思い、願い。。
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中学受験日記。 (上の子(娘)の受験は2004年2月まで)

中学受験日記から4年数ヶ月、その間、3人目出産、起業し・・・

2003年07月16日(水) 昨日の続き・・・

昨日の続き。

この島にはいくつものお墓があるように見える。
その町ごとに一つお墓がある。
山の麓にあるお墓、親戚の墓だらけだ。
名字も全部で5個あるかないかくらい。

おばあちゃんのお墓は、その中で上の方にあり、
階段を上っていく。
親戚たちが細い階段を一列になって上り、交替でお線香をあげていく。

ここに着いた朝、おじいちゃんから手渡されていたおばあちゃんの小銭入れ。
これはお前が持ってお墓に入れるんだよ、と言われ、ずっと朝から手に握っていた小銭入れ。
中にはお金も入っていて、その他にもいろいろ入っていて、おばあちゃんの大切なものだ、と言っていた。
それを骨壺と一緒にお墓に入れる。

長男が墓の中に入って、整理して入れてくれた。

いっぱい話した。

私の従兄弟にあたる子は、うちの子と一学年違い。
二人とも、うちの子たちより、一つずつお姉さん、お兄さんだった。
そのお母さんは、私より一つ上だった。
要するに、母の一番下の弟の奥さんは、私と一才違いということだ。

う〜ん。
前川清さん似のただのおやじである。(ごめん、おにいちゃん)

奥さんは、たとえていうなら、山口百恵さん的な顔立ちで、
小さくて清楚でかわいらしい感じの人だ。
顔のつくりも綺麗で、お肌も若々しい。
どう並んでも不釣り合いだ。
多分、10歳近く違うんじゃないかなあ。

でもお互い好きならそれでいい。



おばあちゃんが亡くなる前、母の兄弟たちはいろいろあって、バラバラだった。
おばあちゃんが亡くなったことも知らせないかもしれないって言ってた。

でも、全員が来た。

兄弟6人、仲良くできているなら、幸せなことだろうに。
なかなか上手くいかないものだよね。

兄弟がバラバラの間に、
母の一番下の妹は、夫を癌で亡くしていた。

みんな死んでいくんだ。

いろんなこと話した。

おばあちゃんの妹の足が速くてリレーの選手になったこととか、
おじいちゃんの妹の足が速くてこれまたリレーの選手だったとか、
二人は一学年違いで同じ時期にリレーの選手でバトンを渡しあったこともあるとか、
他の学校との合同でも出たとか、
ねたまれていじめにあったとか。

明け方近くまで親戚たちは、お互いまだ若いぞ、と見せつけ合いながら、体操したり踊ったり、なんだかとっても元気だった。

みんなもうここに住んでいない。

ここでは仕事がないから、と、長崎に移り住んでしまっているらしい。

みんな働いている。


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朝、「起きなさい。」という叔母の言葉で目が覚めた。
母の一番下の妹である。

彼女は、母と絶縁関係にあって、私が電話した時も、
「もう電話して来ないで。」
と言ったほど、私たちを嫌っていて、ここに来てからも、ずうーっと私と母のことを無視していた。
だけど昨日親戚のおばさんたちからいろいろ言われたのか、
私ならいいと思ったのか、話しかけたのだ。
まあ、怒られたという方が正しいけど。

眠い、非常に眠い、起きると、女性軍たちは忙しそうに掃除しまくっていた。

こんな時に思う。
一番かわいそうなのはお嫁さんだって。

長男の嫁。

昨日も全然休んでいないし、親戚に話しかけても無視されている。
それを私が代弁してみんなに言ったりしていた。

本当にすごく働き者で、嫁の鏡である。

私がもう今日帰ることをとても残念がって、
「さみしくなるわ。」
と言ってくれた。

それでも私たちは帰ってきた。
また羽田空港のゲートの外に、夫が立って待っていた。

そう、書き忘れていたことがあった。

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一生忘れないね、と叔父は言ったんだっけ。



2003年07月15日(火) おばあちゃんの告別式

昨日の夜9時半過ぎに福岡着の飛行機に乗り、夜中の0時発の、福岡からの夜行船に乗り、朝8時に島に着いた。

福岡空港から港まではタクシーに乗り、到着してチケットを買う。
船はすぐに乗ることができて、じゃあ中で待っていようか、と、大部屋に向かう。


船の中はホテルみたいなんだけど、大部屋は想像していたより小さくて、酒臭そうなおやじがあちこちでごろんと横たわっている。こんなところに母と二人、一緒に寝たくないよなあ。

一生に一度あるかないかかもしれないし、と、奮発して個室を借りることにした。
乗船券とは別に、個室料金として5000円ほど払う。


案内の背の高い紳士的なおじさんが、荷物まで持ってくれて運んでくれる。
お金を払うときに、何かあって帰るの?
と聞かれ、おばあちゃんのお葬式で、と話すと、
じゃあこれ、おばあちゃんにね、と、のしが付いたタオルをくれた。

荷物を整理して大きくのびをする。
とりあえずお腹も空いたし、何か食べようか、とラウンジに向かう。


部屋に戻ってしばらくして、寝ようか、と、
ぐっすり朝まで眠った。

久しぶりにゆっくり眠れたね。

カーテンを開けると島が見える。
いくつかの島を通り過ぎ、おじいちゃんが住む島に着く。

船を下りてタクシーで。
着くと既にたくさんの人が来ていて、母の義姉さんと弟、おばあちゃんの姉妹、おじいちゃんの姉妹もいた。
入ってすぐの広間には葬儀屋さんが準備に忙しそうで、奧のキッチンでは、近所の人たちが忙しそうに炊事をしていた。

私のいとこもいた。
私より一つ上のはずが、すごく大人っぽくて、最初わからなかった。


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などと言っていた。

奧のキッチンでは、近所の奥さまたちが、
「ホントに綺麗ねえ。なんだか華があるわ。取り替えたいわ。」
などと言ってくれた。

私は、小さい頃からブスだと育ってきた。
「お母さんに似たらよかったのにねぇ。」
と母の知人たちに言われ続けきた。
要するに、お母さんに似たら綺麗に生まれてきたのにかわいそうに、という意味だ。

そう言われるたびに、ただ微笑み返していた(認めていた)母が、
「毎日トイレ掃除すると『綺麗な子』が産まれるのよ。私は毎日綺麗にしてたから、だからこんな綺麗な子が産まれたの。」
などと言っていた。

たとえ母に似ていない私でも、子が褒められるのは嬉しいらしい。だけど自分のトイレ掃除の賜物というところは何とも母らしいというか。そのへん、ちょっと、なんとかしてほしい。

おばあちゃんは、とっても綺麗な顔をしていた。
おばあちゃんの顔に髪の毛がついているのが気になって葬儀屋さんに開けてもらって取った。
やっぱりおばあちゃんも冷たくなっていた。

弟のことを思い出した。
冷たかった足を触った瞬間涙が溢れてきたことを。
弟の死と重なって涙が溢れてきた。
なんで死んじゃうんだろう。

おばあちゃんは孫に会える?

母の妹、母の妹の子どもたちも来て、お葬式が始まる。

焼き場に車で移動する。

おばあちゃんが途中まで火の中に入ったところで、母の一番下の弟家族が到着する。
長男が「ちょっと待って。」と頼むが、

こんなことは初めてだ、と憤慨され、
要するに、途中まで火に入れたものをまた引き出すということはあってはならないことだ、と言われ、泣く泣く、一番下の弟は実母の顔を見ることもできずにさよならせざるおえなくなった。

分厚い扉が閉ざされ、奧からゴーっという音が聞こえてくる。

私はトビラの前で泣き出してしまった。

おばあちゃんはもう死んでもいい年齢で、いつ死んでもいいくらい具合が悪くて、おばあちゃん孝行もしたし、悔いはないし、ここに来るまでは泣くなんて思っていなかった。

違うんだ。
弟のことがよみがえった。

小さい頃、いつも二人で、私がお姉ちゃんなんだからなんとかしなきゃって頑張ってきて、それでバラバラになって、お互いがお互いの家族の中で生きてきて、家庭も持って、話はしなくても、ただ生きているだけで、よかった。
お互い年を取って、小さい頃の思い出を話せる相手がいる、それでよかった。
生きているというだけで心強かった。
母は再婚していて帰る場所がない私が、母が死んでもう本当に何もなくなったとしても、弟が存在しているというだけで心強かったんだ。
その弟が亡くなった。
まだ何も話していないのに、話したいこといっぱいあったのに、何も聞かないまま亡くなってしまった。
亡くなったら無だ。

弟のお葬式の時は、ただ大粒の涙だけがポロポロと流れて、声に出して泣くことはなかった。
声に出して泣くことができなかった。私が頑張らなきゃいけないんだって、母のことも、弟の奥さんのことも、私がって思ってて、頑張って立ってたんだ。母が後で号泣して寄りかかってきたときも、私はしっかり踏ん張って立っていたんだ。

もういいよね。
もう泣いてもいいよね。
もう我慢できないから。

私は声を出して泣いていた。
周りのこととか、恥ずかしいとか、頑張らなきゃ、とか。
そんなのもうどっかいっちゃって、泣きじゃくった。

母は、「この子は、おばあちゃんと一緒に寝てたのよ。」
私がずっとおばあちゃんと一緒にいたから、そんなにも悲しいんだろう、と親戚たちに話した。

言葉が出ないくらい思いっきり泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて、
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、

泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、

しばらくして抜け殻になった。

抜け殻になったら今度は涙だけがつーっと、つーっと流れて、
母が側にいた。

何か声をかけていたけど、耳に入らなくて、ただ涙だけがつーっと、つーっと流れていた。



2003年07月14日(月) おばあちゃんが死んだ

AM0時過ぎ、義母から電話があった。

「おばあちゃんが亡くなったわよ。
すぐお母さんに電話してあげて。」

びっくりした。
その電話の前にも電話があったが、眠っていて起きられなかった。

母に電話すると、
13日、おばあちゃんは相変わらず元気で、おみそ汁も作って食べ、夜はそうめんでも食べるか、とそうめんを食べ、風呂にも入り、9時に就寝した。
おじいちゃんが9時半にトイレに起きて戻ってくると、おばあちゃんが布団からはみ出てうつぶせになっていたので、声をかけると息もしていなかったという。電話で病院の先生を呼び、タクシーで到着して死亡確認になったとか。

お通夜は15日で告別式が16日と聞いた。

急いで、15日朝に長崎に向かう飛行機をネットで予約購入し、17日に帰る便を予約購入した。


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と言っていた。

私が帰ると聞き、おばあちゃんは起きてみそ汁も作るほど元気になったと聞いた。
私が帰る日に向けて、どんどん元気になっていくおばあちゃんの様子を母から聞いていた。

おばあちゃんは、私と会えるのを楽しみにしてくれていたのだ。
嬉しくて嬉しくてどんどん元気になっていたのだ。

私は、不思議な満足感があった。
おばあちゃんが生きているうちに会えてよかった。
おばあちゃんが生きているうちにお世話が出来てよかった。

おばあちゃんは、昔のことを謝っていた。
「ごめんねえ。ごめんねえ。」

小さい頃に一時期、おじいちゃんおばあちゃんに預けられていて、今でいえば虐待ともいえるほど、異常にきびしく育てられていたからだ。

帰る日の前日も一緒に「むすんでひらいて」を百回くらい一緒にやった。
仰向けで両手を上にあげ、私は疲れてしまっても、おばあちゃんはいっこうに止めず、母が「孫も疲れちょるけん、もう寝なさい。」と電気を切らなければ、いつまででもやっていたかもしれないほどだ。

考える。

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当初、8日〜14日まで滞在する予定だった。
もし12日に帰ってくるのではなく、14日まで滞在したなら、おばあちゃんが亡くなるときに一緒にいられたんだろうか。

どちらにしても13日が亡くなる日と決まっていたのだろうか。
それとも。。

また、おじいちゃんは8月半ばに来ることを望んでいたが、
私がバーゲンフェアを利用したくて7月の8日〜12日にした。

もし8月半ばに行ったとしたら、おばあちゃんには会えず亡くなっていたのだろうか。

いつ死んでもおかしくないと言われていた人が、死ぬ前に体内の全エネルギー以上の力を使い果たして死ぬなんてことが、本当にありえるんだろうか。

ただ言えることは、私には悔いがないということ。

きっとそれは母も同じだったろう。

帰る前日は、母が身体を洗ってあげた。
おばあちゃんは恥ずかしがっていたというが、嬉しかったに違いない。

おばあちゃんは、私たちが行く前に、美容院に行ってパーマをかけ、髪を染めた。金歯も4本?入れたらしい。綺麗になって死んでいったんだ。

きっと、おばあちゃんは幸せだったんだ。

きっと。。

昼過ぎに母から電話があり、実は、今日がお通夜で明日が告別式だと言う。
明日の昼過ぎに着いたのでは告別式にさえ間に合わない。

田舎に電話すると、福岡まで新幹線で出てきて→福岡から夜中の0時に出る夜行船に乗れば朝には着くから、と言われる。

急いで明日の朝出発の飛行機をキャンセルし、今日の夜の便を予約する。

ついでに、早くに行くんだから、早くに帰って来い、と夫が言うので、
帰りの便もキャンセルし、一日早い便を予約する。

これでキャセル料が2人分で1万は超えた。
ま、仕方ないか。



2003年07月12日(土) 長崎の五島列島(とうとう帰る日)

帰る日、おばあちゃんも玄関まで見送ってくれた。
おじいちゃんは家の前まで見送ってくれた。
タクシーが迎えに来て、港に向かった。
母と、母のご主人と、母の弟と、私と。

昨日の夜、母はおばあちゃんと一緒にお風呂に入った。
おばあちゃんの頭の先から足の先まで洗ってあげたそうだ。

おばあちゃんは恥ずかしがったけど、

「いいのよ。年を取ったら赤ちゃんになるんだから。」

と母は洗った。

私たちはおばあちゃんに孝行できたという思いがいっぱいあった。

おばあちゃん元気になってたね。
と話した。

母のご主人は、おばあちゃんに、また来年来ますね、と握手もしていた。

長崎空港で、大阪に向かう叔父と別れた。

羽田に着くと、夫が迎えに来ていた。

母たちと別れた。

子どもたちを迎えに行き、家に帰った。


船の中で叔父ともいっぱい話した。
昔の話をいっぱいいっぱいした。

そう、おばあちゃんに、弟が亡くなったこと、私たちが帰る少し前に話したって言ってたなあ。
そういえばそんな話もしたなあ。
なんだか忘れちゃったけど、そんな話もしたなあ。

弟がお店屋さんでアイス万引きしちゃっておばあちゃんがお金払いに行ったり。
万引きといっても、5歳くらいの時で、お店の人がいなかったから持ってきた、と言って、
私が「それ万引きじゃん。」と、おばあちゃんに知らせたっけね。

私と弟と母屋に閉じこめられて、弟が泣いて、
「死んじゃうよー。」とビービーうるさかったこと。
おじいちゃんは更に母屋のドアの釘を打ってたし。

弟が蚊帳の竹に縛られてたり、弟が海に何度も何度も顔をつけられて怒られていたり、
まじ、ちょっとやばかったら死んでるかも、ということが度々あったっけね。

いろんなこと、頭の中でぐるぐる回って、
でも、おばあちゃんに対してはもう何にもわだかまりがなくなっていた。



2003年07月11日(金) 長崎の五島列島(4日目)

朝方寒気がして目が覚めた。

母がちょうどトイレに起きてきて廊下を歩いていた。

「お母さん、寒い。」

母は私のおでこを触ると慌てた。
「すごい熱だよ。」

朝4時だった。

おばあちゃんも起きあがって氷枕を作ってくれた。
心配そうに私を覗いて、二人で忙しく私のために動いてくれた。

起きあがることもできなかったおばあちゃんが、私が来るということでご飯を作るまで元気になったと言っていた。
起きあがることもできなかったおばあちゃんが、私のために氷枕を作ってくれている。

すまない気持ちでいっぱいだった。

私は一日のほとんど、ずっと横になっていた。

昨日、自転車で往復2時間→展望台登って→学校も一山超えて行くわけだし、疲れたのだろう、無理しすぎだ、とみんなから言われた。
自分でもそう思った。

母と私は、おばあちゃんといっぱい話した。

母の上にはおじいちゃんの連れ子がいて、おばあちゃんは小さい頃から母をいじめていた。
連れ子をかわいがり、我が子をいじめる、そうやっておじいちゃんに好かれようとしていたのかもしれない。
母はおばあちゃんに、子どもの頃のことを話した。
おばあちゃんは「すまなかったね。」と何度も謝った。
母は、自分が虐待されて育ち、同じように私を虐待して育てた。
母は、60年生きていて、やっと癒されたのだ。
おばあちゃんの「すまなかったね。」は、魔法の言葉だ。
言ってくれてありがとう、とおばあちゃんに感謝した。

いっぱい昔のことを話した。


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っていじめられた。
おばあちゃんはバナナをみんなにあげて、仲良くしちゃってね、と言った。
おばあちゃんがいなくなると、みんなはサーっといなくなった。
そんな話をした。

「あん子は性格悪かったもんね。」
などとおばあちゃんも言っていた。

いじめられた当時の話を面白おかしく話ながら、たくましく生きている自分も不思議だった。
おばあちゃんもいっぱい笑っていた。

おばあちゃは、私にも「ごめんね。」「ありがとね。」と言っていた。



2003年07月10日(木) 長崎の五島列島(3日目)

朝、7時20分、おじいちゃんと自転車で町まで行く。

おじいちゃんはのんびりのんびり自転車をこぎ、ゆるかやな坂になると加速する。
そういう場所は一箇所しかなく、40分、ゆったりゆったり自転車で町に向かう。

おじいちゃんの背を見ながら、その40分、ずっと後をついていく。

通学の子たちが、自転車で次々と追い越していく。

8時、町の電気屋さんに入る。
ふつー、こういう店っちゅーのは、大体10時くらいにオープンなのだろうが、
店は8時前くらいにもうシャッターを開けて開店の準備なのである。

入った瞬間。

「親戚の家たい。」

その親戚が経営するという電気屋さんで、来る途中に使い切ってしまったビデオテープを買う。

8時半に漁業が開くからと、自転車を前に止めて待っていた。

一台、車が横付けされ、シャッターが開き、釣ったと思われる魚が運び込まれる。
おじいちゃんはその後をついてシャッターをくぐり、私はおじいちゃんが入るところをビデオに撮っており、おじいちゃんが中に入って自分も中に入ろうとしたら、目の前でシャッターが下りていった。
私はその一部始終をビデオに収めていた。

そう、おじいちゃんは営業時間で開いたわけでない店内に入っていってしまったのだ。
唖然。。

やっと開店の時間になって中に入る。

おじいちゃんは、私のこと孫だ、とみんなに紹介していた。

大きなブリみたいな魚とアジ、を買い、
店に預けていた「1万円」で買っていた。

家に戻ってきてしばらくすると、今度は展望台に行こうということになった。

10時半、おじいちゃんと母のご主人と私と三人で、五島列島の奈留島にある唯一の展望台へ行くことになった。
タクシーを呼び、おじいちゃんはまた
「1万円で足りるか。」
と聞き、
「足ります。足ります。」
と向かう。

展望台に向かって山を登っていくタクシー。
展望台のふもとに着くと、おじいちゃんは何度もタクシーに待っているように、と念をする。
「待ってます。待ってます。」
展望台に向かう。

一体何段あるんだよ、というくらい頂上が見えない階段を、おじいちゃんは息も切らさず、同じ店舗で登っていく。
おいおい、本当に84歳かよ、とつっこみながら、私は後からビデオを撮りながら登る。
私の息は限界にきていてハアハア、自分の耳にも響く。
後のショットばかりじゃあつまんないよなあ、と、息を止めて一気に駆け上がっていく。真っ先に頂上に着いておじいちゃんたちがあがってくるのを映す。
おじいちゃんは私を通り越して更に上に上がっていく。
えっ?まだ上があるの?
一番頂上に登ると、島全体が見渡せるほど本当に綺麗だった。
小さな島、タコのような形をしているので、足の先端に戻ってはまた胴体に戻り、というつながり方をしている。
タクシーで島一周すると1時間くらいだそうだ。
以前、タクシーの運転手さんが選挙のポスター貼りの人を乗せて一周したらそれくらいだったと言っていた。
まあ、車では行けない場所というのもあるので、それを省いてということらしい。

展望台から帰ってくると、素早く昼食を済ませ、一人、昨日、行ったのにビデオの電池が切れてしまって移せなかった母校へ行った。

昨日、行った母校は、もう既に廃墟と化していた。
ポストには平成11年度〜12年度までの電気代の請求の紙が入っていた。
私はここに小3の1学期間通ったのだ。
嫌な思い出いっぱいのこの場所。
いじめられたけど絶対負けなかったこの場所。
でも私の大切な思い出である。

学校は荒れ果てていた。
昨日も歩いた場所をまた歩きながらビデオに収める。
開かない窓、どの窓も固く閉ざされているというのに、窓の向こうにはまだ子どもたちが通っていた頃のままの風景が残っている。生徒たちが書いたであろう絵が貼られたまま、そこだけ時間が止まっているのだ。

校庭の草は私の腰の上まで隠すほどに草が茂ってしまっているところもあった。

学校の夏の研究で足を運んだ蚕を飼育している家々。その家々も廃墟となっているようだった。家までの道が草で覆われていて、とてもそれ以上足を踏み込めないようになっているのだ。

学校からなら山の道も行けるかもしれない。

私はうる覚えの道を自転車を引きながら歩いた。川の流れに沿って歩いて来たのだ。

やっぱりこっちも途中で道が無くなってしまっていた。

母からの声が聞こえた。

「早く帰ってきなさい。危ないところに行っちゃだめ。」

母は私が出る時、何度も何度も言い続けた。

弟が亡くなって、私まで亡くなったら、母は踏んだり蹴ったりだよなあ。
今はまだ生きていなきゃなあ。

どこまで行けるか、茂みの中に入りたかった。
でも言い聞かせたんだ。
いつか、いつかまた来よう。
今度は準備万端で、道を探そう。


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2003年07月09日(水) 長崎の五島列島(2日目)

私はここにいる間、おばあちゃんの横で寝ることになった。
おじいちゃんがそうしろ、と言い、おばあちゃんも喜んでいた。

朝から洗面台の掃除をして、廊下の拭き掃除、83歳のおじいちゃんにしては綺麗にしているが、家が広いだけに手が届かないところがいっぱいあるようだった。だからとにかく掃除しまくり。

午前中も早いうちに墓参りをして、途中、親戚のおばさんから電話が入り、母を呼んでいるというので、代わりに私が向かう。

親戚のおばさんから、亡くなった弟への香典を受取り、おじいちゃんから孫が遊びに来てるから、と喜びの電話をしたようで、孫に3,000円、渡したいと言われた。来ている孫って私?だよなあ。と思い、私がこんなにも成長したのを見て驚いていた。

「そがんなったとか。いくらかね。」

いくら???

「子どもばおっちょっとか。いくらかね。」

またまた、いくら???

あっ、そっか。

「私は36で、子どもは小学校6年生と3年生です。」

「そげんか。よかねえ。器量もよか。スタイルもよか、痩せてもおらん、太ってもおらん、ちょうどよかったい。さあ、飲め飲め。」

と、サイダーを飲ませてくれた。

義父母からは毎日会う度に、
「太ったわねー。」
と言われて続けていたので、褒められてとても嬉しかった。

ちなみに、そう言われて嬉しかったと祖母に言ったら、
「誰がそげんこと(太ってる、と)言うとか。ちっとも太っちょらんよ。ちょうどよかよ。」

と祖母も笑顔で言ってくれた。

私はさきほどお茶を飲んできたばかりなので、おなかはガボガボだったが、せっかくだからと頑張って飲み干した。

「12日までいますので、いる間はどんどん使ってくださいね。電話してくだされば来ますから。」

と言ったが、その後行くことはなかった。

そうそう、ここは小さな島である。
島はいくつもの山が繋がってできていて、家の後ろは山で目の前が海である。



2003年07月08日(火) 長崎の五島列島へ

今朝は粗大ゴミにパソコンモニター,アイロン台,洗濯竿,を出し、
6時過ぎに家を出た。
向かう先は羽田空港。


チケットレスでチケットゲットし、
母と母の再婚相手と合流。
荷物を預けて搭乗口へ。

長崎の五島列島に住む祖父母宅へ遊びに行くのだ。

数年前、祖母が脳梗塞で倒れ、当時は話すことも動くこともできなかったらしい。

危篤状態が続き、母も喪服持参で看病に行ったほどだ。

その後は持ち直し、寝たり起きたりの生活、身の回りのことは全て祖父が行っていた。

弟は生前、家族と母を連れ、遊びに行っていた。
2年前のことだった。

「おばあちゃんが生きているうちに会えるのはもう今回が最後だね。」
とおばあちゃんを抱きしめたという。
お前が先に死んでどうすんねんっ!
弟は3月に交通事故で亡くなった。

弟は行ったが私はしばらく会っていなかったし、
生きている間に、おばあちゃんの世話ができたら。。
そんな思いから、今年行くことを決めていた。

5月の半ばに、JALがバーゲンフェアというものをやっていて、
羽田から長崎まで9,100円だというので、それを予約して行くことにした。

羽田から長崎、長崎から長崎福江(五島列島の島の一つ)、福江から船で行く。

祖父母の住む島に着き、タクシーで祖父母宅へ。


途中、長崎空港で、母の弟と合流。
叔父は私たちが着く20分ほど前に到着しているはずだが、
見当たらなかった。

そんなはずないよ。
来てるはずだから。

荷物を受け取り、外に出ると母が


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おいおい、自分だって、○○だろ。。苦笑

着くと、店から出前してもらった料理が並び、食事を取った。

すぐにお墓に行きたかったが、
夜は行くものじゃないと言われ、
まだ3時だったんだが、
明日の朝行くというのであきらめた。

叔父が釣り竿を探し出し、ハリをつけてくれ、人間様が食べる鰺の刺身をエサにして、釣りをした。
家の前は海、満ち潮の夕方頃は、すごくいっぱい魚が泳いでいて、面白いくらい釣れた。

夕食は、おじいちゃんが市場で買ったという8,000円の大きなブリを刺身で食べた。


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