思考過多の記録
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2015年06月04日(木) 「坑道のカナリア」になれるのか?

 随分前からこの日記を書いてきた。(日記といっても、とんでもなく間隔が空く日記だが。)気が付くと、もう15年近くが経っていた。
 思えばいろいろな出来事があった。僕自身もそうだが、日本も世界も、まさに激動の時代だったといえる。その中に身を置きながら、また遠くからそれを見つめながら、様々に感じたこと、考えたことを、できるだけ素直に書いてきたつもりである。2009年夏から「表」のアメブロを始めたため、こちらの裏ブログは放置気味になったりしているが、実は「表」が段々書きにくくなってきたと感じている。



 もともと僕は、自分の身の回りの何気ないことを書くような、所謂日記的な文章を書くつもりはなかった。自分の内面のことか、もしくは世の中の出来事や世界情勢に関して感じていること、考えたことを書くことが多かったのだ。こういうトピックは、取り上げること自体への嫌悪感もあるだろうし、意見が分かれることも多い。それでも僕は、敢えて旗幟を鮮明にするような書き方をしてきた。かなり「毒を吐く」ような要素もあった。
 そういったことに対して、勿論批判のコメントをいただいたこともあったが、概ね無反応という感じであったので(それだけ読んでいる人が少なかったということでもある)、僕も殆ど気兼ねなく書き飛ばしていた。



 しかし、ここ数年、これまでとは違った空気を感じている。非常にものが言いにくい感じなのである。特に僕の場合、現在の政権に対してかなり批判的な意見を持っている。有体に言えば、安倍政権が今すぐにでも倒れないと、この国はとんでもないことになってしまうと思っている。本当にかなり危険なレベルなのだ。しかし、そういう意見が表明しづらい空気が醸成されているのが肌で分かる。マスメディアは萎縮し、SNSでは常に現政権に対する批判への攻撃や、少数派、他国の人達(中国、韓国、朝鮮人)への排他的・侮蔑的な言動が繰り返されている。こういう輩の批判は常に紋切り型であり、対象は決まって特定の団体や個人、その内容の多くは根拠のない推測や陰謀説、事実の曲解に基づいていて、信憑性に乏しい。
 数年前であれば、鼻で笑われるか無視されていたようなこうした言説が、今やあらゆる場所で幅を利かせている。その背景には間違いなく安倍政権の存在があるのだが、しかしそういう言説と、それを受け入れる一定数の人達が、安倍政権の誕生を後押ししたという面もある。
 何れにしても、今僕のような考え方をはっきりと表明することは、サイバースペースでもリアルでも難しくなっている。少なくとも、民主党政権の頃に比べて、格段に勇気がいるようになったことは事実である。さしもの僕も、こういう空気にまったく無頓着というわけにはいかない。批判を覚悟で敢えて意見を述べることへの精神的なハードルがかなり上がっているということだ。



 こうした世の中の空気のせいもあり、特に表のブログにその種の内容を書くことは憚られるようになった。というのも、表は僕の演劇活動の関係者の多くが読んでくれている。場合によっては、僕の活動を応援して下さる人も読んでいる。僕はそういう人達に対して、自分の政治的な意見や立場について直接述べることは殆どない。そういう人達が、もし僕の「過激な」意見を読んだらどう感じるだろうか。僕の意見や信条に賛同する人もいるかも知れないが、今の世の中の状況を見ると、正反対の意見を持つ人の方が多数派ではないかと思われる。そうすると、それが原因で人間関係が悪くなったり、関係自体が途切れてしまったりすることだって考えられるのだ。
 また、意見の違い以前に、そういった話題を出すこと自体を嫌う人達も少なからずいる。その種の話題に関心がないか、あったとしても、上記のような理由で口にしたがらないかのどちらかである。もし僕がそういう人達に対して政治的な出来事に関しての話題を出したら、それだけで避けられてしまったりするだろう。やはり人間関係に悪影響を及ぼす可能性が高い。
 せっかくできた(またはできるかも知れない)人間関係をそんなことで壊してしまったり、応援して下さる人を失うのは僕の本意ではない。
 そうなると、いきおいそういった話題で文章を書きにくくなる。別のSNSの日記やつぶやき等では、そういう話題を平気で取り上げている人も多いが、そういう人達の多くは、先に書いたように僕とは正反対の考え方、つまり、今の世間で支配的な空気に乗っかった考え方であるため、抵抗感が少ないのだろう。そうではない僕の場合は、できるだけ政治的には「無色透明」であるかのように振る舞うことが求められていると感じてしまうのだ。



 しかし、本当にそれでいいのか、という思いもある。
 特に、僕は表現者の端くれであると思っているので、世の中の空気に負けて口をつぐんでしまうことが正しいあり方だとは思えない。かつてノーベル文学賞作家の大江健三郎氏は、「作家は坑道のカナリアでなければならない」と述べていた。炭坑夫が坑道に入る時にカナリアを連れて行き、カナリアが苦しんだり死んだりしたら、人間も危ないので引き返す。それと同じように、社会の危機を他の人達に先んじて知らせるのが作家の役割である、ということをいったものだ。僕はこの考え方に深く共感する。作家のみならず、およそ表現を志す者は、まさに世の中の「空気」に敏感でなければならないだろう。その意味では、自分の感覚が捉えた違和感や危機感を発信していくことを恐れていては、本当の表現活動はできないともいえる。
 そう考えた時に、人間関係に怯えて、言いたいことも言えない、書きたいことも書けないでは、とても表現者を標榜することはできないだろうと思うのだ。
 一方で、例えば僕の作品に出演して欲しいと思っていた役者が、僕の書いたブログを見て「この人とは考え方が違うから」「こんなことを書いていること自体が嫌だから」という理由で出演を断るかも知れない。そういうリスクを考えると、やはり書くのは躊躇われる。誰とも深い関わりを持たず、一匹狼で生きていくと決めていればそれでいいのかも知れないが、そうであるならば、そもそもブログ自体を書かないだろう。
 こうして僕は、2つの考え方に引き裂かれる。



 ことはブログにとどまらない。僕の活動の肝ともいうべき劇作に関しても、どういう題材を取り上げ、どういうアプローチで作品化するかという部分に大きな影響を与える。人の生き様といったことと違って、政治的・社会的な題材は賛否が別れたり嫌悪感があったりする。役者・スタッフのみならず、お客様から反発を招くような題材は取り上げにくい。ここまで書いてきたように、今は余計にそうである。例えば、僕は2005年に「Stand Alone」という、かなり主張をはっきり打ち出した作品を上演したが、今これは上演できないかも知れない。誰が規制しているわけでも、法律に触れているわけでもないのに、そういう空気が醸成されているというのは本当に恐ろしいことだ。
 そして、実は来年上演しようと考えている作品が、まさにそういった内容のものである。数年前から構想していたものだし、一度は僕の健康上の理由で頓挫しているだけに、何とか上演したい。しかし、上記のような状況の中で、果たして上演にこぎ着けられるのか、決して楽観はできない。



 本当に嫌な世の中になったものである。などと愚痴で済ませられないほど、実は事態は緊迫していると思っている。このままでいくと、本当に取り返しのつかないことになるだろう。そのことに、世の中の多くの人達は驚くほど無自覚・無頓着であるように思える。
 僕のように吹けば飛ぶような存在であっても、やはり「坑道のカナリア」の自覚はある。人間関係を悪化させず、なおかつ自分の意見を表明することができないものだろうかと考えてしまうのだが、今の状況下では多分それは非常に困難であろう。「他人に嫌われることを恐れてはいけません。というか、むしろ積極的に「こいつは面白いことを書くけど、友達にはなりたくないな」と思わせるぐらいの方がいい。誰にでもいい顔をしようとすると、とたんに文章はトーンダウンし、つまらなくなります」(永江朗「〈不良〉のための文章術」NHKブックス)という言葉には深く共感する。
 とはいえ、嫌われるのが辛いのもまた事実である。
 そこを乗り越えて意地を通すことができるのか。
 思想・信条が違う人達にも、強い拒絶感を抱かせずに僕の考え方が届くような作品を生み出すことができのか。
 表現者としての力量と覚悟が問われているといってもいい局面なのかも知れない。


hajime |MAILHomePage

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