アナウンサー日記
DiaryINDEXpastwill


2003年07月17日(木) 一夜明けたら

 一日休んだら、やっぱり一日分作業が遅れた・・・(爆)。


 でも、負けないもんねー。


2003年07月16日(水) 休んじゃった

 このところ公私ともに忙しい。


 ふと手帳を見ると6月半ばから毎日会社に行っていることに気付く。午前様の日も幾日か。3〜5月ほどの忙しさではないのだけれど、「こんな生活が続くと過労死するかもしれない」と考え、思い切って休むことにする。ていうか、ほんとに休みなんですが。



 「きょうは絶対に仕事をしない」と心に誓い、妻と子どもを連れて、あちこちショッピングセンターなどをぶらつくが・・・やはり頭に浮かぶのはやりかけた作業の数々だ。振り払うようにクレーンゲームに打ち込んだら、なにも取れずに2000円もスッてしまった(爆)。


 夜は、母と姉と5人で夕食。ファミレスの手作りハンバーグとパンが思いのほかおいしく、このころにはようやく「明日からまたがんばろー」という前向きな気持ちに。



 寝る前に会社の先輩のHPを見たら、ちょうど同じようなことを日記に書いてあり、「みんな大変だなー」と思いながら寝た。




 ・・・うーむ。きょうはめずらしく、「日記」のような文章だ(笑)。


2003年07月04日(金) 奇跡の夜

 父が亡くなったのは、8年前のきょう、7月4日だ。


 食道ガンで入院していた父は数日前から痛み止めのモルヒネの投与を受けていたが、前日から意識不明になり、日付が変わる直前に眠るように息を引きとった。ガンの宣告を受けてから3ヵ月後。65歳だった。

 幸いなことに、私たち家族と主な親戚はその瞬間に立ち会うことができた。死の淵から必死で呼び戻そうとする私たちの声に、父は時折うなるような声で応えてくれたが・・やはりちゃんとした会話を交わすことができなかったのは、とても残念であった。


 父の死にみんな泣いていたが、私は泣かなかった。現実感に乏しかったのかもしれない。ただ、「長男の自分がしっかりしなければ」と強く感じていたことは確かだ。

 死んでからが忙しい。まず葬儀屋さんに電話をし、病院に遺体を引き取りにきてもらうよう依頼する。葬儀屋さんは年中無休、24時間営業だ。マニュアル通りなのかもしれないが、午前0時すぎの電話にもかかわらず、とても丁寧で暖かい応対をしていただいて頭が下がる。2時頃には来てくれるそうでありがたい。それまでの間、親戚と通夜や葬儀の段取りを相談する。

 
 亡くなった父の体を母がきれいに拭き、生前一度も袖を通さなかった新調の背広を着せた。ダンディだった父は喜んだと思う。だが、あんぐりと空いたままの父の口はどうしても閉じることができず、そのまま顔に白い布をかけた。



 午前2時。葬儀屋さんスタッフ、病院到着。私も手伝い、4人がかりで父の遺体を運ぶ。死んだ人の体がこんなに重いものだと、初めて知る。黒いバンに乗せ、長崎市内の自宅まで送ってもらう。

 午前3時、自宅到着。遺体を居間に敷いた布団に寝かせる。父の口はやはり閉じない。

 友引が重なるので、明けて5日が仮通夜、6日が通夜、そして7日が葬儀となった。父は亡くなる直前、姉の「七夕までがんばって!」という呼びかけに対し「うおう・・・」と返事した(ように聞こえた)が、結果的に、父は七夕まで私たち家族と一緒にいてくれることになった。



 午前4時。親戚一同帰る。家には母と姉、私と5月に結婚したばかりの妻、そして父。家族だけが残った。

 少しだけでも体を休めようということになり、みんなで布団を敷いた。私は父にお休みを言おうと思い、顔の白布を取った。


 目の前の光景に息を呑んだ。


 ぽっかりと開いたままだった父の口が閉じ・・・それどころか、うっすらと笑みを浮かべていたのだ。わずかに白い歯がのぞいている。目元もやわらかく緩み、まるで湯上りのような気持ちよさを感じさせる微笑だった。その瞬間、「ああ!お父さんは自分の人生に満足したんだ」と天啓のように悟った。家族に知らせようと思い「お父さんが!」と口にした瞬間、私の目から大粒の涙がこぼれ、とどめようがなかった。父が死んで初めて泣いた。

 死に際に言葉を残さなかった父は、その表情で、私たち家族にお別れをしたのだ。それはまさに奇跡だった。



 あれから丸8年たった今夜、実家でお食事会をした。母と姉、私と妻、そして8年前はいなかった娘の5人だ。3歳の娘は仏壇で手を合わせ、祖父の写真にニコニコと笑いかけていた。



 ささやかな幸せを守り続けたいと、強く願う。




 


メインページへ→ |HomePage

My追加