つらつら - 2011年09月17日(土) わたしは気づいたことのメモを日常的に取っているのだけど、9月12日のメモで、「どうして気持ちわるいと思うの?」と疑問を投げていた。 ある種の男性に対して、気持ちわるいと思うなーと。 で、放置した。 9月16日。 共通点がわかった。 たくさんしゃべる方。人が好きな感じ。 でもそのくらいしかわからない。 女の人はどう?と想像しても、なんかその「気持ちわるい」の感覚にはしっくりしない。 男性で、人がいるところが好きで、たくさんしゃべるひと?が気持ちわるい?と自分に聞いてみても、男性でもそれが一致しない人もいる。 ??? と思ったまま放置していた。 そうしたらどうやら、「あなたのおっしゃる通りに」というような態度が、わたしは嫌なのだということに気づいた。 話さなければとか、楽しませなければ、わたしはあなたがどうかによります、みたいなものが嫌いみたい。 それで自分を振り返ると…、わたしそういうとこ、持ってるなと。あはーw 振り返らないと気づかなかった。でも思い当たる節ある。あるもんだなー。 そっかー、きもちわるかったか。すまんすまん。 女性の場合はどうしてそれがしっくりこなかったか。 わたしが女性というのもあるし先生とか姫とかでもないので遭遇していない、それに、自分が楽しいから話しているっていう女性をわたしは多く見ているからしっくりこなかったのかもなあ、と思った。 9月15日。 なんか変だなーと思ったことを見てた。 感覚として、自分の行動や思考を客観的に見たとき、なんか変だなーと感じる。いつもそのパターンを使う。でも、どうしてわたしがそうするのかがこれまでわからなかった。 それを見てた。 そしたら、わかった。 ずっと理由が必要だったなーと。 理由がないと、いけなかったなーと。 理由がないとOKじゃない。行動しない。 理由があるとOK。理由のために、行動する。 それで理由ってどういう意味だっけ?と調べた。 “ある事象の原因を「論理づけたもの」”。 論理づけたもの。 あれ? なんでこんなものをわたしは必要として、それで行動したりできなかったりしていたの…? と、ボーゼンとした。 9月16日。 朝から理由なく、自分の周りがピンク色に感じた。 お花のいい香りもするような。 近頃、ロクシタンのシャンプーを使っているので、それ?と一瞬思ったが、ロクシタンの香りとは違う。 まあいいや〜と楽しくなった。どきどきわくわくした。ふんわりかわいらしいなあと感じた。自然とやさしい自分に驚く感じ。自分に対してこれまでなかった自分のイメージを見た感じになった。 帰宅時間になる頃には、だいぶその感覚はうすまっていたものの、まだ漂っていた。 これを書いている今現在も、かすかにある。 これ、いいなー。またたっぷり味わいたいなー。 また話は戻りまして。 理由、「論理づけたもの」を使っていて、わたしが得られていたものはなんだったのかな?と思ってみた。 ・自分のせいにならない ・自分が決める必要がない それが自分の感覚から出てきたものだとしても、決めるようになった「理由」みたいにわたしはそれを使っていたなあ、とも思った。 感覚の責任にしているというか、感覚を自分と分離させているというか。 〜したいから。 〜になりたいから。 〜しないと形にならないから。 理由。 自分からこれら(↑)がぜーんぶなくなった感覚がした。 「どうしたらいい?」もわたしはさようならしているので、ぽかーんと、ただしていた。 これまで「わかった!」というのが楽しかった。 でも、これまでの「わかった!」は、「そのように自分が理由をつけていたことにきづいた!」ということに意味合いが変わってしまった。 だからまた、ぽかーんとしていた。 これを書いていたら、だいぶ戻ってしまった。 さっきまで感じてた、「わかることは、ただわかるだけ」みたいな感覚、まったく違うものの感覚、忘れてきている。 まあ、また現れるでしょう。 さっきまで仕事の電話がじゃんじゃん来ていた。 いそがしいようで、5分ごとに呼ばれたりしていた。 いらっとした。自分がコントロールされているように感じてのいらいら。自分にパワーがないと感じているいらいら。 これ、自己憐憫あるなーと味わった。 まあ、言ってしまえば「やらなくてもよい」のだ。 ただ自分がどう在るかだけだなあ、と思った。 (在りたいか、ではなく) そう思っていたら、仕事全般について派生して思うこととなった。 できるできないではなくて、やればできるけどやりたいと思わないなーと思っていたことがあったのだけど。 なんか気に入らない・・・と思ってたんだけど、それ、仕事の行う動機というか、方針というかが、期待にこたえないといけない、そうしないと〜という恐れ、そういうものが混じっているように感じられる、そういうことがわたしは気に入らないようだった。 これまで、わたしはわたし自身が感じることに対してワークをしてきた。 葛藤を感じなくて済むように自分を見つめたり、葛藤にならないように工夫してアイディアうんぬんとか。 そういう部分のことじゃなくなってきているような、これ。。。 わたし、どうするんだろ。 また、ぽかーん、としている。。。 ... つらつら - 2011年09月10日(土) 正しくある必要性があるなーと見ている。 また自問自答してみました〜 わたしは、相手のそのひと自身が思っていること以外の面がわたしに見えたときに、その人を否定することなく、正しくある必要性もなく、できれば相手の人を傷つけたりはしなくなくて。 そうしたら、どうして伝えたらいいんだろう?どうやったらいいんだろう? そう思う、自分の思考や感情の原因はなんだろうなあ、と思ったのが始まり。 今のところわかった原因。 1、相手の人を傷つけたくはない = 自分がそれで傷つきたくない、ということを認識していなかった 2、否定したり正しくある必要性を使ったりするようなひとと思われて、皆に嫌われたりしてないかとか心配している自分、を認識していなかった それなので、自分を傷つけない伝え方とはどのような点を意識したものかしら?と思った。 今のところの答え。 ジャッジした表現で伝えない。全てのことがいいようにもわるいようにも見ることはできる。ころころ変わっているわけじゃなくて、本質がそれだというのはしっかりとそこにある。ジャッジではなく、本質を見る。 ということで。 「自分がそれを、よいとかわるいとかジャッジしていることに気づく」という意識でいる、という答えになった。 そもそもどうして傷つくの? そもそもどうして嫌われたりしてないかと心配するの?と自分に聞いた。 答え。 呼吸法をしてね。理由がわからなくても手放せる。 優先権を「知性のつじつまをあわせること」にゆずらない。 手放してから理解できることもあるし、そのままこれまでそれをもっていたことも忘れて、理由を求めることも忘れることもある。 自分にそういう部分がある。 「そうすると傷つく」という思い。「こうしたら嫌われる」という思い。 逆にいえば、「そうしたら相手を傷つけられる」「こうしたら嫌うのは当然」と思っている?かも? ということだったので、こんな感じで書いてみた↓ 「わたしは、わたしを否定されると傷つきました」 「わたしは、相手を否定することで相手を傷つけることができると思っていました」 「わたしは、正しくある必要性を誇示されることで傷つきました。自分の言い分だけが正しいという、そういう人は嫌って当然と思っていました。」 「わたしは、正しくある必要性を周りに誇示することで傷つきました。そういうことをしたわたしは嫌われて当然だと思っていました。」 そうしたら、自分の感情がぼよぼよ〜と動いているので、ちょっと見とこうという感じ。 ... DVD「カンフーパンダ」を見たよ - 2011年09月01日(木) 5回くらい見ました! すんごい気にいっちゃって!(^o^) 普通にアクションアニメとしてもとーってもおもしろいんだけど、自分の気持ちに正直にあるということとか、努力なしということとか、自信とか、親子の葛藤だったりとか、自分にも身に覚えのあるそういうものがふんだんにあって・・・おもしろいったらない! マスター語録もだーいすき! ということで気にいって何度も見ていました。 ちょっと話は変わるのだけど。 昨日、仕事でミスしまして。 それ自体はわたしはやるだけはやった、確かめてそれでも何かが気にかかるから確かめて、そうしてミスが確認できて、そういったプロセスになんの後悔もないという感じ。 以前だったら罪悪感とか出てしんどくなってたよな〜成長したな〜なんて思っていた。 なのだけど、上司に報告するという時に、あれよあれよと右腕や背中に痛みが現れてきた。 最近、背中のこりをほぐすことを意識しているため、ああこういうことでわたしの背中にある緊張は成り立っているんだなあ、なんて感じたりして。 でも、まだなんだかよくわかっていないんだけど。 おもしろいのは、報告した方は何人かいるのだけど、報告する際にわたしに痛みが走った人と全くなにも起こらない人とがいたということ。 だから、なにが違うんだろうなあ〜とぼんやりと思った。 背中の中央辺りが痛くなった(固くなった)ので、自信に関係するのかなあ〜なんてぼんやり思った。 なにが違うのかな〜と見てて出てきたのは、痛みが走った方のひとは、わたしは苦手としているところがある方だったということ。 うーん??? わたしは嫌いな人に承認されたいの? 苦手な人に承認されると自信になるの? なんじゃそら? と、またぼんやりと思っていた。 そうしたら、思いだした。 高校の先生で嫌いな先生がいたのだけど。 どうして嫌いかって、わたしのことを信じてくれなかったから。 なにもわからないのに、信じてくれなかったから。 はじめから、わたしにはできないって、決めつけられたから。 その先生に対する感覚と似ていたのですね。背中に痛みが走った相手の方への感覚が。 高校生の時、その先生が信じてくれなかったことを、結局のところわたしはやりとげた。 やりとげた、証明した、その時の感情を今でも覚えている。 まっすぐじゃない、うれしさ。 他の先生たちが祝福してくれる中で、その輪の中に入らせない!という感覚。 見返した!ざまあみろ!というもの。 それを通してわたしは自信を感じることができた。 もう、それを使うことはないなあと思った。 自信を感じるために、他者からの承認を得ること。 自信を感じるために、こういう感情を通すこと。 そして、「ざまあみろ!」って思っていた奥には、先生に認めてほしかったわたしがいたのだなあ、と気づいて、ちょっと泣きたくなった。 先生に認めてほしかった。 そのままの自分でいて大丈夫だって言ってほしかった。 そうかー、と味わった。 そうしたら、それが「カンフーパンダ」のタイ・ランと重なった。 タイ・ランもマスター・シーフーに認めてもらいたかったとずっと思っていた者だったから。 と、思ったら。 あれ?わたしがこれまで嫌い!苦手!と思いやすかった方って、みんなマスター・シーフーっぽいよね?と気づいた(^_^;) アニメ見てる時に全然いやだとかも思わなかったのですが? まあ気づいたので、その状態でもう1回見ようかとしているw マスター・シーフー嫌いじゃない。そう、嫌いじゃないんだよ。嫌いって感じていたのは、やっぱり相手がどう、じゃないんだよねえ。 映画も見に行きたーい。 でも市内でやってなくて見に行くとしたら1時間ちょっと車を走らせないとだし、やりたいことは他にもあるしで、別に無理せずDVD化まで待つかなー?と様子見ているところ。 誰か連れてってくれるなら行きたい(^o^) ...
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