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最終更新日:2001.08.14
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3.Mahikari's Crumbling Foundations 崩壊しつつある真光の基礎
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このセクションは、岡田良一氏が人類の救済者であるという真光の主張についての調査である。
真光が主張するには、1959年(昭和34年)2月27日午前5時、岡田良一氏は5日間の高熱を伴う昏睡状態から覚めたという。この意識の混濁状態の間、彼が言うには神が彼のもとに来て人類の救済者としての使命を与えたという。彼は宗教活動とは無縁であったので、この経験をあまり深刻に受け止めなかったという。しかし、手をかざして光を与えはじめたところ、手足の不自由な人が歩き始めたり、目の見えなかった人が見えるようになったという。彼は手をかざしつづけ、たくさんの「奇跡」が起こった。そして、神から彼に与えられたメッセージに従って、彼は人類の救済者としての道を歩み始めたという。
その当時の日本では、色々なカルト教団や宗派が現れるための機が熟していた。日本は、第二次世界大戦後の焦土から立ち直る過程にあった。それまで日本を支配してきた国家神道と呼ばれる国教は、違法とされた。つまり、生きた神としての中心的存在であった天皇は、単なる人間としての存在に追いやられた。岡田氏はその当時の、その精神的空白を埋めるために神から役割を与えられたと考える多くの宗派の指導者の一人であった。そして、1959年2月に一つの宗教が産声をあげ、それは世界中にひろがり、巨額の資金を動かすことのできる教団へと成長していった。
岡田氏の主張に信憑性を与えるために、外部の組織が引き合いに出されていることは明らかである。
最初の例として真光が言うには、日本の神道の神官が、「天杖」(Tenjo, 天の杖、神託の一種)とよばれる方法を使って、岡田氏が「ヨニマスオオアマツカミサマ」とよばれる日本の神の生まれ変わり、あるいはその神の現れ、であることを認めたという。その天杖とは、自動書記の一種であり、神官がトランス状態(神がかり状態)にあるときにペンか筆を持って書くというもので、それは神が書いているとされる。自動筆記とは、指導霊あるいは神に、その人の手と腕を使って何かを書いてもらうものであり、その間のその人の意識は変性状態にあり、質問に対する答えが書かれるという。
この、岡田氏が日本の神であるとの承認は、オカルト的あるいはシャーマニズム的な儀式に基づいている。興味深いことは、もしこの方法で与えられた「神の啓示」が賞賛されるべきものだったなら、なぜ岡田氏はその時その場所でその神道教団によって受け入れられ、日本の神の生まれ変わりとしてあがめられなかったのだろうか?確かにこれは神道の歴史における偉大な出来事になったはずである。また、どの神道教団が関わっていたのであろうか?神道は、古代日本の宗教である。紀元前500年(かそれ以前)に起源をもち、最初は自然への崇拝、繁殖に対する崇拝、占いの方法、英雄への崇拝、そしてシャーマニズムがまざりあった無定形なものであった。その名前は8世紀の中国語の「シン タオ」(神の道)からとられている。
(注:この神道教団というのは、「Mの道」であることが判明しています。実は、真光立教前後の岡田氏は、真光の前身にあたる会を主催しつつ、「Mの道」の「ヨ宮真光呂」という一つのセクションの長であったようです。そして、ヨ宮における大祭、月並祭において、「Mの道」のその当時の教祖(教え主)様を通してたくさんの天杖神示を受けていたらしいという過去の事実があります。つまり、「ヨのみ役」とか「真光」という言葉は「Mの道」時代に使っていた言葉を流用したものらしいです。)
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----------資料----------
〜○○真光での研修会のテキストでの記述〜 −救い主様の御神命の概要− 救い主様の御神命については、御神示をいただかれた救い主様ご自身が驚かれたほどですから、いわば正当性を任じている、神道界の方々が驚嘆したのも、無理のないことでした。そして救い主様の「み魂」に疑いをもったのも当然のことと言えましょう。昭和35年6月から数回にわたって当時L.H陽光子乃友とは特別関係のなかった神道界の一部の方々により、「救い主様の『み魂』や『み役』」について神伺いしても良いかとの提議がなされ、救い主様は「いいですよ、どうぞ」と自信たっぷりに了承されたのです。そのみ魂調べに対しての御神示は、救い主様に直接、天降った御神示と、全く同じ意味を有するものでありました。そのため大変なみ役の方であったことに、神道界は非常な驚きを持ったのです。救い主様の御神示が、関係のない、しかも疑いを持った団体の御神示によって裏付けられたのは、宗教界でも希有のことです。そのため、これが第三者に対しての客観的な、好資料とさえなったのです。救い主様の御神命について、「天杖」の御神示の一部を基にして、概要だけを記させていただきます。 み魂伺いによってまずお示しされたのは、「崇盟五道」、「ヨスカ従道」の御神示です。さらに、これを説明する御神示が出されております。それによりますと「崇盟五道」とは五大宗教(仏・基・回・儒・道の各教)を総合帰一する、大本の教えをなすみ役であるということです。 (以下略) 〜S界真光文明教団の二代教え主関口S氏による 『日本よ、霊的先進国たれ』(現代書林)の中での記述〜 −天杖が示すメシアとしての使命− <魁のメシア>というような重大なお役を神様から頂くような方は、やはり誕生の時点から普通の人との違いを感じさせられますが、しかしそういう大きなみ魂というのは、とかく同じ分野の人たちから疑いの眼差しで見られ勝ちでもあります。(中略)神から与えられたお役目を<天杖>という方法で調べてくれる<Mの道>というところがあり、師はそこへ案内を受けてお出かけになりました。昭和35年6月のことでした。<天杖>というのは神前で横にした一本の棒の両端を二人の人がそれぞれ軽く支え、棒の中央に吊した筆が神霊によって操られて、自動的に文字が書き出される方法のことです。<審神者(さにわ)>といって、神様に対して来場者がどのようなお役目の方かを神伺いする人がいます。天杖の筆がひとりでに動き、下の紙に文字を書き出しますと、これを読みとりその意味を来場者に伝えてくれます。(中略)この<Mの道>の天杖のときは私も師のお供をして参加させていただきましたが、<Mの道>の方々は師が<ヨのみ役>と知って大いにおどろき、深い敬意を表されたのを覚えています。<Mの道>でずっと以前行われた天杖によって、いずれ<ヨのみ役>の方が現れると予告されており、ヨのみ役とは「世の立てかえ、立てなおす大いなる使命の方」と神から教えられていたのです。 (以下略) 〜昭和37年3月25日付「Mの道協会」発行の機関誌「聖和」第2面〜 大見出し 「Mの道指導神霊団に捧げる感謝の祈り 施真道場で行う」
本文 昭和二十三年”Mの道”−(前身千鳥会)−が創立されてから、十有余年に亘り、世の立て替え建て直しの大神業を実現するため、高き神々の御旨を享けられ、霊界より降神ユニハ(交霊会)、天杖(扶乱)、神筆(自動書記)、神言葉(霊言)等々の方法に依って”Mの道”を、断えず親切に導かれて来た大峰老仙様を始め指導神霊団の御神霊に対し感謝の真心を捧げる「感謝祭」が、藤沢市大鋸一0八Mの道施真道場に於いて執り行なはれた。又当日は”Mの道”が創立されてより指導神霊団から御神示をお受けする天津ヒモロギとして大きな霊能力を発現なし”Mの道”の基礎かためをして組手の向上を図られて来た教主荻原先生をお迎えし、指導霊団の諸神霊に対する感謝の祭典と共に、組手の有志が心から萩原先生に敬謝の意を表し、今後大神業のため益々精進努力される事を祈念且つ激励する日であった。当日の祭典は、ニ宮斎主 顕正導師の主催であり、主として二宮関係の組手有志が集り、ささやかな会合であったが、東京からわざわざ深川富岡八幡宮の宮司T先生、ヨ宮真光呂斎主 岡田光玉先生、タ宮斎主 U先生夫妻、鎌倉大和証券信託社長のS先生夫妻も見えられ参列者は二十数名であった。先づ二宮斎主から参列者一同に対して挨拶をかねて感謝祭を行なうまでの経過を述べてより式典に移り、左記の如き「祭文」を奏上し、厳粛に祭式が執り行なわれた当日の御祭りに対し大峰老仙様から「行真和基」の御啓示を賜った。(後略)
(注:3つ目の「Mの道」の資料に、「ヨ宮真光呂斎主、岡田光玉先生」という記述があります。この当時、岡田氏は「Mの道」に所属する傍ら、L・H陽光子乃友を主催していたと言われています。真光教団の資料によると、神伺いが初めて行われたのが昭和35年6月です。「Mの道」の資料に光玉氏がでてくるのが昭和37年3月です。(真光立教の神示は昭和34年2月。)
ちなみに「Mの道」では、信者一人一人に48音のうちの一つの音が「Mの道」の神示によって割り当てられ、その音で表される「働き」を持っているとされます。それは「霊系」と呼ばれ、特定の人だけが持っているというものではないそうです。岡田光玉氏の場合、それが「ヨ」だったようです。「真光呂」というグループ名も神示によって授けられたといいます。
○○真光の研修テキストでは、関係のない神道教団が神伺いを行ったとしています。関口氏の記述でも、岡田氏は関口氏に案内されて「Mの道」を初めて訪れ、そこで天杖神示をもらった、というような書き方をしています。「Mの道」と岡田光玉氏の関係について、それ以上のことは真光教団は何も教えていません。
「Mの道」においても、岡田光玉氏に関する確かな資料は上のもの以外にはないらしいです。つまり、真光教団の言うような経緯を記録した資料は存在しないようです。
また「Mの道」には、手を当てる「真手(まなて)」、呼吸や言霊による「真息吹(まいぶき)」、祈りによる「真光(まひかり)」、という癒しの方法があります。真光教団の教えとは、言葉の使い方に違いが見られます。) http://www.makoto.or.jp 真手(まなて)の項、参照
----------- 資料おわり------------------
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約100年前、神道は次のように分かれた。
神社(神社神道):これは最も大きな神道の派閥である。それは、宗教の起源でもあった。つまり、その根本は有史以前にさかのぼる。第二次世界大戦の終わりまで、神社神道は国家神道と密接な連携をとっていた。日本の天皇は、生きた神として崇拝されていた。ほとんどの神社は、神社本庁という、神道神社連合に属している。 教派神道:これは、13の教派からなり、それらは19世紀始めから個人個人によって創設されたものである。 民間神道:これは神道の宗派の一つではない。それは中心的な組織や教義をもたない。それは、地方の行事や儀式の中に見られるものである。例えば、道端の小さな像とか、個々の家族によって催される農耕における儀式などである。 間違いなく、真光は神道文化に深く根ざしており、神道における多くの実践を取り入れ、神道の宗派の一つに対して、真光の存在の是認を頼っている。
岡田氏が自分についている(自分そのものである)と主張するところの神は、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教など、実質上すべての宗教の教えを一つに統一する役割を持っているとされている。この主張を基礎とし、真光はこれらの宗教の教えの中から色々な部分を抜き出して、岡田の主張を支持するような解釈を与えている。真光のテキストブックの全ページにおいて、聖書や仏典からの引用を利用し、岡田良一氏とその救世主しての役割と、人類の霊的復活(ルネッサンス)における日本の極めて重要な役割について焦点を合わせている。実際真光は、岡田氏をイエスやブッダと比べることは神に対して無礼だと遠慮なく言っている。岡田氏はイエスやブッダよりも偉大な役割を与えられている最初の救世主なのだというのである。
宗教がその創始者の神格性について主張するときの難しい点の一つは、その主張をある程度の客観性を持って評価できるかどうかということである。信者たちにそれ(創始者の神格性)を信じさせることは、必然的に「信仰の力」が作るシナリオの中に落ちこむことである。そのシナリオとは、「私は信じる、だから正しい。」というものである。
(注:「信仰の力」が作るシナリオ→信じる力とは不思議なもので、どんなものでも信じ込めば信仰の対象になりうるということ、つまり、「鰯の頭も信心から」と同じような意味か?) 宗教やカルト教団の生き残りとその発展にとって、継続的にこの「信仰の力」を繰り返し強め、彼らがいうところの「真実」に基づいた明らかな「証拠」を提供することが重要である。信者たちがその「信仰(の力)」を持ちつづけているかぎり、綿密な調査によってその証拠が覆されてもされなくても、そんなことは重要でなくなるのである。
真光も例外なく上のプロセスの中にある。数年をかけた調査によって、岡田良一氏が神であるという信念に基礎を置く「信仰の力」が激しく揺さぶられているにも関わらず、である。この調査は、真光の信者たちに、真光がいうところの「真実」に対する信念を、新鮮な目で見つめなおさせるものである。教団への関与は教団の外での生活を困難にする病をもたらすだけであることを発見して、多くの人は裏切られていたと感じ、幻想から覚め、真光から去っていった。その他の人々はこの調査を見て、これは「霊の邪魔」であるとかうそだとか決めつけ、そういう否定がもたらす心地よい繭(まゆ)に包まれつづけることを選んでいる。反対に、真光が確かだと認められ名誉を回復すること対して不安を感じるならば、もはや真光の信者でなくなることによって幸せになれるのである。
真光がその霊的正当性の証拠として掲げる中心的支柱の一つは、ブッダの予言と言われる次の言葉にある。「正しい教えを説く者が、私の死後3000年たってから在家の中から(宗教に対する素人の中から)現れる。」 この予言は真光の研修の中で紹介されており、岡田氏がまさにその人物であり、宗教的経験を持たずして神から使命を与えられた人、とされている。言い換えればブッダは、この人物は宗教を専門とする階層の人々から選ばれるのではなく、ごく普通の人々の中から選ばれると予言している。真光はまた、イエスは次のように言って、岡田がその救世主であるという予言に信憑性を与えているという。「真理のみ霊が地に現れ、汝らに真実を述べん。(←注:聖書の言葉らしいです。訳に自信がありません。)」 これらの主張は、真光の信仰における要諦である。
岡田氏が1959年(昭和34年)(※)に彼自身の教団を設立する以前に、彼は10年ほどの間宗教家だったことを知ることは、真光の信者に大きなショックをもたらした。中心的支柱が崩れはじめ、すべての領域において岡田氏の信頼性に疑問が投げかけられた。彼は、ブッダの予言にあるような素人ではありえず、そしてそのことが真光に関する基本的なことがらをも信じられなくさせてしまうのである。
(※)原文では1957年となっているが1959年の間違いではないかと思われる。 1993年に○○真光によって発行された「大聖主」(Ketaro Shibata著)によれば、岡田氏は40才代の初めに胸部脊椎カリエスと呼ばれる状態のために深刻な健康問題を抱えており、また、慢性的な消化不良とストレスによる神経衰弱に苦しんでいたという。彼は、九州大学の外科の長であるNakamura?医師に、あと3年の命と宣告されたという。
彼の日記にはこう書かれている。「私は、骨(背骨?)が3年のうちにだめになると言われました。しかし、医者の言うこととは程遠く、病院へ再び検査に行ったときには、すべてが自然に治癒していることがわかったのです。」 彼の伝記には、彼が長い間「浄霊組織」とか「S界救S教」と呼ばれる日本の教団に属していたことが、全く述べられていない。1950年代の岡田氏を知る、S界救S教の幹部であるT氏(尊師)によれば、岡田氏は、そのカリエスをS界救S教における実践、つまり手から放射されるエネルギーによって癒したという。岡田氏は、T氏(尊師)が信者の一人であったS界救S教の教会の幹部だったという。
T氏の供述を裏付けることが、S界救S教の教義部(?)にいるもう一人の幹部であるA氏から得られている。彼は岡田氏を知っており、1949年(昭和24年)ごろ岡田氏と一緒にS界救S教の幹部たちとともに写真を撮ったという。また、岡田氏のような人は聖人と呼べるかもしれない、と言って面白がっていた。S界救S教の幹部たちは、他の宗教を批判することを禁じられているという。しかし、岡田氏が救世教の信者であったという事実は変えようがない。
岡田氏は、1947年(昭和22年)ごろ名古屋地方でS界救S教に入信し、熱心な信者となった。1949年(昭和24年)、彼は東京の西荻窪にある分派教会の博愛教会に割り当てられた専従の(給与も支払われる)幹部となった。A氏は、一年間西荻窪で、岡田氏を補佐する幹部であった。岡田氏は、岡田仲道(Chudo)として知られていたが、後に自分自身を光玉先生と呼ばせ始めた。(※)写真の中にいるH女史は、岡田氏の上司であった。岡田氏はたびたび、S界救S教の創始者であり明主(盟主)様と呼ばれる岡田茂吉氏の教えについて、いくつかの部分において違う見解を述べるようになっていった。(岡田良一氏と岡田茂吉氏は、同じ岡田姓だが縁戚関係は無い)
(※ 「光玉」という名前は、「御聖言」によれば1959年(昭和34年)2月27日に神示によって神から授けられた名前のはずであるが、それ以前に使われていたらしい。「御聖言」自体の信憑性が疑われる。) 岡田氏はたびたび、彼の霊への興味を注意され、将来問題を起こすだろうと警告されていた。1953年(昭和28年)に、彼は問題行動(性的不品行)よってS界救S教の幹部を罷免された。1957年(昭和32年)までは、S界救S教に所属して密接な関係を保っていたが。この頃、彼は妻と離婚している。S界救S教の熱心な信者であり、岡田氏に付き従ってS界救S教を去ったある一つのファミリーに所属し、後に岡田氏の養女となった、井上甲子という若い女性は、後に○○真光の指導者である岡田恵珠女史として知られるようになった。現在彼女は70歳に達しようとしている。
(注:井上甲子女史の素性については、「新興宗教の正体」という書物に記述がある。) (注:額の手かざしの前に祈言を奏上すると浮霊しやすくなる、ということは救世教内で知られ、禁じられていたようです。そのことや霊査などに興味を持って続けたのが岡田光玉氏と言われています。結果として、これが罷免の一つの理由となりました。)
(注) 岡田光玉氏の罷免事件に関する証言(2ちゃんねる http://www.2ch.net/ −心と宗教−真光関係者集合!!(8)−547、548 2002年8月8日) 「私は救世教関係の者ですが、岡田光玉氏の救世教時代について私が直接、間接的に関係者から聞いて知ったことをここでまとめてお伝えしておきたいと思います。岡田光玉氏が性的な問題を起こして救世教を破門されたという事に関して、これはおおよそ正しく、一部誤解があるようです。
世界救世教の浄霊では、始めは治療的に触診などをしていたのですが、昭和25年頃から体に手を触れないことが原則の浄霊に変わりました(昭和25年12月27日 「浄霊法変わる」) ところが岡田光玉氏は、手を触れない浄霊法の時代になった昭和二十八年のある日の浄霊中に、意図してか誤ってか、相手の女性の体に触ってしまったということがあったらしく、女性が悲鳴をあげ、布教所が騒然となったそうです。このトラブルと、それまでの浄霊中の霊的現象に非常に興味を持っていたことをあわせ、岡田氏はこの時点で、専従布教者を解雇された、すなわちクビになったということらしいのです。破門をされたのではなく、解雇されたのです。
だが、単に教団からの雇用を解かれただけで信者をやめさせられたわけではないので、岡田氏はしばらく一般信者として参拝などを続けていたようです。というのは、教祖が亡くなったのが昭和30年で、その後二代教主様が就任されましたが、昭和32年頃まで、岡田光玉氏が聖地参拝に来て二代様のご講話を聞いていたという目撃証言があるからです。私は真光の教義を詳しく知っているわけではありませんが、時々掲示板に掲載される用語などを見ると、教祖の影響とは別に、救世教二代教主様の影響があることもうかがえます。岡田氏は、霊がかりに興味を持ったことと、そして女性の体に触ってしまったことで解雇されたことから、霊と自由に話をすることが出来、相手の体を触れることが出来る真光をおこしたのでしょう。
(追記)世界救世教には、腎臓部分や肩、首などを触られても悲鳴を上げるような文化があるわけではありません。これは当然、女性が悲鳴を上げるような場所を光玉氏が触ったという意味です。」
S界救S教の幹部の集合写真が、1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)の間に撮られており、彼らは東京のS界救S教の博愛教会の信者たちであった。
「1」岡田仲道(良一)氏、「2」A氏、「3」A氏、「4」S氏、「5」H女史 (プライバシー保護のため、岡田氏以外にはぼかしをかけています。)
真ん中の写真は、上の集合写真中の「1」の人物の拡大写真。
上の写真を見れば、耳の形から明らかである。岡田良一氏を撮ったこれら3枚の写真は、違う年齢の時の写真だが、明らかにS界救S教の集合写真の中の人物が岡田氏であることを示している。
上の情報が明らかとなったとき、日本の真光の秘書官に、教義の中のこの明白な矛盾について説明を求めた。秘書官からの回答は、岡田氏のS界救S教への関与を全面否定するものであった。岡田恵珠女史は、秘書課長であるK.T.氏を通して(下のK.T.氏からの手紙、参照)、岡田氏が10年ほどの間S界救S教の幹部であった事実を否定したが、なぜ否定するのであろうか?
以上の証拠から明らかなように、岡田氏がブッダの予言、「正しい教えを説く者が、私の死後3000年の後、在家の中から現れる」、のなかのその人であるという真光のはかない主張は崩れ去った。明らかに、岡田氏は在家(宗教の素人)ではないのである。
(注:「在家」とは、ブッダの弟子以外、すなわち仏教徒以外のことである、という解釈もあります。しかしながら、真光では(初級)研修において、「在家」とは宗教の素人という意味であり、岡田光玉氏はその素人であった、だから岡田氏はブッダの予言した救世主だ、と教えています。つまり、「在家」という言葉の正確な意味はともかく、明らかに真光(岡田氏)は自分の理解した「ブッダの予言」に沿うよう岡田氏の過去を隠蔽し、岡田氏を救世主にしたてあげようとしています。) 1959年(昭和34年)2月27日には、ユニークな新しい宗教が生まれたのではなく、岡田氏の色々な過去の経験が、試され証明されてきたカルトのテクニックの中に織り込まれ、一つの宗教運動が形成されたのである。それは、シャーマニズムとオカルト的実践に深く影響されていた。しかしながら、どのように複雑化しようとも、真光のあやふやな基礎は消し去ることができない。
真光とS界救S教の教えを比較すると、岡田氏はその基本的な教えの構築に当たっては、S界救S教と神道の実践に依存していることは明らかである。証拠が必要なところでそれを与えることに岡田氏は非常にうまく成功した。つまり、日本の伝統的な宗教である神道という、強力な支持者を得ているように見せたに違いない。不幸にも真光に魅了された人々の経験を聞くと、非常にたくさんの人々の人生が、岡田氏の「成功」によって破壊させられたことがわかるのである。(注:この段落は、あまり英語に忠実ではなく、かなり意訳してます。)
岡田氏が打ち立てた彼自身の霊的帝国の基礎は、このようにして非常に不安定なものとなった。
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資料: S界救S教の文献; 岡田仲道(光玉)氏に関する記述が見られる。
(岡田茂吉全集著述篇第五巻付録8頁19行〜9頁7行)
私(※1)は天国会(※2)移籍後、西萩窪の支部で助手をしておりましたが、そこに名古屋の知多方面で布教をしていた岡田仲道氏(※3)が支部長として赴任してきました。四十八歳の岡田氏は一つの風格を持っており、その指導に多くの人が集まりましたが、岡田氏は霊的現象に段々と傾倒してゆきました。明主様(※4)は霊的現象の取扱には注意をされておられましたので、私は岡田氏に忠言をしましたが、逆に岡田氏は私を避けるようになり、私は遂に意を決して中島先生(※5)に指導を求めました。先生は「岡田にやらしときなさい」、小生「このままにしておいたら信者が迷う」と申しましたが「やらしておけばよい。貴男は本部に来なさい」と言われ、私は天国会本部に入ることとなりました。後に岡田氏は国分寺に移転しましたが、後に教会から罷免されました。数年後彼がS界真光文明教団の教主になったのには大変驚いたものです。
※1 この文章はこの方の布教体験を綴られたものである。 ※2 天国会: S界救S教での二大勢力の一派。もう一派は「五六七会(みろくかい)」と呼び、信者数は圧倒的に五六七会の方が多かったが、教団運営に関しては天国会が牛耳っていた。光玉氏は天国会の博愛教会所属であった。 ※3 岡田仲道(おかだちゅうどう)氏: 岡田光玉氏のこと。 ※4 明主様(めいしゅさま): 岡田茂吉氏のこと。光玉氏と茂吉氏は血筋関係ではない。 ※5 中島先生: 天国会の会長。岡田茂吉氏が大本在籍当時から茂吉氏の弟子として仕えた。中島氏は大本時代より霊的事象に関心が強く、それに光玉氏も強く影響を受けているようである。
秘書課長 K.T.氏からの手紙
岡田氏は救S教の信者だったのではないかというGreenwood氏の質問に対する、K.T.氏(教え主様の秘書課長)からの回答
原文はこちら http://members.ozemail.com.au/~skyaxe/letter.htm
1994年5月10日 親愛なるグリーンウッド様 1993年12月14日に、お手紙をいただいたこと、どうもありがとうございました。私は教え主様に代わってあなたの質問にお答えしたいと思います。 救い主様は、第二次世界大戦後に霊的なトレーニングを積んでいる最中に、いくつかの新しい宗教と同じように、伝統的な宗教に対しても研究をされておりました。それには、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、イスラム教、道教、大本教などが含まれます。救い主様がおっしゃるには、ある神官から特別なトレーニングを受けていたといいます。 あなたの質問にある浄霊教団についてですが、それは戦前にS界救S教として設立されたものです。それは大本教に端を発しており、多くの宗派に分かれました。救い主様は、浄霊教団も研究なさっていたようですが、救い主様がその信者であったというのは間違いです。 簡単に申し上げますと、○○真光の使命は基本的にその他の組織とは異なります。「手をかざして」光をあたえることは、多くの人々によってなされてきました。例えば古代におけるゾロアスターとか、ブッダとか、イエスとか、また現代においては、出口王仁三郎(わにさぶろう)氏、岡田茂吉氏、福田くら氏などです。これらの人々にとっては、霊による障害を解決することは、いくつかの場合は部分的にはできても、かなり難しいことだったのです。 私たちの組織の目的は、神の偉大な計画、すなわち霊主立体文明の実現への参画を、すべての人々に対して提供することです。 救い主様がスの神様から頂いた聖なる使命とは、5大宗教とその他の宗教の共通の起源を明らかにし、それらをその起源へと立ち返らせることにあります。これは、ヨニマスオオアマツカミサマの地上代行者の聖なる使命であります。これは、ヨのみ役、ともよばれております。このヨのみ役とともに進んでいくのが神組み手であり、これはその他のどの宗教にもない使命なのです。 これらの目的を達成するため、真光の業と想念転換によって、人類の霊的障害を解消することが大切なことなのです。 光を与えるプロセス、霊の現れ(霊動?)、霊の清浄化、霊的障害を解消するための「おしずまり(※)」、これらは他の宗教とは完全に異なったものです。ここが大変重要な点であり、特筆されるべきことです。 重ねて申し上げますが、お手紙どうもありがとうございました。
誠意をこめて、 K.T.(署名つき) 秘書課長
(※)「おしずまり」について、K.T.氏からの手紙では、真光独自の方法のように書かれていますが、それは正しくないようです。救S教の岡田茂吉氏がすでに用いていた方法であることが、下の資料から窺われます。
岡田茂吉全集講話篇第二巻四〇三頁
岡田茂吉氏と信者の質疑応答、昭和二四年八月一三日
(信者) −最近ご浄霊中に患者が意識を失い、霊が浮かび出てくることがときどきございますが、これにつき御教示をお願い申し上げます。
(岡田茂吉氏の答え) −これは霊界の浄化が激しくなってきたので、霊がどうしても落ち着けないもんだから、早く救ってもらおうとして出てくるんです。だから、これからはこんなのが増えてきますよ。こういうのは前頭部を一番よくやってあげるんですね。 そしてあまり出る場合には、「お鎮まりお鎮まり」って言って手で抑える格好をすると、その言葉の働きで割合に効果のあるもんですよ。当人が半意識で、霊が出そうでなかなか出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「お鎮まり」とかやると、元へ戻るのがありますよ。
岡田茂吉ご光話録(第七号七頁参照) S24.8.23
(質問) 最近御浄霊中に患者が意識を失い、霊が浮かび出て来る事が時々ございますが、之につき御教示を御願い申し上げます。
(御垂示) これは霊界の浄化が劇しくなって来たので、霊がどうしても落ちつけないもんだから、早く救って貰おうとして出て来るんです。だから、これからはこんなのが殖えて来ますよ。こういうのは前頭部を一番よくやって上げるんですね。そして余り出る場合には、「御鎮(おしづ)まり御鎮まり」って言って手で抑える格好をすると、その言葉の働きで割合に効果のあるもんですよ。当人が半意識で、霊が出そうでなかなか出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「御鎮まり」とかやると、元へ戻るのがありますよ。それから合掌した手を上下に振るのは狐ですね。鳥の霊だとこうやってて、それからこうなって、こうなるんです。(最初の合掌から拍手を打つ姿勢になり、それを続けると共に次第に大きく動かし、遂に鳥が飛ぶ如く両腕を左右に伸ばし上下に振る格好を御示し下さる)そして飛び上がりますね。一尺でも三尺でも平気で飛び上がりますよ。ひどいのになると天井を突き抜いたのがありましたがね。それでですね、霊が浮いて出た時に口をきかせるのはよくないんですよ。口をきかせるのは邪道なんです。何故かって言えば、あれは醜態ですからね。醜態を見せて恥をかく様な事はいけない事なんです。神様は愛ですからね。だから口はきかせない様にしなくちゃいけないんです。然し、之は人によっていろいろあってね、意識を失うとすぐ口をきくのがありますが、こんなのはそうしろっていう神様の御意志だし、或いは正守護神がさせるんですから、之は口をきかせていい事もあります。口をきき始めたら「あなたは誰方ですか」とか「何者だ」とか聞くんですよ。そうするといろんな事を言いますがね、中には嘘を言うのもあるんです。然し、最初から言う事を疑ってかかっちゃいけないんで、言う事をそのまま信じていいんです。で、誰だって事が判ったら「何の為に出て来られたんですか?」とその目的を聞くんです。そうすると、祀って貰いたいとか、こうして貰いたいとかいろんな事を言いますから、その要求が無理がないと思ったらその通りにしてやるんです。そうしてやると喜びますからね。然し、中にはこっちをたぶらかそうとするのもありますが、これはその言う通りに聞いていていいんで「わしは何代前の祖先で武士であつたがどこの戦いで戦死をとげた」とか言ったら、「御生まれになったのは何時ですか?」なんて訊くんです。そうすると「二百年前」とか答えるでしょう。そしたら、「その時代は何将軍でした?」とかいう風にだんだん訊いてゆくんですよ。その霊が本物だとチャンと答えますが、ニセだと答えられなくなって狐だとか何だとか本音を吐きますよ。だから、初めッから疑ってかからない方がいいですね。(御光話録・第七号七頁参照)
「真理を伝える手紙」菊川義仁著(たま出版)より。
出口王仁三郎(わにさぶろう): 大本教 第2代教祖 岡田茂吉: S界救S教 初代教祖 福田くら: 「真手(まなて−手を当てる治療法)」に関する著書があるらしい。 p.129から
日本における手かざしは、もともとは幕末黒住教(くろずみきょう)の黒住宗只氏から始まり、それが大本教の幹部の一人だった岡田茂吉氏によって再発見された。その頃、大本教が政府の弾圧によって分解したのをきっかけに、岡田茂吉氏によってS界救S教が独立した。S界救S教では、手かざしは「浄霊(じょうれい)」と呼ばれた。
この本はまた、霊動は危険なものであるという、一つの見解を述べている。(この本の著者の見解) p.131-136から部分的に引用。
...女性は、男性よりも遥かにそういう魔界の生物に憑依されやすく、自由にされやすいものです。実際に、多くの道場が魔界の生物の巣窟になっているという現象があちこちに起こっています。私はそういう実例を一つならず知っています。神霊方からもお聞きしています。...
...霊動ほど恐ろしいものは無いのです。...
...この霊動に興味を持つくらい危険なことはありません。霊動に興味を持ったら、すでにその人は、魔界の生物に狙われていると考えて差し支えありません。私にさえ、神々は、霊動への興味は持ってはならぬ、と折にふれて戒められます。
大本教でも、教祖や聖師は立派な人々であるのにもかかわらず、昔、幹部の先走りがあって、霊動(鎮魂帰神)現象で、多くの人が発狂したということです。手が動いても、何が動いても、何にもなりません。霊動などはあっても無くてもよろしいのです。むしろ、霊動は危険なものなのです。喜ぶべきことではなく、恐れるべきものなのです。
もっと違うところに、信仰の最も大事なものがあるということに、私達は気がつかなければなりません。それは、愛や美です。...
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