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『ミライの源氏物語』のAmazonページはこちらです。
『微炭酸ニッキ』  山崎ナオコーラ

(新たなご依頼をいただける場合、あるいは、既刊の作品についてご質問をいただく場合も、
拙著の刊行がある出版社さん宛てにメールにてご連絡をいただけませんでしょうか?
転送してもらえますので、私から返信します)。

読書メモ
2004年05月31日(月)

今月は13冊しか本を読みませんでした。
20冊読む、というのは嘘っぽいです。

『雪白姫』ドナルド・バーセルミ
『雪のひとひら』ポール・ギャリコ
『人間の地』サン・テグジュベリ
『死をポケットに入れて』チャールズ・ブコウスキー
『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ
『海からの贈物』リンドバーグ夫人
『お気に召すまま』ウィリアム・シェークスピア
『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ
『夜間飛行』サン・テグジュベリ
『じゃじゃ馬ならし』ウィリアム・シェークスピア
『阿Q正伝』魯迅
『若きウェルテルの悩み』ゲーテ
『きよしこの夜が生まれた日』ポール・ギャリコ

特に『人間の地』が面白かったです。



サプライズコンサート
2004年05月30日(日)

品川駅前でひとりでサプライズコンサートをした。マンドリンを弾いてきた。
人々はあまり人のことを気にしないようだ。
ベンチみたいのに座って、つらつら弾いた。
気分が良かった。



休日
2004年05月29日(土)

洗濯をして部屋の掃除をして図書館に行ってから、渋谷に行って映画を見てきた。

定番の休日。

何だか怖くなってきた。
年をとって行くことが?
大人なのに大人っぽくなれないことが?

そういえば、今日久しぶりに夢というものを見た。
でも上手く思い出せない。
「30歳になったら誰だって旅に出るのは止めるよ。ぼくの友達だってみんなそうだよ」
と誰かに言われた気がする。何の意味やらさっぱりわからない。

コンビニに新しいバイトの女の子が入って、今日だけ、その女の子の手前か、いつもの男の子がやたら元気にはきはきしていた。なんだか面白く可愛い。



韓国語
2004年05月28日(金)

韓国料理のお店で、石焼きピビンパを食べた。
ピビンパと書いてあった。
メニューによってはピビンバだったりもした。

韓国語は難しい。

辛いのは好きだからおいしいのだけど、猫舌なのでゆっくり食べた。



パンダ
2004年05月27日(木)

宇宙人はいるか、という話をしているとき、例の新しく会社に入ってきた人が、
「私、宇宙人よりパンダの方が不思議」
というので笑った。
パンダは全員同じ模様があるけど、それがおかしいのだそうだ。
シマウマなんかはちょっとずつ違うのに、パンダが全員目の周りが黒で、目からちょっとずれてるやつとかいないでしょ、というのだ。

確かに不思議だ。



魅力的なキーホルダー入荷しました
2004年05月26日(水)

と、コンビニのPOPに書いてあった。なんか、映画の販促品みたいなので、とくに魅力的でもなかった。しかし、魅力的ってなんと抽象的な。

さっき新聞にちょっと面白いことが書いてあった。
「日本には『おとなしい弱者は愛しやすいが、発言する弱者は愛しにくい』という風潮がある」とかなんとかいうの。
まあ、あの人質事件についてのことなんですが。

ところで人は甘く見られていても人のことを好きでいられるものなのだろうか?

私は強い。きっと落ち込んだときから立ち直ったのは私の力だろう。
ここまで丈夫に育ったのも私が頑張ったからだ。
あまり人に感謝しすぎるのもよくないものだ。
それに私はいい女だと思う。
それにかっこいい、しっかりした人間だと思う。
これから自分の力でいくらでも展望が開けていくだろう。



肩揉み
2004年05月24日(月)

肩こりは肩を揉んだときの気持ち良さを考えると清算される。
肩こりじゃなかったら、肩を揉んでもこんなに気持ちよくないんだろうな、なんて。

責任というのは人間じゃなくて、事象にあるらしい。
でも見せしめが必要ならしい。悲しい。

今日、Mさんがアイスをくれた。しかも私のすきなハーゲンダッツのドルセデレチェだ。ああ、おいしかった。
たぶん、Mさんはひとりで食べるのは食べづらいから二人分アイスを買って来たのだと思う。



乗車中のトークにご注意ください。
2004年05月22日(土)

と、電車の車内アナウンスで言っていた気がした。言ってないかもしれない。
しかし、トークって、笑いをとらなきゃいけないのか?などと思った。

規格外の幸せが欲しい、と最近思う。
誰かに何かをやってもらうんじゃない。
常識の範囲内じゃない。
想像できるようなことじゃない。
一般的な幸せとは違うもの。
もしかしたら誰にもわかってもらえないかもしれないもの。
そんなもの。



女の子
2004年05月21日(金)

アイドルグループの中の、誰が誰のことをどう思っているか、というのはそんなにみんな聞きたいことなのだろうか?
インタビューのネタをもっと変えていった方がいいのではないだろうか。

ところで私は女の子が結構好きだ。
好みのタイプは、しっかりしてそうで浮世離れしてる感じの子。可愛い感じの子を見るとキュンとする。

最近加護亜衣に注目している。

あと、会社に新しい人が来て、大分年上なのだけど、可愛い感じの人で、面白いので注目している。
お昼ごはんを一緒に食べようとして誘ったのに、黙っていたり、途中で散歩に行ったりしている。

ところで血液型や兄弟構成などで性格について話すようなことがよくあるが、つらい。
私はB型なのだけど、ほんとにBっぽいと言われる。
妹がいるというとよく、そうは見えない、と言われる。
お兄ちゃんがいそう、とよく言われる。自分自身お兄ちゃんがいそうな性格だと思う。
甘ったれてるんだと思う。
血液型や兄弟構成がほんとに性格に関係あるのかはわからないが、話していると、その人が自分をどう見てるのかがなんとなくわかって少しつらい気がしませんか?まあ別にいいけど。



どういう字ですか?
2004年05月20日(木)

人は名乗るときに、独特の調子を持っている。めずらしい名字の人は、聞き直されることが多いので、一回でわかるようなゆっくりとした調子がある。そして、「どういう字ですか?」の問いにも何千回と答えているので、ネタを持っている人も多い。それがうらやましい。
私は名字も名前も、よくあるもので、字も簡単なので、そういうことがない。でも自分の名前がとても好きだ、特に下の名前はとても私らしい気がする。
よくある名前と言えども、これからも名乗る機会はたくさんあると思うので、独特の調子を作りたい気もする。



ラブレター屋
2004年05月19日(水)

ラブレターを書くのがうまいんじゃないか、というのを私は自負している。
それで、ラブレター屋さん、というのを起こしたらどうだろうというのを考えたことがある。代筆してあげるんである。

でも相手のことをよく知っている人の文にかなう訳もない。
きゅん、とさせればいいってもんでもない。

だいたいに置いて、簡単な約束があるんである。
それは、相手のことを書くこと、だ。
自分のことや自分の気持ちよりも、相手に重きを置くことだ。

そうすればたぶん読んでくれると思うので、みなさん書いてみて下さい。

でも話が上手い人は、ラブレターなんて書く必要ないのかな。



電話屋
2004年05月18日(火)

電話屋さん、と心の中で呼んでいる人がいる。

会社で仕事をしているとたまに、一ヶ月に一度くらいだろうか、制服を着た、感じの良いおばさんが部屋に入ってくる。電話屋さんである。
電話屋さんは、ひとりひとりの電話を布できゅきゅっと拭いて行く。
そして点検のようなことをしている。よくわからないまま「ありがとうございます。暑いですね」「最近は蒸し蒸ししてるし」などと季節の話題でお喋りする。そして去って行く。
謎だな、と思いつつ、その後、しばら清涼感が続く。


今日は夜、上野で仲良くなったおじさん(友達)と、森鴎外の住んでいた家の跡に行って来た。
おじさんの謎は深まる。



結婚式
2004年05月16日(日)

大学の先輩の結婚式が品川教会であった。
もともと可愛い人だから、きっと可愛い花嫁さんだろうと思ってはいたが、想像以上に可愛かった。
それから牧師さんがいい人で説教がとても面白い。
私は結婚式って初めてだったから、私が緊張してもしょうがないのに、なぜか必要以上に緊張していた。

披露宴にも出て、みんなでマンドリンを弾いた。
新婦さんはとても細かく気を遣ってくれる人で、カードなんかも全部可愛くて、それからいつもにこにこしていてすごいなあ、と思った。
新郎の方もとてもいい人そうで、すごくいい結婚式だ。
なんというか「いままでお世話になった方々に感謝します」ということを二人がとても思っていることがよくわかるような。
それから二人が楽しそうにしていて、それから落ち着いてしっかりしているので、見ている方も、なんだかとても嬉しい気持ちになりました。
きっと幸せに暮らしていくに違いありません。



運命の夜
2004年05月14日(金)

会社の人たちと神田でお酒を飲んだら、気が付いたら新宿にいて、時刻は1時半だった。
びっくりした。経緯がわからない。山手線で移動したと思うのだけど、私は帰るとき山手線は使わないので、何で乗ったのかもわからない。
そこまで酔っ払うような会ではなかったので、まったくびっくりだ。

どうしようもないのでタクシーで帰ったら9900円になった。まったくばかばかしいことだ。
タクシーの後部座席でぐったりとしながら、人生のことや、孤独のこと、仕事のことや、お金のこと、いろいろ考えていると、気持ちががらがらと変わるような気がした。
こういうばかなことや、苦しいことをやっても、人生の残された時間は刻々と減っていく。いまやこういうばかなことをしたときは、ひとりで「ああ、ばかばかしい」と思うだけのことだ。
私を気にしてくれる人が欲しい。
その他、私は努力が足りない。人生は短いのに。
本当は、何もかもふっきって、まっすぐな道を歩かないと、時間が減っちゃうんだ、と思う。
そして、ああしよう、こうしよう、というようなことをいろいろと考えた。

うまく言えない。

でもたとえば、夜の中には、この夜だけで何もかもが変わったという夜がある。
そんな夜っていうのは、こんな風に、何でもないような、本筋とは関係のない夜で、それで何もかも気分が変わって、人生が変わったりするのかもしれない。

結局人間の人生というものを、一番左右するのは本人の気持ちだ。

一晩でがらがら変わるというのはよくあることだろう。

そう思ったが、次の日起きると、特に変わってなかった。
あまりにも気持ち悪くて夢見てるような気持ちになってたのかも。
やっぱり運命の夜ではなかったようだ。

これからも普通に生きよう。



タイプミス
2004年05月13日(木)

私はしょっちゅうタイプミスをしてしまう。
でもこういう文章の作り方って変だな、とも思う。
ローマ字で入力して、ひらがなから、漢字に変換、という書き方だけれども、もっと全然違う概念のパソコンがあってもいいと思う。

普段文章書くときって、音で考えてないですよね。
本を読むときだって、音で考えて読むとすごく時間がかかってしまう。じゃあどう読んでるのか、というと、それもよくわからないのだけど。

何でもそうだけれど、校正しようとすると、ぱっと見ただけじゃ気がつけないですよね。特に自分の書いた文章だと。

何ていうか、脳の中ではもっと違う風に文章を書いたり、読んだりしているような。
英語と違って、日本語は視覚の要素がずっと強くて、見た感じの印象が強烈だ。
確かに言葉っていうのは昔は音から生まれたものなのかもしれないけれど、今は目で考えることもよくあるように思うのだ。

タイプミスというのは指が間違っているのではなくて、イメージが間違っている。
目で見たときに、イメージが間違いの部分を補ってしまう。

音で入力して、変換して、目で見る、ということに違和感がある。

いや、目でもない、耳でもない、もっと違うことで言葉を感じているような気もする。



単純なこと
2004年05月12日(水)

文章というのは書いている時点での楽しさでもとは取れているから、世間に出たり、次の世代まで名前が残ったり、お金をもらったり、する必要がない、というようなことを金子光晴が言っていたと思うのだけど、それって何だってそうだ。

旅行に出かけるのは、後々役立てるためじゃなくて、ただ行きたいから行くってだけだ。

何かをするとき、それを利用しようなんて思わない。

本を読むのも、読みたいから読むだけ。

楽器もそうだし。

人と会うのも、もちろん、そうだ。
新しい情報なんて教えてくれなくていいし、共通の友人の近況なんて言わなくていい。面白いことも言わなくていいし、楽しませてくれなくていい。

何かをするとき何かを得ようなんて思わない。
ギブアンドテイクなんかじゃ全然ないと思う。
もっと単純なことのように思う。



孤独
2004年05月11日(火)

骨がぎしぎし言うほどの孤独を感じたい。

ひとりになってじっと自分と向き合いたい。

何でもひとりでできるようになりたい。
牛丼もおすしもファミレスも、ひとりで食べられたり、
他の人と違うことをすることを何とも思わなかったり、
ひとりで決めて、ひとりで考えて、
ひとりで旅に出て、
孤独だなって思いたい。



新橋に
2004年05月10日(月)

前の会社の友達とお酒を飲んでとても楽しかった。
また飲んでくれるかな?



屋上緑化
2004年05月09日(日)

マンドリンを弾くために、品川シーサイドの東品川文化センターに出かける。

重い楽器を持ち運ぶことは、年老いたときや病気になったときの移動に少し似ているのではないだろうか。
そう思うとあまりモンクも言えない。
これが当たり前の人もいるのだろうな。

工作室とかなんとかいう部屋で、焼き物を焼く道具やら変な机だのがある。
開けたり触ったりする。

窓からは隣のビルの屋上一面に、黄色い花がびっしり植えられているのが見える。あれは何だ、という話になる。
モスコちゃんが言うには、黄色は「帰って来い」という意味があるから、あれはサインじゃないかということ。空に向かって。ずっと誰かを待っているんじゃないかと。
しかしNさんが言うには、ビルは何階以上だと、屋上緑化をしなければならない、とかいう法律だか条例だかがあるのだそうだ。だから何にせよ、屋上緑化だろう、と。

そうかあ、と思う。
右手には海が見える。小さな船のようなのも。それから新幹線も走る。
じっと眺める。



手段と目的と、テディベアのルドヴィック
2004年05月08日(土)

手段はたびたび目的となる。

例えば救われるための宗教が、目的となってしまう。

大事なことをわかりやすく話すことをしようとしていたら、いつの間にか、わかりやすく話すこと自体が目的になり、大事なことはどうでもよくなる。

かわいい服を着て魅力を引き出そうとしていたのに、気がつくとかわいい服を着ていないから魅力がないように思えてしまう。

年金の問題を考えようとしていたのに、年金の問題をうまく扱うことが目的になる。

生きるために飛行機に乗っていたのに、飛行機のために死んでもいいような気がしてくる。



渋谷のユーロスペースにレイトショーを見に行く。「テディベアのルドヴィック」という素朴な、ぬいぐるみのアニメーション映画なのだけれど、またもや一人で泣いてしまった。なんだか、あまりにもほのぼのとしてて、きゅんとしちゃうから。人と人との出会いって、こうだよ、とか、子供のころ、こう思ってた、とか、そうゆうのがぎゅっと詰まってる。
上映の前に、はなと中野裕通の対談があって、それも良かった。はな、しぐさも何もかも可愛い。字幕の訳もしたらしい。前向きで楽しそうで、素敵な人だな、と思う。

あと、パソコン買った。中古というか、展示されていたもので、99000円だった。質問したらまた訳が分からなくなり、むかむかしてきた。私はこうしてホームページなんて作っていても、インターネットがどうやってできるかも知らないし、パソコンのことは、用語なども驚くほど知らない。
家のパソコンは2台あって(私のは今までなかった)、母が管理している。彼女は昔から配線などがすきで、何でも嬉々としてやっている。母に質問すると、長々と説明されて余計にわからないので、聞かない。
それでそのうちの1台が壊れたので、母がメールアドレスを変えていた。私も変えてもらった。これに関しても私はよくわからなかった。
パソコンを買ったことは家族にも誰にも教えていない。使えるかわからない。



スライド
2004年05月07日(金)

理屈でものを考えられる人が、人に対しては理屈を使わないところを見ると、すごいと思う。

理屈というのは自分の頭の中を整理するためだけに使うもので、人に対しては使うものじゃない。
たとえ理論的にやっつけることができて相手を黙らせたとしても、自分にどんないいことがあるだろう。

ちょっとしたことでも、
自分がどうしたいのか、本当は何を伝えたいのか、考えてゆくと、
使うのは理屈じゃないことがわかってくる。

もっともなことも、正論も、大して力はないものだ。

そういうことを知っている人がいる。
鷹揚に構えて、人の逃げ道を切らない。
理論的に合わないことでも受け止められる。
おかしいことでも責めようという気持ちも起こらない。
でもちゃんと自分の考えは自分の中に持っていて、いつも楽しんでいるような人。
そういう人を見ると、すごいと思う。

私はやはり少し思ってしまう。
こうだからこうだ、とか、この前こう言ってたから……など。
もっと寛容な人になれたら、どんなにカッコいいかしれない、と思う。


わかめをしょっちゅう食べているが、髪はちっとも伸びない。
生まれて初めて前髪を伸ばそうと思う。

今日は、上野でローマ彫刻展を見た。金曜は8時までというのだ。
しかもスライドを1時間見た。
大学の講義みたいで面白かった。






所有欲
2004年05月06日(木)

私には所有欲はない。
果かないものにお金をかけたい。

たとえば私は本は図書館で借りることが多い。
好きな本でも、持っていないものはたくさん。
どうせどこかにあるのならいではないか。
忘れっぽい私は、きっと本の内容も思い出せなくなるだろう。
それでも構わない。
いつか知識を使いたくて本を読んでいる訳じゃない。
本を利用して何かしようなんて思わない。

旅にしてもそうだ。
旅にお金をかけるのは実際には役に立たないことだ。
私は別に旅行して自分の成長に繋げようだの、小説のネタにしようだの、まったく思わない。
思い出も特にいらない。

なくなってしまって構わない。

かわいい洋服も、かわいい雑貨も別にいらない。
見るのは好きだけれど。
誰かが着ていたり、誰かが持っていればいいと思う。

映画や美術館にはお金をかけたい。
今しかないものがあるような気がするから。

お金は大好き。
でも誰かが持っていればいい。
金は天下の回り物だから、特に自分のものでなくともよいのだ。

何かを持っていてもちっとも幸せにならない。
幸せって何かわからないけれど。

わからないけれど、幸せは大きな青い海だとする。
しかし自分が海を所有していても、幸せとは思わないだろう。
だけれど波の起きる瞬間を誰かと眺めるとする。
その後、そんな瞬間のことも何もかも忘れてしまったとしても、それは幸せに近いような気がする。そういうことかもしれない。



秋葉原
2004年05月05日(水)

パソコンを買おうと思って秋葉原に出かけたが、結局買わないで帰ってきた。私はパソコンのことがさっぱりわからないので、パソコンのことを考えるとイライラしてくる。
でも欲しい。きっと安くて変なのを買うだろう。

母の誕生日だったので、カーディガンをあげたら喜んでいた。
紺の縞々だったのだけど、もっと派手な色にすればよかったかも。
年をとっていくと、きれいな色の服を着たくなるような気がする。

こうして生活していると、人生でも、文章でも、大事なのはさわやかさとあたたかさだなって思う。
私にも、さわやかさやあたたかさはある。
言葉遊びはもう止めるって切に思う。
なんかこう、きゅんとする感じや、ふわっとする感じを大切にして行きたい。
広がる感じや温まる感じや繋がる感じやひんやりする感じが日々にはあると思うので、そうゆうのを大事にしたい。



わかりやすさ
2004年05月04日(火)

最近、新しい考え方を聞かないな、と思う。
新しい考え方、というものよりも、みんなが知っていることをわかりやすくした、というものが出てくることが多い。
例えば「30代独身子なしは女の負け犬」とか。

きっと今は「新しい」「今までにない」「他と違う」というようなことは魅力にならないのだろう。
「わかりやすい」「元気になる」ということが大事なような。
あとは「若い」とか「かわいい」とか、そういうのがすごい勢いで肯定されてるような。

ベストセラーになる本も、読む人の要求に応えたり、読む人と似たような人が出てくる小説であったり、読む人をけなして安心させたり(みんなマゾなんだと思う)、昔なつかしい形の小説だったり。

とにかくわかりやすいこと、今の自分の状況をわかりやすくしてくれること、そんなことをみんなが求めてるような。

私としては、がらっと考えが変わるような、次元が変わるような、そんなものに出会いたいな、という気持ちもあるのだけど。



寄生虫
2004年05月03日(月)

今日もまた目黒に出かけた。寄生虫博物館に行ったのだが、お客さんがとても多い。人というのは、ぞっとするものを見たい、という奇妙な欲求があるようだ。子どももおばさんも楽しそうだった。
しかし、気持ち悪い、と言うのは病気に対して失礼なことだとも思う。気をつけたい。
そうそう、吉野家で私は初めて豚丼を食べた。やっぱり牛丼ほどのガツンとくる感じはない。でもこれはこれでおいしいと思う。
それから自然教育園というところを散歩した。ツルツルした木やガサガサした木を見た。菖蒲が少し咲いてた。
その後、人の大学に勝手にしのびこんでうろうろしてやった。たくさんの守衛に見つかったが、怒られなかった。
あとビリヤードをした。ビリヤードというのは、ずっとしていると、会話がやんわりとしてきて、ボールとキューが記号のように見えてきてちかちかしてくる。どうせ勝たないと思うと、ふざけてしまってよくない。でも、かちん、と当たると楽器のようで楽しい。わかったふりをすると、本当にわかってきた気がする。人の気持ちと違って、決まったとおりに球は動くんだな、と思ったけれど、人の気持ちも本当は決まっているんだよね。計算で出せるって読んだ。ただ、空の雲がどういう形になるか、というのと同じくらい複雑な長い計算になるので、誰も計算しようなんて思わないそうだ。理屈で説明できる事柄だからと言って、理屈で考えることはない。いろいろなことがどういうことになって行くとしたって、例えば人と出会って楽しかったことや、言ってくれたことは、どっちにしてもこの先も宝物になるのだから、先のことをくよくよ考えるのはばかばかしいことなのかもしれない。
朝は小雨だったが、その後は少し晴れた。夜は寒かった。



五反田と目黒
2004年05月02日(日)

五反田でマンドリンを弾いた。ものすごく久しぶりだったので、とても楽しかった。やっぱり、うまく弾けないので一生懸命になった。一緒に弾く人たちとも久しぶりだったので緊張した。でも緊張してるようには見えないと言われた。まあそうだろうな、と思った。
それから目黒に移って、モスでごはんを食べてから、大学時代に一緒にサークルでマンドリンを弾いていた同学年の子たちとお酒を飲む。これもまた私は久しぶりに会うので、緊張して乗り気じゃないくらいだったのに、いざみんなと会うと、すぐ思い出して、本当に楽しかった。
変わってないなーとも思うけれど、やはりみんな少しずつしっかりしてきていたり、考え方が変わってきたり、しているのだと思う。私も、きっとそうだろう。
サークルをしているときは私はとても若い考え方をしていて、しかもサークルがすごく好きで夢中で空回りしてて、みんなに迷惑をかけるくらいがさがさしていたんじゃないだろうか。今だったら上手くやれるのに、と思うことがたくさんある。
でももう何もかも過ぎていくことなんだな。
だけど、また合宿したい、と思った。ああいうの、もうやれないなんて。
またみんなで話し合ったり、合奏したり、朝ごはんや夕ごはんが食べられたら楽しいのになって思う。

そうそう、その居酒屋さんで働いている同級生がカクテルを9人分、それぞれの好みに合わせて作ってくれてとても楽しかった。私は緑色で辛いの、といったらそれを作ってくれた。



原因と結果
2004年05月01日(土)

原因や経過というのは、結果が思わしくないときに気になるものだ。
逆に言うと、結果がよければ原因について考えたりなんてしない。
原因が気になるときは、結果が自分にとって気に食わないんじゃないかということを疑ってみるといい。
また、原因を聞かれるのが嫌だったら、とりあえず結果を出しておくとよい。

日本では何かが起きるとよく、まず最初に「原因を調べて再発防止を……」なんていうけれど、一番大事なのは、起こってしまったことをどう処理できるかなんじゃないか、と思うこともよくある。
原因をきちんと調べたり話せたりする人より、起きたことを認めてちゃんと処理したり迷惑かけてしまった人に対してきちんと向かい合えたりする人の方がかっこいい気もする。

原因がわかったらそんなに安心するの?と思ったり。




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