Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
2009年11月23日(月) |
曽我部恵一ランデブーバンド『おはよう』の「女たち」の加藤雄一郎アルトサックス |
2009年のジャズ盤を2枚聴く。 ジョシュア・レッドマンの『コンパス』、ジョン・スコフィールドのニューオーリンズ録音アルバム『パイエティ・ストリート』。 まったく方向性を失っている前者、サックス吹くの、やめてみたら?と助言したくなる。 ギタリストは越境するし浮遊するし、後者は作品として聴いてて楽しめた。演りたい音楽と一体になった歓びが伝わる。ジャズではない。
ジャズ、ではない?・・・ま、いっか。
クラシックのコンサートに通いはじめてから、ミスチルをまったく聴かなくなった。完全即興も聴く気がなくなった。 それからモダンジャズのマイルスがじつに気持ちよく聴けるようになった。ふしぎな変化だと思う。
大谷能生『貧しい音楽』を読む。 次女のきよちゃんが「うじゃい」という言葉を使用することを知ってから、従来の即興演奏がうざいとしか思えなくなった。 21世紀の即興演奏。演奏家の態度の変更、聴く者の態度の変更、わかったとたんにすべて終わってしまっているような。
アヴァンギャルドがすべからく面白くない。その未熟な悟りにいらつく。アイディア?戦略?それで?
行方均選曲の『真ブルーノート入門青春編1939−1957』と 曽我部恵一ランデブーバンド『おはよう』の「女たち」の加藤雄一郎アルトサックスにとろける■
2009年11月21日(土) |
マーク・ターナーのFLYトリオECM盤のレビュー |
放置しておとくと最新日記だけが目立ったままです。 マーク・ターナーのFLYトリオECM盤のレビューをJazz Tokyoに投げたのでここにも掲載。
▼
どんてんに凧をあげるボク。マーク・ターナーの新譜を聴くキーワードを思いつく。凧をあげるボクはタイコのジェフ・バラード。なかなか揚がっていかない凧、たこたこ揚がれ。涼しい顔してダンタカタンタカ、走る、スピードをかえてみたり、ベースラインに身をまかせたり、どう?凧さん、揚がってくれる?なかなか揚がらない、ぜんぜん揚がらない、おまえ凧じゃないのかマーク・ターナー、おまえまで涼しい顔してどおする、おれは凧が揚がらない恥ずかしさをまぎらすために涼しい顔して走ってんだぜ叩いてんだぜ。
このフライ・トリオ、グループのHPまである。■ Savoy Jazz から04年に出ていた『FLY』はぜんぜん出来が悪いんで購入してすぐにユニオンの査定に出した。あれに比べると、2作目である今回はECMでの録音であるせいか彼らの成熟か、ずっと聴き続けてしまう演奏意識の継続がある。
揚がらない凧。なんだこのCD?
6曲目、これまた再度揚がりそうにない凧の曲想・・・ひょうひょうと涼しいままやんけ。・・・わお!キター!9分10秒のところで、出たぜ、天国的なあのマーク・ターナー!これだ!これだ!これだ!10分30秒で演奏は終わる。この1分ちょっとのためにこのCDはある!たったそんだけのためにかよ!というツッコミが聞こえてくるが、おれはこの1分ちょっとがあったおかげで、CD全体にまで聴こえ方が変わってしまってこの数ヶ月に20回以上このCDを聴き続けているのだ。揚がらない凧が楽しいのだ。釣れないで糸を垂れている印旛沼のバス釣りで日がな一日をぼーっと過ごす釣りびとのトランスを識ってしまうのだ。
現代ジャズの2大サックス奏者マーク・ターナーとクリス・ポッター、と、おれは今年の夏まで思っていたが、トニー・マラビーを加えて3大サックス奏者と訂正するだよ。あとモチアン爺が叩いているマイケル・アドキンスとビル・マケンリー、これも加わってきそうなかんじ。マケンリーについては原田さんによるこんな記事まである。わお!マケンリー、ディアンジェロ、メルドー、グレナディア、モチアンという!おいおいアリかよ!そんなメンツー。■
CDレビューなんだからマーク・ターナーについて紹介しなけりゃいけない?それよか、みんな、どうやってマーク・ターナーの存在に気付いたの?ターナーの凄さなんてCDに録音されてこなかったんだぜ?彼のリーダー作でさえ。おれがこの2年連続でJazzTokyoで年度代表盤として挙げたフェレンク・ネメス盤の1曲目とカートのライブ盤2CDの「A Life Unfolds」17分54秒の2トラックこそが、ターナーの真骨頂だ。あとYou Tubeにあったソロ演奏、ホールでスポットライト浴びてクラシックのソナタのように朗々と吹きさがる(彼の場合吹き上げるとは表記が異なるのだ)動画もいい。
おれがマーク・ターナーに出会ったのは2001年にオフィス・ズー(■)が主催したターナーの初来日ライブだった。オフィス・ズーはNYジャズシーンの逸材をいち早く日本によんでライブを企画してしまう、そのそらおそろしい早耳ぶりはコアなファンには有名だ。おれはこのときのライブで耳が大きく旋回するように変容したのだ。当時書いた記事がこれだ。 ■ 「これで、21世紀を迎えた世界が聴くべきサックス奏者といえば、ジョー・マネリ、林栄一、マーク・ターナー、菊地成孔、ミシェル・ドネダの5強がまずは出揃った」なんて書いている。かわいいぞ、おれ。まだまだいけるぞ、おれ。50、80、よろこんで。
で、みんなどの演奏をもってしてマーク・ターナーはすごいとか、才能あるとか、思うわけ?カート・ローゼンウィンクルとの双子のようなコラボレーションぶり?じゃあ、CDではカートのどの作品のどのトラックの何分何秒あたり?ぜひ知りたいんだ。こんどユニオンに行ったら店員にきいてみよ。ちゃんとこたえろよ。おれ行く日に仮病で休むなよ。
でさ、ターナーの初来日公演んとき、五野洋さん(現55レコード・プロデューサー)は「トリスターノだね」と言ったわけだ。おれは目を白黒させたわけだ。そんで、その後、ターナーがリー・コニッツんところでセッションしたときに、コニッツが「トリスターノは何やる?何できる?」ときかれて「どの曲もだいじょうぶです」と涼しくこたえたターナーだったと、おれは知るわけだ。昨年平井庸一グループのライブで衝撃的な演奏を涼しげに披露した橋爪亮督(■)だけど、橋爪がトリスターノを演るこのグループにいた意味が俄然と浮かび上がってきたりもするわけだ。ターナーも橋爪もトリスターノという基本運動をみっちりとやったスプリンターであるという共通の背景を知るわけだ。
ECMアイヒャーは『ニューヨーク・デイズ』(■)で、このマーク・ターナーを捕らえた。そのターナーのレギュラー・トリオをこうしてリリースしてきた。次はどういう形でターナーを問うことになるのだろう。おれはね、突拍子もないこと書くけど、ウェイン・ショーターのフットプリンツ・グループで(ECMじゃないけど・・・)、ショーターの立ち位置で吹かせてみたいんだよね。ショーターの現在って、決して老境の悟りの語り口ではないように感じる。きっとね、本CD6曲目の1分ちょっと、を、高濃度で、不穏かつ大胆、吹かないで黙っている時間にもターナーの旋律が持続するような不敵な笑みのようなもの・・・日本語になってねえな、今は品行方正好青年なターナーもやさぐれてギャングに悪役のようなツラ構えになって、さ、キュートなかしゆかのような新人女性サックス奏者に「ターナーさま、どうしたらそのようなフレーズが吹けるようになるのでしょうか、おしえてください」なんてうっとりきかれて、ニヤリの笑うターナーは「おじょうさん、指の2本も斬り落とすようなことができないとこのトーンは出せないんだぜ、ベイビー」なんて劇画ちっくにこたえるわけだ。ううう、たまんねえな。
(多田雅範)
追記! コンポスト編集長の益子博之さんはこのCDをレビューしてないと思ったけど、げ!書かれている。 ■ そ、そうかー。禅か。禅といえばニック・ベルチュであり、ジョン・ケージだな。中庸の美学か。おれの聴取では「意識の継続」が快楽になるためには「6曲目の1分ちょっと」という契機が必要不可欠だった。それがなかったら「揚がらない凧はつまらん!」と背を向けたと思う。「置いてけぼりを喰ったかのような感覚」になったと思う。いやー、益子さんのレビューを読んだので、またこれから聴いてみよう。
追記2! このCDレビューを書く直前に、たまたま編集CDRに入れておいたhitomiの「体温」を聴いて、「おおー!このhitomiの下降する旋律のよるべない切なさは、おれがマーク・ターナーの下降する、だらだらと鼻水をたらしてちり紙でビュルビュルかんでいるとドロヨーンと脳みそまで鼻から出てくるような感覚、と、共通性がある!」と、ヒラめいて、それを書こうとガッツポーズを決めていたんだが、あまりにくだらないんでやめた。
作文しているおいらのコラムには好きなものしか入れないので、以下のテキストはここに捨てとく。
ジャズ即興リスナーをなめるなよ。
Yokohama / Aki Takase, Louis Sclavis (Intakt Records) 2009 格段と上手くなった高瀬アキにぐっと手を握る。スクラヴィスはコンポジションを見据えた即興の構築というECMでの定額収入の安定した道を歩んでいて血みどろもフォークも捨てた、哀しすぎるぞ、てんだからそれはそれで。で、演奏は教科書的なものに終始。これみよがしな手持ちのステップでダンスするよな即興演奏だ。スクラヴィスの「Le Temps D'Apres」はコンポジションで聴かせるという前提で楽しめた。続く「黒船」、高瀬のプリペアド・ピアノの演奏イントロ、このクリシェは80年代ですでに恥ずかしかったのにー、おばさん臭さにCD止めたくなる。とはいえ、97年の群馬県桐生市でのシュリッペンバッハとの来日公演で「即興演奏は伝統芸能だった」と教えてくれた恩人ではある。なんで横浜なの、横浜で録音してないのに。横浜のイベントに出前の発注に応じた飴玉職人の営業以上のものはない。即興かくあるべしという野暮は言いません。ふたりとも、こういう演奏をしていて恥ずかしくならないのですか?横浜開港イベントの記念切手程度の存在てのが実態。
a time for eveything / Yaron Herman (La Borie) 2007 Yaron Herman piano Matt Brewer bass Gerald Cleaver drums これ以上書かないけどね>■。いらついたのは、クラシックの公演でもらえるチラシのたばのなかに“キース・ジャレット、ブラッド・メルドー そして・・・未来は唐突に訪れる”などというフレーズで、クラシック・ファンもなめられたもんだなー、高齢化してるとはいえこんな振り込め詐欺はいかがなものですか、三文コピーライターの、いやいや偽装表記だって!表現の自由をばかにすんなよ、なんのために人類は表現の自由を獲得したのだ・・・。なになに、e.s.t.のあとを継ぐような存在だとか、バット・プラスとはちょっと違うでしょう、それくらいでいいと思います。レッツ・エンターテイン!ぼくが若い頃はメセニー・グループがいたけど、今はこんなのしかないかー。それよりも、ニック・ベルチュのほうだろ、可能性もスリルもある、真摯な姿勢にも好感の持てるのは。指先の可能性ではバティスト・トロティニョンBaptiste Trotignonがいい。
音楽は好き嫌いじゃない。おれたちリスナーは耳にカミソリやナタを持って聴いているんだ。
おっと今週のJazz Tokyoでは石井彰のライブ評かね。しかもあのホールで。イーストワークスは外タレ以外全滅ですし。ECMファンは石井彰の弾くLadies In Mercedesを聴くとそのお子様ランチぶりが手に取るようにわかります。
Jazz Tokyoは独立レーベルを応援するという気概はあっていいが、このような茶番が結果新しいジャズリスナーを潰していることに無自覚だ。いいコラムもある。書き手では若林恵がピカイチだ。ウイントン・マルサリス盤のレビュー■は、語り継がれるべき一撃だろうと思われる。おれは36さいで仕事をやめて200まん使ってフリー即興アヴァンギャルド音響CDを買いまくったがすでに97%売っぱらった現在の耳の到達にあって、撃たれた。
って、まだそのCD聴いてないんだけど。ほんとにそんなんなのかマルサリス。半年まえにマルサリスのヴィレッジ・ヴァンガード・ライブBOX(8CD)を、古今のヴィレッジ・ヴァンガード・ライブ盤(ロリンズからJJジョンソンまで)ばかり集めて聴いたときに取り組んだが、おいらがどんなコンディションにあっても聴くのが辛くてCDを止めてしまうのを5回やって、なにやってんだおれ?と駅前に牛丼くいに行ってしまったほどのキツいジャズ演奏だった。でも、もしかしたらマルサリスに変化が、もしくはおいらの耳に変容が。こわい話だ。もうジャズ聴くのやだ。
28にちに月光茶房で聴いた、ブルーノート原盤、リー・モーガンの『キャンディ』。 プレスティッジ原盤、オリバー・ネルソの『Screamin' The Blues』。これにはやられちゃいました!
むかしはジャズ喫茶クラシック喫茶で過ごすのが日課だったわたしの耳にとって 月光茶房のスピーカーは理知的な響きがしてモダンジャズ向きではないと思っていたのだけど、 そこで、原盤の音にやられてしまうとは。
手元にあるジャズCDで、ターナー、ポッター、マラビーが3大サックスだ!とか、 ジャレットはガルバレクはスクラヴィス高瀬アキはハーシュはヘルマンはとか、の、現在のジャズを おいらなりに俯瞰する物言いは、こう、手元にあって持ち歩いているというか、
そこでモダンジャズ原盤。ジャズ喫茶にあるから買わないでいいと卒業してたつもりのモダンジャズの演奏。
現在のジャズに対するヴィジョン、の平面、または地平線には、なくて。 この地平のはるか上空、崇高なまでの天上に鳴っているように聴こえたのでした。 「この演奏の意識には勝てない。ホンモノってこれか!」ととっさに感じた。 べつに勝つ必要もないんだけど、時代が違うから。現在には現在に至った歴史の必然が刻印されてるわけで。
いきなり昨日までのモダンジャズに対する感触が変容してしまいましたー!
|