そば永遠にそばを食べてもいいくらい。 そばはいいなーそばは。 そばはシルクロードを通ってやってきたんですよ。 最初は白かったんですけど、砂漠を通ったりして砂がはいったから、あんな色になったんです。 ……手足が冷たい。これはこのところいつもだ。冬になってから。 手足が冷たいことが苦しいってのは、手足の冷たい人にしか伝わんないよ! って思うけど、伝わるのかな? 今……たとえば、タライにあっついお湯をはって、そこに足を、入れるってことを想像しただけで、 「あっあっ」と声が出そうになる。
あのー、私、感覚で言いますけど……、景気回復しましたよね? 足が痛いのも、直りかかっています。 良かった。 やまない雨はないし、春の来ない冬はなくって、 楽しくならない気落ちはない。 感覚というのは、人の数だけ、 場所の数だけ、時の数だけ、 その乗法の数だけある。
みなさま この「微炭酸ニッキ」は今日で5周年を迎えました。 5年の間にいろいろなことがあって、ここを見てくださる人が変わったり、増えたりしました。 (と言っても、私からは、どなたが見てくださってるのか、どのような読み方をなさっているのか、は、わからないんですけれども。 ともあれ善意からでも、悪意から(?)でも、読んでくださる方がいらっしゃるっていうのは、私は嬉しいです!)。 行が少ないから詳しくは書けないし、 周りの人に迷惑かけたくないから全部を書けるわけじゃない。 でも自分のことに関しては、かっこ悪いことや恥ずかしいことも正直に、 書いていきたいです。 その方が、読んでて楽しくないですか? ときどき、ブルーなことを書き過ぎたり、 逆に、妙に強気なことを書いてしまったり、 「変なことを書いちゃったな」 「さすがにもう、読んでくれてる人も、いやになったかも……」 と思うときもありました。 でもみなさんもそうですよね? うまくいかないときや、元気ないとき、 「オレはひとりぼっちだ」って思うとき、 「変なこと言っちゃったよ、オレは」ってとき、 ごくたまにでも、ありますよね? じゃ、「オレもそういうとき、ある」ということで、 水に流してください。 (しかし本当に迷惑かかっちゃったときは、文責はとります)。 私がこの一年で思ったことは、 「私は言葉が好きなんじゃない、人が好きなんだ!」 ということです。 一方的なコミュニケーションになってしまって申し訳ないですが、 足の痛みに耐えかねて、接骨院に行ってきました。 やはり正座が良くなかったようです。 ねんざというか、水が溜まってる、とのこと。 でも元気です。
胃が痛いので、甘い薬をさらさらと飲んでいます。 肌はなんか荒れてるし。 それから、右足の甲が腫れていて、ねんざのように痛くてうまく歩けない。 ひねったり転んだりした覚えがないので、 なにゆえ? と思うに、正座でPCを打ってるんですが、 ちゃんとした正座ができなくって、いつも右足首を変な風に曲げて座っていました。 ので? とかあるのか? 体にがたがきている、 昨日、 本棚に行って、目に付いた本を取り、 パッと開いたページの、目に飛び込んできた文が、明日の運勢、 という「本占い」をしたところ、 「おっぱいなんか消えてる」(『綿の国星』) だった。 でも今朝、パジャマの中を覗いてみたら、 ちゃんと2つありました。 消えていたら、予想以上にがっかりしていただろう。 最近、街を歩くと、青い光で溢れている。 おそらく「青が好き」「ここに青を!」というのではなくて、 「青色発光ダイオードを使いたいから」という理由で、 難しい言葉を新しく知った人のように、連呼しているのだ。
最近、菊地成孔さんっていう人が気になる。 ちょっと前に、ぱっと付けたテレビ(英語でしゃべらナイト)に出てて、 異様に面白いことを言ってた。 そしたら、昨日、本屋さんに、その人のエッセイ(『スペインの宇宙食』という本)があったので、買ってみたら、やはりえらく面白い。 体言止めが多すぎるのとか、女に対して甘すぎるのとかが、私は、ひっかかってしまうけど(だからたまに「削った方がいい」と思う文がある。なんていうか、破滅的すぎて読者に不親切な文が混ざってる)。 天才っぽい感じ。 この人は何の人なんだろう。英語でしゃべらナイトのときは、サックスを吹いていたから、 サックス奏者の人なのかと思ったけど。それだけの人じゃなさそうな……。私がうといから知らないだけで有名な人なのか? 本業は何の人なんだろう。気になる。 しばらくこの人にはまるような気がする。
『ある朝スウプは』という映画を見たので、 そのことを書きます。 「これから見る」という方がいらしたら、読まない方がいいかもです。 失業した女性の、恋人が精神的な病気になり宗教にはまっている話なんですが……。 映画の、時間的にかなり始めの方で、 友だちから電話がきて、 「空き地を写真で撮るバイトをしない?」と誘われるシーンがあるのですよ。 こういう風に伏線をはられると、誰だって、 「ああ、きっとこのバイトを受けて、外に出て、そこから物語が発展するんだな」と見る。 でも映画の、かなり最後の方になって、実際に外に出るシーンでは、たいしたことは起きないんです。宗教に関係あるような人をみかけて、追いかけるけど、見失うのか、でもだからって主人公が何かを考える訳でもない。なんということもない。 「だったら、あの伏線はいらないんじゃないか?」 って、思ってしまう。 あと、4月になって、 春が来ましたよどころじゃなく長い、雪解けの描写が続く。 そうしたら「お、何か物語が起こるのか?」と思ってしまう。 でもそのあとも前と同じような会話のシーンが続くだけだったので、 「あの長さの意味はなんだったんだ?」 って、なってしまう。 「こうい状況になったら、どうしますか?」と、テーマを観客に投げかけたい映画なのかもしれないけし、「現実のだらだら感を出したい」映画なのかもしれない。でも、 人の2時間をもらって何かを見せたいのなら、 無駄なシーンはカットして欲しいです。 前に見た、私がすごく好きな『犬猫』という映画は、 物語には深く関係していないようなディテールがたくさんあるようにも見えたけど、 でも、 「そのディテールをどうしても撮りたい」という意味が、 監督さんにも制作に関わっている人にも俳優さんにも、 わかっている感じがしました。 だから面白いんじゃないかなー、と思うんですけど……。 私は、ディテールってものがほんとに好きなんですが、 ディテールってのは、無駄とは意味が違います。
12月5日の西日本新聞の朝刊から、 4回連続で、 私の短編小説が連載されます。 次は、13日の火曜日に掲載されます。 その後、19日、26日の月曜日に、載せていただけると思います。 告知が遅くなっちゃいました。ごめんなさい。 『虫歯と優しさ』という小説です。 すごく自信作です。面白いです! よろしくお願いいたします。
と人が言っているのを聞いて、 そうか、甘いからおいしいのか、と気が付いた。 ぼんやりと「おいしい……」と、考えているところだった。 人が言っているのを聞いて、始めて感じることは、多い。 「寒い」と言われて、上着を着たり、 「辛い」と言われて、水を飲んだり。 他人がいなかったら、はっきりとしたことは感じないのではないだろうか? 快、不快、は、ぼんやりと感じるけれども、 これから先、誰とも会話をしないとしたら、 甘い、や、辛い、といった繊細な感覚は、認識しないかもしれない。
散歩してきた。 笑いどころが満載だった。 雑貨屋さんに、幅が狭くてCDがしまえない、木彫りのCDラックがあったり。歌ってるレコード屋さんがいたり。 高円寺、鼻血が出るほど気に入ったなー。いい街だ。 関係ないが、木村多江さん、可愛いなー。
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