思考過多の記録
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多くの人とは違って、僕は異性といるときよりも同性といるときの方が気詰まりな感じを持つ。僕が自分の性=男に違和感を抱いているのが原因である。昔から、男の行動・言動のベースにある特有の粗野な部分に馴染めなかった。それを「男らしさ」と思っている人は多いので、ときにはそれに則って行動しなければならなかったが、そういう時は本当に自分と自分の性との間に、ある種の溝を感じたものだ。 かといって、性同一性障害の人程の強い違和感を持ったことはない。また、おかまやゲイの人程の変身願望もない。どちらかというと女好きの僕が、男という性そのものを捨て去る決断ができる筈もない。 それでも僕は、「男らしさ」や「男」に対して自分とのずれを感じざるを得ない。そういう意味では、僕はどちらにも行けない両性具有の種族の末裔でもあるかも知れない。
そんなわけで、僕には男友達は少ないのだが、そんな僕と結構長い付き合いをしてくれている男友達がいる。大学の頃、映画サークルに所属していた人達だ。彼等が撮った映画に僕が役者として出演したことがきっかけで交流が始まり、その数年後、僕が初めて演劇公演を打つときに、彼等に役者やスタッフとして協力してもらった。かれこれ15年以上前の話だ。 その後も、彼等は僕の公演の舞台をビデオ撮影してくれた。彼等はその後、それぞれ別の仕事に就いたが、そのうちの一人がテレビの制作会社でディレクターをやっていたため、彼に呼ばれて僕は2本の映像作品に出演した。また、別の一人が結婚するとき、僕は披露宴の司会を務めた。彼等同士は何かと行き来をしているようだが、僕は年に数回しか彼等とは会わない。それでも彼等は、僕が舞台に出演するというと、忙しい中時間をやりくりしてやって来てくれる。
そんな彼等と、久し振りに平日夜の東京であった。飲み会といえば新宿・池袋などが多い。彼等の住んでいると場所の関係とはいえ、東京で飲むというのは僕にとっては異例で、それが僕と彼等の関係がある種特別なものだということを象徴しているようでもあった。 4人でJRのガード下の飲み屋でテーブルを囲み、ビールを飲みながら7月に僕が出た芝居の話などをし始めると、そこから懐かしく、そして刺激的な時間が始まる。 僕達の会話は、いつでも仕事や家庭の愚痴や最新のモードについてといったところからは全く離れたことを巡って交わされる。例えば、芸術とエンターテインメントの境目とは?多くの人に受け入れられる表現とは?はたまた僕が「書くこと」で食べていくことについて、昔僕達が撮った映画の再評論等々、ラストオーダーまで僕達の侃々諤々の議論は続いた。
僕達4人は、ある事柄について全て意見が一致するということはない。誰かの発言には、必ず誰かが反論する。同じ映画を巡っても、印象的なシーンやメッセージの捉え方についての意見は分かれる。それでも僕達が話し続けるのは、おそらく僕達4人が、現在の仕事や立場や目指すものは違っても、今でも同じある種のフィールドを共有していること、そしてそれをみんなが暗黙のうちに知っているからだと僕は思っている。お互いに適切な距離を取りながらお互いを尊重し、お互いのすることに関心と敬意を払いながら、批判するべきところは批判し、アドバイスもし合う。そんな関係が、僕には心地よく感じる。 帰りがけに、4人の共通の体験になっている映画のシナリオを作った男は、 「いろいろ刺激を受けて、何か無性に書きたくなってきたよ。」 と言った。
同じように仕事や家庭に埋没する日々を送りながら、そのままでは終わりたくないという思いをどこかで持ち続けている。それが僕達4人の共通点である。これは僕の勝手な思い込み、もしくは願望なのかも知れない。けれど、容易には乗り越えられない現実を抱えながら、それでも前向きな気持ちにさせてくれる、そんな力が僕達の話の中には潜んでいる。一人一人の中で保たれているある種の「微熱」が、一つの「熱」になってまた僕達の中に注入される。その「熱」をもらって、僕達はまた明日から生き抜いていく。僕達の関係性は、煎じ詰めればそういうことになるのだろうか。会ってただ「古き良き時代」を蒸し返して語り続けるような関係なら、とっくに終わっていただろう。 次に再会するときまで、寒風吹きすさび、かつぬるま湯のような日常の中で、僕は自分の中の「熱」を保ち続け、できればさらに温度を上げる。それが僕達の暗黙のルールだ。そう思わせてくれるだけでも、彼等は僕にとってかけがえのない存在である。 彼等がいる限り、僕はまだ遠くまで行ける。
2004年09月10日(金) |
多くの人にとっては当たり前のことが |
多くの普通の人は、結構当たり前のように恋人がいたり、結婚したりするもののようである。パートナーを見つけるというのは、実はそれ程難しいことではないのかも知れない。 別に多くを望まなければ、お互いが一緒にいることを幸せと感じられる存在と出会うことは、とびきり特別なことではないらしい。今朝も満員電車の中、腰に手を回して抱き合う2人がいた。今週僕の職場に配属された若い女性アルバイトは既に結婚していた。そして、2年前まで同じ職場にいた契約社員の女性が間もなく結婚するのだと、数年前に結婚して二児の母となっている僕の職場の女性が教えてくれた。
多くの人にとって、他の誰かから愛されるということは、人生の中で普通に起きる出来事のようだ。その人が愛を求めた時、それに呼応する相手がいた。それはごく自然の摂理のようだ。 とすると、多くの人にとって当たり前であり、普通に起こる筈のことが、僕には起こらないのは何故なのかと考えると、それは僕に普通ではない何かがあるのだろうということになる。
僕は人を惹き付けられなかった。誰かにとって特別な存在になれなかった。また、誰かにとって頼りになる存在でもなかった。誰かを守ることもできなければ、この人に賭けてみようと思わせることもできなかった。そして、この人といると幸せだと思わせることもできなかったし、実際に誰かを幸せにしてあげることもできなかった。
少なくとも数年前までは、こういう状態に対して、悔しさも含めて「何故なのか?」と思いもあった。しかし、今現在こうした事実を前にして、僕が思うのは、「ああ、やっぱり」「それはそうだよな」ということである。そう感じてしまう自分に悲しさも感じるが、さりとて現実には勝てない。 そして、現実が変わると信じ込むには、僕は十分歳をとりすぎている。また、その現実を完全に受け入れるには、僕はまだ十分に歳をとってはいない。
多くの人にとっては当たり前のことが、自分には起こらない。 僕はまだ、この世での自分の居場所を見つけられていない。
僕の後輩のある女性は、結婚して2年が経つ。彼女はちょっとした個人サイトを開設している。確か、結婚直後からだったと記憶している。よくある日記サイトだが、最初は文章だけだった。その後、携帯からでも画像の投稿が可能な場所に移動した。それと同時に、日常の中のちょっとした風景を、携帯のカメラで撮って、文章とともにアップする形態に変わっている。
月日とともにその内容は少しずつ変わっているのだが、パートをしながらも基本的には専業主婦である彼女の日記の内容には、当初から大きく分けて二つのカテゴリーが存在する。 第一は、身辺雑記のうちでも、彼女の関心のあること。趣味だったり、音楽だったり、食べ物のことだったり、内容は様々だ。彼女の個性や人柄がよく表れていて楽しい。そして、第二に、家庭のこと。すなわち、夫婦に関することである。 僕は開設当初から彼女の日記を読んでいるが、正直言って、最近この第二のカテゴリーの話にはついていけなくなっている。理由は、僕が家庭も夫婦も持ってはいないからである。 個人の日記としては当たり前のことだが、彼女は自分の家庭や夫婦の生活、そして妻としての自分を十分に客観視し、対象化して文を書いているとはいえない。それが、同じ立場にはない僕としては、読んでいて辛い部分なのだ。
彼女が日記に記している、日常的に感じたささやかな「幸せ」や「不安」は、確かに頭では理解はできるけれども、同じ立場、つまり配偶者や家庭を持っていないと、実感を伴って分かることができないのである。僕が読んでいて何か疎外感を覚えてしまうのは、そこに理由がある。 そして、それを裏付けるように、彼女の日記に感想を書き込む常連さんは、みな彼女がネットで知り合った(と思われる)、家庭を持った「奥様」方なのだ。彼女達は、ある実感を共有している。ある日記の一文をとっても、それに対する共感の度合いや深さが、おそらく僕のような単身者とは違っていると思うのだ。もし、そこの常連の人達と僕とが、ネット上、または実際に会ったとしたら、共通の話題がなく、感覚も違うため、会話は完全にすれ違うだろう。 彼女は、そういう人達と一つのコミュニティを形成しているのだ。 こうして、僕はそのコミュニティには参加できなくなっていく。
以前、僕の別の後輩が、高校の同じ部活出身者の一部の人達が始めたMLに参加していたものの、いつか殆どの投稿が特定の人達によるお互いの「家族/夫婦ネタ」で占められていった時に、 「どうも最近は、話題に入れない」 と、投稿しなくなり、やがて離れていったことを思い出した。 彼女の場合、特に女性であることと年齢の関係から、世間的にいうと例の「負け犬」に所属するという思いがどこかにあったことは想像に難くない。僕自身は、自分を「負け犬」とは思っていないつもりだが、内心忸怩たるものがあるのも事実だ。そういう事情も絡んで、「家族/夫婦」を持つ者と持たざる者との間には、越え難い溝が知らず知らずのうちに形成されていく。
しかし、考えてみれば日記を書いている彼女と僕はかつて芝居仲間で、実際に一緒に芝居を作ったことも、同じ舞台に立ったこともある。その後、彼女は芝居をやめて「普通」に生きる道を選び、僕は「普通」に生きようとして生きられずに、変則的な形で芝居を続けている。そして、いつの間にか僕は、芝居を続けている人達のコミュニティに参加している。 そんな僕のサイトに、彼女はごくたまに書き込みをしてくれていたが、最近はそれもなくなった。彼女は、このコミュニティに、自分の居場所がないと感じたのかも知れなかった。僕が別の投稿者と交わす何気ないやり取りが、彼女に疎外感を与えていたのだと推測できる。 おそらくそこには、芝居への志を(強さや形の違いはあっても)持つ者と持たざる者との間の、越え難い溝が形成されているのだろう。
全ては無意識のうちに、僕達の周りにはこうした溝が縦横無尽に張り巡らされていく。それを受け入れてなお、僕はその向こう側の人と関係を結んでいけるのか。それとも、そのまま疎遠になり、自分のコミュニティの人達との関係を強めることだけに専念していくことになるのか。 その相手がかつてはもっと近くにいた人だけに、自分がこんなことを考えてしまうこと自体が、何だか悲しい。 それが時が流れたということであり、生きていくということなのだと分かっていても、やっぱり悲しい。
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