思考過多の記録
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2002年12月31日(火) 年をまたいで

 何があっても時間というのは過ぎるもので、2002年も終わろうとしている。過ぎてしまえばあっという間という感じだが、その時その時ではいろいろな思いがあり、何とか日々をやり過ごすのに精一杯だった気がする。



 自分としては、絶望から始まった年だった。また自分の限界も強く感じた年だった。今の年齢に達するまでには当然できていなければならなかったことや、おそらくこのあたりまでは到達しているだろうと思っていたことが、結局できずにいたり、目標から程遠いところで足踏みしたりしている自分を発見し、力のなさを再認識せざるを得なかった。



 「夢を叶える」などという言葉が絵空事にしか聞こえなくなって久しい。現実を生き抜くのに精一杯で、夢などとうの昔に忘れ去ってしまっていた。世間的に言えば「夢に向かって努力している人」も近くにいないではなかったが、それは彼等が「夢」に選ばれたからであり、僕は選ばれなかったのだと思った。勿論、本人達にとっては夢を追っているつもりなどさらさらなく、それもまた彼等が生き抜かねばならない「現実」の姿だったのだろう。それでもなお、僕はその「現実」とは別の「現実」を生きる他ないと思っていた。



 その時、彼女が現れた。彼女は僕の「夢」に寄り添った。
 今日、彼女が読んでいた「シアターガイド」という雑誌に、僕が随分前に一緒に共同作業をした人が、「夢」に向かって一歩一歩「現実」を切り開きつつある証が記されていた。
 来年、僕はどこまで行けるだろう。側に彼女の存在を感じながら。


2002年12月26日(木) 「祭り」の夜に

 キリスト教と何の関係もない大多数の日本人にとって、クリスマスは単なるイベントであり、忙しい日常の中のひとつの区切りである。またそれは一種の祝祭でもある。まるで正月の到来を待ちわびる門松のように、街の至る所に数ヶ月前からクリスマスツリーが林立し、イルミネーションが瞬く。
 本来の意味はすっかり忘れられ、人々はキリストの誕生を祝福するよりも、恋人や我が子へのプレゼントを選ぶことに心を奪われる。



 確かにこの光景は、バレンタインデーと同じように、商売の目が利くどこかの誰かの発明品ではある。ケーキや玩具、その他諸々、この時とばかりに売り場に溢れてくる。それはこの祝祭がなければ、少なくともこれだけ多くの人がこぞってある期間に集中して買ったりしない物達だ。
 けれど、毎年繰り返されるこの光景は、宗教のないこの国の住人にとってまがう事なき「祭り」なのだ。どんな形であれ、人は「祭り」なしには生きていけない。それは宗教上の‘祭祀’の形をとるかもしれないし、普段は別々の生活を送っている気の置けない仲間が集まって過ごす時間かもしれない。日常の秩序の中に押し込められ、それを維持することに汲々とせざるを得ない僕達を解放してくれる装置、それこそが「祭り」である。



 クリスマスとは、輸入された外国の「祭り」が、日本人好みに姿を変えて定着したものなのだ。ウエディングドレスとタキシードにフランス料理のフルコースの結婚披露宴のようなものだろうか。それまでの日本にはなかったものだからこそ、またそれまでの日本の祭りとは肌合いも装いもまるで違ったからこそ、それはより非日常的な「祭り」として、日常からの開放感を僕達にもたらしてくれるものなのかもしれない。
 そして、だからこそその「祭り」の輪に入れない人間の閉塞感と疎外感が募るというわけだ。



 今年、テーブルの上のキャンドルの揺れる炎の向こう側に、その人はいた。その人と僕は決して愛を語らなかったけれど、グラスを傾けながら他愛もない話で盛り上がり、食事をともにしたその時間は、僕にとっては紛れもなく「祭り」そのものだった。
 イルミネーションの灯る街角、僕と、そしてその人は、本当に何年ぶりかで「祭り」の中にいた。
 それは、僕達にとっての「聖なる夜」だった。


2002年12月19日(木) 「不在」という存在

 実家の近くの駅前通にあった家電量販店が、先週末を持って閉店した。2年ももたなかったような気がする。その小さな店舗用のビルには、その前には別の系列の量販店が入っていたが、それが閉店して暫く空き店舗になっていたところに、今の店が入っていたのだった。



 家から近かったことから、僕の周りにはその店で買った物が結構ある。毎日のように使っているシェーバーや携帯のようなものからMDのような消耗品まで様々だ。別のどの店で買っても同じ大量生産された物ばかりなのだが、閉店が決まった途端に、何だかその店の「残像」のようなものがそれらの品物を通じて見えてくるように感じられてきた。
 店のフロアの情景や、店員の表情、その時の自分の精神状態までもが朧気ながら思い出されてくるようだった。日常の「買い物」という何でもない出来事、そしてどこにでもある商品が、まるでかけがえのないものであるかのような不思議なオーラを放ち始めたのは、言うまでもなくその店がもはや存在しないという事実、すなわち「不在」という現象のなせる技であろう。



 その昔、まだ僕が今よりもずっと自意識過剰だった時、そして今よりもある意味無邪気に恋ができた時、僕はその恋に失敗してばかりいた。僕にとって相手の女性はかけがえのない存在であり、彼女の不在は僕の生きる意味の喪失すら意味すると思えた。しかし、その彼女にとって、僕は殆どいてもいなくても変わらない存在だったのだ。
 この存在感のあまりのアンバランスが僕を苦しめた。そして、いつでもひとつの同じ結論に達していた。



 もし僕が彼女の中での僕の存在を、僕の中での彼女の存在と同じくらい重く、大きな物にしようと思えば、究極の方法は僕がこの世界から存在を消すことなのだ。僕の永遠の「不在」という事実が、彼女の中で限りなく小さく、また透明である僕の存在を一気に際だたせることになるだろう。たとえ一瞬でも、僕と彼女との存在感のアンバランスは解消する。逆に言えば、そうすること以外にこのアンバランスから解放される手段はない。
 自分の命と引き替えに、僕は彼女の中で「不在」という存在感を得ることができるのだ。



 客観的に考えれば、酷く独りよがりな論理である。けれど、その当時の僕にとってそれは動かし難い現実であるように思われた。何でもない商品がプレミアを獲得するには、その商品が二度と作られないという事実を必要とする。そしてそのことが、その商品に実際以上の価値を付与する。閉じられてしまったシャッターを前にして、人は横目で見ながら通り過ぎることの多かった店の賑わいを頭の中で再現する。その時、閉じられたシャッターの向こう側で、その人にとっての店が漸く存在し始める。



 自分の存在を消すことでしか自分はその人の中で存在できない。おそらく誰にとっても、僕はその程度の存在だ。不在による存在というあまりに奇異で卑怯な論理を、だから僕はまだ完全に否定できないでいる。


2002年12月08日(日) 本当の教訓〜拉致被害家族にもの申す3〜

 最近は北朝鮮関係の報道もめっきり下火になった。と思っていたら、先週後半、政府がこれまで日本近海に出没した不審船の一覧を公表したり、去年東シナ海で沈没した工作船の内部や装備を公開したりした。情報公開という名の世論の誘導である。文春・新潮に代表される保守系ジャーナリズムの内容の怪しい「暴露記事」も途切れることがない。北朝鮮はどうあっても「悪い国」でなければならないようだ。
 かの国からは、電力事情が逼迫している状況が伝えられている。あの国が取り決めを破って密かに核開発をしていたことへのペナルティとして、アメリカが石油の輸出を止めたことがこの状態に追い打ちをかけるだろう。同じ核開発を進めていても、北朝鮮やイラクは厳しく糾弾されるのだが、イスラエルは何のお咎めもない。その差は、単に親米的かどうかだけである。
 この世界では、「悪い国」とは「アメリカと仲が悪い国」のことをいうのである。つまり、世界はアメリカである。



 今の日本では、北朝鮮に対して同情的な言説は排除される傾向にあることはこれまで何回も書いてきた。そしてそこには、あの拉致被害者の家族達の存在と言動という「圧力」がはっきりとある。とにかくあの国に対して断固とした姿勢をとって欲しい。そういう方向で「日本」が一つにまとまらなければならない。そうしないとあの国に弱みを見せることになる。それが彼等の言動の根底にある認識だ。
「北朝鮮との交渉に当たっては、強い態度で臨んで欲しい。」
「交渉の進展のために原理原則を曲げることがあってはならない。」
そう彼等は主張してきた。その声に押されて、国交正常化交渉は暗礁に乗り上げている。そして彼等は、それを歓迎するかのような素振りさえ見せている。



 拉致被害家族がそういう気持ちになることは十分理解する。けれど、彼等のそうした発言は、彼等が交渉事の何たるかを知らないことからきている。彼等が地方でごく普通の生活を営み、基本的には「祖国」「おらが政府」のやることなすことの正当性を疑いもせずに過ごしてきた人々であってみれば、それもやむを得まい。しかし、今の彼等の立場は、どんな発言も重きを置かれ、広く報道され、それが国民全体の意見を代弁しているかのように扱われる。当然それが、国家間の交渉の行方も左右する。そのことに対して、彼等はもっと自覚を持つべきだ。同時に、彼等には自らが一種の視野狭窄に陥っていることもまた認識してもらいたいと思う。



 彼等はおそらく、この事件で初めてある種の「国際関係」に巻き込まれた。だから、彼等にとっての「国際関係」とは日本と北朝鮮の2国間のみの問題なのだ。けれど、北朝鮮を巡る問題は、何も拉致事件の問題だけではない。
 あの国をどうするかは、あの国と韓国・中国・アメリカ・ロシア、その他の東アジアの国々、そして日本という関係の中で多角的に検討されるべき問題である。朝鮮半島の平和と安定は、それが中台関係などにも影響を及ぼすことから、世界全体にとっても大きな関心事だが、特にこれらの国々にとっては切実な課題である。
 確かにあの国の体制は特殊で、かなりの危険性も持っているだろう。内政のやり方も外交政策も問題だらけだ。しかし、だからといってあの国と一切関係を持たなくていいというのは短絡的・偏狭な考え方である。むしろ今あの国を孤立させることは余計に危険だ。追い込まれれば、彼等は暴走する可能性がある。それこそミサイルの1発も飛んでくるかも知れない。それは朝鮮半島や東アジア全体の国々(勿論、日本も含む)が大きなリスクを抱えるということでもある。その意味で、日朝関係は純粋に2国間だけの問題ではあり得ない。



 僕は、日本は北朝鮮とできるだけ早く国交を結ぶべきだと考える。そして、拉致問題の真相解明とその解決を最優先にして、それが解決しなければ正常化しないという姿勢は誤りだとも考える。
 原理原則を主張するのは気分がいいし、格好もいいだろう。けれど、お互いに立場がかけ離れている者同士が、共通の目的のために歩み寄る場所を探すためにこそ、交渉があるのではないのか。そして、何としても歩み寄らねばならない状況があるからこそ、交渉は行われるのである。その状況とは、まさに先に述べた朝鮮半島情勢の現状である。そしてまた、かの国の一般市民達の置かれている状況である。



 そもそもあの拉致事件が起きた背景には東西冷戦構造があり、その状況下におけるこの地域での北朝鮮の孤立があった。もしその時に、日本政府が主体性を持って、あの国と日本や韓国との関係を取り持つために動いていたらどうだったであろうか。少なくとも今よりはこの地域でも国際的にも信頼を勝ち得ていたであろうし、当然拉致事件など起きる筈もなかった。
 北朝鮮に米を支援したことが国益に反すると糾弾されたが、対米追随一本槍で朝鮮半島・東アジア外交政策を考えてきた政府の行動こそ、国益に反していたといわざるを得ない。そして今、自らの強硬な姿勢で外交の手を縛っている拉致被害家族達の行動もまた然りである。



 北朝鮮の問題を2国間だけの問題と解釈し、東アジア全体の国際関係に位置付け、その中で解決を図るという広い視点を持ち得ていないこと、また植民地時代や冷戦時代から続く歴史的な問題から目を背けてしまっていること、そして、自分達の感情論が恰も全面的な正当性を持つかのように錯覚し、それに従わなければ「国賊」であるといわんばかりの空気をこの国に醸成する行動を進んでとっていること。強い言葉を使えば、これが彼等の犯している「罪」である。
 冷静に考えてみれば、現在拉致被害者達とその北朝鮮での家族達が引き裂かれ、被害者達も宙ぶらりんの状況に置かれてしまっているのは、拉致被害家族達が主張するように北朝鮮の責任ばかりとは言えず、2国間交渉を妨げる彼等の言動の影響もまた大きいと言えるだろう。彼等は、自分達で自分達の肉親を辛い立場に追い込んでいるのだ。「日本に永住帰国をしたい」と言わせたのもそうだし、つい先日も北朝鮮に残されている被害者の子供達について、「親が迎えに行くのが一番早い」と発言した拉致被害家族の一人、奥戸一男氏が、おそらく他の家族からの圧力で、翌日には「政府の方針に従う」と発言を訂正させられたりしていることもまた、その一例である。



 拉致問題を1日も早く解決すると同時に、多くの人達が命を落とし、また精神的に苦しむことになったこのような事件が再び起きることのないように、朝鮮半島・東アジア全体によりよい秩序が築かれることが何よりも大切である。
 そのためには、拉致被害家族達も自分達の悲しみや苦しみの体験を、この国に怨念を再生産していく方向に使うのではなく、将来にわたってこの地域に平和と安定、共存がもたらされるために生かすことを是非考えてもらいたいものだ。恰も、広島・長崎の被爆者達がその体験を反米運動にではなく、核兵器廃絶の動きを生み出すことにつなげていったように。
 敵意と怨念からは何も生まれない。拉致事件の教訓は「北朝鮮は悪い国」「金正日体制を倒せ」「日本よ、真の国家たれ」などという主張から程遠いところ、すなわちそういう主張をする自分達のあり方や「国家」というものを根本から見直す姿勢にこそ見出されるべきなのではないだろうか。


hajime |MAILHomePage

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