今、天童荒太の『永遠の仔』を読んでいるところ。 影響を受けやすい私は児童虐待について思いをめぐらせている。 まだ途中で最後どうなるのかわからないのだけど、ラストも救いはないんじゃないのかと、思われる。 だけど、ハッピーエンドじゃない小説ってなんの意味があるの? といつもながら思う。 リアルさ、心を揺らすこと、嫌悪感、確かに小説に必要なことかもしれない。 だけど、もし私が小説を書くなら、ある種のハッピーエンドには絶対しよう、と私は思う。 嘘は書いてもつまらないけれど、心に希望を抱かせない文学の意味がどうしてもわからない。 話は変わるが、この『永遠の仔』を読む前に読んでいたのは土屋賢二のエッセイだ。 お茶の水女子大の哲学の先生なのだが、ユーモアエッセイを週刊文春で連載していて、かなり面白い。 電車の中でひとり読んでにこにこ(にやにや、か)していた。 すきなのは、 「神(以下敬称略)は……」 というところなど。 神様のネタって私はすきだ。 この土屋賢二のことは、後輩のNくんに最初、本を貸してもらって知った。 関係ないけど、Nくんに前に、 「みんな、欲求だけあって、才能がないから困ってるんです。書きたいという欲求だけがあって、でも才能がないから、みんなHPに日記なんか書いたりしてるんじゃないですか。キューさんも、そうなんじゃないですか?日記を書いてウサをはらしてるんじゃないですか?」 というようなことを言われて、ショックだったことがあった。 欲求だけあって、才能がない、 それは、悲劇じゃないのか。 だけれど、文章に限らず、ほとんどのことがそうなのだ、欲求だけあって、才能がないのだ。 人生は悲劇なのだろうか? だけれど、ある種のハッピーエンドで終わりたい。
日記書くのすきだったのに、ずい分、間があいてしまいました。 これからは毎日書こうと思っているので、見捨てないように。 色々書きたいこともたまっているので、書きます。今度。 今日、渋谷駅でヨミネちゃんに偶然会った。相変わらずかわいい。バイトに行く時だったので少ししか話せなかった。
何だか、まったく、何を書いたらよいのかわからない気持ちになってしまった。 胸がいたい
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