もうそこはどうでもよくて、気分がいい!最高だ!みたいな感じでいっぱいでした。

本当におもしろいワークですなあ。


...

ACIM集中クラス1と、ハンズオン認定復習クラスに参加してきました。その1 - 2016年10月10日(月)

近年は毎度のことですが、土日に世田谷にあるトリリアム インスティテュート ジャパンへ行ってきましたよ。

今月は2日間参加で、1日目はACIM集中クラス、2日目はボディワークの認定復習クラスです。

ACIM(ア コース イン ミラクルズ)という内面について扱う自主学習本があるのですけれど、1日目はそれについて朝から夕方までおやつをいただきながら集中して行いました。

(文章にしてみると、おやつと集中が並ぶと「?」って感じがしてきますが、実際違和感なく並んでましたな・・・)



通常ACIMは個人的なもので、自分でそれぞれワークをしていきます。
しかしながら、わたしはこれは誰かとシェアをし合う場があると学べる感じがあります。単に「先生」の話を聞くよりも学べる感じがあります。
もちろん、自分よりたくさん学ばれている方の話を聞けるのも大好きです。

でもこうして書いてみて感じましたが、以前とは自分の感覚が変化しているのだなーと思いました。

以前のわたしは、誰かとシェアするということにそれほど価値を感じていませんでした。少なくとも2年前まではそうで、すぐそのわたしを思い出せます。

今はその頃と何が違うのかなと。
そう思って当時の感覚と比べてみたら、どのようなことを「学ぶ」というのか、その考え方が以前とは変わったかもしれないなと思いました。



ACIMでは「あなたは体ではない」と、なかなか強い文章が出てきますが、体を通して内なる先生、ACIM中では聖霊と呼ばれる存在、キリストでもいいですけど、そういう存在とつながるワークを今回しました。

わたしはこちらの講師のジャックさんからボディワークを学んでいるので、体の感覚を今の瞬間感じる、そのようなワークは何度も何度もやっている感じでした。
だから誘導が出てきても、ああ、あれね、って感じ。

なのですけど、今回全くこれまでと感覚が異なりました。それにびっくりしました。

というか、「何度もやってきたワークだね、ああ、あれね。」って感じ、全くプレゼンス、今の瞬間にいないのだわ。
過去の記憶から見ている。そしてびっくりしている・・・(^_^;)


まあとにもかくにも、今回はボディワークとしてではなく、スピリチュアルな探求を1日行ってきてからのそのワーク、という流れだったのですが、それが作用したのかわたしには全然わかりませんけど、わたしにとってはこれまで経験した同じようなワークとは全く違っていました。

胸の上部に両手を当てて。
掌が体の形に沿うように、柔らかく手を置いて。
温かさや質感を胸の上部の側、手の側とそれぞれから感じて。
呼吸が吸ったり吐いたりすることで、胸の上部がゆったりと動いて、その動きを両側から感じて、感覚をやりとりして。

そうして、聖霊に助けを求めるんだったかそんな感じの流れだったと思うんですけど。

簡単に言えば、手を当てただけですよ。


全く違っていたというのはどんな感覚だったのかというと。
聖霊に助けを求める段、聖霊にアクセスする段になったら、わたしの感覚としては、

「ち、近すぎるわ!」

と、まず初めに拒否感が出ました。

どのくらい近いかというと、パーソナルスペースも何もない。わたしが「わたし」と思っている範囲がぴったり聖霊!みたいな感じです。

その拒否感の後に、今度は喉が開く感じがして、うれしくて泣いている時にするような喉の痛みみたいなものが出てきました。
その痛みについてフォーカシングして叙述してたら、痛みがなくなっていきました。

そして、近すぎに対する拒否感は消え、パーソナルスペースも何もない、聖霊と共にいる(近すぎる)感覚だけが残りました。
実はこれを書いている今もあります・・・。拒否感はないけど、違和感はあります。
近いってば。


で。

この状態で助けを求めるとどうなるか。この近さで助けを求めるとどうなるか。

前回、日記をどう書いているかについて書きましたが、わたしは日記を使ってACIMで「聖霊」と表現しているものに話しかける感じで日記を書いています。
だから、話しかけること自体はわたしにとっては慣れてきています。
質問も、助けてほしいって言うことも、気軽にしていました。


ところがどっこい。
この近さで「助けてね♪」と呼びかけると、即自分に戻ってきます。

「あ!他人事じゃない!行動するのはわたしだった!」
みたいな。

行動するのはわたしとはいえ自分1人で頑張る感じではなく、助けられている感じはあります。
だけど、「助けるけど、やるのはあなただから」と言われてるかのような感覚がとてもあります。


プレゼンシングソマティクスの施術でも、プラクティショナーとクライエントは一緒に行います。プラクティショナーが一方的に行う施術ではなく、クライエントも自分の体について参加していって、共創造的に行います。

プラクティショナーは一緒にその瞬間瞬間を共有し、クライエントが感覚していくところを次々示していきますが、クライエントもそうした体の箇所を意識的に感覚していきます。そうして一緒に行います。
強く押したり揉んだりとかもしません。
ということは、リリースはクライエント自身がやっている、という方が納得できます。

これまでずっとこのようなボディワークを習っていたので、
「自分の今の感覚は施術でのプラクティショナーとクライエントの関係と同じか」
と感覚的に納得しました。
これかー!みたいな。


なので、プラクティショナーの方々に、ACIM集中クラス、おすすめしたいなと思うところではあります。


...

日記を書くこと。 - 2016年10月04日(火)

ここでの文章とは別に、自分しか読まない日記を書いています。
以前に比べてこちらを更新しないのはそれでかもしれません。わたしは文章を書く分量というのが決まっているっぽくて、メールなりSNSなりどこかで文章を書いていると、他で書く文章量は少なくなる傾向があります。

自分しか読まない日記はちょっと変わった使い方をしていて、生まれる前から自分を見守っている、ずっと一緒にいて自分をナビしてくれる存在に向かって書く、という設定で書いています。

基本的にはその日にあったこと、思ったことを、ちょっと聞いてほしいんだけど、と一方的に話を聞いてもらう感じで書いています。
こういったらどう思われるだろうとか、こんなこと言ったらとか、そういった心配が全くいらないので(どうせ言わなくても知ってる、みたいな)、正直に言い、それを聞いてもらうということをしています。

これをしていて興味深いのは、自分が思ったことを書いていくことで、自分の内側から自分の思ってもいなかったこと、でもとてもしっくりする言葉が返答のように出てくることです。

「こういうことが怖い」とか「わたしはこういう風に思ってる」とか書くと、本当に怖がっているものはこれ、という感じで出てきます。だからこういう風に思うことになっている、とか、さらに奥にあるもの、土台となっているものが出てくる感じがします。

それはなかなかおもしろくて、昨晩も寝る前に日記を書いたのですが、布団に横になったらその返答が来て、その返答って自分が頭で考えだして導いている感じではないから書かないでいるとすぐ忘れてしまうので、起きてノートを開いて、・・・あ、忘れた、みたいな。でもまだ自分が思ったどういったこととそれがつながっているかというのは覚えているので、もう一度自分の思考を最初からやりなおしてみて、そうしたら思い出して、書き始めて、書き始めたら最終的にどういう結論だったのかに行くまでに忘れて。そしてもう一回自分の思考をやりなおして、あ、そうそう!そういう返答だった!ということで続きを書く、みたいな有様でした。

自分が思っていることなのだけど言語化できていない、そこまではわかっていない、そういうことを、こういうことを思っているんだよね、と出されるような感覚に似ています。

昨晩それで教えてもらった(という方が感覚に近い)ことは、自分がやりたいこと、価値があると考えていること、それをできることを信頼していないということ。
助けがないと思っているということ。
「自分が信じたいそれを信じられていないのは、周りでそうしていない人をたくさん見ているからだ」「周りに見るかどうかで自分は信じる信じないを決めている」と思っているようだけど、見ようとしていない場合にはそれが存在していたとしても信じないことになるよね、と。
つまりは自分自身が決めているんだ、と。
周りにたくさん見えるから信じる、のではなく、信じてるから周りにたくさん見るように思っているのだ、と。

さてどうしたものかというわたくしです(^_^;)

信じるってなんだ・・・?
意図したら信じられるわけでもないじゃない? 無理やり信じることとかできないじゃない?

と、質問を投げかけておく。

と、終わろうとしたら返答が来た。早いな。

「試してみる」のだそうです。
・・・ハイ。


...




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