つらつら - 2011年03月31日(木) わたしの住んでいる地域は、直接的な被害は少なかった方だと思う。語弊があるかもしれないけど。 物資やガソリン、食物、道路、住んでいる場所、職場(仕事)など、もちろん被害はある。だけど、直接的に生命のどうこうという感じは少なかった方に思う。 放射能は気になるけど、これも今の段階でどうこうという話ではない。身体はすごいと思う。 けれど、そう頭で理解しても気持ち的にはどんよりしていた。 身体的には寒くて仕方なかった。 だから、わたしは支援する側なのかされる側なのかわからないな、と漂っていた。 どちらなんだろうと。 で、今日気づいたことは、支援する側、支援される側、そのどちらかだけという人をわたしは好まないなあ、ということ。 わたしの好む人は、支援しているし相手から受け取ってもいる。 支援されているし、なにげに相手に与えてもいる。 ただ、笑顔だったりとか。素直な感謝の気持ちだったりとか。 本人には与えているつもりはないかもな、というもののこともある。でもその威力がはんぱないこともわかる。 わたしは親から「じぶんのこともできないのなら他人のことに手を出すな」と言われていた。 すごくよくわかる。 でも、これでわたしはこれまでちょっと失敗もしていた。 なにが失敗だったかというと、自分のできないところばかり見てしまうこと。だから、周りに目が行ったとしても行動につながらなかったということ。 今日気づいたことは。 わたしの「できること」は、わたしにとっては「当たり前」のことだったということ。でもそれが、周りに「与えられること」のことがあるということ。 できないことをみていると、そのできないことしかないように思えてくる。トータルして自分が「できない」としてしまう。 そうじゃなくて、これはできないけど、これはできるし与えられるし、…っていうかこれ、与えるって言っていいの?別に苦労もなにもないよ?みたいなものもあるということ。 それをすればいいだけ、ということ。 だから、今日決めた。 支援者でも、支援される側でもあろうと。 ツイッターでいろいろ読んでいると、ときどき福島県民として胸が痛いものに出会うこともある。 あーこの人はそう思う・そう楽しむ人なんだなあ、と思いながら胸が痛いなあと感じることがあった。 でも、その人はただ、自分のこととは考えないってだけだ。 そしてイコール、今こんなに溢れているものをその人は受け取らない人だってだけだなあ、と思った。 そんなわけで、「寄り添う」って意味もわかった。 与え受け取ること、受け取り与えること、それが寄り添うことなのだなあと思った。 なんとなく、タロットの6を思い浮かべた。 先日、ゆびを挟んで負傷したけれど。 もう痛くない。すごい。身体ってすごい。 当日は、つめ死んだな…と思ったけれど、色も変わってきて、あれ?死なない?かも?みたいな見た目になった。 切り傷の部分もくっついて堅くなっている。 血まめの部分もやわらかいほくろみたい。 血まめは、血まめとゆびの境目の感覚がわかるから、ゆびと別のものが身体の一部として一体になっているような感じで、 あれー?なんか肉球みたい…。 と感じて、ひたすら触っている。。。 つめは話によると、死んだら下から新しいのが生えてきて二人ばおりみたいな状態になるという。 。。。ちょっとおもしろそう、それもいいな、と思った。 さあ、どっちになるでしょう(^o^) なぜか職場で松岡修造動画祭り。スーパーマリオ版とかおもろすぎ。 助かる。 すごいひとだー。 先日見た、松田くんの出てきた夢。 自己分析すると、ざいあくかんだねー、と思う。 味わっとこう。 最近とみに思うのは、思考・数字的なものだけでもだめ、感情的なものだけでもだめ、どちらも満足させると決める、ということ。 原発・電気のことも、一挙両得をねらいたいから常識力をつけているところ。 ... つらつら - 2011年03月29日(火) 薬局に薬が毎日届く形にはなってきている模様。(被害が少なかった地域) 車も、市内にいつもくらい見られるようになってきた。 自分の目で見られることでも、少しずつ進んでいることが理解できる。 一方、スタートしたいのにスタートできないような気持ちのまま、ずっと過ごしているような気もする。 スタートする時にエネルギー不足にならないために、今はただ起きていることを眺めていよう。。。 省エネ。 職場の方にりんごジャムをもらった。 それなので、パンが欲しいなーと思った。 そう思いながら本屋さんに行ったら、新刊は地震以降入ってきていないのだけど、中でパン屋さんが店を開いていてびっくり。パンが買えたw わたしの前に買っていたおじさんが、「ありがとう、本当に助かります」とたくさん感謝を伝えていた。すごく気持ちがわかる。 ブログを読んでいて、怖いなと思ったものがあった。 Aという意見を述べていたのだけど、でも「あれ?この意見はどこかで現実的には難しいという話を見たなあ」と思い、誰かその辺りコメントしていないかなあ、とコメント欄を見た。 そうしたらそのようなコメントがいくつかあったのだけど、ブロガーさんは逆切れしていて話にならないようだった。新興宗教みたいな感じというのかな、異なる意見は全てシャットアウト。 怖いなと思ったのは、そのコメント欄をたぶん見てないと思うのだけど、そのブログをお勧めしているツイッター。拡散している有名な方。 ううん。注意しよう。 原発がウルトラマンのジャミラに思えて仕方なし。 地震関連となんも関係ないことで、小指負傷。 つめがかわいそうな色になってしまった。( ̄- ̄;) 血が出てくるのを見て、普段仕事であれだけ見ているにもかかわらず、ひゃー!と思って、手のひらの血の気が引いてつめたーくなった。 それを冷静に対処しているわたし…。 縫うほどじゃないな、とりあえず止血したらカットバンかなとか。 なんなのだろう、感情と思考が伴っていない…。助かるけどなんか違うような。 こんなに連日地震が続いたこと、今までなかったなあと思う。 いまだ余震あるもんなあ。 なかなか安心しきれない感じが続いているので、もうめんどうくさくなって(?)わたしが嫌いなことをする人と、にこにこ話そうとしていた自分をやめた。 というか、きれたw というか、なんでにこにこ話そうとしていたのか、今となってはまったくわからない。 その人が嫌いなわけではないけど、嫌いなことは嫌いだという態度でいることを自分に許したみたい。 あ、わかった。 その人自体は嫌いではないから、わたしがにこにこしていれば、嫌いなことをしなくなるって期待してたみたいだ。 それはー操作というものだー。 やめられてよかった。 そして反面、好きだなと感じることが際立ったように感じる。 追記。 「国は農家が困ると金を出すのはなぜだ。工場をなくした人もいるのに。」 というようなツイートを見た。 なんか、見たくないものだ、と思った。 そうか、わからないひともいるのだな、と思った。感覚的にわかるものがないのだな、と思った。 たぶん、わたしがどよーっとしてるのはこれ。 ここが解決してほしいんだな。 そう思ったら泣けてきた。 わたし別に農家じゃないんだけど、なんでこんなに悲しいのかって言ったら、田んぼとか畑とか見て育ってきたからだと思う。 育てている姿とか見て育ってきたからだと思う。 さらに追記。 上記ツイート、わからないひとというわけじゃなかったかもしれないようだ。 だけど、自分の中にはやっぱり違いがあるので、まあ置いておこうと思う。 ... つらつら - 2011年03月26日(土) スーパーの品ぞろえがよくなってきた。まあ、レジは行列だし18時に閉店ではあるのだけど。 ちなみに、からだに安心感を伝えよう!と通常よりももりもり食べていたため、…太った。 余剰が出てきたということは、も、もう大丈夫ってことね? レジに並んでいる間に周りを観察すると、3〜4割の方がマスク着用って感じ。 スーパーでは、母がモンダミンが欲しいということで、購入。 グループホームから電話がかかってきたので、何事!と思ったらモンダミンでした。 母はネガティブ思考になりやすいから、地震の報道でまた何か!と咄嗟に心配思考になったのだけど、そうか、ガソリンとか食物を買うとか…母自身に関係ないもんな。外にも出ないし。 自分に直に関係ないものはネガティブにならんのね、と発見した(^_^;) それから、この別世界にいるような感じ、ちょっとみならいたく思った。 どうみならうかは検討中。 あ、あと昨日の問いは今日こたえが来ました。 ネットで見たことのある情報が、スーパーのレジ前に貼ってあった。 なるほどね。かたちにする、見聞きできる状態にする、ということね。 当たり前のことだった! 読みたい新刊が増えていく。 もうそろそろ買えるかなあ。 ガソリンはもうそろそろOKになるかなあ。 まだかなまだかな〜 ハトホルのヒーリングを紹介された。(イメージワーク) 正直現在はあまり不安はないのだけど、また自覚なし・からだおいてけぼりパターンになってるとアレなのでいちおうやってみた。 ハトホルと聞くと、水がめの絵とか好きなものがあったからか、わくわくするしやってみた。 …すごくすてき。 意図はしてたけど感謝、忘れてた!ってことも思い出した。 ハトホルだいすきだわー。ありがとう。 こうしたい。 こうしたくない。 なにができる。 なにができない。 できるのにやらないのはなぜ? こうすればどう? それに伴うこと。予想できること。 よい面よくない面があるのなら、よくない面をフォローする方法は? 費用、時間、人手。 国内外の影響。 目指すものと一時的な措置、「今」のレベルで見込まれる時間と費用は? ぜーんぶばーっと広げて出してほしい気持ちです。 片方の意見をそれぞれ聞いても、なにをわかって言っているのか、わかってなくて言っているのか、みようとせずに言っているのか、見ていて言っているのか、わからんちん。 すごく気持ちが暗くて仕方ないという。 10年前と比べたら…という。 それを聞いて、わたしはそうだけどそうでないなあと思った。 わたし個人は、10年前のがしんどかったから。 なにがあったわけじゃないのにしんどかったし、なにがあったわけでもある今の方がしんどくないのが正直なところ。 いまだに自分がわからんけど、なんとなくわかってもきたぞ。 ... つらつら - 2011年03月25日(金) 考え方が自分とまったく違うな、と感じて観察していると、伝えたいことを発言したとしてもその人の中で違う意味に変換されるということがある、ってことを理解した。 どうしてもその目線で見たいのだなあ、と。 その目線で見ると全てそうなるのだなあ、と。 自分が自分の考えを「正しくなければならない!」としていないならば、まあそれなりに興味深いなあ程度で終わるなあ、とも思った。 たとえ誰かに認めてもらわなくとも、わたしにとって正しいのは変わりないからだろうな。 だから、「そう思うのだなあ」とただ見てるだけで終わる。 インターネットといえばアカシックさん。 ネットで情報を得ようとするひとが得られる情報。 アカシックさんから情報を得ようとするひと(意識的)が得られる情報。 ネットを使う人と使わずにテレビや雑誌の情報のみを使う人との違いみたいなものを思って、ネットを使わないひとが、ネットから得られる情報を利用できるようになるには?と疑問が出た。 それなので、アカシックさんで例えるとどうなのかな?と思った。 どうしているのだろうなあ。 これまで聞いたことのない恩着せがましい言葉とか、被害者的な言葉を耳にする。 ただ眺めているが、ときどき重くなる。 おおう!重くなっとるわいとまた眺めるポジションに戻る、みたいな感じを繰り返している。 例えば、ガソリンを入れようとした福島ナンバーのタクシーさんが、他県のGSさんに拒否られた話を聞いてそうなった。 拒否の理由がなんというか、小学生か?というようなもの。 小学生に話すように、こういうことだと思うけどどうしてそう思うのかな?と落ち着いて話せれば、相手の人も自分がおかしいことを言っていると気づきやすいだろうと思う。 と思いつつ、感情としてはやだなーと感じるので感じとこう。 相手もだし、それに恩着せがましさや被害者的なものを使って返すことも、わたしにとってはどっちも嫌なもの。そんなの思ってホントにこれまで生活してたか?みたいな。 やだなー。 そんなわけでというか。 最近、一緒に過ごしたい人かどうかが、会話をしたり長く時間を一緒に過ごしたりする必要なく、すごく簡単にわかる。 興味深いので観察を続ける。 ... つらつら - 2011年03月24日(木) 「わたしはここまでわかりました。でも伝え方がわかりません。数字はわかりますが読み方がわかりません。わかるかたはいますか。得意な方、アイディアありますか。」 わたしは、正直に言えるかな?と思った。 切羽詰まれば詰まるほどいえないような気がするな。 切羽詰まっている時って、「自分ひとりでやらないといけない」ような気になってるもんな。 (わたしの場合です) なんか知らないけど、妙に冷静な日々が続いています。 今日、他人の振り見て改めて知ったこと。 自分が本当に言いたいことを言わずにいると、望むとおりの答えが来ない。(当たり前だけどね) そして、誰かを落としてこっちの方がましですよ、と口説いても全く魅力的ではないということ。 正直なところ、それじゃだめだわーと思いました。 「暇」 誰かの行動についてそう述べる時、その述べた人はたとえ時間がとれたとしても、そのことは自主的にやりたいことではないからやらないだろうなと思いました。 鵜呑みってどういう時に起きるんだろうなあと思いました。 とりあえず、鵜呑みにして行動してるひとを見ると、体力があるのだなあと思います。 わたしは体力がないので一旦保留にする方。それでも鵜呑み、時折するけども。 わたしはどうやら、いろんな人のことをいっぺんに考えるようなところがあるようで。 だからなにも言えなくなるのだなあと思います。 というか、言わなくていいわけだな、とわかりました。いっぺんに考えたいもんな。 今日、夢に松田翔太くんが出てきて、うふふの目覚め(^o^)♡ 前の夢と同様、なぜか松田くんとわたしは普通に仲良し。 大丈夫?と携帯に留守電が入っていたという夢。 んで、松田くんを好きなわたしの友人が目の前にいて、傷つくかもしれないから聞かせたくなかったな、と思う夢。 あー、そういうとこ気にするんだな、と思いました。 傷つくかどうか決めるのはその人自身だろうけど。 自分だったらそれは傷つくので誰かにしない、ってだけだな。 うーん、ところでどうしてわたしはそれで傷つくの? ひとりじめしたいのかなあ。 …もうそろそろ寝ようかな(笑) ←期待だ! ... つらつら - 2011年03月23日(水) 「現地の、被災者の方々の放射能に対しての恐怖といったら凄まじいものがあると思う」という記述を読んで、そうだっけ?と自分に確認した。 なんかわたし個人は「怖がってもしょうがない」みたいになってるところもある。 じわじわ影響が〜とか、じわじわ死に至るとかって、ええと…普通だし。普通に暮らしてて、そうだが?と。 もちろん、今の段階でという話。わたしの立ち位置でという話。 現場で仕事されている方を思うと、わたしがこれを答えるのは変だけどね…。 怖がってた自分がいた。最初の地震が起きた頃の自分。 どうして、なにが怖かったのかな…と今振り返っている。 怖かったのは「死」そのものではない、ってのはなんとなくわかる。 それに付随してたものっていうか、こうなったら死んでしまう!みたいな恐れ、それがなんだかわからんね。 どうなったら死んじゃうって思ってるんだろ…。 もう怖くなりたくはないけれど、知りたいとは思っている。 いろんな意見を耳にするほどに、冷静になる。 これがよい、これがわるい、そういう意見にはただ違和感を感じる。 どっちがよい、わるい、どっちが正しいかとか言い争ってるのって、時間がもったいないなと。 求めているものは何かをはっきりさせて、そこに向かって行こうとする方が早いよなあと思う。 未確認情報や、受け取り手で勝手に情報を曲げてみたりとか、自分含めてたくさん見る。 いつもよりも意識して鵜呑みに注意しよう。 鵜呑みにしたら、それは何かに注目してみようっと。 今日はなんだか眠くて仕方がなかった。頭頂がすうすう冷えてる感じ、そして眠い。 いつの間にかわたし、へたれになってたなあ、と思った。 異なる意見を場に投入する勇気を持とう。 いや、たとえ投入せずとも、その意見を自分でちゃんと持っていること。いつの間にか、なんとなく、どこかにやってしまわないこと。 もともとそういう役だったや、と思った。 もともと、水道水はおいしいと感じてないためにずっと飲んでいないのだけど。 だからなんか変な感じです。 ... つらつら - 2011年03月22日(火) ツイッターのタイムライン。 そうか、自分の好みでできているんだった、ということを実感。 世間はそういうものだ、と思ったらそうでもなくてびっくりした…ことにびっくりしたw ベースがタイムライン目線というか、けっこう被害者意識になってるものなのだなあと周りを見た。 わたしのツイッターのタイムラインでは、被害者を味わっているひとは見かけず、行動しているさまにかっこいいなーと感じたり、これからを見据えてつぶやいているさまに賢いなーと感じたり、そういう方々がいっぱい並んでいて、それをずっと眺めていたから、現実で見る世界ももうすっかりそうなっているものだと思い込んでいた自分がおもしろかった。 でも、間違っていないなと思う。 そのまま行こう。 興味深かったのは。 わたしは、自分の好きな「ドラマ」はこれだな、出演するんだったらこのジャンルだな、というものがある。 基本的に、「ドラマ」は見るだけのが楽かな〜と思うんだけど、今は好きなジャンルに出演できる方が助かる。 で、通常、わたしの好きなものを体験している時、わたしはしんどくなることはないのだけど。 今日は、しんどくなることはないそれはそれで存在していて、それなのに感情面でおもーくなったりした。 感情と思考、こんなに別々に存在してるってありなんだろうか。 それとも、何に反応した感情なのかわかってないだけなんだろうか。。。 職場が働ける状態になくて解雇されたところがあるのを聞いた。昨日今日で市内で2件ばかり。同業。 そういうことが起きるのか。県内、東北だと…どのくらいあるんだろか。どうしたもんだろ。 余震も、もうそろそろ終わってほしいです。3月ずっとグラグラしてるよ。 いつまで続きますか。 たけしさんの言葉として流れてきたものをツイッターで読んだ。↓ 「悲しみは本来、すごく個人的なこと。 今回の震災は、2万人が死んだ一つの事件ではなく、1人が死んだ事件が2万件あったということ。 2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人達がいて、その悲しみに今も耐えている。」 今日、ある画像を見た。 だからなのか、なんかそれがとてもよくわかる。 自分がどこに立てばいいか、どこに立ちたいか、いまだよくわからない。 ... つらつら - 2011年03月21日(月) やっとTVで情報を入れる気になってきたので、TVをつけている。 情報収集・整理して、元気出して行くぞう。 台湾、以前行った時、というか唯一行ったことのある海外なのだけど、わたしにとってとてもほっとした、帰ってきたって感じのする国だった。 え!?それでいいの?って笑いながらツッコミ入れたくなるような、ゆるさ。 でもとてもしっかりしていて、たくましい感じ。 日本と国交を持っていないから、自己責任で救援隊を派遣しているそうだ。 日本の5分の1の人口で、300円もあればお腹いっぱい食べれる物価の国なのに、23億円の寄付が集まったそうだ。 驚き感謝するとともに、そうだろうなあと納得もする。 そして、台湾だけじゃあない。 国交とか政治とか、それはそれであるとしても、人のつながり、人の気持ち、それもそれでしっかりあるのだなあととても感じられることが、今とてもわたしを満たしているように思う。 政治ってなんだべね。 求めるもの、時間によって刻々変わるってのも実感。 初めは食べるもの、飲み物、あたたまることが第一だった。 それなので、好きだったものでも、震災が起きた直後の時点でいらん!使えん!と思ったものがある。 その時点でもすぐに使えてこそなんぼだな、使い方がわかっててなんぼだなと思った。使い方が変化していっても、いつでも使えるみたいな。 あ、あと、水、出ました! 自分から出てくる感動、ヘレンケラーが「Water」って言った時くらいの感動。(推測) なんて幸せなんだー。 このまま水の使い方も変わるかもしれないな。 マンガ家の井上雄彦さんのYouTube。 ショートバージョンで、最初にFUKUSHIMAってユニホームに書いてある子の瞳のきらきらを見ただけで泣く。 OK! 笑顔ですね!(つ∀`*) あらゆるところに「正直かどうか」を意識する日々。 買い占めも「みんなが買ってるから」と買ってる人をネットで見て、なるほどねーと思った。 自分がどうっていうのじゃなく、ただ反応しているわけだ。 わかりやすい原発解説もたくさん読めてよかった。自分に戻ってきたのはこれが大きい。 例えばこちら。「うんち・おならで例える原発解説」と、 「うんち・おならで例える原発解説その2」 (他は紹介しないの?w) そして今日ツイッターで紹介される画像等を見てると、あなたのイメージが…そこまでしなくても、励ますために笑わせているのか、と思う励ましが目に留まる。ラルフローレンとか、 「バレンシア、ユニフォームの名前をカタカナにする事で日本を励ます 画像」 とかね。。。 うれしいけども!好きだけども! とどまっていると自分を不自由にするわけだな、たとえ従来の見解のままでも、とどまらずに前に進んで行けば道が開けるってことだな、と思った記事はこちら。[反逆の放射線効果(2)] 健康ランド…。 追記。 おおかみ少年の言葉を、過去は過去としてわたしは「今」聞けるかどうか、ということをなんとなく思っているところ。 好きなところも見れば、そうでもないところも見る。 ひとは自分に「それをしたいけどできない」「してはいけない」と設定していることをしている人に対して、否定的に見るものなのだなあ、ということも、今回の震災関連でなんとなく思っているところ。 誰を責めようが、本当に、それはその人自身を表現しているだけだなあと思う。 「生かされている」 実はわたしはこの言葉があまり好きではない。わたし個人の感覚だと、なんかパワーが出ないのだ。 一方的に感じるのかもしれないな。 与えられ、生み出す。 命が与えられ、そして自分が「生きる」と決めると循環するような。うまくいえないけど。 ... つらつら - 2011年03月19日(土) 郡山市内、断水地区はだんだん減ってきている模様。 しかしながら、わたしの住んでいる地域は水道管がめためたになったらしく、いつになることやらです。 むおーん(∋_∈) ここのところ、たびたびお風呂を借りに行っていたため、うーん、家でどうにか入れまいか?と、今日はポットでお湯を沸かし、ペットボトルに入れて洗ってみましたが。 さささささ、寒い! まあ、すっきりはしましたが。。。あまりの風呂中・風呂上りの寒さに、素直に風呂借りようと思いました。 もしくは身体だけとか頭だけとか、洗うのを区切った方がいいな…。 余震、少なくなってきてよかったです。 まだ揺れるけど、こんくらいならぜんぜん! と、書いたら結構な余震が2度ほど。 もう結構っす! ペットボトルゆたんぽ中〜。 ツイッター三昧です。 大好きな意見がたくさんある! ほくほく!とリツイートばかりになっていますが。 その情報が本当かどうかわからないけれど(もう今は特にそんなのばかりだけど)、追跡もできるようですが、わたしはわたしの好きだと感じる情報を使うことにしました。 自分の感情が動いて、それがもし後からデマだった、そうでもなかったとわかったとしても、好きなものだったら全然OKじゃね?と自分に確認。 ツイッターの何が好きか。 情報の正確さはわからない。あやしいのもある。 でもそれは他のツールも言えることだなーと思う。 ツイッターは自分にとってその情報はどうか、というのを自分の直観・道徳観・それまでの自分の経験を通して使っていくことができる。そして早い。 知らないひとが情報を使ってくれたり、知らないひとからの言葉で元気づけられたりもする。 そのあたりが好きみたいね。 ... つらつら - 2011年03月18日(金) ある考えに、せつなくなった。 そんなことを言わないでと思った。 じゃあわたしは何を言ってほしいんだろう。何を言いたいんだろう。 自分自身に戻ってきたと思ったら、また出て行って、というような感覚を繰り返している。 戻りにくいんだったら、つかまえについて行くだけだ。 どこにいくのだろう。 いろんな感情を体験している。 言葉にすると、感じているものと違う意味になりそうで、まとまらないまま書いている。 昨日ぐうぜん見たブログがある。 今日見たら登録は消えていたのだけど。 たくさんの非難の声を、「励ましの声」としていた。 もっと「励ましの声」が欲しいと言っていた。 自分たちに人権を与えない決意。 わたしはその人の気持ちは好きなものだった。気持ちの強さ。今のわたしはそれができない。できたなら、することなのかもしれない。そうかも、すぐに身体をおいてけぼりにするし。 でも、自分以外の人がそれをする姿を見ることは、わたしにとって好きなものではなかった。それがはっきりわかった。 だから、彼が自分に、人間に戻っていいと許可できる環境に早くなることを願います。 そうなっている。 わたしは、自分の身体と気持ちを意識していよう。 ... つらつら - 2011年03月17日(木) 自分のできることが仕事って、シンプルでよいなと思う。 地震の前、これ気になるけどこれはわたしの仕事ではない、これをしていたらわたしの仕事ができない、みたいなことを思っていたように感じる。 その時の「わたしの仕事」って本当に「わたしの」仕事だったんだろうか?と思う。 今、自分がやりたいことを素直に取り組んでいるように思う。 やった方がいいとか、収入のためとかじゃなくて。 気づいたらそれをするってだけで、何をしているわけでもないんだけど。 そう思った。 今週末は2日間、予定ではWSに参加予定だった。 地震が起きたため、遠隔に変更になった。よくまあこの必要なタイミングで申し込んだものだ。 そして、以前お世話になった京都の先生が東京でその次の日にこのさなかの東京でWSを行う。WSには参加しないけど、意識を向けてみようと思う。 とても心強いから。 WSの紹介文を見ただけで癒された。やっぱいいなー、すてきだなって感じるから。 こころはまんたんだなー、って感じた。 後は現実化、見える形にするだけだなー、って感じた。 どういう形になるのかわからないけど。 そして、なんかきてます。タロット引いてる時みたいな頭の感覚。 からだ、戻ってきたねー。 おかえり! ... つらつら - 2011年03月16日(水) 余震の数は少なくはなってきているけど、それでも多いし結構大きめの余震が来るので、なかなかうまく眠れない。 早く落ち着いて眠りたいー。 寒くてかちかちは、布団を一枚かけたら大丈夫になった(^_^;) というか、今まで夏布団で過ごしてて寒くなかったのがおかしいのかなんなのか。 まさかいまさら怖くて寒かったんではないというオチではあるまいな…。 でもまあ、昼間眠くなっても、流通が止まっているため仕事がセーブされているから別に問題はない。 だいぶゆったりくつろぎながら仕事。 そんなわけで、明日はわたしは自宅待機。 ガソリンは緊急車等には届いたみたい。よかった。 一般に循環するのはいつかがまだわからないので、明日は自転車メンテナンスをすることにする。燃料をもたせるため。 あとは食料を買いだししておとなしくしていよう。日中じゃないとお店がやってないのよね。 少ない商品数、そして昼間に売れてしまうから、日中仕事をしていると、ひもじい。 まあ、食が細い方なので、家にあるものでやっていけなくもないところはあるから、どうせだから冷凍庫や保存がきくものの片づけできるから食べてしまってもいいな、とも思うのだけど、でも干物じゃない魚とか野菜とか食べたいなー。 明日本屋さんを開けてくれるって情報があったので、ちょっと揺らいでいる。 地震後、本屋さん閉まってたから。でも読みたい本は家にもまだある。 むむむ。 だいぶ乗ってないから、タイヤの空気やらほこりまみれのボディやらどうにかする必要がある。 本屋に行くかはそれから迷ってみよう。 部屋の片づけもしたいから、今回はやめとくか。 病院の勉強会のお話や2ch物理板、その他もろもろのお話等を読んだ。 原発のことをちょっと知りたくなって(整理したくなって)、不安をあおるのではなく好感の持てる書き方をされている情報をいくつか読んだ。 とても興味深かった。 それで、大丈夫だよと頭で思っていても、心情的に放射線が全く気にならないんではないからその感情を無視したくないし、あと注意はしときたい。 それに道路も地割れやら段差やらで危なっかしいから、できれば車で行きたい。 雨降られるとやだな。 晴れた日の空中のならともかく、吸着しちゃってるしずくにあまり触れたくないな。 それでも、水が出れば別に洗えばいいんだがー。水ー。もしくはガソリンー。 という感じ。 外出時は、マスクと帽子を着用中。 帽子、久々に被った。 以前はあほみたいに帽子持ってたけど、今は4つだけ。洗えそうなのは3つか。 こうなると久々にニューフェイスが欲しくなる。 今はまだお店が開いてないからまた今度ねー。 「福島」のことが書いてあるツイートを読んだ。 感動して泣いた。 どこに感動したのかを見ると、わたしのいつものパターンがあった。 そっかー。 どうもくせが付いてるな。いらないな。 感動はしなくなるかもしれないけど、いらないな。 いらないものとして手放してもたぶん、それはわたしにとっておだやかにうれしく、好きなものだろう。 ... 4日目。 - 2011年03月15日(火) 今回の地震で、わたしはたくさんの人に助けられています。 今日は、お水(飲み水、トイレ等の生活用水)をいただいたり、容器をお借りしたり、ご飯を食べさせていただいたり、お風呂を貸していただいたり、洗濯させていただいたりしました。 これまでわたしは、「できれば人に助けられないで生きて行こう」とやってきました。 どう考えてもお世話されるタイプなのだけど…。 これまでのわたしのその方法を貫くこと、それは自分に正直なことなの?と今回問うたらそうではなく。 だから、助けられること、手を貸していただくことを選びました。 湯船にゆったり入ること。 せっけんでゆるゆると洗うこと。頭を洗うこと。 ちゃんとしたご飯を食べること。 人と一緒に過ごすこと。 地震の情報ではなく、クインテットを見たり、ハモネプの録画をゆったり見ること。 今日したこれらのことが、わたしにとってどのくらい大きなものかが、今日よくわかりました。 これまで気づいていなかった、自分にやさしくない部分に気づきました。 地震直後から身体にずっとあった寒さや緊張がすうっとなくなっていきました。 ゆるんだ後に、地震の情報のテレビを見てまた寒くなりましたが、でもゆるんでいる状態を思い出せたから、それがとてもわたしにとって大きいです。 わたしはひとりでいても寂しくなる方ではないので全然気にもしていなかったけれど、人と過ごすってそんなわたしにとっても大きいものなんだなということが、よーくわかりました。 そして笑えること。歌。 すごいことなんだなあ。 この日記を書いている時もまだ、大きな余震が来ているけど、余震の数はだんだん、前に比べれば少なくなってきています。 まだいろいろあるっちゃあるけど、がんばっていいことを考えようとするのもいいかげん疲れたし(がんばってたんだなあ)、まあどうあってもやるしかねーべ、って感じで、現在、なんだろう、わたし個人の状態はいい感じです。 このまま行くぞう。 ... 福島県 - 2011年03月14日(月) 郡山市在住です。 電話回線が昨晩より回復。ありがとうございます。インターネットつながりました。 地震があった時、わたしは職場にいました。 最近ずっと地震が多かったから、初めは、また揺れてるねーくらいだったのですが、だんだんだんだん大きくなって、あ!やばいぞ、機械が倒れないように守らなきゃ!と押さえました。 だんだん押さえるというより自分がそれを拠り所にする揺れになり。 あまりその前と最中の記憶がありません。 気づいたら、わたしの横に冷蔵庫が倒れていて(全く気付かなかった)、まだ揺れているのかと思いきや、本当に揺れていることもあったり、自分の手足が震えているだけだったり。 自分の状況、その場の状況を把握していきました。 それでも、自分の目に見える範囲以外がどうなっているのか、という情報は全くわからないまま。 情報が欲しくて仕方がありませんでした。 テレビがつかなかったので、とりあえずツイッター。繋がってる人のワンセグ。 不安をあおるものや文句などを見たいのではなく、本当に正しい情報、今どうするか協力し合えるか、っていうかそもそも自分は何をするか、それを考えられる情報が欲しくて仕方がありませんでした。 メールやツイッターは地震が起きた日あたりはつながることに問題はありませんでした。通話はできませんでした。 これはわたしの機種がそうであるだけで、他社の場合は同じ場所でもこの時点でメール送受信すらだめのようでした。 自分の地域、周りがどうなっているのかが知りたくて仕方ありませんでした。 知ったら知ったで何が起きているか認めたくありませんでしたが…。 自分の知っている地域、なじみある言葉の方々。 郡山の被害は屋根のかわらが落ちたり、壁が崩れたり、ゆがんで窓が閉まらなかったり、ドアが開かなかったり、地割れ、地盤沈下等あります。 店の看板等も崩れ、足もとは安全とはいえない状態のままです。 わたしのアパートの裏にもマンホール大の穴が開いていて、下に水が見えます。 茨城の報道があります。郡山もそうですが被害が少ない場所でも物流が途絶えているので、個人で言えば食料が困難。 地震当日でコンビニの棚に食料がなくなり、次の日は店を閉めているところもありました。 当然ですが、コンビニの弁当やおにぎりを作っている工場も稼働できない状態。 車が無事でもガソリンも給油できないし、情報は人伝えという感じで今の情報じゃない場合もあって、貴重なガソリンを使って水を給水所に受け取りに行ったりお店に行ったりしても、もう残っていなかったりしているようです。 関東などでも買占め等起きているようなのが、なんだかなあですが。。。 不安なのでしょうね。 医療の仕事をしていますが、水が何とかなれば処置ができるようです。透析も水があれば。ただしベッド数の限界がある…。 新幹線が止まっているので、家に帰れないままの方もいます。 郡山市は水はなんとかできているようなのですが、他の地域はどうなのでしょう。 星総合病院さんでは、入院機能が完全にストップしているそうです。 医療資源も不足しています。薬も検査するための試薬も。 流通が仙台からだったり、医療機器のメンテナンス等も仙台が多いし。 天気は晴れている。とてもありがたい。 それでも寒くて仕方がないです。わたしの場合は身体が緊張している分が大きいですが。 今もまだ大きい余震がたびたび起きるので、落ち着きません。こたつの近くに掛け布団を持ってきて寝ています。 早くゆったり湯船に入れるようになりたい。 余震があるためというのもありますが、アパートのタンク内の水がなくなり水が出ない。 風呂と洗顔、はみがき、洗濯とトイレ、食器。水っていろいろやってたな。飲料分だけと考えるなら備蓄あるんだけど。 最後になりましたが、届いていたメールも読みました。 みなさんのやさしいお言葉に涙が止まりません。ありがとう。パワーにしてます! ... ご連絡 - 2011年03月13日(日) 生きてます。 自宅にいられてます。 電話線がだめで、家電話が不通です。ネットも繋がらないです。 そのため、家電話での連絡、パソコンへのメールは受けたり見たりすることができません。 携帯も通話はもちろん、前までは繋がっていたメールやTwitterも厳しくなってるようです。 母、兄の安否を確認できました。 ご連絡まで。 できないことを考えたり、自分の気がすむことではなく、今の自分ができることをやりたいです。 みなさんお身体を大事に。 ... つらつら - 2011年03月10日(木) わたしには、根本的なものを解決しようとするくせがあるようで。 まあ解決すれば話が早いのだけど、そればかりやってると行き詰ることももちろんある。 その見つめる「根本的なもの」にパターンができてしまってることもあるかも。 ちょっとどうにかしたいことがあったので、自分をまた見つめたのだけど、出てくる答えはどうもうまくいくような感じがしない。 うまくいくかもしれないけど、そのためにはミスは許されないみたいな緊張感がある。もしくは頭脳戦みたいな。 なんか違うな、ということでタロットを引いた。 そこから得るものは何? はい、そうね、って感じでした。 そのことで出てくる自分の思考の流れがもろです。 なのでそれを踏まえて「正直に」と意識したら、どうするか答えが出た。 それは今まであまりやってこなかったものだった。 わたしはこれまでずっと、「自分はこれがこうだから嫌だ」という表現をあまりしてこなかった。 嫌だということを伝える時は、「自分はこれがこうだから嫌だからこうしてほしい」とその後まで言っていた。 もしくは嫌なことを早くどうにか解決しようと切り替えていた。 表現というより、方法。 でも、こうしてほしいと言うのと、これが嫌だと言うのとでは、何かが違う。 感覚的に、違うものを伝えていることはわかるけど。 嫌だという表現だけする。 それはなんかすごく楽。 そして、そこからつながることを想像しても、いい感じだ。 そうしてどうするか、どういう方法を使うかは伝えられた人が決める。 いい感じだ。。。 最近の地震の揺れ。 ああ、そんなに疲れているのか、と思う自分に苦笑する。 疲れを取ろうー ... つらつら - 2011年03月08日(火) DSゴーストトリック、クリア! ゲームの感想で短いって意見も聞いていたけど、わたしにとってはちょうどよいくらいでした〜。 最終章に入って、おおーこのまま楽しめて終わりそう、とのんきに思っていたら、最後で号泣 (ノ_・。) ああ、ツボだった。まいった。ミサイル。 その行動自体はよく聞くものだし、そうかもなと思うもの。 わたしがツボだったのは、ミサイルがただそれを、自分の役割と選んでいるというところ。 そしてただそれを行動していたというところ。 わたしがミサイルだったら、あんな軽い感じで行動することができるかな、と思った。 ああ、だめだ。思い出しただけで泣ける。。。 たぶん、この泣けるのは、今のわたしだったら結果に投資してしまうからかなあと。 結果のためにがまん、みたいな。 シンプル。 そして軽やかに自分の望む役割を選ぶ。 わたしもミサイルみたいに生きるー。 そうか、わたしが時間にこだわりがちなのは、「結果」にそれを送り込んでいるからかも。時間をかければ結果につながる、みたいな。 いらーん。 身体の感覚で好きとか嫌いとか、結構重要。 身体と思考とで好き嫌いの意見が分かれる時がある。その時は、わたしは身体を信頼するのだけど。。。 五感であまり好きではないものだな、と頭では思って、だから気持ちはすうーっと落ち着いて行ったのだけど、一方で違う五感では、好きなものーワーイワーイと反応していて。 ええー?どっち優先すればいいの?と思ったことがあった。 どっちも身体だね。。。みたいな。 どっちも好きなものでいいように、うまく工夫できるといいのだな。 ボディゲルをぬりぬり。 疲れを取るためにぬっているので、肩から背中からお腹から足から頭から、あらゆる疲れが気になる部分にぬっている。 徐々にやわらかくなっているっぽい。 胃がカチカチになったからしばらくお腹に塗り続けたら、久々に口内炎が大暴走状態になったけど、やわらかくなってきた。 夜ぬって、朝起きるとだいぶ軽い。 ベースがカチカチでなくなってスタートになるので、カチカチになっていく時に今までよりも気づくようになってきた。 あ、今みるみるとカチカチになっていく!と、身体の変化には気づくのだけど、自分の何が反応しているのかはまだよくわからない。 身体が変化してる!って気づいた時に何があったか、何を思ったかを意識するのだけど、何かありそうなんだけど、全くわからない。 わかりやすく、これだ!こんな大変なことが!という状況に反応しているわけじゃないから。 じみーに反応している感じ。 今日はなんだったかな。 ええと、あ、「こうすればよかった…」と後悔すると、みぞおちがきゅうっとなることは気づいた。 「こうすればよかったな」と認めて、それを次に使えばよいし、そうすれば緊張することもなさそうだな、と思った。 ちなみに、「こうすればよかったな」と認めずに後悔だけだと、次の機会のときに「いや、今度はうまくいくかもしれない!」と同じ行動を「チャレンジ」するような覚えがある。。。 いらんな。 ... つらつら - 2011年03月07日(月) 自分の感情を見てると、なしてそんな思い込みをしてるだ?ということによくたどりつく。 今日、なんか緊張をしたので何かしらと見てたら、「ここ以外に居場所がない!」というのが出てきて、…ええとー、そ、そお?と戸惑いました。 DSゴーストトリック、終盤です。 おもろいですねー。 ノリや作りが逆転裁判だなと思ってたけど、解き方も逆転裁判系だなと思った。 逆転検事の方だと、言葉の組み合わせで矛盾を追いこんでいく感じ。ディベートみたいな感じ。 逆転裁判とかゴーストトリックだと、イメージして推理する感じ。これが動いたらこうなるかなとか、これが転がったらこれがこうなって、とか。 わたしが逆転裁判のが好きな理由がここにもあるなあ。みっちゃんも逆転裁判のみっちゃんのが好きだ。 (いじられてほしい) この人はこういうことが言いたいのだな、とわかることがある。 言葉自体じゃなくて、感情として。 この方の場合はここを突くと感情が満足するまで放してくれなくなるな、とかわかる時もあるので、それを避けることができてよい。 避けられない時は、自分に正直に接していればOK。相手の方が違和感を感じるのか、それとも落ち着きを取り戻しやすいのか、延々と時間をかけなくて解決する。 また、がまんしていると見える人が、あとからガス抜きとして行う表現を見てる時もある。バランスとってるんだなーと。 言葉をあまり聞かなくなってきた、もしくは逆に言葉だけ聞くようになってきたような気がする。 というか、感情と言葉を、それぞれとして聞くようになってきたかもなあ、と思う。 あとは、以前どうして不満に思われているのかわからないことがあったのだけど、その方の会話を聞いていたら他の話題で似たようなケースが出てきたため、照らし合わせたらよくわかった。 あー、そういうことが嫌いなのだなあと思った。 まあそれだけです。 わたしはその価値を持っていない。それがわかった。 これがこうなったらああなるな、ということが望んでいないものという時。 ただ、それを望むものに向かうだけになってきている。 わかっていることに対して気落ちしたりしない感じ。 今日、ふとその感覚が来た。 望まない未来はわかっている、けどそれはただ選ばないために認識しているだけで、望む方向へ行動。 自分の言葉として、「それは(そっちを選んだ未来は)とてもおそろしいですね」と発したのだけど、それを選ばないとわかっているから全く恐れていない感覚を味わって、とても興味深かった。 先日書いた変換について。 言葉を変換したというよりも、その言葉に乗せた感情を、わたしが使っている言葉で近いものに変換したように思う。 そういう風に見たくないってよりも、「そうではない」とわかっている感じに近いなあと。 どうしてわたしは感情を感じるのをずっと避けてきたのか。 ものごとを進めるため、とかいろいろあるのだけど、最近気づいてきたのは、「いやだなあ」と思いたくない自分。 「いやだなあ」と味わって、いつまでも「いやだなあ」と思っていないようにすればいいのだ。 宗教に入ってるの?とこそっと聞かれた。 え?わたし!?と聞き返してしまった。 興味なさすぎる。。。(^_^;) スピ的なことが話題の始まりだろうけど、どういう人のルートでどういう話を聞いてどういう風に感じてそういう結論になっているのかが、とてもおもしろそうで気になった(^o^) 自分がやりたいことを誰かにお願いして、それが不満だった時。 もうすぐお彼岸だから思いだしたのだけど。お墓の掃除。 兄にお願いしているものの、不満だったわけです。ええ…? これでOKなの?と不満だった。 その不満。 自分の「やってあげられない…」という申し訳なさだったり、自分の時間をそこへ向けないことへの気持ちだったりするよなあ、と思った。 不満に思ったら、自分の満足いくようにすればいいさ。 どのくらい、自分の時間をついやすか、決めればいいさ。 不満も消えるのね。。。 ... つらつら - 2011年03月06日(日) 自分の日記を読み返して、いい子でいたい自分を見る。 これはOKというものや、これはなんか違うかもよ?というものとがまじりあっている。 誰かにとってではなく、自分にとっていい子、でよろしくお願いします。 仮に他の誰かに「いい子でいなくていいよ」と言われたとしても、それはあまり関係ないのだろうな。 わたしにとって対自分向けのことが、他の人にとっては対他者向けのいい子の表現のこともあるだろう。 ひたすら自分に注目。 肩こり&背中こり。 なんか…わかってきた。 肩が上がってる。 下ろそう。 りらっくすだよー。 改めまして、タロットおもしろい☆ もっとできるようになりたい!一歩進めたい!と思っていたけど、これまで持ってた本では頭がカチカチになりがちだったので、勉強したいと思いつつも行動していなかった。 やりたくないことに対して、すごい正直だ(笑) 無意識じゃないともっと素敵なのだー。 カチカチになりがちだったのは、自分が使いたいと感じない解釈(アドバイス)のものだけど実践としての読み方が多く書いてある本だからと無理やり読もうとしてたから、というものと。 それから、自分の好きな考え方なのだけど、それが実際に読むに当たってはどう組んでいくのかが、わたしの経験がまだまだ少ないから微妙で、だから相手の方の話を聞きながらえんやこらって感じで。 自分に引く場合はさらにもう、こう読みたいって自分がいたりするからそこで「?」と止まってしまったりしてた。 (保留で後で見れるようにノートに書いてはいたけど) 今読んでいるタロット本は、とてもイメージがしやすい! 今、これまで使ってた好きな考え方のものと組み合わせて読んでいるのだけど、「だからこういうことが書いてあったのか!」とより理解できて楽しいったらありゃしないです。 イメージしやすいって楽しい! 自分の好きなものを使えるって楽しい! だからカチカチにならないのだな。 ... つらつら - 2011年03月05日(土) 命令されたり注意されたりすると、やる気がなくなる自分を意識的にも自覚してきたので、自分からちょっと勉強しようと上司から本を借りた。 そうしたら、勉強しろって言われたの?と他の人に尋ねられたので、「いいえ。言われるとやる気がなくなるから、自分でしようと思ってです。」と答えた。 すると、みちさんには言うとかわいそうになるから言わないって言ってた、と言われた。 そう、かわいそうなんです、と答えた。 これまでずっと、自分にかわいそうなことしてたしなあ。 かわいそう。 自分に正直にできるなら、逆に全然OK! わたしが自分をかわいそうと思っていないならば、全然OK! なにげにうさぎ効果か…?と思ってみた。 自分に正直でないとやることができないなんて、なんてかわいそうなわたし!(^o^) 無理ができないなんて、なんてかわいそうなわたし! かわいそうごっこ(笑) かたちが個性的すぎて切っても家具にできないし、燃やすと煙ばかり出るから使えない木、と切られない木の話を思い出した。 人間にとって使えない、だから切り倒されずに、木陰を提供したりして自分らしく生きていけるという話。 それはさておき、本題はこの後。 この時、相手の方の「かわいそう」という言葉は、わたしの中で「たいへんね」という言葉になぜか変換されていた。 そして、さらにそれなのになぜか、「かわいそう」という言葉が気になって仕方がなくなった。 なぜかするりと変換されたこと、そして言葉。 気になるので、気になるなーとかわいそうを見つめていた。 変換されたことは。 たぶんね、「失礼なことを言う人」と相手の人を見たくなかったのかもしれない。 でも、数秘で理解してきたのだけど、その方は自分を守る方法としてそれを使っているみたいで。。。 そしてただ、その人の今の表現なのだ。。。 そして表裏なしにそのまま言う人は、自分の葛藤を見つめるのにありがたいなあ、とも思った。 そして「かわいそう」という言葉。 これは鏡として自分に返ってきていたみたいだった。 わたしが「かわいそう」という言葉を使う時、それは相手をさげすんでいるような時だ。だからあまり使わないけど、使う時はなんか怒っていて、確実に下に見ている。 誰かが誰かを「かわいそう」と言っているのも、わたしはとても嫌う。 その感情が自分に向かったみたいだった。 大切にしたいというような気持ち、慈愛のような気持ちに変換…しちゃっていいものか。 まず味わっておこう。 かわいそう、は嫌いなもの。 …なるほど。 嫌いなものなのに、自覚なしで楽しんでたからおかしなことになってたのだな(汗) 処置室に行ったら、こどもさんが泣いていた。 呼吸器で刺激の加わっている粘膜部位の保護や、不快感を除去するネプライザーというものがあるのだけど、それをするのを嫌がっているみたい。 痛くないよー、と看護師さんが言っているが、いやだーいやだー、と泣いていた。 正直だなあ、と思いながらそこを去った。 痛くないけど嫌なんだなあ。 気になったのは、わからないでもないけどとにかくやらせようとしている親御さん(^_^;) 正直を大切にすると、どうして嫌なのかを聞いて、その嫌なことを取り除ければいいんじゃないかしら、と離れてから思った。 予想では、わからないから怖い、ではないかと。心電図とかも泣く子いるもんね。 不快感が取れるのは身体的にはうれしいことだろうし。 治って困るのであれば、それは違うとこを見る必要があるだろうし。 正直に時間をとっていこう。 ... つらつら - 2011年03月04日(金) 説得しようとする自分を見た。 母の質を本で調べて、そうしてどうするのかとイメージしたら、どうも説得している自分が(^_^;) そうでなくてー。 母の質を理解して、それならどうしていくのが楽ちんか、提案と相談と母の気持ちの確認をする、という感じか。 なんとなく思ったのだけど。 わたしと母では「自分を大切にする」の意味合いもだいぶ違うだろうな、と思った。 どちらがどうというわけじゃなくて、どちらも自分にとって自分を大切にすることがどういうことかが違うと。 自分を大切にする、その仕方が違う。 知性としてはいい考えだねといいながらも、母の奥のところでは納得してなかったのかもしれないなと思った。 わたしもそれがわからなくて説得になってたんだな(それだけが理由じゃないっぽいけど)、と思った。 母の場合、周りに奉仕する意識の方がうまくいきやすい。 わたしの場合、自分を意識する方がうまくいきやすい。 それをわたしの目線でこうしたらああしたら、と伝えても使えないよなあ、と。 (しかも自分自身がわかってない状態でー) これからは母から見える世界を意識して相談してみよう、と思った。 母はこれが得意で、だからこう思う傾向があって、ということはこのできごとはしんどくなりやすいよなあとか、やっと理解できるようになってきた。。。 ほんとに人それぞれ見える世界が違うのだなあ。 ということは、誤解されたくない、って無理じゃん。 そうならないような行動を選ぶとしても、そこに留まらない(こだわらない)ようにしよう、と思った。 昨日の件をもう一度思ってみた。 たすけてもらえる、かばってもらえるってうれしいなあ、と味わった。 (ここの信用が少ないような気がするな…) そして少しわかったことは、自分だったらそれは気にならないことになってきているけれど、仮に同じことを他の誰かが言われているのを見た場合、わたしは「この人はこの言葉に傷ついていないだろうか?」と気がかりになるだろうことに気がついた。 だから、あの行動か。 気がかりになるのだなあ、と感じておこう。 傷つくのは、その人がそれを受け取りやすい状態というだけ。傷つくのも本人の選択とも言える。 傷つけることを言うとしても、その人がそういう表現をする状態というだけ。 なにを意図して言ってるとしても、そういう状態だというだけ。 先回りして気がかりになることないなあ。 ... つらつら - 2011年03月03日(木) やっぱり最近の気づき方、なんだか種類が変わったような気がする。 感情から導くというのではなくなっている感じ。 以前まで言われたら嫌だったことが、今は特に嫌ではなくなってきたことがある。 自分がそれを選んでいると自覚してきたから。 でも、わたしはしつこく同じことを何度も言われることが嫌いで、今日言われた時は、言われたことそのものはどうでもいいのだけど、また同じこと言ってるよ…とうんざりして聞いた。 この時わたしの周りには3、4人くらいの人がいて、その人たちもそれを聞いていた。 わたしだけで聞いている場合、また言ってるなあ、もう気にならなくなってきたけど、何度も同じことを聞いてもおもしろくないんだよなあ…、と思いながら、答えて終わる。 ここが素。いまのところ。 でも周りに人がいた本日、そこからカチャカチャと何かが計算されたのを感じた。「同じ受け答えではだめだ!」と。 そしてわたしはパフォーマンスしていた。そうする自分に気付いた。 気にならなくなったのに、気にしているふり(演技)をして、ひどいねーとか皆で楽しむ感じ…。 これ、意識的にしていたらほんとに楽しんでるだけと思うけど、とっさに出たのでちょっと気になった。 そうして見つめたら、ふたつの嫌なものが出てきた。 1、周りの人に気にされるのがいや。 周りの人が気にするのだったら、わたしは道化師になることを選ぶらしい。 選ぶのだなあ。。。 あとは、ネガティブな見方で言われることが嫌というのも来てるかな。 まだわたしに影響される部分があるんだろう。 2、誤解されるのはいや 誤解されるのが嫌な割に、演技しているのは何なのか…。 「前世ソウルリーディング」、観念して自分のところ読むかなあ。。。 反面、楽しみでもあるのよね。。。 いちごは最後にとっておくひと。 結局やっぱり飽きたので、次のゲームへ移りました(笑) ゴーストトリックをプレイ中〜 ... つらつら - 2011年03月02日(水) ささささ、さむいぃぃぃ。(∋_∈) なんじゃいなー。この寒さ。 今日の気づきー。 まず、11について。 意識して話す必要があるという件。 わたしは基本的に自分の感じたことを確認して話すから言葉数が少ないのだけど、その分なのか何気にひとから耳を傾けてもらえるということに気づいた。 しかしながら、かなりてきとーで先入観丸出しな時も同じように耳を傾けられてるかもしれない、とふと思った。 同じ調子で話してるからなー。 意識しとこう。 ゲーム、飽きてきた。 それなのに、「もう少しでクリアだからやろうよ!」という自分に気づいた。最後どうなるか見届けたい、そのためには飽きたけどがまん!みたいな。 小学生とかの頃は、飽きたらもうやらなかったよなあ。 クリアしたゲームのが少ない。(っていうか、難しかった) そして、飽きてすぐやめちゃうことを「いけないこと」としていたことも気づいた。 まあ、持続性がないというか、とっちらかるだけで身にならないとも思ったし、お金ももったいないってね。 自分の働いたお金で買ったゲームは、ちゃんとクリアしてみたり〜。 でも。 飽きたらやめていいよなあ、と思った。 がんばって続けていることはない。そっちのがもったいない。(この価値感も微妙かもしれないけどw) そして、その上でまたそのうち気になって始めそうなものは置いておけばいいのだな、と思った。 もうやらなそうなものは、もう満足しきったものは、ありがとうと手放す! 飽きてもいいんだー。 と思ったら、最後までやる気になったけども…。 なんなんだ自分(^_^;) 仕事をしていて、あれ?なんでこうなったのかな?と思ったことがあったので見つめた。 そうしたら、「何度もせっつきたくない。しつこく何度も問い合わせたくないから。」という気持ちが出てきた。 ということは。 わたしがそうやってせっつかれたくない、 わたしが焦らせられたくない、 からだなあ、と思った。 焦らせずに、せっつかずに連絡を取ればいいのだー。 また母話題ですが。 疲れている時には母に会いたくなかった。なぜなら、母に会うと疲れるから。 身体の問題ではなさそう。母に会って何をするわけでもない。 気持ちが疲れてたのだろう。 逆の感覚で言えば、疲れているのに会いたい人だったり、行きたい場所だったりってあるわけで。 身体は疲れていたとしても、会いに行ったり出かけたりすると、すごくすっきりしたりして。 なので。 なんで疲れるってわかっているのにわたしは母のところへ行くのだろうな、と思ってみた。 なんでわざわざ行っちゃうの? 仮に、母じゃなかったらどう? 肉親でも、例えば亡くなってるけどばあちゃんとか、父とか、あとは兄とか。 「ばあちゃんに対しては、わたしがやる必要がない」 「父の場合も、好きしかないから問題なかったっぽいし」 「兄も別に…」 ふうむ。 出てきた中で、ばあちゃんに出てきた「必要」が気になった。 なんじゃ「必要」って? 「必要」って何?と聞いた。 そしたら、ばあちゃんは一緒に住んでる人が世話するでしょ。わたしは必要ではない。 お母さんには、わたしはいちばん近いところにいるでしょ。だから、わたしはやらないといけない。 娘でしょ。やらなきゃいけない。 …。 思い込み、はっけーん。 一緒に住んでなくても世話してよかったし、逆に近いからといってやらなきゃいけないわけじゃないよー。 今朝、先月自分に引いたタロットの並びが書いてあるノートを目にしていた。 それはどういう意味かが当時わからなくて、あとで見ようと並びだけ書いてあったもの。 質問は今回と似たようなことで、過剰に受け入れてしまって怒ってる感じのことについて。 主題がソードのキング。カチカチくんでした。 コントロールして、なにもかも間違ってはだめ。ルールでカチカチみたいなもの。 うまくいかなくても、うまくいかないことがうまくいってること…とその時はそう自分に伝えた。 今日、そのルールは自分で作っている、信じているものだってことがとても理解できた。 自分の作ってたルール・信じてたものでうまくいかなくても、うまくいかないことがうまくいってることに繫がっている…って。 そりゃそうじゃん! うまくいかない=枠から出るってことだもんねえ。自分で作ってた枠から自分を出す。 しかしまあ、「近いから」って…。 おもっきし、物事を処理するのに適している、みたいな…。機械っぽい理由だなあ、と思った。無駄なく、みたいな。 さすが、今朝ソードのキングが気になっただけある。 思考が機械っぽくなったとしても身体は機械じゃないから、痛いよーとか疲れるよーとか知らせてくれるんだろうな。 機械の身体になったら気づけんな。。。鉄郎よ。 「娘だから」。 これまた。。。いらないなー、と思った。 わたしにとって母は、好きと嫌いが一緒にある人だから、課題としていい感じなんだろうなあと思う。 嫌いだけだったら、わたしはシャットアウトするところがあるから。切りかえちゃうというか。 そうわかった後で、被保険証の更新手続き等の用事があったので母のところへ行ってきた。 疲れなかった。逆に癒された。 母はかわいいなあと思った。好きしかなかった。 不思議なものだ。。。 もっとその好きを味わいたい。もっと好きになって、もっと一緒に過ごしたい。 でもそう思うと、意味わからず、なんか悲しくて泣けてくる。。。 なんだろうなー。 「わたしばっかりやってる!」 そのような表現をしている人を見るとわたしは、 そうか、それはわるいことをした(罪悪感?)。やらなきゃ! と、意識してたくさんやっていた。 でもそうしても、その人は「わたしばっかり!」とまた言ってたりして。 そして、そうするとわたしはなお、たくさんやってた、というあほらしいことに気づいた。 それはその人自身の表現。そしてそれに反応していると、そう、エンドレス〜。 ええとー。疲れるはずですねー。 _○/|_ それにずうっと気づかなかったのは、わたしも同じものを持ってたからかな。 この間書いたから、自覚できた。 書いててよかったー。 ...
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