2003年09月30日(火) |
横浜市立小学校体育大会 |
今日は横浜市立小学校体育大会。 横浜市の小学校6年生たちが、横浜国際総合競技場でリレーやダンスを繰り広げる。
またまた昨日、そのために胸につける学校名が書かれたゼッケンを縫った。 友達は四隅しか縫わなくて、子どもに「もっと縫って」と言われたらしい。 私は左と上と右だけ縫って、下は縫わなかった。 それでもすっごい時間がかかって、一針一針、私なりに丁寧に縫ったつもりだ。
今回、夫はヘタクソなんて言わなかった。
まあ、見もしなかったけど。
「ついてりゃいいんだ」
と慰めとも聞こえる言葉だった。
朝から人身事故があったせいで、電車は遅れ、スタートも1時間ほど遅れたようだった。
うちの子は全員での競技にしか参加しない。 だから昼くらいに新横浜に着き、現地に向かう。
ものすごい強風で、ほんと前に進むのがやっとのほどだ。
最後に一列になって音楽が流れる中で、端から端まで歩くという大イベント?がある。 歩きながら、手を足下から救うように頭の上まで、まるで両手でボーリングのボールを投げるような動きである。
とお母さんたちも、先生たちも言っていて、子どもたちは横断しながら何度も何度も・・・・した。
こんな機会はもう二度とないかもしれないし、それが理由らしい。
帰ってくると息子は家でぐったりしていた。 1時間前に帰ってきたらしい。
昨日の夜から咳が辛そうではあったが、今日は学校に行ってもらわなくてはならないので、朝は喘息の薬テオドールを飲ませ、貼るタイプの薬を背中に貼って行かせた。帰ってきたら病院に連れてってあげるからね、と言っておいたのだ。
1時間遅れで始まった体育大会、終わりも当然1時間遅れで、5時過ぎに帰ってきた娘。 塾は5時からである。まあほとんどの子は同じように遅れるのだから、電話して遅刻で送り出す。
それから息子を連れて病院へ。
昨日の夜から喉が痛いと言って咳が辛そうで、と話す。
先生は聴診器を当て、私の顔を見る。
「喘息も出てまして。」
「だよね?言ってくれなきゃあ。」
「すいません。朝テオドール飲ませて貼る薬も貼ってったんですけど。」
「えっ、薬飲んでてこの状態なの?それはひどいな。じゃあ、ネブライザー吸ってって。」
要するに、奧の部屋で喘息用の吸入をしていって、と。
今日の薬は、
テオドール100mg、ポララミン2mg、ムコダイン250mg、フロモックス75mg、ポクナリンテープ となった。
一応、喉も赤いので、薬も多めになってしまった。
家に帰ると既に夫が帰宅していた。
帰宅する前に息子が「喉が痛いから『おじや』が食べたい」と言っている、と夫にメールしていた。
うちでは『おじや』は、夫が作るのである。 その他、卵焼きとラーメンとピラフ、しいたけの煮物、高野豆腐の煮物などは、夫の方が断然上手なのである。
卵がないということで私が卵を買いに行き、夫が作ってくれた。
昨日の夕食は夫とバイクで牛丼買いに行ったし、運動会で料理しすぎたせいか?ちょっとお休みが続いている自分であった。
2003年09月28日(日) |
今頃になって「僕の生きる道」 |
「僕の生きる道」がリアルタイムで見られず、夫が本を買って読み、面白かったのでDVDを買おうということになった。 最初はオークションで少しでも安いものを、と探していたが、新品と大して変わらないので、見たらまたすぐ売ればいい、そういう考えで購入に踏みきったのである。
夫が読んで面白かった本は、私も読むよう勧められ、既に読んでいた。
夫は泣ける、と言っていたが、私は感情移入ができなかった。 なんかうそくさい、みんないい人過ぎっ、そんな冷めた気持ちで読んだ。
太田哲也さんの本、リバース、クラッシュを読んだ時も、本当はもっとドロドロしているんじゃないのか、とか、書けないほどの内容もあったんじゃないのか、と思いながら読んでいた。書いている部分は一部でしかないし、誰も傷つけないような書き方にきっとなっているはずだと思ったから。それも、実話で本人が書いているからそこ、感慨深いこともある。
「僕の生きる道」、もともとテレビが最初で本が後に出ているのだから、台本を読むようなもの。 テレビで見たら、やっぱり「みんないい人」であった方が楽しかったりするし、前向きに生きられる。
まず始めに登場人物をリサーチしてから読んだ自分は、DVDを見ても、自分が想像していた通りに演じている役者さんたちに満足感を覚えていた。 ただ、小日向さんが医者という設定での深刻なセリフを、一体どんな顔してどう言うんだろう、と違和感があったが、やはり小日向さんなりのコミカルさが入った感じだったので、こんな医者いねえよ、と思いつつ見ていた。ま、それが面白かったりもするんだけど。森下愛子さんのキーパーソン的役所も、ちょっとこのシーンどうなのかなあ、と思って見ていると、やっぱり物足りなかったりしたが、おバカっぽく泣きじゃくるシーンは、なんだそりゃ、とあっけに取られながらも、泣けてしまった。
矢田亜希子さんの泣きシーンは、いまいち泣けなくて、その矢田さんが出るたびに、
「かわいい」「かわいい」と言う夫にむかつき、
「なんだか、たとえタレントとはいえ、そう何度も『かわいい』を連発されるとムカツクんだけど。」
と言うと笑っていた。
「あ〜あ、昔は私のことも『かわいいね』とか言ってくれたのになあ。」
「ママは、かわいいよ。」
「そんなんじゃない、顔をじっと見るたびに『かわいいね』って一日に何度も言ってくれたじゃん。」
「そんな何度も言ったらありがたみがないだろ。」
ふーん。
結婚前の夫は、誰にでも「かわいいね。」と言えるような人だったので、ちょっとしらじらしい気もするが、言われれば悪い気はしないやね。
夫は、赤井先生役の菊池均也さんが出るたびに、
などと言っていた。
教頭先生役の浅野和之さんが出て何か嫌なセリフを言うたびに 「引越のサ○イ(のCMで歌って踊っている人)が何を言ってるんだ。」 と言ったり、 「全然似てないよ。」 「10人中5人は似てるって言うよ。」 と言った、 って、10人中5人って2人に1人ってことじゃん、と、今書きながら思ったり。
谷原章介さん、鳥羽潤さんは、私も好きな役者さんで、かっこいいなあ、と見ているのである。
草なぎくんは、相変わらず草なぎくんだし、大杉漣さんは相変わらず大杉漣さんだし。 期待に応えてくれてありがとう、だ。
しかし、大杉漣さんは、ずうーっとあの棒読みで出てきたんだからすごい!人だと思う。
オフィシャルサイトが閉鎖されてしまっているので、参考のためファンサイトも記します。 http://bokunoikirumiti.hp.infoseek.co.jp/
今日は子どもたちの運動会。
6時半に学校の門が開くため、席取りの父兄たちがその時間までに長蛇の列を作る。 去年は夫が仕事で来られず、私が席取りをした。 その前は夫が席取りをした。
以前は席取りでも喧嘩したことがあった。 並ぶのが嫌いな夫は、そこまでして行かなくてもいいだろう、という気持ちなのである。
その気持ちもわかるんだけど、あちこち見るために人をかき分けて走り回るより、特定の場所でゆっくり見られる方が楽だし、要するにディズニーランドのファーストパスのようなものだ。先に並んで取っておけばいい。
昨日のうちから、席取りはどうする? 私が行こうか?という話をしていた。
夫は朝だけ仕事場に顔を出さなきゃいけないということで、 「7時に家を出られればいいから、6時半に門があくなら間に合うから俺が行くよ」 と言った。
私は朝5時に起きてお弁当の用意を始める。
夫を5時15分に起こし、かなり眠そうな夫に、 「先に行って並んでいようか?」 と言ったが、大丈夫、とのこと。
門が開く1時間前に行き、30番目くらいだとメールが入る。
朝は冷え込むし、財布も忘れて行ってしまった夫が少し心配になって、門が開く10分前に行ってみる。 毎年、この季節の朝5時台は、かなり寒かったりするのだ。
いつものことだけど、門が開いて校庭に入った瞬間ダッシュする。夫は足が速いので、20人抜きくらいはするかなあ。目指していた場所に一番乗りに入った夫の左右で、どんどん後から来た人たちがシートを広げていく。夫の後から夫の横に来てシートを広げようとしている人がいる。あっ、危険、っと思って、一気にロープを飛び越えて陣取る。広げて入ろうとしていた人はあきらめて後にまた下がる。夫と二人でシートを広げ、砂場のしめった砂をビニールに入れ、重石としてシートの四隅に置く。
前回もあったんだ。 夫だけが行ったとき、夫とその隣のほんの50cmもないんじゃあないか位の隙間に細長くシートを敷いてた人が。夫が帰ってくるなり「これくらいだよ。これくらい。」と両手を使って説明してくれた。いつも大袈裟に笑わそうする夫のこと、まあ、話半分に聞いて行ってみると、想像していた以上だった。 なんたって一番可笑しかったのが食事の時だ。 家族で縦に並んで食べている。 笑うのをこらえるので必死だった。
とにかく父兄の席取りはどんどんエスカートし、最初に並んだ人は朝の3時に来たとか。ほんとにえらいことなのである。
父兄同士で喧嘩になることもあるくらい、本当に修羅場と化すときもある。 まあ、幼稚園の時に比べれば全然楽なほうなんだ。
どのみち、20人抜きする夫は、5番目位に並んでた人の横にシートを敷いたのだから、夫の足の速さは宝である。
ちなみに、私も早い方だったんだ。中学はリレーの選手だったし。私の母も父も足が速くて、運動会の父兄のリレーとかはとっても鼻が高かったものだ。田舎に行って知ったのは、おばあちゃん姉妹も、おじいちゃんの妹も、リレーの選手だったということ。私と夫の子どもなら足が速いはずなんだけど。うちの子たちは遅いのだ。うーん、なぜだろう。
家に帰るとまた弁当の続き、夫は8時半に戻ってきて、たまご焼きを焼いてくれる。 私が頑張ったのは、唐揚げ、フライドポテト、ウィンナー、マカロニサラダ、おにぎり、焼きそば、などなど。 義母が来られないから、と、梨と柿を前日に持たせてくれたので、それも食べやすいように切ってつめた。&お菓子も買ってきてくれていたのでそれも用意する。 それから前日から冷凍していた「みかん」と「ゼリー」も忘れないよう。
運動会が始まる5分前に着き、まずは開会式の金管バンドの演奏から。
息子は頑張っていた。 昼も10分しか食べる時間がなくても、早々集合場所に急いだし、最後の表彰式も疲れているだろうに、しっかり立って演奏した。
とにかく終始、家族みんなそれなりにいい感じだった。
また一つ行事が終わった。
そうそう、途中、友達が5,6年生の騎馬戦の時に私のところへ来て「ビデオ撮らせて」ってことで、一緒に観ていた。
と言った。
ここんところずっと娘と息子の部屋も私が片づけている。 娘は一瞬いるだけでどうしてこんなに散らかせるのか、という位、出したら出しっぱなしでみるみる散らかっていく。それを娘がいない間に片づけるのである。最初は手出ししないはずだったが、それが喧嘩するのももう嫌になったのだ。
とにかく私は夫とのことも解決していなくて、娘に対しても腹が立っていた。
娘も今まで以上に反抗した。
片づけなさい、とか口うるさい私に対して、うざったくて仕方がないのだ。
私は子どもに言ってはいけないことまで口にした。
娘は大声を出してうなりながら、キレて、部屋中を片っ端に物を投げつけた。 そしてそのまま塾に行ってしまった。
私が掃除した部屋。 私が洗濯した服を着て、私が作った弁当を持って、娘は何も言わず家を出た。
私はしばらく片づけなかった。
夫にメールした。 ひどいことを娘に言った自分、そんな自分が嫌だってこと、娘のこともしかり、今後のこともしかり、話がしたいということを。
「今日帰ったら話しましょう」
と返事が来た。
丁寧語がやけに危険に思えた。
夫が帰ってくると、やはり娘の部屋を片づないわけにはいかない自分がいた。
「もう、ほっとけ。お前の方が壊れるぞ。」 「もう壊れてる。」
夫が覗きに来る。
ちょうど娘が投げつけて散乱した中の、ノートの切れ端を手にしたところだった。
「ママ、死ね」
と書いてあった。
初めてのことに、一瞬時間が止まった気がした。
「ママ、死ね、だって。」
と夫に渡す。
涙があふれてきた。
「パパにも否定され、娘には死ねだって。 なんか、もう生きてちゃいけないのなって思うよ。
パパに馬鹿にされて、娘に馬鹿にされて、私って何なんだろう。
もう駄目だよ。」
「あいつのことはほっとけよ。 あいつのことでいっぱいいっぱいなってるんだろ。」
「それだけじゃない。
もういい。 今日は息子がいるから今は話したくない。」
「今話さなきゃ駄目だ。 何が気に入らない。」
「そうじゃない。 私、40過ぎたら、自分の好きなことやりたい、自分にお金かけたい、って思ってる。 でも、今のままじゃできないんじゃないかって思った。
だって、裁縫が上手にできなくて10年以上も主婦やってて努力してこなかったんだなあ、ってことは、 できない自分は主婦失格って言われてるようなものでしょ。 10年以上一緒にいるのに、未だにそんなことを言われるんだよ。これから先だってきっと言われる。 その都度、自分の存在を否定された気持ちになる。
私が間違ってるのかとも思った。 友達に聞いた。 冗談っぽくね。
そしたらそんなこと言われたことないってっ。 そんなこと言われたら喧嘩するって言ってたよ。 ああ、自分だけじゃあないんだって思った。」
「お前はいいよ。 友達がいるから。 友達に話せて、友達が聞いてくれて、友達かお前の肩を持つ。 俺はお前とは違う。 お前の悪口なんて言ったことはない。
やりたいことがあるならやればいい。 やりたいことがあるなら一緒にやればいいじゃん。
バイク買ったのだって、二人で一緒に遊びに行けるからだし。」
「違うよ。 パパは一人でだってバイク乗りたいからって行くじゃない。 仕事で楽だからって言ってたじゃない。」
「まあ、それもあるけど。」
「二人でやりたいことはやればいいし、そうじゃないこともある。 私がパパと一緒に空手ができないように、私がダンスしたいから一緒にやってって言ったって無理な話でしょ。 それと一緒。
パパが空手の先輩と飲みに行くように、私もその時々会う仲間と一緒に話したり、お酒飲んだりしたい。
私は私なりに頑張ってる。 ずっと頑張ってきた。 ずっと我慢してきた。
友達と飲みに行ったのだって結婚して7年経ってからだった。 話したいこともいっぱいあるけど、話したら喧嘩になるから話せないこともいっぱいある。 友達が夢に向かって頑張ってるって話で「自分は夢を諦めたんだ。俺の前で夢の話をするな。」って怒って、そんなパパに私の夢の話なんて話せないじゃん。」
「何がやりたいんだ。」
「結婚してからだって、デモテープのボーカルの話があって続けたかった。 でもパパは嫌がっていたからできなかった。 友達がママたちでバンド組んでライブやってるといいなって思うよ。 自分もやりたいなって思うよ。
口に出したら恥ずかしいくらいの夢もいっぱいある。 やりたいことがいっぱいある。 これから見つかる夢もある。」
「家庭を壊すのか。」
「そんなんで家庭が壊れるの? そう思うんだったら壊れるんじゃないの?
あと3年で子どもたちは中学生になる。 そしたら私も自分のために使える時間が欲しい。
私はパパのことが好きだけど、好きだけじゃ一緒にいられないんだよね。
これからもこうやって同じことを繰り返すのはもう耐えられない。 もう終わりにしたい。」
「俺は離婚する気はない。」
お前はお前と同じ思いを子どもにさせるのか、 それでいいのか、
というようなことを続けて言った。
でも、私は子どもには愛情はない、と言った。 どうでもいい、と言った。
その言葉は本当のことでもあるし、本当じゃないような気もする。
夫が私に冷たければ私は子どもに冷たくするし、 夫が私をいじめれば私は子どもにいじわるをする。 私はいわゆる他のお母さんたちのように母性本能というものがない。 子どもがかわいいと思うのは、愛の結晶だからで、 その愛がなくなればかわいくないのだ。 そんな自分も嫌で、ずっと苦しんできた。
夫はそれ以上問いつめなかった。
洗面所で音がして覗きに行くと、息子が一生懸命手のひらをいじっていた。
話している途中でリビングに来ようとして、
「あっちへ行ってなさい。」
と夫が息子を自分の部屋に行くようにしむけた。 だからずっと息子は、ドアの向こう側にいた。
運動会の練習で転んで、石が手のひらに入ってしまったと言った。
「なんで言わないの?自分で触るとどんどん奧にいっちゃうかもしれないよ。そうするととれなくなっちゃうよ。」
「うん。」
「ちょっと痛いけど我慢してね。はい、取れたよ。」
「あっ、ほんとだ。よかったあ。」
息子がかわいそうに思った。 言えずに一人で格闘していたんだから。
何も解決していない。 でも、翌朝にはまた私の頭をなでていた。
そしてやっぱり優しいんだ。
きっと夫は私のことを大切に思っている、と思うんだけど。
午前中、友達から電話があって、一緒にプールに行くことになった。
1時間みっちりプールで歩いたり泳いだりして、すっごくへろへろになった。
すっごく楽しくてストレス発散にもなった。
とにかく夫には結果が出てないのでゆっくり話したい、とメールした。
夫からは何の返事もなく、帰ってからもふつーに優しかった。 美味しいみそ汁を作ってくれたりして、話す雰囲気じゃあなかった。
とにかく楽しい話ばかりした。 なっちゃった話とか。 あと1個、確実なのがあるんですけどやらせて欲しいと言ったが駄目だったそうだ。
そりゃ、そうだよなあ。笑
でも、そういう友達が好きだったりする。 なんかかわいいじゃない?
それからプールで友達に褒められたこと、を話した。
バタ足で泳いだ時、25mのまん中くらいを泳いでた人たちに追いついてしまったので、コースをズラして前に進んだ。泳ぎ終わって後を見たら、友達がまだまん中くらいにいた。友達が「早い。水泳の素質あるんじゃない?」と言ってくれたのだ。
大人になるまでまともに泳げなくて、息子が幼稚園に入った時に水泳教室に通った。その時は顔をつけるところから始まって、25m泳げるようになった。死にものぐるいで50m泳げる、くらいである。 その時もコーチからバタ足がいい、と褒められたのだった。
こういうことですっごく嬉しかったりする。
それから、私は未だに息継ぎが上手くできなくて、3回息継ぎするために顔を横に向けても1回息継ぎできればいい方で、友達に教えてもらいながら練習する。なんと、一度は思いっきり飲んでしまった。 まあ、そんな話とか。
友達が優雅に平泳ぎを泳いでいるので、やっぱり教えてもらいながら泳ぐと、足と手を一緒に動かしてしまって止まった途端に沈んでしまったり、なんとも頭で考えるのと身体とが上手く動かなかったりする。
今後の課題である。
2003年09月23日(火) |
マーチングバンド県大会 |
昨日から決めかねていることがあった。
今日は息子のマーチングバンド県大会だが、娘の塾は朝からある。 塾には行かせた方がいい、という夫と、 休ませても見せたい、という私と、 意見は食い違っていた。
夫は、こんな大事な時に塾を休ませてまで行かせる意味があるのか。 と思っていた。
だが私は勉強よりも「やる気にさせる」ことが大事だと思ったのだ。 娘は、もともと、中学に入ってからもマーチングバンドを思いっきりやりたい、ということで受験を始めた。マーチングバンドで全国大会に行く、それが夢だったはずなんだ。 それなら、それだけの実力がある団体を自分の目で見るべきなんじゃあないのか、と思ったのだ。 自分が出場する時は、真ん前で他の学校の演技をしっかり見ることなんてできなかったのだから。 目先の勉強より、ここに入りたい、こんな風になりたい、その気持ちを強くすることが、ミスを少なくする最大武器になるんじゃないのか、と思ったのだ。
私はまた腹が立って仕方がなかった。
結局、解決しないまま朝になった。
寝ている夫に、
「塾休ませていいよね?」
と言うと、いいよ的な返事が返ってきた。
息子は朝から緊張していた。 姉に「緊張した?」と心配そうに聞く。
娘は「少しは緊張しなきゃ駄目だよ。」
私「大丈夫、練習通りにやれば絶対大丈夫だよ。」
夫は会場までバイクで行くか行くまいか悩んでいた。
バイクで行くなら、と大会のチケット1枚、夫の分を手渡す。
「先に着いた方が並ぶということで。」
「えっ、俺の方が遅いだろ。」
遅いのにバイクで行くの?だった電車で行けば?
ということで夫は悩みつつ、電車で行くことになった。
開場15分位前に着くと、横浜アリーナは真後ろまで入場待ちの人が並んでいた。 とにかくすごかった。
いつものごとく、1F席より2階席の方が全体のドリルがよく見えるので、上へ向かう。 息子が出演する少し前に義父母も来る。
私はずっとビデオを回し、息子のアップを撮っている時、息子の足が止まった、瞬間、回りと違う空気が流れた。止まったのが間違いで、2歩手前に修正して歩いてしまったのだ。
ドリルは間違えても「あっ、間違えた。」と修正してはいけないのだ。そうすると思いっきり目立ったしまう。間違えたら、次の流れで修正すべきなのだ。
息子は思いっきり「しまった!」という顔をした。
演奏が終わると写真撮影になる。 その場所に向かい、息子と顔を合わせた瞬間、
「緊張して全然できなかった。間違えた。」
と、暗〜い顔で答えた。
写真屋さんが、子供達の笑顔を撮ろうと、「みんなでゲッツをやって!」と言うが、息子のゲッツはすご〜く暗いゲッツであった。
パート毎の写真撮影が終わって移動中、息子は胸に抱いている大きなドラムに顔を沈めていた。指先で何度も何度も目尻をこする。涙を流しているらしい。こすってもこすっても息子の目から涙が流れてくる。顔を歪ませるわけでもなく、声を出すわけでもなく、涙だけが出てしまっている。先輩が息子に気づき、一生懸命慰めてくれている。「上手だったよ。」って。
後に、「嘘だと思うけど。」と付け加えながら、先輩がそう言って慰めてくれたと息子が教えてくれた。
息子の涙を見て、自分もいたたまれなくなった。 親戚のお葬式の時、同じような泣き方をした。 涙が出てきちゃう、そう言って同じように指先で目尻をこすっていた。
そして娘の関東大会を思い出した。 ほとんどの部員の子たちが大泣きしていた。 みんなで泣きながら数人ずつ肩を抱き合っていた。 6年生の数人だけが、「5年以下はまだ来年があるんだから頑張ればいい。」と励ましていた。 私は大泣きする娘に、何も言葉をかけてやれなかった。
そんなことを思いながら足早にその場を去った。
小学校の部が終わると休憩ができるベンチは混んでしまうので、終わる2校前くらいに出て場所を取り、義父母が買ってきてくれたサンドウィッチなどを食べる。
今年は出場校が少なく、小学生の部は全校が関東大会出場となった。
終始、私と夫は仲良し夫婦だった。
だけど私の心にはわだかまりがあるままだった。
明日は息子のマーチングバンドの県大会である。 連絡網で、もう一度制服の名前を確認するよう指示がある。 制服は、最初に7000円払うだけで、後はサイズに合わせて1年ごとに変えていく。 部員の中で順繰り使っていくということだ。 よって息子の制服にも今までの先輩の名前が書かれていて、その制服をどの先輩が着ていたのか一目瞭然なのである。 運動会のハチマキにも名前をカタカナで縫いつけていたし、今度もそれをやろうと縫った。
私ははっきりいって裁縫は得意ではない。 1cm縫う間に13回も手に針を刺してしまうほど、へたくそなのだ。 だけどへたくそはへたくそなりに頑張ってきたつもりだ。
体操着の名前の縫いつけも、水着の名前の縫いつけも、やらなければならないことの最低限は頑張ってきたつもりだ。
夫は私が縫った名前を見て、
「ほんとへったくそだよなあ。」
と言った。
「へたくそでも頑張っててかわいいなって思わない?」
と言ったら、
「全然!10年以上も主婦やって何にも努力してこなかったんだなあ、と思って。」
と言った。
ここで本当はどうするべきだと思う?
本当のこと言われたんだから笑っていればいいじゃん、と言う。
でも、私は泣き出してしまった。
「言われて嫌だったら努力しろよ。」
そんな風にしか考えていないんだ。 そういうことを言う夫が嫌でたまらなかった。
私はまたこれで離婚を考えた。
アイロンがけが苦手でも、唯一、学校の給食当番のかっぽう着はアイロンがけをしてきた。 やらなければならないことは頑張ってきたつもりだ。
結婚した途端、主婦になって、主婦は主婦業ができて当たり前的な考え方、できないのは努力が足りない、というのはどうなのだ?
主婦は主婦なりにスペシャリストになるよう、苦手なことも得意になるよう死にものぐるいで努力しなければならないのか?
極端な言い方だろうが、そう言われているような気分になった。不愉快だった。
ついこの前、家庭は安らぐ場所なんじゃないのか?
と夫に尋ねた。
その時、夫は沈黙していた。
沈黙していた、ということは、返す言葉がなかったということでもある。
私はそう解釈していた。
違った。
安らぐ場所じゃないんだ。 だったら続けられない。
好きで一緒になった。
でも、こうでなければならないとか、こうであるべき、とか、 努力が足りない、とか、10年以上経っても未だなお言われ続けるのであれば、 もう無理だ。
私は、私なりの方法で頑張っているんだ。
食費を頑張って節約するのも、家族で映画を見に行ったり、遊びに行ったりするため。 300円の生地を買ってミシンで枕カバーや掛け布団カバーを縫ったり、まあ、生地がかわいかったからっていうのもあるけど、気が向いたからっていうのもあるけど、私にとっては滅多にあることじゃあなくても頑張ったことなんだ。 網戸だって張り替えてやるから置いておけ、というのに全然やってくれないから、自分で張り替えたし。 組立式の家具だって自分で組み立てたり、冷蔵庫だって自分で運んだり、大きな本棚だって自分で動かしたり、私なりにやってきたんだ。 ディズニランドに行かせてあげたいから、旅行に連れてってあげたいから、私も行きたいからっていうのもあるけど、寝ないで仕事だって頑張ったりしてるさ。
私なりの方法ではダメだということなのか?
もうやめよう。
「ねえ、もっと自分に自信持てば?」
散々大声あげて怒鳴っておいて、急に静かな口調で言う。
とにかく私は一緒に寝たくないので、息子の部屋で寝てくれ、と頼む。
夫はリビングに寝たまま、朝には同じ布団に寝ていた。
一体、彼はどういうつもりなのだろう。
実は、ホームページを閉鎖しようかどうしようかずっと考えていた。 今年は本当にいろんなことがあって、精神的にも滅入って、夫を思いやる気持ちも欠けていたように思う。
結局、私がつらい時に、ずっと側にいてくれたのは夫なわけで、 だまってずっと横にいてくれたわけで、 私が言葉を発すれば喧嘩ばっかりだけど、 それは自分の言い方とかもいけないわけで。
いつだったかなあ。
夫はいつのまにかインターネットもそれなりに使えるようになって、私の友達の日記を毎日のようにネットで読んでいたことがあって、読書好きの夫、もともと本を読んで面白いと、その人の本をどさっと買ってきて読みあさるみたいな。 そんな人だから、知人だったこともあって心に入ってくるものがあるんだろうな、って思った。
そういう夫を目の当たりにしていたら、なんだか自分は夫にとって興味がない存在なのかなあ、と思ったりした。
言い合いになって喧嘩することは毎日のようにあるけど、優しい部分もいっぱいある。だけど、なんていうのかなあ。それは夫婦が上手くやっていく上での義務でやっているだけで、私自身については知りたくないのかなあ、って。 私が日々何を思い何に悩み、何に苦しんでいるのか。 それを言葉にしようとしても、夫は聞いてはくれないし、喧嘩になるだけだから、私は日記に書いて自分で消化して自分で前に進まなきゃと思っていたんだ。
ねえ、私の日記はどうして読まないの?
履歴を見ても私の日記を読んでいないのがわかる。
「ずうっと前に読んだことがあったよ。でも止めた。俺の美意識が壊されるのに耐えられなかったから。」
要するに、てめーのことばっかで、俺の気持ちなんてこれっぽっちもわかってねえじゃねえか、独りよがりで好き放題書きやがって、ということか?
日記だもの、そりゃそうだろう。
なんだかまた論じ合いになった。
夫は自分の気持ちを誰かに相談したり話したりしない。誰も俺の気持ちなんてわかるわけがない、と思っているし、人なんて信じられない、と思っている。私のことも信じちゃいない。
なんたって、夫がすぐ口にするのは、
「お前はいいよ。顔がかわいいからってちやほやされていたんだろう。」 「どうせお前は俺がいなくても生きていけるんだろう。俺が嫌ならさっさと出ていけ。」
いくら私が言葉で「好き」と言っても、 言葉ではいくらでも言える、という感じだ。 もう10年以上にもなると、かなり面倒になってしまっている自分がいた。
もういい加減にしなよ。
そう、私もこんな言い方がいけないと思っている。 でも、
もうしゃべらないで。
こんなことまで言ってしまうのだ。
そんなことを言う自分も嫌で、面倒だと思う自分も嫌で、もう存在自体が嫌で嫌でたまらなくなってきていた。ああ、なんて生きるって面倒臭いんだろう。
愛とか、恋とか、一時だけ楽しんでいれば、そうでいられたら、楽だっただろうに。 だけど好きになっちゃったんだし、一緒にいたんだし、そんな自分が腹立たしくてたまらなかった。
もう止めようよ。
何をやめるんだ?
私の気持ちをひっかき回すことよ。 本当に勘弁してほしい。
「お前はいいよ。自分の言いたいこと好き勝手に書いてよ。俺がお前を訴えたらどうなるんだ?」
名誉毀損ってことか?
「私、誰が読んでもいいように書いているし。書いてないこともたっくさんあるよ。自分なりに選んで書いているつもり。パパのことなんて、私はこんなに夫を愛していますって言っているようなものじゃない。だから悩むんでしょ。苦しむんでしょ。パパは私の気持ちを聞いてくれない。話せば喧嘩になる。だったら私はどこに気持ちをぶつければいい?どこかに気持ちをぶつけなければ私は壊れちゃう。」
「ほんとに自分のことばっかな。 俺が何した? 俺は精一杯やってるよ。」
「パパは精一杯やってるよ。すごいと思うよ。でも私は同じようにできない。無理したらまた入院になって、結局迷惑かけることになる。だから疲れたら休むようにしてる。家は安らぐ場所なんじゃないの?無理しなきゃここにいられないのならもう無理だよ。若い頃は好きだけで一緒にいられるものだと思ってた。でも違ったんだよね。好きだけじゃ一緒にいられない。 もう疲れた。大声出されてびくびくするのも、優しくされるのも、私は嫌われてるのか、好かれているのか、わからなくなる。頭がこんがらがっちゃうよ。存在自体が否定されているような気持ちにさえなる。」
夫は黙っていた。
黙って、黙って、黙って、
「まっ、所詮、物書きなんてそんなもんだよな。」
とポツリと言った。
なんだか心がひっくりかえった。
あまりにも予想してない言葉だったからだ。 なんだかどこかにワープしてしまったような気分になった。
今までの話と、この言葉とどこがどう繋がったんだろう。
そういや、ここのところ夫は食事の支度をしてくれる頻度が多くなった。 そういや、朝、寝ている私の頭をずっとなでてくれていたりする。 そういや、結果的には子どもたちが食べちゃったりするけど、私に食べさせようと私の大好物を買ってきてくれたりする。
言葉にしなきや伝わらないって思ってた。 どんなに夫婦長くやってきたって。 言葉が大事なんだって思ってた。
だからずっと日記を書いていたんだ。
夫はずっと、言葉なんていくらでも言えるって言ってた。
もう一度考える。
俺はどんなに喧嘩しても、これで死んじゃったら後悔するからって喧嘩しても翌日までには仲良くなりたいんだ。
私の中では解決していなくて、喧嘩したらもう白黒つくまで口も聞きたくないんだけど、朝にはヨシヨシしてくれているんだ。
ひっくりかえった心は、ひっくりかえりっぱなしで、わけがわからなくなった。
日記を書くことも、なんだかバカらしくなった。
私は何のために書いていたんだ。 自分の気持ちの整理のため。
もし私が危険な方向に行っていたら、誰かが止めてくれるかもしれない、なんて他力本願な気持ちもないとは言えない。
私、何だったんだろう。
自分だけが苦しいと思ってた。
夫が苦しんでいることもわかってたけど、自分は夫より苦しいと思ってた。
なんだかわからなくなっちゃったんだ。
夫も夫だ。
言葉なんて何とでも言える、と言いながら、言葉で私の心をひっくりかえしてしまった。
でも、ひっくりかえったのは、きっと言葉だけじゃなくて、そう、、言葉はきっかけなだけで、それまでの行動あってのことだったことに間違いない。
私、なんで日記なんて書いてたんだろうって思った。
思って、思って、考えた。
書きかけの日記。
田舎に行ったこと、まだ途中しか書いていない。 おばあちゃんが亡くなったこと、映画も観たり、お笑いのライブも行ったり、書きたいことは山ほどあったのに、おばあちゃんのところでひっかかってた。それでこれだ。
「もう誰も死んでほしくない。」 「じゃあ、俺はお前が死んだ翌日に死ぬよ。それがいいや。」
夫は生きていてもしょうがない、とか、俺はこんなに長く生きる予定じゃなかったんだ、と言っていたのに、嬉しくてたまらなかった。
もう日記なんていらないや、って思ったんだ。
|