つらつら - 2016年08月17日(水) いやあ、素晴らしい。 シンゴジラの感想を多々読み続けていますが、昨日書いた自分の日記の感覚とピタッ!とはまったのがこちら! それ!それを言いたかったの!と・・・なんかすごくすっきりしました。↓ シン・ゴジラ 1日ぶり6度目の鑑賞の感想文 そう、その通りなのー! と思ったのは、後半部分の「客観的情報量を増やしながら主観的情報量を減らす」というような内容の辺りです。 ここが、マインドが邪魔をしない、マインドに邪魔をさせない、と昨日書いた感覚とつながって、それなのー!って感じが強くしました。 どんどん情報を仕入れて自分が考えようとする隙を与えないようにする、みたいなことをわたしはすることがあります。 自分の頭でうんうんと考えようとするよりも、ひらめく、降りてくる、みたいな、そっちの方が比べてみると断然いいアイディアです。 だからより望ましい方を選ぶためにそういうことをするのですけど。 逆に、そうしてたくさん情報を入れることで、それを自分で考えることに使ってしまうこともあり、好奇心に全力になってしまって疲れてしまう、みたいな状況もよくあります。 なので。 あらま。 こうして映画で「作品」として見せられ、こうして言語化されている文章を読むことができ、感じてはいたけどぼんやりさせていた自分に存在していた感覚は、ハッキリクッキリとしました。 そしてそのおかげで、「あれ?じゃあ、もっとうまく使えるということ? 好奇心と疲れるを混同させなくて済むのかも?」と思いました。 興味を惹かれて深く知りたいなら、それを好奇心を持って調べていける。 でも、「あまり深く考えなくてもいいですよ」とも同時に伝えている。 後に疲れが残る系統で全力でやってしまってるその時には、「あまり深く考えなくてもいいですよ」という「感じ」がどこかへ行っているのだなあと感じます。 好奇心を持って深く入るとしても、同時に「あまり深く考えなくてもいいですよ」と一緒にいるといいのよねー、これねー。 要は、これかも。「外側の影響でそうせざるを得ない」としていると自分が望んで楽しくてそれをしていたとしても疲れる。 深く考えなくてもいい。どちらでもいい。そしてわたしは深く入る。というように自分に主導権を与えているかどうか。 というか、疲れる方向に行ってる時の感覚を思い返してみるとプレゼンスではないもんな・・・と確認しました。 つまりは同じことが、プレゼンシングソマティクスの施術でも言えると。 考えなくていい、興味を惹かれたならそこに好奇心を持って入って行けばいい、それは今じゃなくてもいい、そうしなくてもいい、、、 どちらを選ぶこともできる。どちらでも自分次第。 わたしは好きにした。君たちも好きにしろ。 それら両方と共にいる時の感覚に、もっと慣れることにしよう。 ... つらつら - 2016年08月16日(火) 自分が自分に対して言う、ということがあります。 本で、何かのある考え方を読んで、自分でもそれを納得したという場合に、その考えを自分にも使おうとすること、例えばできなかった、上手くいかなかったなんて時に自分に対してその考え方の言葉を言ってみたりすることがあります。 わたしはよくそういうことをしますが、残念ながらそのやりかたがうまくいっている、という感じはそれほどではありません。 できなかったことを自分で認識するということには使えますし、その言葉を自分にかけた時は、そうかそうかそうだった、と思い直す、ということはできます。 ですが、結局のところまた次の時には同じことを繰り返してみたりして、わかってるのにできないなあ、ってそういう感じになることが多かったです。 昨日のこと。 「できなくてもいいんだよ。できるかできないかが重要なのではなくて、できない、難しいところを探して、そう感じるところに対処していく。そのスタートの部分を決めているだけだから、決めたそれができなくても、できるものでなくちゃいけないと思わなくても大丈夫だよ。」 みたいなことを、話していた相手の方に言いました。 これも、納得してわたしに「仕入れた」言葉です。 「仕入れた」けど使えていない。 もう、証明されてますよね。 「結局のところまた次の時には同じことを繰り返してみたりして、わかってるのにできないなあ、ってそういう感じになることが多かったです。」 そう先に書きました。 できなくてもいいんだよ、というのが浸透していないサンプルがこちらになります。 で。 今朝になって、昨日自分が相手の方に言った言葉が何の拍子か思い出されました。 わたしは目覚めたばかりで、それを昨日言ったということも思い出してはいなかったし、思い出そうともしていなかったし、だから「自分が言ったこと」というよりは、自分とは別の誰かさんが、他の誰かさんに向かってそう言っているシーンを見ている、そのように思い出したそれを受け取りました。 そういうシーンを見ている、という感じなので、昨日自分の言った言葉なのだけど、例えばTVでそういうシーンを見ていて受け取る、というようにその言葉が思い出されました。 「あ、わたし、こういうことを言ったんだ?」と思い出す感じ。 「自分が言葉にして言った」という事実と同時に来るので、本を読んで受け取る、というのとも少し感覚が異なります。 同じ言葉を自分に対して使ったことがあるのですけど、その時に感じていた感覚と今朝の感覚は違っていました。 「自分が自分に対して言っている時に同時に自分が受けている感覚」と、「今朝誰かが言ったかのように、自分の言った言葉を思い出したその時のわたしの感覚」は別の感覚がするなあ、と思いました。 何が違うのかな?って、思ったのですけど、少し変な例えですが、シンゴジラをまだ見ていない人に勧める時に、「情報を入れないでまっさらな状態で見たほうが事前に情報を入れているよりも何倍も絶対に楽しめる!」とわたしは勧めるのですけど、その感覚と近いなと思いました。 マインドが邪魔をしない、ということ。 マインドに邪魔をさせない、ということ。 自分自身に何かの言葉を言おうとしている時、その言葉だけじゃなくて、一緒にマインドもわたしにささやいてきます。 「この考え方が正しいよ」 「みんなに好かれるよ」 「お金を稼ぐために使える考え方だね」 とか。 それらが、寝起きのわたしにはなかったのでした。 昨日それを人に言った時も、ああ、なかったんだなあ、とこうして書いていたら気づきました。 自分に言う時は出てきやすい、と。 思い返すと、母に対して言ってた時も、自分に対して言うのと同じような感覚がしていた時がありました。 人に言うような感覚で自分にも言う・・・ わたしは、「まずは自分ができないことには」と思う方というのもありますが、物事をする動機として「自分のためにやりたい」というものがわたしは多いです。 それなのに。 それに反して自分に対してがいちばんできてない・・・と感じる今日この頃です。 でもこうして書いていると、整理し理解ができるからなのかわかりませんが、書き出す前よりもそれができる自分になっているような気がします。 気だけで終わりませんように! ... つらつら - 2016年08月14日(日) 自分の言った言葉に、へえーと他人事のように思うことが多いわたくしです。 なので、人と話す機会はそういう意味でもおもしろく感じます。 あ、わたし、そう思ってるんだ?みたいな発見。 先日、こんな会話がありました。 Aさんに連れられてBさんが飲みに行ったそうです。そこでAさんは「俺は部下に厳しいだけでなく、自分に厳しい。」と言ったのだそうでした。 その話を聞いたのはわたしはAさんやBさんからではなく、Bさんがそれを話したCさんからでした。「どう思います?」と話を振られました。 というのは、BさんもCさんも、Aさんが「自分に厳しい」というのが納得いかなかったからです。 わたしから見ても、Aさんが自分に厳しくしている方には見えていなかったのですが、わたしとAさんとは思考の仕方や得意なところがそれほど重ならないというのもあって、「厳しい」とする部分が違う可能性は大きいかなとも思います。 自分がさらっとできることだと、そこで誰かは「頑張ってる」とか気づきにくい場合があります。 そこの判断は個人的なことかなあと。 で。 わたしがその話を聞いていちばん気になったのは、Aさんが「厳しさに価値を置いている」というところでした。 価値を置いていないのなら、「自分に厳しくする分、部下にも厳しくしてしまう傾向があって気をつけている」などの文脈になるのかなと。 それをわたしが話していた相手のCさんに言ったところ、 「自分に厳しくないのに他人に厳しいのはどういうことなんでしょうね。」 と聞かれたので、 「他人のせいにしちゃうのかもね。」 と答えました。 もう少しちゃんと言うなら、「自分の感じる幸せの責任を他者に与えているのかもね」と。 そう言いながら、わたしは、それだけじゃなくてAさんは自分に本当に厳しいかもしれないな、とも思う感じになりました。 わたし自身の言った「厳しさに価値を置いている」という言葉がとても腑に落ちたのでした。 価値を置いているとしたら、自分にも他人にもそれを使うよね、と。 厳しさって、よりよくするために、と本人はそう思ってやっていることでしょうけれど、実際それが有効かどうかというと疑問を感じる場合も多いなと思います。 自分に厳しさを向けるという場合でも、「厳しくしている感覚」に夢中になっている場合があるかなと思うのでした。 実際に必要なこと、有効なことに対して、というよりは。 「厳しくしている感覚」に夢中になっていると、表情筋や肩・首など体の筋肉が緊張するので、自分の体に厳しさを向けている、とも言えます。 しかしながら、肉体が「自分自身」ではない。今の自分を表現してくれるけれど。 自分の体に優しさを向け、そうして変化していく、ということ。 それは「気づく」ということでもあります。気づこうとする、ということ。 その会話の後に、ノンフィクション本の「でっちあげ」を読みました。 エゴのいろんな反応の仕方を読むことができる本でした。 この親御さんもある意味、「厳しさに価値を置いている」というように読めました。 勉強を教えるということではないけど、根本的な教育が必要なんだろうなあ。 先生にも、生徒にも、親にも伝わっていくような。 誰に対しての教育、ということではなくて、誰かに伝わったらそれを望む誰しもに伝わっていくような。 自分がそれを望んでいたことに気づくことができるような。 ... 新盆 / シンゴジラ2回目 - 2016年08月12日(金) 母が亡くなって初めてのお盆ということで、お寺に行ってお経をあげていただきました。 お経を聞いている時に、ふうっと「悲しい」という感覚が上がってきて、いつもは出てこないのだけどふうっと上がってきました。 この「悲しい」って感覚、母が生きている時にもあったよね?って思いました。 わたしは幼い時から父母が亡くなることを恐れてて、父や母が生きている時にも先を考えて悲しくなってみたりして、その「悲しい」と同じだなと感じました。 この「悲しい」感覚って、母が生きてるとか死んでるとかに全然関係がない・・・、トリガーとしては母が関係するのかもしれませんが、母自体には全然関係がない感情なんだ、と感じました。 そして同時に、「悲しい」とは全く別の感覚もあります。 これは日常にずっとあります。 この感覚も、母の肉体が生きているとか死んでいるとかに全然関係がないんだな、と感じました。 母の肉体が亡くなったからと言って、無くなる気がしないので。 そしてこちらの方は、母自体に関係があることだなと感じます。 母が生きている時と何も変わっていないふたつの部分。 これからもずっと変わらないのは、その内のひとつ。たぶん。 それではこれから、2回目のシンゴジラに行って参ります! 追記↓ シンゴジラ見て来ました!(2回目) おもしろいよーおもしろいよーなんなんだー 先日見た後に、ツイッターの感想まとめとか、感想記事とかもうたくさん拝見しまして、「わかるわあ〜」とか「え!なにそのネタ!」とかだいぶ楽しませていただいて再び気分も高まり、いつもなら時が経つにつれて「まあいっかー」なんて見に行かないで終わってしまうのですがその気分は全く衰えることなく、やはりこれはまた見に行かねばなるまいと、本日は2回目の鑑賞と相成りました。 「一度見た映画を細かいところまで楽しむために」という動機だったのですけど、結果全然そうではない感覚を得ました。 もちろん、前回気づかなかったところ(小ネタや役者さんの繊細な演技などなど)に気づくこともできてそれは楽しかったのですけど、想定していなかったのは、前回見てからまだ二週間経っていない同じ映画を見たのに新たな感覚が自分から出てきた、ということです。 既読の感想記事に書いてあったとかそういうものであったなら、「たくさん読んでいるうちにその見方を取り込んだのね」と思うのですけれど、そうでもない。 もちろん取り込んだ部分もあって、最初の上陸の時のシーンでは、「国として考えて関東で40%なら、きっと復興の進め方も違うんだろうなあ。」と妄想して切なくなったりもしましたけどね。 (僻んでみたいそんな日もある) 内容を知っていてもやはりゴジラ覚醒シーンは、また新たな感覚で来る感じがありました。 わたしはシンゴジラを「怖い」とは思わなくて、怖いというよりは「・・・すごい」って感覚で。 なんか自分のいらんものが抜け落ちる感じがしてどこか心地いいんですよね。その反面、そのいらんものが抜け落ちる感じが悲しいのか・・・ここはちょっと自分でよくわからない部分ではあるんですが、あのシーンではなぜか胸が痛くなります。 1回目の鑑賞の時は、ゴジラがかわいそうと投影したのでそれでかなと思ったのですが、2回目の本日は先日の鑑賞の結果、かわいそうと思う必要が感じられなくなっていたので、あれ?それでじゃないんだな、と思いました。 細かい部分を見ようとしていたはずが夢中になっていて、前回見たはずのシーンを今回見た覚えがなかったり、わかっていたのに見落としたりしています。 巻き戻したい!とか、今のシーンでストップ!とか思ってもそうできないことも含めて、映画館で見るのは楽しいですな。 ... プレゼンシングソマティクスについて、つらつら - 2016年08月07日(日) わたしは「別に自分がそれをしなくてもいい。」と思うところが昔からあります。 誰かがやってくれるならわたしがやらなくてもそれでいい、と思います。 プレゼンシングソマティクスもそんな感じで、「他者にプレゼンシングソマティクスを施術する人が誰かいるならそれでいい」と思いながら、わたしは自分のために、自分の興味や自分の日常に使うために学んできました。 言ってみれば、わたしのすっごい好きなものなので、わたしがお客さんになりたい。 ほぼ日での糸井さんと浦沢直樹さんの対談記事と似てる感じかもしれません。 「誰かやってくれればいいのに」 去年の秋くらいから、 「いやいやそれではいかん。誰かがやってくれるとしても、それはその人自身がしたいことをするわけで、わたしが望むことは自分がやらないと手に入らない。そうでないと、勝手に期待して、勝手に裏切られたって感じるだけだ。」 と思い始めて、自分でも他者に施術をするということを考えるようになりました。 しかしながら、「でもねー、それをしたいわけじゃないんだよねー」という気持ちも一緒にあって。 したいわけじゃない「それ」というのは、引っ越して、お客さんを呼べるようにホームページとか作って、施術して、という段取り? 引っ越すのも、サイトを作るのも、施術するのも、それぞれは全く問題がないのですけど、レールを決めてひたすら今ではなく未来を見て走る、みたいな感覚に納得がいかない感じがあったんですね。 この施術自体が「今この瞬間」をもとに行っているのもあって、その感覚に慣れてきてる分、今そっちのけで未来を構築するためにやるなんて嘘だろ?と思うわけです。 これは最近はこうして言葉にできますが、少し前までは自分では全然わかってなくて、これじゃない感、楽しくない感がどこかある、ということだけ認識していました。 このまま進んだとして、なんか違うんじゃないかな?って。 もちろんエゴの囁きの可能性もあるのですが、怖いというより、楽しくない、だったので、うーん、と思って。 そして、どうにもやらない自分、やる気がない自分を見ていました。ダメ出しもしながら。 今はダメ出しはないですけどね。 で。 どこか元に戻ったというか、やっぱり「誰かがそれをやってくれるならそれでいい」って考えに戻りました。 なんかね、ここがわたしはやっぱり楽なんです。もう、しょうがない。 でも以前とちょっと違うのは、「誰かがやってくれればいい」という内容が施術ではなくて、経験を指すようになったということです。 少し規模が大きくなりました。 (そして、いつの間にか他者に施術すること自体も、「わたしの楽しいこと」になっていました) それは、こちらの記事を読んで切り替わった感じがします。 【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編) いろんな立場によって、いろんな物語、いろんな感情があって。 一人だけの視点ではすべてを経験することはできないのだわ、とこの記事を読んで感じました。 一人だけではすべてを経験することはできない。 これと、プレゼンシングソマティクスの施術がわたしにとって合致する感覚なのです。 誰かが感覚を感じるという瞬間に共に参加できるということ、それにわたしは魅力を感じます。 こうしてまたWeb日記を書き始める気になったのは、わたしはこの施術が、この施術の根底にあるものが大好きだから。 まあ、過去のわたしとそのあたりは同じです。ゲームや本や映画やいろいろな経験、そこから感じられたことを、「おもしろかった!」「ここが素晴らしかった!」と言いたい、そういう場としてわたしはこの日記を以前使っていたので、また同じように使っています。 偶然読んだ自分の過去の日記で、今のわたしから見てなかなか興味深く感じたものがあったので、そのうちそれについても書きたいと思います。 ちなみに。 こうして書いていて思いましたが、どうしてわたしは「今をそっちのけにしてる」と感じてるのだろうなと。 どういうところからなのかな。わたしはどういう考えをしてるのだろうな。 書くと気づきます。 ... つらつら - 2016年08月03日(水) シンゴジラ公式記録集「ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ」を予約しに本屋さんへ行ってきました。 やあ、超楽しみです! いまだ、ゴジラはわたしの心を掴んだままです。 テンションも見終えた直後から変わらないままで、「おもしろかったですよ!」「見た?」とひたすら宣伝しております。 こんなに全開で何かをお勧めしているのは珍しいと言われました。そうでしょうねー。 そして宣伝してる時になにかを褒められたんだけど、自分にとって当たり前のこと過ぎて忘れてしまいました。 「いつもそうしますよねー」って言われて、そうだねーって納得したのですけど、なんだったのだったかな。 決めてから行動が早い、というのは覚えてるんだけど。 ここは自覚あるので覚えているのかもしれないですね。 と、書いているうちに思い出した。 「そうなんだーと思わずに自分で確認しようとするところ」。 わたしは自分の体験・体感に興味があるので、当たり前のことなのでした。 「そうなの!?」 「どうして!?」 「それはどういうこと!?」 と、体験していきたくなります。 シンゴジラに夢中なのも多分それで、3.11を経験して、その時の感情とか感覚というのが覚えとしてあるわけで。 意識上で覚えているというわけではなくても、感覚として、この感覚がわかるぞ、というのが残っているわけです。 シンゴジラを見て、 「今、この時代で、この時で、こういう経験がこれまでにあって、そうしてここにいるわたしだから、この感覚を経験できる」 と感じられて、そういうことがすごく喜ばしく感じます。 「経験することや感情、人生を怖がることないんだ!」 そういうことが、感覚で来る感じがしました。 あの時も、今も、ひとつの大きな流れの途中なんだなという信頼。 ... つらつら - 2016年08月02日(火) 「嫌われる勇気」読了。 なんでこの本の「青年」に初めのころ辟易したのかしらと、わたしの内側を見てみました。 辟易した後にどうして楽しくなってきたのかしら、とわたしの内側を見てみました。 日常を思い返すと、結構その流れが多いわと。 楽しいは、本当に楽しいなのかな?とかも。 辟易したのは、攻撃的に感じたから。 こういうことを攻撃的に感じるのだなあ、と思いました。 (分離を信じているというのが土台にあっての表現だから、そう感じることになるのかもなあとか) 辟易した後にどうして楽しくなってきたのか。 青年が、攻撃ではなくその表現(議論)をコミュニケーションとして使ってる、これまでの人生で「コミュニケーションはこういうもの」と学んでいるのだなと思ったから。 でも、わたしはそのやり取りの方法自体は楽しくはないわーとも思いました。 最後に青年は、議論を止めた。 ここ! ここが、個人的に「すごい!」と思った箇所です。 青年本人、これに意識的ではないと思うんだよね。でも止まるんだなって。そうだよね、得られてるんだもんね。 読み終えて、知っていることが書いてあるので一度読んだし返そうと思ったのですけど、 「プレゼンスのままでこの本を最初から最後まで読んでみる、ということをしてみたらどんな感じだろう?」 と、むくむくと発生した興味により試したくなったので、二周目行きます。 一周目で辟易した部分でまた辟易した感覚が出てきたら、今度はその感覚がどんな感覚なのか、ちゃんと感じてみるぞと。 さてどうなるか楽しみです。 ... つらつら - 2016年08月01日(月) 今日は、映画「シン・ゴジラ」を見てきました! 特撮や怪獣映画が好きなわけでもないのですけど、SNSで「怪獣映画をよく知らないから見てないというのはもったいない」みたいなコメントを見たのと、フォローしている方々がおもしろいとおっしゃっていて、見ようかなーと今朝思い、そう思った本日は仕事が休みで、しかも今日は映画の日じゃん!1000円で見れる!ということで、即決めで見に行きました。 (相変わらず、決めたら行動は早い人) すごいよかった! なにこれ! 特撮や怪獣映画など詳しくないわけですけど、そういうことじゃなくて、映画として、これは!という作品でした。 夏休みだけど子供向けという感じではないけど、背伸びして見てみるというのもいいかもしれません。 今日、ずーっと反芻してるくらい素晴らしかったです。 何が素晴らしかったんだろうと振り返ると。 キャストがまずしっくりするし(ああいった役に石原さとみさんを起用するのとかニヤニヤしました)、それから物語の流れ、前半が3.11の経験から「ああ、わかるわかる・・・」という感覚があり、中盤でのあるシーンからわたしも何かが切り替わったのだけど、そして後半の人間たちの模様。この流れよ! DVDとか出たらいろんな方面の人の解説とか副音声で欲しい・・・、と思うくらいまだまだ楽しめそうだし、全然拾えてないのが明らか。 変に人間ドラマを入れてないのがいいわあ。余計なものがない! ゴジラもねー、かっこいいんですよ。というとすっごい陳腐で申し訳ないんですけど。 初めにぎょっとして、その後かわいく思いはじめ(かわいいというか、ゴジラという生命体に興味がひきつけられたというか)、そしてさらにそのあと圧倒的なあのシーンが来て・・・。 見て来たら、ネタバレ有の素晴らしい記事がすでに数々ありますのでお勧めします。 そうして消化している現在のわたしです。 (結果、消化どころかさらに拍車がかかりました・・・。おもしろいよーレビュー。) あとは今日は職場の方にお借りした「嫌われる勇気」を読みました。 哲人と青年の会話という形で進んでいきますが、青年がなんだか好戦的で、読み初めの頃は辟易してましたが、中盤辺りに行くとそのキャラが楽しくなってきていました。 貸してくれた人は青年の気持ちがよくわかるとのことでしたが、わたしは「青年がどうしてわからないのか」を知ることができて、それがとてもよかったです。 わたしはこういった内容のことは理解しやすいというかすっと入ってきてしまって、実行に移そうとすぐに試していくので、逆に「できない!」と拒絶する感じがわからないような部分があって、なんて説明したらいいんだろう?と思うようなことがよくあります。 だから、「ああ、そうか、そういう風に説明するのか」とか、「こういうことが起きてるのか、だから受け入れにくくなっているのか」とか、そういうふうに読みました。 わかりやすい。読めてよかったです。 といいつつ、7割くらい本と同意見、という感じで、ある部分では別の意見を持っていますが、心理学としての見方と、ヒーリングとしての見方の差異って感じで、なるほどなーと思っています。 それから、わたしはこの本の哲人のように説明ができなければいけないと思っているところがありました。 でも、説明とかする機会がなくても自分がやっていれば伝わるのだな、ということもわかりました。 伝える意識がなくても伝わっていることがわかって、それも興味深かったです。 ...
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