今朝、通勤電車の中で、ちょっといいことがあった。 私の座席のとなりが空いたので、50代後半に思われる夫婦の、奥さんの方が腰掛けた。だんなさんは奥さんの前に立っていた。 すると、なにやら手遊びのようなものを二人でしている。 何なんだろう、とちょっと気にしてちらちら見ていたら、どうやら、こういうことらしい。 奥さんの方が、手を伸ばして、だんなさんの荷物を持ってあげようとする。 すると、だんなさんはそれがわかっているのに、握手しようとする。 奥さんもふざけて握りかえして、手を振る。でもそのあと、違う違う、とでもいうように、また手を荷物の方へ伸ばす。 だんなさんは、また奥さんの手を握る。 というようなことを、飽きもせず延々と繰り返しているのだ。 言葉はまったくないのだけど、二人ともにこにこしてふざけあっていた。 二人とも身なりのきちんとした人で、だんなさんは背広、奥さんはお化粧して清楚な服を着ていて、まじめそうで、ふざけたりしなさそうだったので、そのギャップが幸せな雰囲気を増幅していた。 ところで、私の大好きな金子光晴という詩人、森三千代という奥さんがいるのだけど、この奥さんとは3回くらい結婚離婚を繰り返している。 若いころは、森の方が奔放で他に愛人を作ったりもしていて、金子は傷つくのだけれど、中年を過ぎると逆のことが起きる。 50歳を過ぎた頃、金子の方に好きな人ができてしまった。詩を教わりに来た、30歳も年下の女の人らしい。 金子というのはわけのわからない人だから、晩年に、その若い女の人と、森の間で、結婚離婚を繰り返してしまったようだ。 森の方が大病を患って歩けなくなってしまったので金子はずっと看病して、たまに若い女の人のところに行って、エロ映画に映画化されてもいるのだけど、なんだか言えないようなことをしていたみたいだ。 金子光晴の詩や小説、「どくろ杯」とか、そんなんが好きな私としてはどうしても森三千代の方に肩入れしてしまって、この若い女の人とのことは聞きたくないって気分になる。 でもきっとそれが金子光晴で、それが人間なんだろうな、とも思う。 西洋風のロマンティックラブというのはきっとない。恋愛といのも、たぶん幻想のたぐいだろう。 でもこれだけはあると思うのが、人間関係と心。 あ、これはビートたけしも似たようなことを言っていた気がする。 「浮気っていうのは、ないからね。『いわゆる浮気』っていうのでも必ず心は動いているからね。別れるとなれば男も女も傷つくんだ。だから、浮気っていうのは、ちゃんとそれぞれの女の人と付き合えるパワーと財力がないとだめなんだ。あんまり会えなくても、あんまり不安にさせない、とかね。方法はいくらだってあるんだから。お金もちゃんと渡して、ちゃんとそれぞれと付き合ってね。 それで、もし付き合っていて、その後別れなくちゃならないてときに『今までお世話になりました。ありがとう』ってお金でも渡せるようじゃなきゃね。お金なんてと思うかもしれないけど、礼儀としてね。 よく、ずっと付き合ってきた彼女がいるのに、新しい人と結婚決めちゃって前の彼女とトラブルになるような芸能人がいるでしょ。あれは男の度量が足りないね。今まで散々、期待させるようなことを言っておいて、急に変わったっていうんじゃ、そりゃ女の人は怒るよ。そういうのをちゃんと処理できなきゃ、たくさんの女と付き合う資格はないね」 ちょっと違うかもしれないけど、こんなことを言ってた気がする。 なるほど、と思った。 お金なんてのはいらないという気もするが、早めの説明、とか、配慮、などは必要な気がする。 気持ちの変化や、環境の変化はどうしようもないことだから、それで人を傷つけてしまうのはしょうがないけれど、別れる彼女に対して早めに説明する、傷をできるだけ浅くするように配慮する、などができると、男として、かなりいい男だと思う。 フェードアウトする、目の前で新しい彼女といちゃいちゃする、なんてことだと、きっとその男の人にがっかりしてしまうだろうな。 もちろん女でも同じだ。私も気をつけよう。みんなに心があるということ。 人間というのは不思議なもので、恋と称していっぱい奇妙なことをやって、みんなで傷ついている。 金子光晴だって、森三千代だって、若い女の人だって、みんな傷ついていると思うと、少々ばかばかしい気持ちもするし、救いのない気もする。 一番最初に書いた電車の夫婦も、きっとたくさん喧嘩したろう。もうどうしようもないってこともあっただろうし、もしかしたら一度別れたりもしているかもしれない。 とにかく、心というものがみんなにある、というのを感じる。
さびしい。 腹が裏返っちゃいそうだ。
夜道を歩いているときに、「光に集中」と思ってみると、信号やビルの灯り、街灯、なんやかやが浮き上がって見えます。 暗い道をあるいているときは、わずかな光を見つけられます。 普段気がついてない光もいっぱいあるなあ、と思いました。
道に迷いました。 巣鴨で一時間以上歩き回りました。 それは、今日、マンドリンのコンサートがあるので聴きに行ったのですが、「巣鴨のルーテル小石川教会で行われる」という情報だけで行ったら、全くどこだかわからなかったのです。 私はよく道に迷うし、どう考えても事前に場所くらい調べておけば良いのになんでこうなったのか、よくわからないのに勘で歩いてしまうのはなぜなのか、とても考えました。 同じようなところをくるくる回って、地下鉄の駅に着いたのでそこで道を聞いて、そのとおりに行ったつもりなのに、行き過ぎたらしくまたあらぬ方向に行き、交番で聞いて、やっとたどり付きました。 どんどん暗くなるし、寒くなるし、曲は進むし(想像)、大人なのに泣きそうになりました。 着いたらアンコール曲でした。 笹かまさん(でいいのかな)がいたので隣に座って聴きました。 ゆうげさんやモスコちゃんが見えました。すてきでした。お客さんはたくさんいました。 恥ずかしさと申し訳なさで帰ってきました。
私の家のベランダに鳥肌が立つほど大きく、鮮やかな色彩の女郎蜘蛛が棲んでいる。大きな巣を張っている。 女郎蜘蛛はなんで女郎なんだろう。 が、それはまあ構わないで置く。 洗濯物を干すときに、いつもどきどきしながら干す。彼女の近くには干さない。 離れたところに干しながら、ちらちらと目をやる。 見ているととても不思議な気持ちになる。 母も気がついてはいるのだろうが、ほっといているみたいなので、私もほっとく。 巣は大きくなる。 巣にかかった虫を彼女は食べる。 彼女だけは巣にひっかからない。 糸の上を緩慢な速度で動いて行く。 どうして彼女の手は糸にからまないのだろう。 特別な手なのだ。 魔法の手だ。 そういえば私たちも魔法の手を持っている。 自分の空想の中では、自由に動き回れる。なんだってできる。でも、 他の人は私の空想の中で、私の想像の動きしかできない。 私は私の空想を大きくすることも小さくすることも、世界そのものを移動することだってできる。でも他の人に私の世界をどうこうすることはできない。 そして、人の世界は私には変えられない。 人の空想の中に私が登場できたとしても、私は私のとりたいような行動はできない。 人が考えること、感じることに対して、私は完璧な無力だ。 でもその人は魔法の手で、自分の世界を素晴らしく作り上げ、すいすいと渡って行く。 それは自由なんかじゃないかもしれないし、悲しいことかもしれない、わからない。 でも魔法の手があるのは本当で、その効力がある中だけでも、それを駆使して、何が悪い。
不老長寿の妙薬を作るのは難しいかもしれないけど、 眠らなくても大丈夫になる薬ぐらいは、近くできるのじゃないだろうか。 眠らなくていいなんて、すてきだ。 人生1.3倍くらいになる。 眠ってる間がムダだと考えると、それが有効なものになれば、不老長寿にかなり近いじゃないか。 そう考えると、飛行機や全自動洗濯機も不老長寿の薬だ。 でもそうかな、ゆっくり船旅するのはムダじゃないかもしれないし、こつこつ手洗いする時間も思索が深まったりするかもしれないからなあ。 何が不老長寿かなんてわからないものだな。 ところで洗濯機のこと、センタクキって言わないで、センタッキって、 言うよねー
黒田三郎の詩に、「あなたは笑ってる方が似合ってる、いじけたり泣いたりするのは似合わない」とかなんとかいう詩があったと思うのだけど(今こう書くと平凡なんだけど、実際の詩はなんかもっとこう、いい詩だった) それを見習って私もさっぱりした気持ちで過ごそう、と思ってたら、わりとできる。 あと、金子光晴の詩で「左足を右に持ってくのもめんどうだ」というような詩があって共感できる。
寒い。 冬到来だ。 最近、仕事が安定していて、気分がとても楽だ。 大変だった時期(高校野球のとき)は毎日、日にちまわっての帰宅の上に精神的にも重かったけど、今の時期はまるでそよ風。 こんな日々が続けばと思うけれど。年末にはまた地獄が待っているらしい。 でもそれは考えてもしょうがないものね。 金子光晴という詩人が相変わらず大好きだ。 図書館でまた借りて、こつこつ読んでいる。 好きになったからには行き着くとこまで好きでいたいと思う。 それにしても図書館というのはいいところだ。 私は図書館のおかげで最近たくさん好きな人ができた。 ワーグナーでしょ、マーラー。 それからシーレ、クリムト。ビアズリー。 ヴェルレーヌ。ランボー。 前はクラシックとか絵とか、海外の詩だとか、なんかとっつきにくいし、面倒、と思っていたけれど、聴いたり見たり、読んだりしていると、何て私の助けをしてくれるもにだろう、と思う。 こういうのを見ることができる時代に生まれてよかった、生きてて良かった、と胸を押されるような、じわじわしたうれしさがある。 けっして、それが直接、何かしてくれるわけじゃないし、米みたいに食えるわけでもないし、今の悩みの答えが書いてるわけでは、もちろんない。 でも、ああ、何て、こいつらは私の助けをしてくれる奴らなんだ。 私の好みは、癒しだの、美しさとは離れてるものが多いけど、過激でも、エロ過ぎでも、頭を突き飛ばすようなものでも、やっぱりやっぱりこれは、助けになる。 最近、自分で髪を切ったら可愛くなった。 あきらかに変で、結んでもほつれちゃうほど短くなっちゃったんだけど、これはこれで可愛い。 この前、献血をした。 あと、靴直した。
岡崎京子が 「失恋やココロが傷ついたときは、友情とセックスと文化しかないっす」 なんてことを書いてたと思うのだけど、わたしは何だかこの科白が好きでよく思い出す。 特に文化が人を元気にするって本当だ。 私は本も絵も音楽も、教養や心を豊かにするために使ったことはない。 ただのトウヒ、あるいは視線を移すため、違うことに考えを行かせるため、そんなことに使ったことがあるだけだ。 要はカベは乗り越えるものじゃなく、他の道に行くこと。あるいは俯瞰すること。空の上から見ること。 イシキを高くすること。 直接答えの書いてない本でも、読んで、それについて考えていると今の問題が薄まる。 よく、子供の読書離れがどうの、本読め、だの言うけど、それはほっといていい。 本読んだって頭なんか良くなるものか。 ただ、キズついたときは本読め、と思う。 芸術なんてそのためにある。 弱い人のためにあると言って過言じゃねえ。
最近ナルトを食べていないなあ、と思う。 子供の頃はよく食べたものだ。 ホームレスの人の自立のために、雑誌を売る、という試みがあるのを前にニュースで見た。 大阪の方の話で、まず何冊かの雑誌を無料で受け取りホームレスの人が街頭で売る、その売り上げで次に売る雑誌を買う、それを売ると歩合で収入になる、というものだったと思う。 頑張って欲しい。 ジョンソンエンドジョンソンが6歳までの子持ちの女性社員に年間30万の援助金を出す、用途は自由、と新聞に載っていた。 すげー、と思う。 この前、デブラヴィンガーをさがして、という映画を見た。 ロザンナという女優さんが他の色々な女優さん(40歳を過ぎて、年齢や家庭との両立に悩んでるような)に話を聞く、というルポタージュのようなものだ。 ロザンナというのはグランブルーに出てた小鹿みたいにかわいい女の子だった。もう40歳なのかあ、と思った。でもそんなに変わってなかった。 家庭との両立と言っても私にはピンとこないし、子供、というのも、私の母は私を32歳、妹は39歳で産んでるので、私自身もまだまだ、という感じがする。私の体のこともわからないし、出会いでもあるので、まあ今は何にも考えていない、という感じだ。 で、この映画を見た後、何でだかしらないが、TBSのカメラが来ていて、アナウンサーが一般の女性3人にインタビューするトークショーなるものが始まり、30分も費やされて退屈した。 ぼんやり聞いていて思ったのが、きっと40歳くらいの人って、「男社会で生きていかねば」「子育てって大変」「女は大変」とか思っちゃってるんだろうけど、20代の人はたいてい「女って楽」「べつに力入れて生きていこうと思わないし」「女の方が出産も体験できるし、人生選択肢多いし、まわりからも大切にされるし、楽しい」と思ってる人が多い感じがする、ということ。 私も「男の人の方がたいへんだろうなあ」と思う。 男の人が一日女の子になってみたら、待遇の違いにびっくりするんじゃないか、という気もする。色々な場面で。だって男の人は女の子に優しいし、女の子も女の子には優しいから。 それに女の子だと、たとえばふらふらしていても許されることが多いけど、男の人には世間の目は厳しい気がする。 その分、勉強できていることも多いだろうから、女も勉強しなくちゃ、と思う。 まあ、力抜いて、やりたいことは通して、楽しく生きて行きたい。
仕事が終わって雨上がりの外に出たとたん、冷たい空気に包まれる。ばかみたいだけれど、生きていてよかった、と思う。 傘はすきじゃない。 長袖も。 私という存在がなんなのかはわからないけれど、火星を見つける目、乾燥した外気を感じ取れる肌、それを統合する脳があって、しあわせだ、としみじみばかみたいなことを考えた。 家では父が寝ている。 38度9分とのこと。 私は自分が病気したことないから心配でたまらなくなる。 何度もどうでもいいことを言うために覗いたら、うるさそうにしていた。 特に、ブッシュの前はクリントンだよね?とか、クリントンの前はレーガン?、カーターは?と聞いていたときがうるさそうだった。 最近、私も年とったが、父母も年とった。 依然の彼らではない。 体形も、喋ることも。 私の父母の像はきっと一生私が小学3年生くらいの、彼らが40代前半のときの顔。 今はその顔と違う。 この前母が旅行に行くといい、そのために来て行く服を悩んでいろいろな服を着てみせてくれたが、その体形に私はびっくりした。 彼女は昔の写真を見ると、パーツパーツは私と似ているのになぜか美人。 そしてほっそりしていて、お洒落さん。 私は母の古着をよく着ていた時期もあった。(それらは本当に可愛かったが、私には小さすぎてきれないものも多かった) しかし、今は違う。 妹も変わる。 「急にエンジンが作りたくなったときのために理数系を勉強しておけばよかった」 とのこと。 「エンジンって知ってる?」 というので知らないので説明してもらったが、 「ばんばん爆発してポンプが上下する」 などと言っていっていてよくわからなかった。 だんだん妹の方が頭が良くなって行く。
眉毛の手入れはもうしない。 フリーダ・カーロみたいに繋がればいいなと思っている。 最近、髪の毛のこともなんとも思わない。 目のことも。 年をとって情緒が安定しなく、お酒を飲んでも眠れず、よく理由はわからないのだが、めそめそ泣いたりしているので、翌日目が厚ぼったくなっていることがあるのだけど、まったく気にならずに会社に行ける。 若い頃だったら「こんなんじゃ学校行けない」なんてところだが、今は、 「どう思われたって構わねえよ。お前らだってこんな日ってあるだろ」 ってなものである。 よく見れば誰だって目ははれている。 フリーダ・カーロのこと。(メキシコの画家で、眉毛が繋がってる) 映画がとても面白かったのだけど、絵画展はみなかった。 東京でも、その後大阪(ちょうど旅行に行ってた)でもやっていたのだけど、もう終わってしまった。 もう一生みる機会はないだろう。 文学フリマというイベントを青山ブックセンターで去年やっていたのを見て、「またあったら私も出展しよう」と思っていたのに、ぼんやりしている間に締め切られてしまった。 こんなことばっかりだ。 ぼんやりしている間に月日は過ぎ、私はもうおばあさんだ、つらい。 胸がくるしい。 人ともうまく付き合えず、失礼なことばかりしてきた。 あやまったりありがとうと言ったりしたいが、 誰もそんなことして欲しいとは思っていない。 ひとりよがり。 ああ、ひとりよがりということは、今まで色々な人に50回くらい言われた。 おばあさんになったということも、人にとってはどうでもいいことだ。 もう言わない。 人の話がしたい。
私は一生ふざけつくすだろう。 ふざけてもふざけてもまだ足りない。 まじめな場面で他のことを考え、他の人が一生懸命なときに私はいたずらするだろう。 金持ちになることはないだろう。 出世もしない。 よく考えると私にそんな欲はない。 ただ、わくわくすること、きゅーんとすることを求めたい。 人間の秘密を知りたい。世界の中の永遠の場所を見つけたい。 まわりと歩調を合わせたり、認められること、あるいは見返すことを考えていると、死ぬときに後悔するように思う。 私は役人も売春婦も一緒だと思うから、とくに上に行きたいとは思わない。 きっとほそぼそと世界のはしっこでひとりぼっちでものを書いているだろう。 ひとりぼっちということ。 自虐的にたまに思うことだけれど、よく考えるとかなり実際的なことだ。 本当にひとりぼっちでやっていかなければならないのだ。 この前作った人生の計画表に沿って、誰にわかられることもなく、ひとりでやっていく。 誰にも読めない流れるような字を書いて、郵便屋さんにも届けられない手紙を出そう。
「報復」という言葉がどうして大義になるのかまったくわからない。 ところで、自分が大変だということを人にわかってもらいたがっている人って、かわいい。 私は金子光晴の『マレー蘭印旅行』に触発されて、マレー半島に旅行に行こうと考えている。 それから、今読んでいるのは『悪の華』というボードレールの詩集。 訳が古いからか、言葉が古くてとっつきにくいのだけれど、このどろどろした冷たさは好きだ。
戦争に反対だ。
|
| |