焼き肉を食べる。 私は焼き肉って、ちゃんと食べたことがなかったので、教わって食べた。 「下で焼いてる人がいるから。テーブルの下で人が…」 と言うので、網の上に載せるとき、 「すいません。お願いしまーす」 と言っていたら、店員さんが来てあせる。 「この葉っぱでサラダを包む」 と言うので、肉じゃなくてサラダを包んで食べていたが、少し恥ずかしかった。 その後その人は、天井にぶらさがっている電灯が変わった形だったので、 「あれはサトイモですか?」 と、来る店員さんごとに訪ねていた。 できるだけあたたかい目で見ようと思った。 だいたいにおいて、最初から、 「肉は網の下から飛び上がってくる。うまく受け取らないと熱い思いをする」 というようなことを言っていた。でも信じる。
私の人生には、本と男が必要。 おしるこのアズキと餅のように。 今は水だけがある。薄い砂糖水。 それをすすり、 「アズキと餅を入れたらどんなにおいしいか」 と想像する。 80歳になっても、ただのぬるい砂糖水だったらどうすればいいのか?
ホチキスの芯が私の指の肉を少し削る。 最初はゴマのように凹んだ模様が指にできただけだったが、 見ていると、血が滲んできた。 少しの痛みも快楽だ。
私は昔、片思いという言葉が好きで、これは人からも言われたことがある。「片思いって、よく使うよね」と。 「サークルに片思いしてる」「誰々ちゃんに片思いみたいな気持ちだ」「世界中に片思いしてる」という具合に使っていたのだけれど、まあ、たぶん、これこれのことが私は好きなんだ、でもそれが上手くいってない、あるいは、向こう側からは私は必要とされていないが、私には必要、といった意味合いだった。 「片思い」という言葉、少女マンガなどでは「両思い」なんていうよくわからない言葉とともに使用されたりもする。 しかしどうも私が思うには、片思いというのは終わらない気がする。 片思いというのは、のちのち変わって行く、だの、いつか伝わる、だの、そういうこととは全然べつのことで、絶対的なもの。 好きだ、って思うモノや人に対して、人は絶対片思いなんじゃないか、って。 向こうも好きだとしても、それは両方で片思いなんじゃないだろうか。 私は、空に片思いするし、蟻に片思いする。神様にも片思い。 私はおばあちゃんになっても片思いをしているような気がするのだ。
池袋の芸術劇場、というところに、クラシックコンサートを聴きに行った。なんというか、楽しめる感じの、あまり本格的ではない雰囲気のものだった。でも管弦のオーケストラも、私は始めてなので、じっと見た。特に、バイオリニストの二の腕がぷるぷるしてるところをじっと見てしまった。 マンドリンを弾いてるときなど、指揮者がときどきかっこよく見えたものだったが、こうしてみると、指揮者ってたいしたことないなあ、などと思った。指揮者がいい風に見えるのはきっと、自分が弾くときは指揮者の思っていることを汲もうといろいろ考えるから、ただそれだけのためだろう。はたから見ると、そんなに重要そうな人でもない。 今年はドボルザークの死後100年目らしく、その曲を弾いていてそれがなんかよかった。 あとは聴いたことがあるような、聴き易いものだ。愛の挨拶など。 私は「愛の挨拶」がすきなのだけれども、愛の挨拶ってタイトル7割な気がする。
音階って不思議だな、と思う。 ドレミファソラシド、と、半音記号とあるけれども、 そうすると、メロディを作るとき、 1、3、8、3.5、4、5、6.5、1、9 というようなことになると思う。 でも、 1.2333、7.5656、3.33333、2.342、 というような音の流れもあるのだろうと思う。 そういうのは音楽じゃないのだろうか。 よくわからない。
自分が他人に何かを与えられると思うなんて、大きな間違いだ。 誰も人からは何も受け取りたくない。 何のために手があるの? 人からものをもらうためなんかじゃない。 土をほじるためだ。 土をほじるとき、他の人の手に偶然ぶつかってしまうためだ。
愛されキャラだの、愛されメークだの、そんな言葉を女性誌などでよく見かける。 ばかじゃないのか、と思う。 そんなに愛されるのは楽しいのか? 愛されるより愛したいというより愛されるな。 私は一生絶対愛されたりなんかしない。
一日一回は、松浦亜弥かわいい、と思う。 だいたい、一日一回は見かける。 こんなにたくさんの人からかわいいと思われたら、 私だったら、200年は生きられる。
花火をした。 命を続けなければならないので、次々に火をつけて、きれいどころじゃなかった。 つけたら地面に置いて並べた。 私は火が怖いので怖いかと思ったが、怖くはなかった。 人の火をもらおうとしたが一回しか成功しなかった。 花火は楽しい。またやりたい。
今日から二日後に恵比寿でビールを飲む。 鯵のマリネとしらすのピザを食べる。 その後、品川でビールとカルフォルニア巻きと真鯛のお刺身とうにとホタテを食べるだろう。 魚はおいしい。
セロテープの、台のところから刃のところまで伸びている、4,5センチくらいの部分は不安定だ。 文字化けみたいな文章を書きたいとたまに思うが、難しい。 ちょっとでもやさしくされると嬉しい。 ずるをしてでもやさしくしたいものだ。 公正なんてもの、ちっとも面白くない。 ひいきしてなんぼの人生だ。 人のわがままはよく聞く。 ずるをしようとする人の手助けをする。 ものを拾ってくれた人に百万あげてもいい、 ドアを開けてくれた人に百万あげてもいいと、よく思う。 たまたま側にいる人をめちゃくちゃに愛したいとたまに思う。 駅員さんにも、掃除のおじさんにも感謝している。 大人っぽく人付き合いしようという気はさらさらない。
私の目の白目のところはピンクです。 ところで、電化製品って波がありますよね。 静かーにしていると、突然、ウイーンって言い出したり、もぞもぞってしたりしますね。 ウインドウの付いている電化製品はえらそうな気がしますけども、 箱型で中が見えない電化製品は謎がありそうで魅力的ですね。 埃がたまり易い場所っていうのは、他のものもたまってるんですかね。 いいものもたまってますか? 配線の裏とか、ごちゃごちゃしてるところに、何かありますか? 電化製品は撫でても直りませんか?
郷ひろみっていい名前だよなあ、と思う。
「わかりました」とよく言ってしまう。 言われることもある。 「わかりました」というのはよくわからない言葉だ。 言われたときは、たぶんわかってないだろうなあ、と思う。 「わかりました」で会話が終わるのも妙だ。 「わかりました。ではこうしたらどうですか?」 「わかりました。じゃあ諦めます」 「わかりました。でもお願いします」 その後に何かが続く言葉のはずだ。 「わかりました」で止めてしまうとき、きっと相手に次の言葉をもらえるように待ってるのだろう。
雨は降っていないが、織姫は彦星に会えたのだろうか? 雨よ降れ、と私は思っていた。 やきとりを食べた。 私は友達に失礼なことを言ったのでわるかったな、と思った。 その友達に会うのも一年ごとだったら何も言わないのだろうか。
不動産屋に行ってきた。 部屋の下見をしたのだ。 話は変わるが、人と人とは、自然と離れていくことがある。 しかしお互いが自然と、ということではなく、片方では「離れたいと思ったのなら、人間関係として、きちんと挨拶ぐらいするのが礼儀なのでは」などと考えてしまうこともしばしばだ。 私もよくそういうことを考えた。「どうして早めにはっきり言ってくれないのか」「少しでも思いやりがあるなら、挨拶ぐらいして欲しいものだ」「理由があるなら言えばだけのことを」など。 でもこうやって離れていくとき、相手の好意を感じていたなら、言えないのはよくあることだ。 それに相手に対して本当のことを言わないというのも、普通のことだ。 とくに恋愛の場では、こうしたことに「礼儀」を持ち込んでも、もともと理屈でもビジネスでもないことなので、何にもならない。 こういうときは、自分で納得する理由を作ることができるとてもよいと思う。 いろいろな場面で、人は相手に答えを求めてしまう。 でも「相手がどうしたいか」をはっきりわかったところで、自分の答えが出るのだろうか。 「相手がどうしたいか」はおそらく相手はなかなか言ってはくれない。特にその「どうしたいか」がマイナスな「どうしたい」だったら、絶対に相手は言わないだろう。 だったら、相手がどうしたいか言ってくれるのを待つよりは、自分で答えを作った方がよっぽどいい。 私は今度、こういうように人が離れていく雰囲気を感じ取ったら、自分で納得するような理由を考えて、それが恋愛だったら恋愛感情はぐっとこらえて友情に持っていくようなことをしたりしたい。 現状をいい風に捉えたりはせずに、 でも悲観せずにそっと離れて、 あたたかい気持ちのままでいられるようにしようと思う。 相手には何も聞かないようにしよう。 恋愛っぽい話のついでに、こういうことも最近思う。 昔は、好きな人が「今どうしてるかな?」「何食べてるのかな?」などと考えるのが醍醐味というか、思いやりのような気分でいたけれど、最近、どうもこれは違うな、と感じる。 こういうことはただの想像だからしない方がいい。 想像したって相手のことはわからないのだから。 人のことは、会ってるときだけめちゃくちゃに集中して考えればいい。わからないことは聞けばいいし、一生懸命話を聞けばいい。 会ってないときは何も考えないのが一番だ。 これは絶対そうだ。
マンドリンの練習に行った。 駅でマンドリンのケースを持っていたら、年配の女の人に、 「そういう箱持ってる人結構見かけるけど、中に何の楽器が入ってるの?」 と聞かれた。 ちょっと楽しかった。 ところで、私は思い出というものが嫌いだった。 しかし年をとってきたせいだろうか、最近はいとおしいもののような気がし始めた。 私の好きな南Q太のマンガにこんなシーンがある。 「お前と酒を飲むのはホント楽しいな」 という、昔の男によく言われた科白を、主人公が夢の中で見る。その夢のことを友達に話すと、 「そういうのは、宝物だよね」 と言われる。なんだかとても好きなシーンだ。 べつに後ろ向きとか、今でも好きとかそういうことではなく、きっと、そういう科白はいつまでも心の中であたたかいものなんだろう。 向田邦子のエッセイに、 「大人になったら、反芻が一番楽しい」 というようなことが書かれていたと思う。 思い出というのは本当に楽しく、あたたかく、そして終わったあとも変わって行くものだ。 綺麗に変わって行った思い出は、決して現実には蓋を開くことなく、でも心の中だけで大事に箱に入れてたまに覗くのが、大人の楽しみ方なのかもしれない。
アルフィーの高見沢さんみたいな友達が欲しい。 それはいいとして、本屋さんに内田春菊の『南くんの恋人』というマンガがあって、立ち読みをしてしまった。ドラマなどはまったく知らないのだけども、マンガはかなり面白い。なんてことない科白も、どうとでもとれるような深みがある。 「おもちゃにしてごめん」と南くんが言うと、「おもちゃにしていいよー」とかそんなことをちよみ(主人公の女の子)が答えるシーンがあって、私は、そりゃそうだ、好きな人だったらおもちゃとしてだけでも興味もたれるのは喜ぶべきことだよ、と思った。 でも、この話は最後にちよみが死んじゃうのだけども、どうもこの「死」は「おもちゃでいいよー」の科白で予定されたような気がした。 結局、体が小さかろうが大きくなろうが、南くんに「小さい女の子」扱いされている間はラストは死しかないんじゃなかろうか。 恋愛は自立した人と人が綱渡り的にやるもので、大人しかやれないものだ。
ところで最近、かつてない、人と話さない時期にいるような気がする。 小説を書く、なんて言って、人と会うのを断ったりもして。 私の孤独癖はどうなるんだろう、ひとりで暮らしたりなんてしたら? 今はただそういう時期で、またしばらくしたら大学の頃のようにぴょんぴょんはねるように喋ったりする時期が来るのかな? それとも落ち着いた大人になってきたということで、これから新しい魅力が出てくる前ってことなのかな? 家族といても私はすごく静か。 でもそんな自分もわりと好きだ。 夏休みが、やっぱり友達などと合わないようなので、旅行なども折角だから、やめて、ここで引越しをしようかな、ともくろんでいるところだ。だけど、ちょっと友達に言ったら部屋探しというのはじっくりやるものらしいので、間に合わないかもしれない。 でも私のことだから、変な部屋にぱっと決めてしまうような気もする。 不安だ。 人と話さないでいたら、話さないで平気になっていくのは当たり前だ。 とにかくちょっとずついろんな人と話すようにしよう。 新しい人と会ったり、新しいことに気が付いたりしていくように、行動するようにしよう。 私はべつに人と話すのが苦手なわけじゃないんだから、やればできるんだから。 先のことは考えないでちょっと前くらいのことまでだけ真剣に考えよう。 先のことって3年まででいいらしいよ。
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