最近興味があるのは浮浪者のことだ。 どうしてそうなるのだろう、きっと、自暴自棄になるからだと思う。 本当になにもかもどうでもよくなる時というのがあるのだと思う。 そういう人間の弱さは計り知れない。 弱さをじっと眺めたい、と思う。 そういう、弱さには昔から興味があった。 弱さを捨てて強くなるのでなく、 弱さをじっとみつめる強さが欲しい。 ところで話は変わるが、人生の岐路で選ぶ基準、というのがあると思う。 私は「どちらが面白いか」で決めようと思ってる。 まあ、テリー伊藤が言ってたのだけど。 で、こういう基準って、まあ、人それぞれだと思うのだけど、 例えば、すごく過保護な親がいて、あれをするな、これをやれ、この人と結婚しろ、等々言うとする。 で、私はその人がいいと思うなら、親の言う通りにしてもいいと思うのよ。 ただし、後で絶対親のせいにしないという自信があるのなら。 後で「あれをやらなかったのは親のせいだった」と言わない自信があるのなら。 後で親が「やっぱり私達過保護過ぎたわ。これからは私達は私達で生きるから、あなたはあなたで生きなさい」とすっぱり態度が変わっても、 すぐにひとりで生き始めて、親を恨まない自信があるのなら。 例えば、授業の時間割を彼氏と決めたとする。いいと思う。 で、その後、別れちゃって、彼が他の女の子と授業に出ている横で、ひとりで授業を受ける自信があるのなら。 私の感覚で言うと他の人の考えが入って、物事を決めると、リスクが大きい。 純粋な自分の考えで決めたことの失敗は凌げるのだけど、 他人の考えがちょこっとでも入ると、 「あの人がああ言ったのに……」 と思わずにはいられない。 物事を決める時は、悩んでる段階では人には喋らず、 ひとりっきりになって考えて決めるようにしようと考えている。 「自分の面白いことは何かな」って。 他の人が色々言ってくれても、期待はしないの。 手の平反されても文句を言わないように。 それから、「テトリス理論」っていうのがあって、 テトリスやってる時に、 ブロックが落ちて来て、自分は「ここの間に落とす」って思ってるのに、横の人が「これ、こっちだよ」と違うことを言うと、 自分の考えで行こうって思ってるのに、やっぱり耳に入っちゃって、曖昧なとこにブロックが落ちちゃうの。 難しいね。 取りあえず、自分は他の人が何かをしている時、それが自分の得意分野のことでも、サジェストはしても、教えたり、「こうするものだよ」などは絶対言わないようにしようと思う。 そしてどんなに仲の良い人でも、余計なことは言わない。 みんな頑張れ。
私は自分の強い腕で、強い足で。 世の中で重要なのは、自分でどうにか出来ることだけだ。 自分にどうにも出来ないことは重要じゃない。 組織は何もしてくれない。 他の人は絶対何もしてくれない。 やさしくされても、それは、偶然お互いのニーズが合った時の魔法であって、 ずっと続くと思ったら大間違いだ。 私は何もかも自分のことは自分で決めて、出来るようにしよう。 絶対、人は信じないし、期待しない。 自分の腕と足に自信を持って、責任とやさしさと広いココロと眼があるように。
顔をゆがめれば、世界もゆがむ程の青空。 カタカナから変体文字を経て、ゆっくりとひらがなへ。 漢字もかけます。 未来文字はまだかけません。 最近、見たいな、と思うのは能です。 能、見たことがないので。 それから、気になるのは「不浄観」。 「不浄観」というのが、いったい、何なのか、よくは知らないのだけど、 谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』に出てくる話で、 平中が、洛外の死体置き場によく出かけて、不浄観を極める、とか。 私自身は、よわっちい人間なので、汚いものには目を背けてた。きれいなものをたくさん見たら、自分の心象世界もきれいになると思っていた。 しかし最近、汚れたものでもじっと眺めることが出来るようになってきた。 考えたくないことを考えることも出来ると思う。 それから人間の弱さ。 人間の弱さをじっと眺めたい。 汚いものはきれいなものと同じくらい、心を動かすと思う。 今までの自分の、そういうのを避けるような、ちょっとお嬢さんぽい所が本当に嫌いだ。 もっと汚れたい。
ホント、カタカナデシカシャベレナイカラネー
サイキンネットカンキョウガワルイ デモガンバルゾ
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