思考過多の記録
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2003年03月29日(土) |
海の向こうの戦争2003〜その2 |
イラクで戦争が始まってから1週間が経過した。当初の大方の予想を覆して、米英軍の初期の快進撃はここに来て足踏み状態となり、短期で犠牲者も少なくてすむという楽観論は影を潜めつつある。 その理由はアメリカのいくつかの誤算のためだと言われている。イラク側の民兵を中心とした抵抗を甘く見ていたらしいこと、そしてアフガン戦争の時のように、イラク各地で反フセイン勢力が蜂起してフセイン政権が弱体化するという目論見が外れたことがその主なものだという。
いずれも圧倒的な軍事力を過信してのことだが、自分達が解放軍として迎え入れられると本気で思っていたらしいことを聞くにつけ、どうしてあの国はこうも楽観的、というより脳天気なんだろうと思う。やはり世界中の人間が自分達と同じ価値観を信じ、同じように行動するという揺るぎない、けれど完全に誤った世界観がそう考えさせるのだろう。「世界」=アメリカという世界である。国連を無視して戦争を始めることができたことで、彼等はいっそうその「世界」の住人であることに確信を持った。しかし、そんな「世界」はごく自分達の回りを除いて存在してはいなかったという「現実」に、彼等は遭遇しているのだ。 それはおそらく、砂漠の砂嵐が彼等の前進を阻むことを頭では理解していても、実感として分からなかったのと同じである。彼等の国に砂嵐はない。だからといって「世界」に砂嵐が存在しないわけではないということを、漸く彼等は身をもって知ったのである。
「ゲームは終わった」とブッシュが間抜け面に似合わず厳かに宣言して始まったこの戦争だが、最初の数日間は、かつての湾岸戦争を彷彿とさせる「ゲーム」感覚の戦争だった。テレビから流れる映像は、その殆どが米英軍側から撮ったもので、空母の甲板から出撃する戦闘機だったり、攻撃用ヘリがロケット弾を発射していたり、トマホークの煙と閃光が夜空を切り裂いているところだったり、迫撃砲がイラク軍の戦車を破壊しているところだったりした。 そして、スタジオにカメラが切り替われば、イラクの国土の模型に戦車のミニチュアが置かれ、その前でアナウンサーと軍事評論家が戦況の解説をする。夜7時のニュースのNHKのアナウンサーは、 「この補給路を襲われないように注意しなければいけませんね」 と、まるで自分がアメリカ軍の将校にでもなったかのような言葉遣いをしたものである。因みに、総じてNHKの現地レポーターは、明らかに米英軍の立場(=攻める側)から見た戦争の伝え方をしている。
こんな環境にいると、テレビのこちら側の僕達は、いつの間にか自分達がバクダットを落とすための「戦争ゲーム」に参加しているかのような感覚に囚われてくる。そこでは、イラク軍は「顔」のよく見えない「敵」という概念でしかない。だから僕達は、早くその「敵」を取り除いてこのゲームを「クリア」したいと思ってしまう。 けれど、当たり前のことだが、戦争はゲームではない。先日、イラク軍の捕虜となったアメリカ軍の兵士や、兵士の死体の映像が流され、それを見たアメリカ国民がショックを受けたというニュースがあったが、この時のパウエル長官(元軍人)の言葉、 「これが戦争だ」 というのが、事の本質をよく表していると思う。
戦争はゲームなどではない。現地では当然血が流れている。映像に映らないものは見えないので、僕達の思考はそこで止まってしまいがちだ。しかし、夜空を切り裂いたパトリオットは、必ず何処かに着弾する。その時、確実に何かが破壊され、誰かの血が流れている。画面一杯に映し出された米英軍の兵士達が撃ち放つ機関銃の先には、確実にその弾を体中に浴びているイラク兵がいる。そして、多くの命が奪われる。そのことについて、僕達はもっと敏感でなければならない。
先日ニュース番組に出演した椎名林檎は、この戦争についてきかれて、 「ここにいる私達にはどうすることもできないけれど、とにかくしっかり見ている。辛くても見続けること。それしかできない。」 という趣旨のことを答えていた。 海の向こうの戦争から、僕達は決して目を逸らしてはいけない。 何があっても見続けること、そして映像に映らない「現実」に思いをはせること。それこそが、この「平和」な国に暮らす僕達がこの戦争に対してとりうる精一杯の倫理的な態度である。
2003年03月22日(土) |
海の向こうの戦争2003その1 |
とうとう戦争が始まった。今日はもう3日目になるのだろうか。勿論、これは既定の方針通りであった。アメリカがイラクを「悪の枢軸」と名指ししたとき、既にこの戦争の実行は決まっていたわけだし、査察が成果を上げようと上げまいと、安保理決議があろうとなかろうと、世界各地で大規模なデモが起きようと起きまいと、最初の軍隊を派遣したとき、既に攻撃開始は決まっていたのだ。 その意味では、フセイン政権の姿勢を「単なる時間稼ぎだ」といっていたアメリカ・イギリス自身が、実は部隊を展開し攻撃の態勢を整えるための時間稼ぎをしていたといっても過言ではない。
確認しておくべきは、いかにフセイン政権が独裁制よる恐怖政治を行って民衆を苦しめていようが、また過去の安保理決議に違反して武装解除を怠っていようが、また大量破壊兵器や生物化学兵器を隠し持っている疑念や国際テロ組織を支援している疑惑をもたれていようが、そのことをもってしてイラクという独立国家を武力で制圧し、政権を転覆させるという行為が許されるものではないということだ。 もしこれが許されるなら、国際法は画餅に帰することになる。何が正しくて何が間違っているのかを決めるのは、国際法に照らしての判断でも、国連を中心とする多国間の協議と合意でもなく、ただ軍事力・経済力の大きさだということになるからだ。もっとはっきり言うなら、(今回に限らず、事ある毎に国際社会を無視し続けてきた)アメリカの意に添うか添わないかが物事の判断の基準になるのである。 そして、攻撃が始まってしまった今、世界はもはやアメリカの行動を追認するしかなくなっている。国連=世界を無視し続けたアメリカが、逆に「世界」になろうとしているのだ。それは、主権国家を武力攻撃するという「侵略」以外の何者でもない行為が、「アメリカの自衛権を行使するのに誰の許しもいらない」などという乱暴にして傲慢きわまりない発言によってまかり通ってしまう世界である。
国際社会のルールとは、このような「弱肉強食」の世界とは対極にあるものの筈だ。もし今回のアメリカの行為が許されるなら、世界は無秩序にならざるを得ない。軍事的・経済的な大国が、自分の気に入らない国や自分を脅かしそうな国に対して、誰の許しも得ずに武力を行使することができるのである。そうなれば、そういうものを持たない小さな国の選択肢は2つになる。すなわち、大国の言いなりになることで自国の安全を保証してもらい、おこぼれをもらうか、自国を自力で守るために、また国際社会で発言力を得るために軍事力を増強するかのどちらかだ。 いずれにしても、これは第1次世界大戦前後の「帝国主義時代」の構図である。その延長線上の第2次世界大戦を経て、そうした惨禍が二度と起こらないために、国際社会は国連を中心とした世界秩序の構築に努め、試行錯誤を繰り返してきた。そうした努力は、この戦争で全て水泡に帰した。 時計の針は逆に回った。そうしたのは、勿論米英を中心とする武力行使を容認した国々(残念ながら、そこには当然我が日本も含まれる)である。
どんなに綺麗事を並べようと、フセインは自分及び政権の保身をはかり、アメリカとイギリスは戦後の中東地域での覇権と石油利権を狙っている。この戦争はそのぶつかり合いだ。イラクに暮らす普通の人々とは全く無関係なところでせんそうが決められ、そして始まった。しかし爆弾は(いかにアメリカが「ピンポイント」と強調しても)普通の人々の頭上へも降り注ぐ。 大方の予想通り、戦況は圧倒的に米英合同軍に対して有利だ。戦争は大方の予想よりも早く終わるかも知れない。それと共に、今は盛り上がりを見せている反戦・反米の動きは鳴りを潜めるだろう。 しかし、今回の戦争が世界のあちこちに作った大きな亀裂は容易に塞がりはしないだろう。勿論、アメリカとイギリスにとってはそんなのは知ったことではないかも知れないけれど。
そして、どれだけ戦争が早く終わろうと、どれだけ犠牲者が「最小限」にとどまろうと、そして民主主義的な新政権が発足しようと、この戦争の性格だけは変えることはできない。 繰り返すが、これは侵略戦争であり、明確な国際法違反である。 この戦争の「正しさ」を担保するのは、あの国の圧倒的な軍事力と「神」のみである。僕達は、既にそんな世界の住人になってしまったのである。
見ず知らずの人達が、密閉した車の中に七輪を持ち込んで集団自殺する事件が立て続けに起こった。先月、同じように密閉した部屋に七輪を持ち込んで自殺を図った人達が、どうやらネットの自殺系サイトで知り合った人達だったらしいということで話題になっていた。今回2件続いた事件もはやりそうだったらしい。
こういう時に決まって槍玉に挙がるのは、ネットという装置と、自殺を図った人間の精神構造である。前者は出会い系サイト批判とも結びついて「ネット社会の危険性」の証拠として非難される。また後者は、「弱い」「命を粗末にした」というレッテルを貼られる。そして、そのことで全てが語り尽くされたかのような錯覚を、情報の発信者と受け手の両方に与えて終わるわけだ。
しかし、ネット批判はさておくとして、僕はいつも自殺者に対する批判にはしっくりこないものを感じていた。この違和感の正体は何だろうと考えているうちに、ふとそれは、この批判が常に一方的だからなのだと思いついた。 当然のことだが、批判する側は常に「生きている」人間達だ。「生きている」ということは、積極的であれ消極的であれ、この世に順応するのに成功していることを意味する。一方自殺者は、やはり積極的であれ消極的であれ、この世に順応できなかった人々である。何が動機なのかは人それぞれだろうが、そこにはある種の共通項がある。すなわち、「生きている」ことへの強烈な違和感であり、「生きている」ことが彼等にもたらすのは「苦痛」であるということだ。 「生きている」人間は、完全にこれらを理解することはできない。何故なら、彼等はそういったものがないか、ある程度以上の強さにならないからこそ「生きてい」られるのだから。だから、彼等は自ら命を絶つ人間を非難する。 けれど、この世に生を受けたからにはこの世に順応しなければならないという過酷な掟を疑うことは罪なのだろうか。そして、その結果この世にいないことを選ぶのもまた、罪なのだろうか。
僕の知り合いで、本気で「死」を考えたことがあるというある人は、それでも自分が死ななかった理由について、「でも何処かで自分は『生きる』ことを求めていた」と言っている。その人の場合、おそらく「死にたい」という欲求を一方で意識することによって、「生き続けたい」という正反対の意思を確認したかった、いや、それを無意識のうちに求めていたのだということになるだろう。 そう思える人は幸いである。ただ無意識のうちに「生きる」ことに順応してしまっている大多数の人々より、「生きる」ことに、そして世界に対してより敏感になれるであろう。ただし、その人にとっては、それが必ずしも幸せとは限らない。
「心中」した人達は、結局「生き続けよう」という意志が持てなかったのであろう。勿論、安易に「切望」してしまっただけなのかもしれないが、しかし、ある意味で彼等は誠実であった。 今の世の中、一体誰が心の底から「生き続けよう」などと思えるだろうか。うんと鈍感になって何も感じないようにするか、または何も感じていないふりをして自分を騙し続けながら日々をやり過ごすしかないだろう。 それでも、いざ自分の人生を終わらせようと思えば、かなりの勇気がいることは確かだ。彼等はそれを乗り越えようとした結果、「仲間」を募るという方法を使ったのだろう。ある種の「知恵」である。
僕は、彼等を非難するつもりはない。何故なら、僕もまた、何気なく生きながらえているだけの存在だからである。ほんの少しの勇気があれば、僕もまたあちら側に行っていたかも知れない。 僕はまだ、自分が「生きている」人間だということを肯定できずにいる。
2003年03月14日(金) |
海の向こうで戦争が始まる2003〜その3 |
イラク攻撃を巡る安保理決議を巡って、アメリカは孤立の度合いを深めつつあるようだ。「テロとの戦い」「アメリカの自衛のため」「イラク国民の圧政からの解放、および中東の民主化」といった、この戦争を正当化するために用意された様々な理由が全てこじつけにすぎず、この戦争には大儀がない(そもそも大儀のある戦争というものがあるかどうかは疑問だが)ということは、今や世界の多くの国々にとっての「常識」にすらなっている。ことここに至ってもなおアメリカを支持する国々は、この世界の「常識」に逆らってもそうせざるを得ないある種の「事情」を抱えていると見られても仕方がない。でなければ、相当「常識」の基準が国際社会の共通認識とずれてしまっている国ということになる。
さて、我が日本である。米英が「査察打ち切り、武力攻撃」を公言し始めた段階でいち早く「支持」を表明し、その後米英が武力攻撃に事実上国連の「お墨付き」を与えるために用意した新決議案に対してもいち早く「支持」を表明。のみならずその採択に向けて関係各国に電話等で積極的に働きかける「外交攻勢」を展開している。 勿論、結果は芳しくない。日本の言うことにまともに耳を傾ける国はまずない。ODAという「札束」が通用する国々は、確かに聞くふりくらいしてくれただろうが、それが実際に効果を現すとは現時点ではとても思えない。 けれど、実は日本としては実際に働きかけた国々が賛成票を投じるかどうかはあまり問題ではない。日本が決議案の採択に向けて「働いた」という姿勢を見せることが、なかんずくアメリカにアピールすることが大切なのである。少なくとも、政府の中枢にいる人々はそれが日本のため=国益だと思って動いているに違いない。
しかし、「アメリカのため」だけに動くことが果たして本当に国益にかなうことなのだろうか。それについては、「日米関係は重要だ」ということで何でも片づけようとする傾向が強い。僕も日米関係の重要性について依存はないが、そのことと、アメリカのすることが全て正しいということとは別問題だ。 それを言うと、日米関係はそもそも対等ではないので、日本が何を言っても仕方がないとか、北朝鮮に攻められたときに守ってもらわなければならないからとかいった反論が返ってくる。 それらの意見は、一見反論の余地もないくらい正しく思える。確かに日本はアメリカに経済的・軍事的に依存しながら今日まで平和と繁栄を享受してきたこと、そしてその状態は今も続いていることは冷厳な現実だ。けれど、その現実は未来永劫代わらない「現実」なのであろうか。
日本がアメリカに依存するには歴史的な経緯があり、現状はその結果である。現時点ではそれが「ベター」だと思われているのでその状態が「選択」されている、というのが正しい認識であると僕は思う。言い換えれば、この状態が僕達の国やアジア地域・世界情勢にとってよくないと判断される場合は、僕達はその選択肢を変更していいということだ。ベルリンの壁崩壊の例を出すまでもなく、変更不可能な「状態」はないと考えるのがむしろ現実的だと思われる。 その観点から見たとき、現在および予測される将来のアメリカを考えた場合、日本が「無条件のアメリカ支持」の立場を国際社会において鮮明にし続ける状態を維持することが、果たして日本にとって得策かどうかを冷静に判断してみるべきであろう。
このまま国際社会の大部分の支持を得られないまま、アメリカが開戦に踏み切った場合、国連決議の有無にかかわらずその行動は国際的な非難を浴びることになるのはまず間違いない。たとえ軍事的に勝利を収めたとしても、この戦争におけるアメリカの政治的な敗北は明らかだ。よしんばイラクの戦後復興を主導し、「民主的な」政権を樹立したとしても、それは実はアメリカの国益のみを考えた行動ではないかと多くの国が疑念を抱く(そして、それはおそらく正しい)ことは想像に難くない。勿論イラクを含むアラブ社会(特に民衆レベル)には、反米感情が完全に根を下ろすだろう。 そういう状況下で、「無条件のアメリカ支持」の旗を揚げたままの日本がどんな立場に追い込まれるのか、少し考えてみれば分かるだろう。それでもアメリカに道義的に少しでも利があれば、または日本がこれまで(一応)掲げてきた「平和主義」に合致していれば胸を張ることもできるだろうが、今回のケースは、誰がどう見ても「米国追随」以外の何者でもなく、日本の主体性の欠片も見えない。最近の総理大臣や外務大臣、官房長官のコメントを聞いていると、殆どアメリカ政府高官の言葉のオウム返しである。
そんなこの国が、国際社会でまともな扱いを受けるとは思えない。しかも、このまま対米追随を続ければ、日本がこれまで石油等の交易を通じて築いてきたアラブ諸国との独自の関係が、一気に崩れる危険性もある。「結局お前達はアメリカの手先なのだ」という見方をされてしまえば、アメリカと一緒に民衆レベルの反感を買う可能性は大きい。当然、テロの標的になる可能性も出てくる。 要するに、今回のイラク問題で日本が対米追随路線をとり続けることは、あらゆる意味でリスクが大きいのである。
何故この国は悲しい位アメリカ支持を続けるのだろう。僕は、単に外務省を含む政府と政権党を中心とする政治家達が思考を停止しているからなのだと思う。そこには深謀遠慮の欠片もない。殆どパブロフの犬並みの反応である。 アメリカの言うことややることは無条件で受け入れ、支持し、その利益のために動くこと。どんな場合でもそれが最優先であり、それが我が国の国益だ、という単純な図式に従ってしか、彼等は考えることができなくなっているのだ。 アメリカが絶対的な力を持ち、その覇権が揺るがない「世界」が未来永劫続いていくのであれば、それでいいのかも知れない。けれど、現状を見ればそれが全くの幻想に過ぎないことは明らかだ。
イラク問題で日本の取るべき道は、フランス・ドイツ・中国・ロシアと協調して査察継続のために力を尽くす一方、イラクに対しては事態の平和的解決のための行動を粘り強く働きかけることだ。そうすれば、無用な血を流さずに事態を解決できるばかりか、そのために努力する姿勢を世界にアピールできる。これによって稼げる外交上の得点は大きい。たぶん、アメリカ支持を捨てることによる失点を補ってなおお釣りが来ると思う。
日本政府は、アメリカを買い被りすぎていると思う。確かにアメリカは大国であり強国であるが、世界の全ての国が日本のようにアメリカに跪くわけではない。 日本はアメリカ一国に何とか好かれようと必死になっているが、そのことでアメリカ以外の国々から嫌われたり、軽蔑されたりすることになるということに早く気付くべきである。日本国民として、そんなことには耐えられない。 この週末も世界中で大規模な反戦デモが予定されているが、今や反戦=反米である。そしてそのうねりは世界各国に広がっているのだ。そのうねりの中で、僕達の国は孤立しているというのが、正しい現状認識であろう。 政府や政権政党が追求する「国益」とは、一体誰のための利益を指しているのだろうか。
この土地では、日差しや吹く風にも漸く春らしさが感じられるようになってきた。先週出張で行っていた宮城のあの街は、まだまだ春の兆しが見えかけたばかりだったなと思い出す。
2日間、仕事で学校回りをしてきた。地元の販売代理店のセールスマンと一緒である。その土地の代理店は生協と関係のある組織で、学校では「生協さん」と呼ばれているが、本当は株式会社の社員である。 2日目にまだ仕事を始めて半年余りという、若干22歳の男性と回ることになった。車中で話を聞いていると、彼はもともと映像製作を志していて、その関係の専門学校に通っていたのだそうだ。彼のやりたかったのはCG製作で、一通りソフトの使い方も習ったという。 しかし、地元の大都市・仙台でもその手の職種の口は限られる。仕方なく、コンピューターを使えるということで、全く違った業種のシステム設計などの職種に就くことになった。けれど、やはり自分のやりたいことと違うということもあって一度退職。そして現在の職を得たということらしい。
「東京に出れば、あなたの希望の職種の口はあるじゃないですか」 と僕が言うと、 「それはそうなんですが…」 と彼は少し辛そうな顔をした。 彼が言うには、彼の姉と妹が学校のために相次いで東京に出て行ってしまった。実家に残ったのは彼と両親。その土地の伝統的な風習(?)として長男(もしくは息子)が親の面倒を見るのが当然視されている中、地元での就職を余儀なくされたのだった。 そして彼は、本当は自分の希望ではないこの職場で働き続けている。 「こういう仕事(=営業)は自分には向かないんですよね。数字が出て競争させられるのは苦手だし、押しが強くないんですよ」 彼はそういって、まだニキビの残る顔ではにかんだように笑い、アクセルを踏み続けた。車は緩やかな坂を登っていった。
東京に住んでいると、「東京」というものの存在は空気のようにしか感じられない。けれど、見渡す限りの田圃が広がり、冬は地吹雪で視界がきかなくなるようなあの土地に住んでいる彼にとっては、「東京」はある種特別な場所なのであろう。勿論、姉妹が住んでいるということもあり、割と東京に来る機会も多いらしいけれど、遊びに来られることとそこで暮らすことができることとは、天と地程の差である。 CG製作という彼の「腕」をさらに磨くための場所も、金さえ用意すればすぐに見付かるだろう。また、少し幅を広げてみれば、そういう職種の働き口も結構見付かる。僕の会社のある杉並区では、アニメーション製作が「地場産業」になっているくらいだ。自分の「夢」にアクセスする道はいくつも用意されている。その気になりさえすれば、「夢」の方向に容易に進むことができるのだ。 少なくとも、地方都市に来れば得れば、選択肢はずっと多く、障害はずっと小さい。「親の扶養」という足枷も勿論存在するけれど、そのプレッシャーは地方とは比べものにならない程弱いといっていいだろう。
「僕も今の仕事で終わるつもりはない。でも、年齢のことを考えろと、どこかで踏ん切りをつけなきゃいけないとは思うので、行動を起こすとしたら早めにと考えています。」 僕を新幹線の駅に送ってくれる道すがら、運転をしながら彼はそう言った。 いつか彼は、周囲のプレッシャーを押し切って、「夢」の実現のために行動するのだろうか。いや、「『夢』の実現」というよりも、「自分のための人生を生きるため」という言葉の方が、彼には相応しいように思える。彼はそれに成功するのだろうか。それとも、いつか顔のニキビも皺に変わり、仕事に追われながら過ぎていく歳月の中で、いつか「これが自分の人生だ」と言い聞かせながら、日常に埋没して齢を重ねることになるのだろうか。 そんな彼の葛藤を考えると、僕は「東京」という「夢」の場所と隣り合わせに暮らしながら、齢を重ねるだけの状態に葛藤する自分が、いっそう情けなく思えたのだった。
東北のあの街を吹き抜ける風は、まだ身を切るように冷たいだろうか。 あの街にも、そして彼の人生にも、早く春が訪れることを、この東京の空の下で僕は祈っている。
メールによる恋人募集系サイトでメール交換を申し込んできた女性と、1週間ばかりメールをやり取りした。彼女は僕が脚本家を志しながらもまだそれを果たしていないと知って、とにかくそのためにやるだけのことをやり、悔いを残さないようにするべきだと言った。そして、そのためにはパートナーとしては、同じ世界に身を置き、才能を引き出してくれる相手こそが理想的であり、そういう相手を捜すべきであるとの文章の後に、別れの言葉が書かれていた。
それまでのメールの文面から、彼女が何事に対しても妥協を許さず、真摯な態度で臨んできたことが伺えた。そして、おそらくその性格のために、これまで人間関係をうまく結べなかったのではないかと推測される。 彼女はこれまでも何人かの男性とメール交換をしていたらしいが、好きな音楽のジャンルや読書の傾向などが殆ど自分と一致しなかったという。例えば、相手がジャスが好きと答えると「もうお手上げでした」と彼女は書く。そして、「理想の相手に出会うことは本当に難しいことなんだなあ…」と嘆息するのである。
しかし、趣味が何から何までぴったりと一致することが「理想の相手」の条件なのだろうか。確かに、相手をよりよく理解でき、ストレートに関係を結べるのは、考え方や興味の方向性が一緒である場合が多いだろう。けれど、それは「関係性」という観点から見れば、初歩の初歩である。コミュニケーションには様々な段階があって、肉親や仲間内の「内的言語」によるコミュニケーションから始まり、最も高度なものは異文化コミュニケーションであろう。その二つの間にある実に多様なレベル・形態の関係性の中には、一見相容れない立場の二人の間に成り立つコミュニケーションもある。
音楽の趣味が違うのなら、何故相手がそのジャンルに興味を持っているのかを聞き、自分の好きなジャンルとの相違点を語り、その底に流れる「音楽」というものについて意見を交流する。そのことで、自分にも相手にも考え方の広がりや感じ方の変化が生まれる。それこそがコミュニケーションというものの醍醐味ではないだろうか。常に翻訳抜きで話が通じる相手とだけ関係を結んでいたのでは、自分自身と会話しているのと変わらない。それでは他人との対話のせっかくのチャンスを生かせないと僕は思う。
この1週間、僕は彼女とほぼ毎日のようにメールのやりとりをした。彼女とは確かに思想・信条に180度の違いがあり、興味・関心も完全に重なっているとは言えない。けれど、見知らぬ他人である僕と彼女が、主に僕の「夢」を巡ってメールを交わし続けることができたということに、僕は意味を見出している。 僕にとって彼女は、また彼女にとって僕は「理想の相手」ではなかったかも知れない。けれど、少なくとも僕達は、相手をコミュニケーションの相手とする関係性を結べていたのだと思う。しかし、さらにコミュニケーションを続け、接点を探りながらお互いを理解し合うことでこの関係性を深化させることを、彼女は望まなかった。
彼女が、他人とコミュニケートする=関係性を結ぶことについて、もう少し柔軟に、間口を広く考えさえすれば、彼女を巡る人間関係はもっと広がる筈だ。彼女が「理想の相手」と出会えるのは、おそらくその時である。
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