ひざを打つ。 階段を2段踏み外したことにより、ひざに怪我が。 世間の規範から外れた幸せが欲しい。 ひとりだけで、こっそり笑うような。
片雲の風に誘われて、漂白の思いやまない。 またマレーシアに行きたい。 たぶん、逃避しているのだと思うけれど、最近また、旅行に行くことを考えている。 それから、砂漠に、いつか行きたい。 ペルシャとか。 私はペルシャの血が入っているので、中央線沿線にペルシャがあると思っている。
私は基本的に男の人のわる口やかげ口は言いたくない。
BBSにも書いたけれど、私はいつも理由もなく反体制だから、体制がひっくり返ると、また反対の体制につきます。 ものごとに反対するのは、なんて楽しい。
チラシに使うための版画を彫って、刷って持っていった。 マンドリンの練習で大江戸線で勝どきへ。
こんな夢を見た。 私の男友達(だが夢の中の人で実在はしない)が、病気にかかっていて、今日中には死んでしまうらしい。 その日、友達たちは集まって、パーティーのようなものをした(みんなで余興なものをやっていた)。 男友達は痩せてぐったりと椅子に座っているが、顔は楽しそうにしている。 その男友達と私はそこまで仲が良い訳ではないらしく、私は少し離れた席に座っていた。 ピアノが上手な人がピアノを弾いていた。 その男の人がジュースの缶を持って、私に向かって変なしぐさをした。 そのしぐさは、ふざけるときにその人がいつもするしぐさ(らしい)。 その人と私はちょっとふざけ合ったりする程度の仲らしい。 私はそのしぐさを見て泣きそうになってしまう。 その部屋には、隅の方に大小の様々なピアノが適当に置いてある。 私は泣くのを止めるためにその掃除を始めた。 鍵盤を、ティッシュや綿棒でふく。知らない女の人がやってきて、一緒にやってくれた。 小さいのや大きいの、グランドピアノがたくさんあるのだが、フタが合っていないものが多い交換したりするのだが、足りないものは倉庫に行って、フタを持ってきた。 実際にはない思い出を思い出していた。
本を読んでいると、ああ、これを書いた人がいるのだろうな、と思うけれど、私とは無関係の人だ。 テキストがすべてなので、テキストでだけでこの人と関わりたい、と思う。 そして、身近な人は、とにかく大事に、というのを思う。 好きな人の文章なんて、本とはまた別の、格別の味がある。 文章というのは書いた人がいる、というのを思うと、その人と品のあるつき合いをしたい、と感じる。 仲の良い人の文章は面白い。知らない人でも、責任もって書いてある文章はほんとうにためになる。 ただ、無責任に放り出されてる文章だけは、読む気がしない。 無記名で文章を書く人って、かわいそうな感じがする。 私は、こういう日記書いていても責任持って書いている。 でも、文責について考えられない人もいるんだろうなあ、と。 たとえば、無記名で書くようなBBSなどは、私は絶対に見ない。ばかばかしいから。 名前出して責任持って書いてある文章か、親しい人の文章以外はまったく読む気がしない。 こういう日記を書いていて思うのが、いくら私と親しくて私のことが好きな人が読んでくれても、私が考えて書いたことが伝わるのは4割くらいだなってこと(ネットという性質かもしれないけれど、6割くらいは読んでくれた人が考えたことっぽい気がする)。「読んだよ」って喋ってくれるとき、あれ?私は違うつもりで書いてたなー、って思うことがよくある。私の文章力のなさもあるだろうし、あとは書かないこと(ネットだから)もあるから実際のことは違う風になってるということもあるだろうけど。 でも「こういうこと書いてたよね」と言われたときはたいてい、「うんうん」と返事している。ああ、この人はそういう風に受け取ったんだな、って思うだけだ。説明したりはしない。 もし書いたことで誰かを傷つけたら、一生懸命あやまる(未熟なのでそういうことたぶんよくある)。 どう受け取るかは受け取る側の自由、でも責任は書いた側にある。 そういうこと、よく考えなきゃって思う。 レストランでは、おいしい料理を出すことよりも、客の健康を守ることが第一であるのと同じように、 文章も、面白いことよりも、相手を傷つけないことが第一だ(体よりも痛かったりするだろうし)。 こういうちっちゃいホームページでもいろいろ気をつけたり、考えたりしなきゃなー、と思う。これしかやってないから、あんまりインターネットのことがわかってないところもある。 あと、友達のことは大事にしないとなー、というのと、もう会わない人でもあたたかく見守らないとなー、と思う。 みんな幸せになるといいなー(ってこれ一番、無責任な文章だ)。
岡本太郎の絵を見る。 とろろ蕎麦を食べておいしかった。 連れて行ってくれた方といろいろお話できて、 とてもよかった。
髪をかけられることを思うと、耳があって良かった、と思う。 籠って、タケカンムリの下にリュウが入ってるけど、なんか、籠のくせに、って感じだ。
本や映画などで、季節の入ったタイトルがある。 『8月の……』、『……の夏』だとか、『冬の……』など。 物の名詞が入ったタイトルなら、ぱっと浮かぶのは映像だったり、触感だったり、 動詞だったら、行動するイメージが湧く。 季節の言葉というのはもっとすごくて、 夏、ならば、汗、だるさ、蝉の声、麦茶のコップ、プール、 そんなものが、うわっと出る。 人は何度も何度も季節を通り越して来ているので、 季節のイメージを丹念に作り上げている。 俳句に季語を入れるルールがあるように、 季節の言葉にパワーを感じる人が多いのだろう。 万人に共通するイメージがあると信じられている。 そんな言葉をタイトルに入れる人は、 他の人と季節のイメージを共有できると信じている可愛らしい人だ。 信じられてるからには私も、よーし、と受け止める。 「なになに、どんな夏なのー!?」としっかり感じてあげる。
失恋したときは、恋だけに苦しむように、 プライドなんかで苦しむことがないように、 注意することが大切だ。 自分のなかにうらみが残らないようにすることは、 女のウデの見せどころだ。
コーラのこと、私は好きって思ってたけど、 コーラのことをちゃんと考えたことってなかった。 コーラの種類に詳しくないし、知識もない。 私は本当にコーラが好きなのだろうか? こんなの、 こんなのただの依存じゃないか。 ほんとうの好きって何? ところで、「依存」って言葉、はびこり過ぎじゃないですか?
札幌一番しお味のスープの素は素晴らしい。 最近は強力わかもとをがんがん飲んでいる。 「お母さんも若いころはよく飲んでたわよ」と言われる。 胃、弱いことで私に意識される、あわれな存在。 ほんとうは、強い子こそ気にかけてあげるべきなのに、つい胃のことばかり考えてしまっている。 肺だって頑張っているのに、私が気にしてるのは、胃だ。 恋って難しい。
人体のなんとか、とかいう展覧会に誘われたが、断る。 だって、血管のひからびたのとかがある、とかいうから。 なんでみんなそんなのが見たいのか、わからない。 ぞっとするものには、できるだけ関わらないで生きて行きたいものだ。 おばけ屋敷とか、ホラー映画も、私はまったく関わらずに生きている。 でも、ふと思い出したけど「キューちゃんは、歯と骨のネタが多いよね」と言われたことがある。 ほんとにそうだ。 だけど、血は嫌だ。 「心臓」よりも「胃」が好き。 「目」よりも「睫毛」が好き。 「唇」よりも「ひげのざらざらしたの」が好き。 「手」よりも「肩のごつごつした骨」が好きだ。 骨とか髪の毛なら、見たい気がする。 なんか、骨とか髪の毛の方が、情念が込めやすい気もする。
髪を切った。 毎年「今年は大人っぽくなる」と思ってきたが、すでに「大人っぽく」なんていう言葉もばかみたいな年だ。 もう「大人っぽく」ということは考えないようにしよう。 つまり、なんか、幼くなってしまった。 ここ半年くらい頑張って伸ばしていた前髪も短くしてしまった。 (真ん中わけして、両耳にかけるという夢、叶わず)。 しかも、寝ているときに、にきびをひっかいたのか、顔に変な傷ができていて、いま、顔がほんとうに変だ。
私は人々に対して、「別れてくれてありがとう」って思っている。 たくさん学んだ。 だから、絶対に、別れてくれた人以上の人を見つける(私にとって、ということ)。 願っていれば、いつかは叶う。 長い目で見る。
「どうする?」 「そうめんか」 「そうめん、つゆ」 「いや、上に玉子とかのっけて……」 「それは、冷やし……」 「いや、そうめんだ」
被害者みたいなこと言ってるけど、どう見たって、あたしの方が被害者だよ。
鮭の体はあまりにピンクでしょっぱくてびっくりだ。 ごはんの中の鮭なんて、もうほんとにおいしい。
小説を書いている、なんて話をすると、よく言われるのが、「ぼくのこと書いてる?」だけど、でも、きっと絶対書いてないので、安心してください。 小説を書いてるときに向かうのは「小説」なので、「誰か」には向かわないものです。 でも、元気ないとき元気付けてくれたり、いろいろな経験を味わわせてくれたり、傷つけてくれたり、考えさせてくれたり、そういったことをしてくれた人々のおかげで小説を書けているというのはひしひし感じています。 ありがとう。
たんじょうび当日、家族全員で夕食を食べたが、誰ひとりとしてたんじょうびの話をしなかった。 年頃の娘がたんじょうびに早く帰宅して普通にしているのをあわれんでいたのか? しかし、次の日、母はフルーツケーキをくれた。 父は豆をくれた。
日記が一週間滞ってしまって、実は今は本当は14日です。 14日は15日の前日で、15日は私のたんじょうびです。 私は普通の女なので、たんじょうびを非常に気にします。 今年のたんじょうびは私の恋愛史上最悪のたんじょうびです。 こんなことならたんじょうびなんかなかった方がよかったと思ってます。 たんじょうびはそんなもんじゃない、と言われても、でも、と思ってしまいます。 でも、ほんとうは幸せなんだろうな、ごはんもあるし。
私はもう低俗なことには一切関わらない。 腹が立ったり、ジェラシーがわいたりするような場面があったら、すぐにその場を立ち去る。 自分のことをちょっとでも好いてくれてる人に気を遣う。 そうじゃない人のことは気にとめない。 嫌なことはなかったことにする。消し去る。 品のあるもの、情のあるものだけに関わることにする。
小田急線で、大学のときの先輩の家に遊びに行く。 新婚さんの、かわいらしいお部屋だ。 大島弓子全集なんかあって、うらやましかった。 一品持ち寄りってことだったので、生春巻きを買っていた。あとカレーとかいろいろ出してくれた。お料理できる人はうらやましい。おいしい。 女の子たちとお喋りするのはとても楽しい。 樋口一葉恋すごろくをする。
渋谷のBunkamuraで映画を見て、美術館に行く。パルコに行ったら、Cocco の原画展というのがあってそれも見てきた。 美術館に行ったときに思ったのだけども、「自然な感覚」と「自分の感覚」というのは違うな、と。 例えば、ピカソの絵の色って、はっとするというか、それまでの絵の流れでいくと変とも言えるようなものだ。 色を選ぶときに、きっと、自然と浮かぶ色っていうのがあると思う。 それはきっと、今までの絵画の流れからのものであったり、一般的なイメージであったりすることが多い。 でも、「自分の感覚」の色を探すと、そんなんじゃ全然なかったりするんじゃないだろうか。 ピカソはそんな風にして色を探したのじゃないか、と思った。 言葉も同じだ。言葉を選ぶときに、すうっと出てくる言葉というのがある。ちゃんと「感覚」に合っていたり、なじんでいたりして、最初はその言葉で良いような気がしてしまうのだけども、それは「自然な感覚」のものであって、「自分の感覚」のものじゃない。 「自然な感覚」の言葉というのは、つまり今まで読んできた本の中で使われていた「こういうときはこういう表現するんだろう」というようなイメージのもの、人と話したりして掴んでいる「考えなくてもするりと出てくるなんとなくの言葉」であったりするもののことだ。 「自分の感覚」の言葉というのは、そういうのとはまったく違う、一見するとまったく合っていないような表現であったりもする、でも伝わる、そういう言葉がある、と思いませんか?
コンビニで200円のサラダ買ったり、150円のデザート買ったりする、女の子たちの気がしれない。 こんな、腹の足しにならないもの、200円も出したくないよ。 私は肉を買う。
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