私はすごいことを発見した。 ベッドと壁の隙間に、タオルを詰めたら、隙間からくつ下や本が、下に落ちることがなくなるのではないだろうか? 大掃除をいろいろとすると、思いもかけないものが、思いもかけないところから出てくる。 例えばベッドの下から、柴田元幸さんのサイン入り(宛名入り)のレベッカ・ブラウンの本が出てきたり。 粗雑に扱っているみたいで申し訳ないけれども、でももらったときは随分人に自慢した記憶がある。 でも、私は『翻訳夜話』という本を面白い、と思ったのだけれども、だけれど、どうもアメリカの小説の良さはいまいちわかることができていない気がする。 ポール・オースターとか、レイモンド・カーヴァーとか、他の人が「すごく面白い」と言ってるほどの魅力がどうも読み取れないのだ。 サリンジャーは好きだけれども、ライ麦畑の面白さはよくわからない。むしろ『フラニーとゾーイ』とかのグラース・サーガの方が好きだ。 ジョン・アーヴィングはちょっと面白かったけども。 それを思うと、私はたぶん、フランスの小説の方が好きになりやすい気がする。 エルヴェ・ギベールとかジャン・フィリップ・トゥーサンとかの方がわかりやすい。あと、マルグリット・デュラスとか。フランソワーズ サガンとか、ミラン・クンデラとか(フランス人じゃないかも)。 それから、サン・テグデュベリと、レイモン・ラディゲなんか、本当に大好きだし。 なんでかな? と考えると、私はなよっちいから、タフだったり、クールだったりする文体に共感しないのかも、と思ったりする(あ、サン・テグデュベリはタフだ)。 とにかく、フランスの方が「わかる!」って感じがする。映画もフランスのが好きだし(トリュフォーとか)。 かと言って「フランスが好き!行きたい!」などと思う訳ではない。 そういえば金子光晴が「憧れの地へは絶対行くな」と言っていた。 やっぱりフランスには一生行かないだろうな。 (ここで、アメリカの人で好きな人を思い出した。テネシー・ウィリアムズは好きだ)
友人のところで、夜回りをするというので、行く。 町内会で、拍子木を打ちながら「火の用心」と言ってまわるのだ。 こんなことをするところがあるなんて(しかも都内)。 拍子木を打つのが本当に楽しい(しかも私はコツを掴んでいる。「木全体で響かせるのだ」とコツを言ったけれど、人には伝わらなかった)。 それだけで、豚汁やお菓子やみかんやティッシュをもらった。 実家が山形にある友人が、積雪のことを「あんなのはクズだよ」と言うので可笑しかった。
理屈というのは、つい納得してしまうものなので注意しないといけない。 本当はいくらでも、たくさんの理屈をくっ付けられるような物事でも、一つの理屈だけを聞いて「なるほど」と思ってしまう。 理路整然と説明されたときほど注意がいる。 理屈では決して納得してはいけない。感覚で納得する方がまだいい。 ただ、それは理屈というものをばかにしてる訳では決してない。 私はどんな物事でも理屈で説明できると思っている。 人の気持ちでさえも。 だけど、それはとてつもなく複雑な理屈なので、通常は説明が恐ろしく難しいはずなのだ(おそらく説明に1億年くらいかかる)。 そういうときに、物事を簡単にしてしまう理屈をひょいっと持ってきてしまうと、「気持ちが理解できた」という勘違いが起こってしまうから、危うい。
お昼に千疋屋でオムライスを食べた。 なんだかフルーティーなオムライスだったけど、なんの果物かわからず。 (私はケチャップにパイナップルが入ってる気がしたけど)。 大島弓子の『綿の国星』で、猫が発表の場で「相変わらずですけど、頭の上でミルククラウンが輝くようになりましたわ」って言うシーンがあったように思う。そのときに「女の感性、女の感性」「男にゃわからん」って野次が飛ぶ。(マンガが手元にないので、おぼろげなのだけども)。 そこが妙に好きだ。 「女の感性、女の感性」「男にゃわからん」って書いてしまう大島弓子のクールさがかっこいい。 私は「女の子の感性」とかっていう言葉のことを、だいっきらい、とか思ってしまうのだけども、大島弓子は、鷹揚に構えていて、まあ、そう思う人もいるわよねえ、って感じに思っているように見える。
妹に誕生日プレゼントとしてマフラーをあげる。 妹からは何故か月餅をもらう(中華街に行った模様)。
忘年会をやろうと言って、大学のときの友人たちと渋谷で会った。 妙な、幕末のお店(新撰組の写真とかがいっぱいある)で朝までお酒を飲む。 幕末に自分がいたらどうするか? と聞くと「フルーツパーラー開く」(倒幕の後?)とか友人が言っていて面白い。 が、その後、途中から来た奴とけんかをした。今思い出してもむかむかする。仲直りしたけど。 朝になって、我々が卒業した大学にしのびこんだら、守衛さんに見つかり、怒られた。「なんなの。さっきから行ったり来たり」と言われた。 体力の衰えを感じ、もう徹夜は止めようと思った(特に次の日に予定があるとき)。
荷台に6歳くらいの女の子を乗せて、お父さんらしき人が自転車を押している。 お父さんは、 「遠心力っていう力は存在しないんだよ。慣性の法則っていうのがあって、それでぐるぐる回ってるんだ。だから、慣性の法則の一部分のことを『遠心力』って呼んでるだけなんだよ」 などという小難しい話をしていた。わかるのか? といぶかしんでいると、女の子が、 「じゃあ、遠心力っていうのはあ……」 などと、まともに議論し始めたので、面白かった。 さて、みなさんがいちゃいちゃしている間に、私は小説書いちゃいます。
友人の結婚式のため、大磯へ。 空が晴れてて、海もきれいで、素敵な式だたった。 いいなー、私も伴侶に会いてー。 披露宴はイベント好きということで、なんか趣向を凝らしていた。 私は新郎の方の友人なのだけれども、新婦の、新郎に宛てた手紙と、ご両親に宛てた手紙があんまりにも良かったんで泣いてしまった。感動した。 二次会でビンゴゲームをしたら、コーラガムが当たって「奇跡、私にぴったりだ」(私はコーラ好き)とひとしぎり騒ぐ。 新郎、酔っ払っていたが、新婦がしっかりしていた。幸せになって欲しいものだ。
今まで生きてきた時間の中に、まじめに過ごした時間が、一時間もみつからない。 私の大好きな『肉体の悪魔』という小説に「マルトは悪ふざけをするようなことは全然なかった。陽気にはしゃいでいるときでも、しんはまじめだった」という文があるのだけれども、私はこれの反対だ。どんなときでも、しんはふざけている。 どんな状況でも「頭の中は自由」と思うと、まじめな顔をしていても、心の中では常にふざけてしまう。 こんなんで30歳、40歳になってもやっていけるのか、不安だ。 おそらく変わらないだろう。
版画を彫る。
東横線でマンドリンの練習へ。 楽しくて、気が晴れた。 夜、九州の叔母さんたちが泊まりにきたので、遅くまでお喋りする。 楽しくて、気が晴れた。
専門学校のときの友人たちとお酒を飲んだ。 そしたら、友人のお酒(クリームの入った甘いやつ)の中に、クリームを絞るときの道具の先っぽがコップの中に入っていて、笑った(なんで作った人は、それが外れたことに気が付かなかったんだろう)。「これで割り引きになりませんか?」と聞いたら、割り引いてくれた。 それから、名曲喫茶に連れて行ってくれた。昭和っぽい椅子や柱を触ってやった。友人がベートーヴェンの『運命』をリクエストするので、笑った。 ここのところむしゃくしゃしていたので、気が晴れてよかった。
友人と赤坂見附で、沖縄音楽のコンサートを聴く。 すっごく可愛いい女の子が出てきて、三線を弾きながら、唄を唄って、うわあ、と思った(神谷千尋ちゃんという22歳の女の子だった)。 自分ではなかなか新しい音楽って、聴こうとは思わないから、友人が紹介してくれたこと、本当、よかったと思った。 終わったあと、CDを買って、サインしてもらって「すごくよかったです、元気が出ました、これからも頑張ってください」と言って握手してきた。 最近、がっくりすることがあったので、元気が出てよかった。
今、本屋さんにある『群像』に、私のエッセイが載ってます。 313ページ、ああ、憧れの穂村さんのウ、ウラだ。 この私のエッセイは、はっきり言って、かなり面白いので、良かったら読んでみてください。
東横線でマンドリンの練習に行く。 「どんな舞台でも、舞台に立ったら本気」 と、会社の忘年会かなんかで変な余興をやるらしい人が言っていたのが面白かった。 私も「どんな文章でも活字になるものは、ひと文字、ひとつの句読点まで本気」って思う(また書いて活字にしたい)(なるのか?)。 ところで、私はミーハーなところがまったくない、というのを思う。 有名人などにも憧れはないし、大きな媒体などにもあまり何も思わないし、何に対しても、わー、とか、きゃー、とかほとんど思わない。 偉そうな人の一言よりは、身近な人のなにげない一言の方が嬉しかったり、大事だったりもする。 「寄らば大樹のかげ」なんていうのががだいっきらいで、集団ぽいものに対して、偏見があるからだろうか? それにしてもこういうところ(ミーハーじゃないとか)が、女の子とあんまり仲良くなれない理由かもしれない、とか思ったり。
前の会社の人たちとお酒を飲んだ。 来てくださった方々ありがとうございました。 あと、本を読んでくれて、感想を言ったりしてくれた方も、私はすごく嬉しかったです。 私自身は考えていなかったことなども、読んでくれる人は考えているもので、やはり、読む人が小説を作るんだな、なんて思ったり。 あと、私が聞かれると何て答えてよいか困ってしまうようなことは、気を遣って聞かないようにしてくれたりもしてくれたのかも、とも思いました。 ありがとうございました。
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