Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2009年03月23日(月) ジャワのワヤン・クリ〜バンジャランジャリ物語

先月ばたばたと休んで13にちしか出勤しなかった・・・
・・・それでいて何もしていない、し、
洗濯だけはしている!晴れた日のふとん干しせんたく物干しの満ち足りた時間・・・
・・・だけどやっぱり。今月はほんとにかねがねー。
なのに、かねがなりまくるガムラン音楽に癒されてていーのか、家賃は!ケータイ代は!ガソリン代は!



キングレコードの民族音楽シリーズ、ザ・ワールド・ルーツ・ミュージック・ライブラリーの逸品。

39 東南アジア(SOUTHEAST ASIA) ジャワ・インドネシア
ジャワのワヤン・クリ〜バンジャランジャリ物語
Wayang Kulit of Java,“Banjaranjali”Story

影絵とガムランによる民族の神話「バンジャランジャリ」物語という3枚組CD。
9時間の物語を約3時間に凝縮録音したという代物。
2009年には世界無形遺産への登録が事実上確定、というからすごい。
92年に録音して16年の時を経て2008年7月にキングから発売された。
語りと人形遣いを担うキ・クスデ・カスドラモノKi Kesdik Kasdolamono (1932-2008)の最初の国際的な発表であり、追悼盤となったもの。

『インドネシアのジャワ島やバリ島で古来より伝わる伝統的な影絵芝居ワヤン・クリ。ヒンズー経寺院の祭りなどで、インドの古代叙事詩「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」などが演じられる。2003年にユネスコ「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」において傑作の宣言を受けており、2009年9月には世界無形遺産への登録が事実上確定している。このワヤン・クリの人形遣いの後ろで、2名以上のガムラン奏者が伴奏をする。』(CDの紹介文)

ガムランもいろいろあるが、これを聴いて驚いたのは、
カスドラモノの語り口が日本の浪曲に酷似していること、語りの間に拍子を付けたり場景描写のために板を叩く音のありようが歌舞伎のものと酷似していること、である。
それは、唖然とする。

ガムランの研究者のような気のきいたことを書くことができなのが申し訳ないかぎりであるけれども。ガムランと日本の伝統音楽はつながっているのですね!

ロックファンには退屈かもしんない。おいらも、サイケデリックな躁状態のプラトーに翻弄されるようなガムランを聴きたくて手にしたCDだけど、別の意味で耳は大いに歓んだ。全国の図書館担当者はとーぜんキングのこのシリーズは取り揃えているはずだから、まずはみなさん、聴いてみてください。


2009年03月22日(日) マーク・ターナー左手2本指電気ノコギリ切断事故から復帰!

ネットの情報はびびらせるもんだが、
昨年11月に全治6ヶ月の縫合手術をしていたターナーは、
リハビリを経て、
3月11日に
Edward Simon Quartet With Mark Turner: Live At The Village Vanguard
ヴィレッジ・ヴァンガードに出演して元気な姿を見せたという。
ほぼ完治に近い出来だというが。

とりあえずほっとしています。

現代サックスはターナーとポッターの両雄時代にある2009年の春である。


2009年03月21日(土) ニューヨーク・デイズ / エンリコ・ラヴァ CDレビュー



目をあけてみる夢のことを考えてみたり、まぶたのうら側で生きていることをだれかとこっそり分かち合ったり、そんなことをECMに教わっていたはずなのに、だれもいなくなってた。へたくそな叙情もみせびらかしのノートもいらない。2009年を告げるリリース。

ジャケを観て、ビルの谷間の曇り空をすっと流れる電線のラインに魅入られたなら、それがこのセッションのマーク・ターナーだ。

ペット、サックス、ピアノ、ベース、タイコ、という編成に。マイルス、ショーター、ハンコック、カーター、トニーで「フットプリンツ」あたりをピピっと耳に描くのが正しいジャズファンだろ。おいらなら、チェット・ベイカーとポール・デズモンド、ボブ・ジェームス、ロン・カーター、スティーブ・ガットのセッションをYou Tubeで観て、やっぱり待ってしまうのはデズモンドのトーン・・・と、描いてみたくなる。まさかここで、マーク・ターナーの快楽をデズモンドにつなげようってわけ・・・、だ。00年代の最後の年になって、すでにポスト・ターナーを虎視眈々と狙う若手奏者がいろいろ出ているそうだが、おいらは保守なもんで、ね。

前回レビューした日野=菊地カルテット『アンダーカレント』もその編成なんだが、ECMのこのディレッタントなレコーディングと対比させてはいけない。あっちはリアルジャズだ。

今年創立40周年を迎えるECMレーベルの総帥アイヒャー(独)がニューヨークに進出したい野心の30年の軌跡は。みずから、と、化したラヴァ(伊)〜ボラーニ(伊)組とともにニューヨークに(何度目かの)上陸をした2008年の2月、アヴァター・スタジオ、での録音。出迎えたのが、ターナー(米)〜グレナディア(米)〜モチアン(米)組という、大西洋をはさんで3者と3者、欧州とアメリカが夢を描く。

ジャケのビルとビルを欧州組とアメリカ組と見立ててみて、このCDを何度か再生してみると、騒がしい3ねん2くみのクラスメートたちのなかにますみちゃんの姿だけしか見えなくなってしまうようなターナーのテナーの身動きばかりを耳が追ってしまうのであるから、曇り空をすっと流れる電線のラインはターナーだと思う。これ、ターナーがいなければつまらないセッションだぜ。7・8・9曲目あたりで、ターナーからインするトラックが続きはじめるから、そっちも待ってて、ね。

1967年から6年間暮らしたニューヨークに帰省してラヴァが描いた、という作品紹介なのだが。ニューヨークに居たころのラヴァは何をしていたのだろう・・・と、ネットで調べてて・・・

マーク・ターナーが電動ノコギリで左手の指2本を切断する怪我を負ったというニュースに遭遇。

縫合手術がうまくいって、現在リハビリ中だとか・・・。ど、どうなんだ、マーク・ターナー。ピアニストのアーロン・パークスが、「マークは禅スピリットによって静かに事態を受け入れており」などと書いているが・・・。

おれは2年連続でJazz Tokyo年間ベストに、そろそろ出てきたターナー本領の録音を挙げていた。ターナーは単なる奏者としてばかりではなく、演奏を触発する、共演者に気付かせる、現代ジャズの重要な触媒として視ている。この『ニューヨーク・デイズ』だって、単なる初コラボレーションとしてのクインテットではなくて、個々の奏者を変容させていたものを今後に予測するものだ。アイヒャーだってターナーに耳が釘付けだったに違いない。おれがアイヒャーだったら、ターナーのドラムレスの作品、ソロも含む、を、録音したくなっている。くっそー、手をグーにしたままで何も書けない。


2009年03月16日(月) 「銭ゲバ」+『この世の全部を敵に回して』白石一文

さーよーなーらー、多田!多田!多田!

前回・前々回を観ていない銭ゲバの最終回だけを観て、また朝まで寝くさってしもうた。DVDRに焼いてくれズラ!
このところ無気力なままに一週間を棒に振ってしまったり、
仕事を休んで図書館から借りたCDを聴き続けては寝てばかりという、社会人としてあるまじき、だめおやじぶりに沈むズラ。

で、銭ゲバだけど、なんなね、あの回想シーン。あいが幸福だというんならむしずがはしるズラ。
爆弾を腹に巻いて自爆死というので良いの?
あの椎名桔平(しいなきっぺい、1964.7.14-)演じる父親は息子の死を直観して屋台でコップ2つに酒をつぐ。

いいなー、しいなきっぺい。

銭ゲバは、ゼニをめぐる紋切り型の考えかた・セリフを寄せ集めて構成されている。



駅前の本屋で最期の3ページだけを立ち読みしては戻していた本『この世の全部を敵に回して』白石一文
が中野区江古田図書館にあったので、借りて読む。

最期の3ページに光りが射す。

だいたいそんな生だの死だの愛だの復讐だの、おれにはいいCDが聴けるかどうかしか興味がねーし、その興味すら時折ねーし、
生きる基調は浦安鉄筋家族の大鉄なのだし、
まともに読んでられないような気もしながら、
べつに誰もおめーの敵にまわったりしねーよ、めんどくせー筆者だなー、
エレカシの奴隷天国でも聴いて死ねよ、と、だるだるになって読んだんだが、

最期の3ページに、救われる。
「銭ゲバ」を観終わったあとに、こういうテーマが浮上するならば(それは奇跡的なことだが)、すごいドラマだったと言えるのにのー。


2009年03月11日(水) 『カウンターカレント / 日野=菊地クインテット』 投稿追加テキスト

『カウンターカレント / 日野=菊地クインテット』

レーベル: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
SICP 10070 ¥3,045 SACDハイブリッド(STEREO)

2月9日午前2時31分。たばこを買いに外に出ると、満月が真っ白に輝いて円環を放っている。
気温は3度くらいか。
夕刻から寝くさっていて腹が空いて起きたところ、風呂で温まって死者の書を読んでいると、おれもよみがえってくるようだ。
お湯につからんと元気になれないだけなんだが。
風呂で読めるプラスチック製の文庫で読む折口はすぐに練馬を生死の境にしてしまう。
プーさん、おれだよ。タダだよ。

『カウンターカレント / 日野=菊地クインテット』 2007年9月発売 

まずこれは、聴かれなければならない。菊地雅章がピックアップした新しい才能、サックスのマイケル・アティアス、ベースのトーマス・モーガン、この二人を擁した、タイコはマエストロ、ポールモチアン、という、菊地雅章カルテットでの瞠目すべきジャズ演奏が並んでいる。足を引っ張っているのが世界のヒノテル。ソニーは伝説とも言うべき日野=菊地クインテットをリリースしたんだと思うよ。企画会議はそれで通るだろう。

1曲目、このベースとタイコの始まりの不穏な雰囲気は絶品だろう。菊地がインして、さあ、と、行く末をうかがう。2分30秒すぎあたりで日野はインするタイミングを逸している。トリオで5分30秒すぎまで進んでアルトのアティアスが入ってくる。アティアスは先導する役割しか担っていない前提でソロを進めて、7分になってようやく御大日野がカブく。それで終わりに向かう9分34秒。

2曲目、アティアスと日野が揃ってイン。そして日野が先導する。菊地がバトンを受けて走る。4分50秒すぎに作曲者のクレジットがあるアティアスにソロがわたる。このシチュエーションではアティアスも気が楽というか、ふてぶてしさをさらけ出していられる。6分30秒あたりから菊地に戻って、続いてモーガンにわたり、最後の1分強をアティアスと日野がまとめて終わる9分9秒。

3曲目、菊地のピアノの独壇場。ピアノトリオの演奏。モーガンの力量を感じさせる。

4曲目、アティアスが主で日野が従となる2管テーマ出しのフォーム、これがもっともこのクインテットが安定するもののようだ。菊地・モーガン・モチアンの中核が聴こえる。ここでの日野はいいソロを入れて牽引している。アティアスのソロもこれがいちばんいいかな。それにからむ菊地も最高だ。

5曲目、12分10秒の演奏。これがこの作品のキモだろう。1〜4曲目で提示されたこのクインテットのフォームのありようをアウフヘーベンして、個々の演奏が一体化を聴かせているのだ。うおおー、気持ちいい!

そこで考えてみるんだが。日野のトランペットというのは、ほんとうに彼のヴォイスがするところがすごい。日野=菊地クインテットを名乗るのだから、がつがつリーダーシップを取ってもよさそうなものだが。日野のトランペットをライブで初めて聴いたのは99年あたりだし、往年の鬼気迫る凄みはむかしのLPでしか知らない。それは日野の円熟でもあろうか。

不思議な盤である。菊地が連れてきたアルトとベースの力量はとても無名なミュージシャンのものではない。菊地もモチアンも、まったく年齢を感じさせない鋭さを放っている。日野は日野らしい、と、言うべきか。6曲目、7曲目を聴きながら、おれは日野を待ってスイングしはじめているのに気付く。この不穏なスイングに耳をゆだねながら日野を待つ。おれが冒頭で書いた「足を引っ張っているのが世界のヒノテル」は、最初に通して聴いたときの率直な感想だ。日野だけが、4にんの外側に居るように感じたのだ。しかし、ある意味不在の日野が4にんの演奏を規定している、または牽制している、そういう図式に宿っているこのセッションだけの引力がある。

くりかえすが、これは聴かれなければならない。メソッドとして確立されたジャズの方程式を安易に適用しただけのジャズ演奏ばかりがリリースされている現状にあって、ジャズが孕む謎を保持するような演奏をしかしたくない5にんが残した録音として。日野=菊地クインテットの現在というのは、単純ではない。


(追記 1)
ソニーの宣伝文を読んでおこう。

伝説の二人が軽佻浮薄の世相に一石を投じる問題作にして極限のアート!
2007年、日野皓正と菊地雅章の新たな伝説。ともに日本を代表する芸術家であり、音楽家として深い信頼を寄せ合う盟友が、今また手を結ぶ。1968年に『日野=菊地クインテット』を録音、以後も互いの作品に参加するなど交流を続けてきたが、双頭クインテットとしての共同制作は95年のリユニオン作品(スイングジャーナル誌のジャズ・ディスク大賞で金賞受賞)以来実に12年ぶり。超硬派真正ジャズでひたすら即興の奥義を探求、シーンに一石を投じる。削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた精緻なインタープレイ。無駄な音は一音たりとも存在せず、圧倒的なまでに高次元での音楽的対話が息を呑む美しさで交錯する。静謐な中にもジャズが本来持つ生命力とダイナミズムが横溢、モチアンの老練なドラミングと若手ふたりのサポートも光る。判りやすさ・手軽さの対極にあるその世界観はまさに"問題作"と呼ぶにふさわしいが、一見難解ながらもいつしか聴く者の深部において魂を静かに癒す。安易に流れがちな世相に対する「逆流 (Counter Current)」となろうとも…音楽の本質を求める求道者たちの極限のアートがここに誕生。 【タイアップ】スイングジャーナル選定ゴールドディスク第7期90弾

へええ。95年の『アコースティック・ブギ』はSJディスク大賞金賞を取っていたのか。プーさんにブギと言われたら、もうすさまじい走りを見せるピアノなのは確定的だ。実際、ジェームス・ジナス(ベース)のピック・アップは大成功だった。このサウンドが、実に90年代っぽい。ミドル級ボクサーのようなグレッグ・オズビーが瑞々しいアドリブを披露している。菊地のピアノも走っているし、日野のペットも一体となってはじけていて、このリズム隊と合わせてすきのないサウンドが完成している。この、90年代らしさ、という感覚、は、そのまま放置しておく(大きなテーマだ)。

おれがジナスの才能に唸ったのはピアノ・トリオでの『Feel You / 菊地雅章トリオ』のほうだったが、廃盤とは惜しい、惜しすぎる。ジナスはその後、小曽根真トリオに入って、小曽根をワンランクアップさせて育んだのは、おれはライブで聴いて確認している。

『アコースティック・ブギ』は悪くない作品だと思う、レベルは高い、しかし、一度聴くと飽きる。飽きていい、とも思う。それで、この作品の翌年96年に発表された彼らのライブ盤『モメント』、こっちのほうが数段良い。95年8月の東京ブルーノートでのライブ。『アコースティック・ブギ』の曲を演っているが、18分30秒の「サマー・ミスト」なぞ怖くなるくらいにいい。不穏だ。ジャズの不穏とはこういうブギだ。18分、23分、9分の4曲収録。ライブ全体を収録して2枚組でリリースする男気が東芝EMIには無い、情けないことだ。でも、4曲67分の至福が遺されているだけでもリスナーは感謝しなければならない。

で、なに、『モメント』のほうは無冠の作品なのか?こっちのライブ盤のほうが後世に残るに相応しい出来であるのに。しかし、わかりやすいよな、レコード会社とジャズ専門誌のゼニと思惑の流れは、よ。


(追記 2)
日野皓正の今年の興味深いインタビューがあった。
 【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち − 第6回:日野皓正さんが語る「ピットイン」の真の姿<前編>
 【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち − 第7回:日野皓正さんが語る「ピットイン」の真の姿<後編>

なんという日野の吹っ切れ具合。“「ヒノはマイルスの真似だな。もう最悪」とか言われたなあ(笑)。本当にそうなんだけどね。”なんて、言うんだ。そう回顧できる現在の自信はただならぬ。

そして『カウンターカレント』の録音時についても、実に正しく振り返っている。おれの聴取(本レビュー)を裏打ちしているだろ?

で、足を引っ張っている世界のヒノテル、であることを、一旦認めてしまったところを前提として、この複雑な日野=菊地クインテットの現在、は、正しく輝いて聴こえてくるのである。わかるか?日野は現在の日野が凄いはずだ。わからないことをわかって、それを宙吊りにして、日野はペットを吹き始めている、のだ。この、投機、とも言うべき態度こそがジャズの本質である。


(追記 3)
ソニーの担当者さんよ、『エッジズ/日野=菊地デュオ』をおれに聴かせてくれ。そしてJazz Tokyoに書かせてくれ。


2009年03月10日(火) 「東京大学のジョー・マネリ、またはミシェル・ドネダ、すくなくともポール・モチアン」



まだまだジャズに対する見識もJポップに対する感受性も編集CDRを構成するちからも、
おれの弟子を名乗る水準にも至っていない長男が東大文三に合格したと電話をかけてきた。
ばかもの!あれだけ上智のおんなはおれたちのものだな、と堅く誓ったはずではなかったか。

おまえはな、ECMファンクラブ会長の二代目を継ぐ立場・・・、せ、世襲なんだよっ!わきまえよ。

東大にだな、総合聴取研究所musicircusというのを作る。
その中はジャズ研、クラシック研、日本伝統音楽鑑賞部、中南米音楽、小沢健二科、ECMジャパン本部、などによって構成される。
編集CDR作成や、レコードコンサート、ニセコロッシコンサートツアー論評、ピーピコ賞の授与、Jazz Tokyoの編纂作業などの活動をする。

そんで「東京大学のジョー・マネリ、またはミシェル・ドネダ、すくなくともポール・モチアン」という講義をおれがする。

そんでマーケットの圧力に左右されない音楽批評論壇を形成する。

そんでおれが勲二等やMBE勲章、ノーベル文化賞をもらう。

そんでロックフェラー財団から好きなCDやコンサートを開く資金の提供を受ける。

そんでマンフレット・アイヒャーをあごでつかう。

そんでタウナーのソルスティスやジャレットのヨーロピアン・カルテットを再結成させる。

ああ、たまんねえな。


2009年03月09日(月) 宮下誠著 『カラヤンがクラシックを殺した』 光文社新書



宮下誠著 『カラヤンがクラシックを殺した』 光文社新書 

クラシックづいて2年目に突入しつつあるわたしですが、このようなすばらしい本に遭遇するのも時代の波だな。

聴取について、音楽の受容について、また、音楽の構造史について、いろいろな本や言説に触れてきたけれども、
畏れ入った。
音楽の闇に、ということこは、音楽のひかりに、触れている言説がここにある。

音楽が無力であるだの、この世の価値の外側にあるだの、
であれば、
この歓びは、この絶望に裏打ちされたような哀しみを含んだ、血の味がする音楽の放射は、何だというのか。


2009年03月08日(日) アルヴェ・ヘンリクセン/カートグラフィー 投稿

アルヴェ・ヘンリクセン/カートグラフィー
Arve Henriksen
CARTOGRAPHY

傑作ですよ、これは。

おいみんな、デヴィッド・シルヴィアンがECM作品に登場だぞ!と、書き出すのは誤った紹介アプローチの典型ですが。

虚心になって聴き始めよう、即座に連れて行かれるはずだ。くぐもったトランペットのかすれ音、技巧に裏打ちされた戸惑いの語り出し、すでに背景にオペラのオーケストラのようにフィールド・レコーディングなのか気配を漂わす舞台を表象する音がわきたっている。ヘンリクセンの世界だ。00年代ECM名盤のひとつであるクリスティアン・ヴァルムルー・アンサンブル『ア・イヤー・オブ・イースター』(ECM1901・ユニバーサルUCCE1058)2004を濃厚に彩っていたペットが彼だった。それ以前に、Supersilentのメンバーであることのほうが、この作品の土台を説明するのに納得がたやすい。

パタパタパタ・・・と羽根の音が鳴っているのは、稲垣足穂や鈴木翁二、あがた森魚の世界を連想しますね。

2曲目でデビシルの朗読がカットアップ・重奏されてます。3曲目にはデビシルの弟ジャンセンが音源を提供。カートグラフィー=地図作成技法というアルバムタイトル、各楽曲のネーミングはシルヴィアンだという。ヘンリクセンが2005年から2008年までの間に録りだめてきたライブ録音・スタジオ録音が集積された作品である。結果的に、曲ごとに演奏家や取り扱われた音源の位相に変化があるのは、正しいと思う。

ニルス・ペッター・モルヴァル(1960-)だったのか。まだ学生だったヘンリクセン(1968-)に尺八のテープを手渡したのがモルヴァルだったというエピソードは、このペットの鳴りようを雄弁に説明する。これは、まさに尺八だ。言われると、もうそういう風にしか聴こえなくなるのが怖い。ヘンリクセンが2001年にRune Grammofonで制作した最初のリーダー作は『Sakuteiki 作庭記』というタイトルだから、日本好きは相当なもんだ。彼はモルヴァルに導かれたのだな。

日本好きというと、浪人というグループを組むニック・ベルチュを連想するが・・・。あいつはノルウェー出身じゃなかったな。

ところでモルヴァルは元気にしてるのか?モルヴァルはせっかく『クメール』(ECM1560)でスターダムに乗り、『ソリッド・エーテル』(ECM1722)で前進していた(ただし、行き詰まりはあった)のに、ユニバーサルに移籍してあっと驚く駄盤『MP3』を発表して(ある意味当然か)いたので、おれ的には消し・・・、マーケット的にも次作に続かない・・・。あやや、モルヴァルはSULAという自主レーベルを作って細々とやっているようではないか。サイトに流れている宣伝サウンドは・・・メジャー感のない、町工場を思わせる小心サウンドだが、悪くはない。彼はこれを演りたかったのだろう。でもECMでの2作にあった構想がない。おそらく、モルヴァルにはプロデュース能力がない。実際に、サウンド構築力や電子音響的な感覚の良さはヘンリクセンにはかなうべくもない。その意味でヘンリクセンはモルヴァルの躓きを学習しているとも言える。

このECM盤は、デヴィッド・シルヴィアンのレーベルsamadhisoundの作品でもある。

6年前にCDジャーナル誌に「迷宮世界の入り口で ── ECMレーベル案内」をわたしと堀内宏公が執筆したとき、『hyde(ラルク・アン・シエル)のシングルを聴きながら、その耽美性にデヴィッド・シルヴィアンを連想し、そのシルヴィアンの作品に参加する、「釣りびとが緩やかに凍死してゆくかのような演奏」と形容されるスティーヴ・ティベッツの恍惚ECMサウンドまで、を、耳の手ほどきしてしまう不良中年である、私は。』と書き出したものだ。9年前からおいらが騒いでいたマーク・ターナーもECMに登場した。そこらへんのわたしたちの耳の自慢話はまたどこかでするとして。プーさんのソロやカルテットの作品を早く出せよな、アイヒャー。三善晃の作品をニューシリーズでリリースするまで、あとどれくらいかかるんだ?アイヒャー。


2009年03月07日(土) 山海塾の『金柑少年』を観てくる



山海塾の『金柑少年』を観てくる。お、YouTubeにもあるわ>

パリで公演したとか、ニューヨークタイムスで絶賛されたとか、彼らの尺度をそのまま鵜呑みにしていいのか?
白人や黒人がおしろい塗って山海塾やってないでしょ?(ブルー・マンやるていど)

おれ、1961年生まれ、ウルトラマンやゴジラは音楽以前のバックボーンというか、怪獣の咆哮に現代音楽を聴いていたし、怪獣の名前のようなミュージシャンばかり好きだ、ドネダ、ヘイデン、ゲルギエフ、ガルバレク、クレンペラー、アイラー。

山海塾のことはテレビ番組で観ていたけど、ナマの舞踏は初めてでした。

おしろいを塗ったスキンヘッドの人物は、肌色という生命感を無くし、無名の存在となり、それは死者であり、修行僧であり、
スペル星人である。
スペル星人もゴジラも被爆怪獣という定義をされるが、その受容は対照的である。

無念の死を強いられた被爆者、という視点を、山海塾に適用する直観は、1961年生まれに由来するか。

わからん。

わからんが、山海塾の表現を、きれいごとで済ます評論には違和を感じる。

あれ?おれがむかし買った土方巽の『病める舞姫』はいまどこにあるのだろう。

幼い頃からおいらの上のむすめは医薬品のキンカンが大好き。池袋で金柑少年を観終って有楽町線に乗ったら「ごはんたべに連れてって」と娘からメールがあったので、金柑少年を観て、キンカン少女に会った、と、おれは憶えておく。

「全身に白粉(おしろい)をまぶしたはだかのスキンヘッドにしたオトコだけが出てきて踊る舞踏だよ」「おちんこは?」「ガーゼの袋に収めてある」「おっきくなったりは・・・」「しないっ!(怒)」「それにしても就職活動はたいへんだよー」「どんな会社受けてきた?」「今日は築地で朝3時すぎから働くような生鮮卸しの会社」「あ、築地といえば、その舞踏の舞台にはマグロの尾が1200個もかつては使われていてな。最初は築地からタダでもらってきていたんだけど、築地の業者もこれはなにか怪しいと1個5円の値段がついてしまったんだそうだ」「安いね!」「この舞踏の初演は78年だからね」「31年も前なのに前衛なの?」「31年前だから前衛なの」「マグロの尾が1200個もぶら下がっている舞台って、臭くない?」「うん、潮の香りでもあり、生臭くもあり、だったそう。今回の公演ではマグロの尾がデザインされた壁だった」「実物とデザインじゃずいぶん違うんじゃない?」「たぶん・・・ね」


2009年03月05日(木)


2009年4月 7日(火) 19:00 サントリーホール
指揮:下野 竜也
男声合唱=東京混声合唱団
◆芥川也寸志(没後20年):
 エローラ交響曲
◆藤倉大:
 読売日響委嘱作品【世界初演】
◆黛敏郎(生誕80年):
 涅槃交響曲


2009年03月03日(火) 藤村実穂子リーダー・アーベント

<058>
紀尾井の室内楽 vol.14
藤村実穂子リーダー・アーベント
〜ドイツ・ロマン派の心をうたう〜

藤村実穂子(メゾ・ソプラノ) ロジャー・ヴィニョールズ(ピアノ)

はー。紀尾井ホールの前から2列目。なんか今日はいい予感がする・・・。寒い雨が降るひなまつり。ホールの天井を高く見上げる。オペラ歌手のリサイタルは初めてだ。参照点はこないだの二期会ロシア歌曲研究会第12回定期演奏会(当コラム<039>)、「われ作曲家キュイとソプラノ平山恭子を発見せり!」と心躍ったコンサート。

スタインウェイが置かれている。藤村実穂子と白人老紳士が登場。厳かな拍手、高まる一瞬。シューベルトの歌曲「泉によせて」が始まる。第一声、ピアノの第一音、で、時間の感覚を失うような空間に意識が支配される。これはすごい・・・。その抑制された表現、と、能の舞台を観ているような、静寂に内在する制御された大きなポテンシャル、に、耳が釘付けになる。シューベルトに耽溺しない闘争のようにも受信し得る。


(以下作文中)


2009年03月02日(月) 大谷能生+瀬川昌久の『日本ジャズの誕生』(青土社)をみんな買え!



大谷能生+瀬川昌久の『日本ジャズの誕生』(青土社)をみんな買え!

じつにすばらしい。
エアチェック小僧だったおいらも聴いたことはある音源はいくつかあるけど、まさに耳が洗われた。

おいらはひたすらサウンドに漂う時代の感触に動けなくなって聴き入ってただけだった。
たしか4年前の深夜にNHKラジオから流れたビッグ4のジャズ演奏に、車を122号線に急停車してウインカーをたてて大音量に聴いた記憶がある、
けど、
そこんとこ、探求をしないでいた。
おいら日本のジャズがすごいというときは高柳以降、で、阿部薫、菊地雅章、林栄一、川端民生、斎藤徹、今井和雄、千野秀一へと飛ぶ。
(日本はノイズと電子音の先進と考え、その合成表現的なジャズは等閑視せり)

ちがうんだな。
おいらJポップすごい、歌謡曲すごい、服部良一すごい、山田耕筰すごい、と、別立てで感受していたところと、
それらを統合したルーツを探り忘れていたんだ。

いつだって新しいものを創り出す瞬間の演奏、の、飛び出し、噴出、童貞力、には、
あとからアタマで考えて分析した結論とは別のところにあって、
その音が、どのように踊っているか、
それは誰にでもわかる、と、オノセイゲンは秀逸なたとえで語ったけれども、
おれは言っちゃうよ、
ディズニーアニメ『レミーのおいしいレストラン』(Ratatouille)じゃないけども、
音楽はだれでも聴こえるんだ。

いろいろおいらはくくって仕分けしていた。

そんで雅楽だ、浪曲だ、とも、このごろのおいらの耳は渇いていた。

大谷能生という評論家は、わたしたちの耳の新しい時代を告げるようだ。

この本の音源の一部は青土社のサイトで聴くことができる、という、すばらしい措置についても感激している。

聴くことのパラダイムシフトだとも思えるし、音楽って、すげーよ。そう思わせる大谷さんがすごいものだ。


2009年03月01日(日) 「合唱音楽の夕べVol.2 寺嶋陸也作品展」



ああ。本日は、ピーピコ賞受賞ピアニストである世界の寺嶋陸也さんのコンサートがあったのです!

「合唱音楽の夕べVol.2 寺嶋陸也作品展」

すみだトリフォニー!衛星中継しろ!臨場体験にはかなわなくても、やはり輪郭だけでも聴いてみたいぞ!

ライブCDにしてくれい。

仕事の関係で日曜日のコンサートは無理なスケジュールのわたしである。
この世界大恐慌の余波を受けて仕事が薄くなってしまうは給与も頭頂部の髪の毛も薄くなって・・・オヤジギャクしか言えねえ!

すしざんまい東新宿で息子と寿司くってマグロ半額だのにふたりで1まん5ひゃくえん。
こんな美味いマグロの握りをくったらしばらくほかのをくえないだに。
えんがわとこはだもさすがに美味なり。

イーホテルでの息子との2泊3日のたたかいの日々。
最上階の1311室から見下ろした新宿七丁目交差点。


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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