Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2008年03月31日(月) みかづき




やねのうえのみぎむきのみかづき

やきにくをたべるやくそくを延期してからはや10日。レバーもたべたいホルモンもたべたい。できれば韓国焼肉。

光が丘IMAの改装後のB1大軒盛だけど、味がうすくなった。あのラーメンにとっては致命的ではないのか。

亀戸山本のもんじゃにも光がさすようなたべたいきもちが東の方角から降ってくる。

西の天空から贈り物でたべた尾道ラーメン。これは通販してでもたべたかー。


2008年03月30日(日) 『Map  Jean-Luc Guionnet / Toshimaru Nakamura』 (Potlatch 108)2008




『Map
Jean-Luc Guionnet / Toshimaru Nakamura』 (Potlatch 108)2008

#1 (18:38) l #2 (12:51) l #3 (16:03) l #4 (23:16)

Jean-Luc Guionnet alto saxophone and church organ (on #4)
Toshimaru Nakamura no input mixing board

Recorded on march 17th, 2007 at Montreuil (France) and on july 20th, 2007 at la Collégiale Sainte-Croix, Parthenay.

さすがポトラッチ(レーベル)。血が吹き出ている。
エクスペリメンタル・ミュージックという界隈が従来の即興を侵食した契機に、即興の断層があった。従来の即興、というのはベイリー、パーカーらの英国即興第一世代との連続性において意識され、彼らの生存の視線に維持したように考える。一度は殺して父の遺志を継ぐような関係だったか、高柳昌行と大友良英。オフサイト系の演奏の登場・・・。
まいいや。
2月に札幌のATTICと北海道大学クラーク会館で打楽器奏者村山政二朗とのデュオ公演を行ったフランスの異才ジャン=リュック・ギオネ、と、ノーインプット・ミキシング・ボード奏者中村としまるとのデュオ、が、ポトラッチからリリースされた。
ギネオのアルト・サックスもいいが、パイプ・オルガン(!)の異化効果が凄い(面白い、というのではなく・・・)。中村としまるも激しい。ミキシング・ボードを意味深に鳴らしてて何が楽しいんだ、いつまでじっとしてんだ、それって何なんだよ、松尾芭蕉か、なんて以前は思っていたおれ。
おれ、ノイズも聴く。一時期は毎日新譜が出ているメルツバウ完全コレクターになりたかった群馬県民だった15年まえ。
フランスのポトラッチというレーベルはリリースこそ少ないがベイリー、ヴァン・ホフ、ラズロ、ドネダなどのコアな即興演奏家の、それも代表作水準の作品を提出し続けている。2001年のクレブス、ノイマンらの『Phosphor』もここからリリースされていた。
エクスペリメンタル系とか弱音系とかに広いレーベルだと、「演奏力もないくせに!」と思うばかりな演奏にも多く出くわして、何でもいいのかアンタらはという気持ちになったり、何でもありがたいのだというリスナーの存在を感じたり。でもポトラッチには批評性を感じるなり。
それって、オールド即興ファンのひいき目か?・・・かもしれんな。いや、おれの耳が聴取経験の臨界点を越えて突然聴こえ始めたとか。なんとなれば花粉症?相違ない。同型だ。
いや、それにしてもこの盤にはシビれた。16分とか23分のトラックが4曲収録されている。即興の新しい態度といったもの、音の斬新さ、おれのようなオールド即興ファンを退屈させない血が吹き出るような展開も不意を突く、ノイズの背後にパイプオルガンが音のキャラまんまに立ち現れてお風呂でお湯をかけ流しながらおしっこをするアグネス・チャンになって今までなかったこの感じ、と。トラック4、もしかして、中村としまるはポトラッチというレーベルにせき立てられている?サービス精神旺盛過ぎるぞ。余計なお世話か。
なに、このギネオはクセナキスに師事した経歴があり、即興演奏のほかフィールド録音や非西洋圏の芸術と思想をあつかう雑誌の編集まで行っているという、66生まれの42さい。いよいよポストモダンで育った40代の表現者が続々シーンに登場しているのだろうか。


2008年03月29日(土) 高橋悠治の76年ゴルトベルク




高橋悠治の76年ゴルトベルク。38さい。
微動だにできなく、目が眩しくて、
脳の細胞が音楽の微細な躍動、ダイナミックな躍動に、覚醒する運動を得ている。
こないだはシフのECMゴルトベルク2001に息を詰まらせていて。

こないだ友人と深夜に、思いつめることは芸術の基本だ、などと口をついて出ていた。

うたううあのコンサートでおじいちゃんになった高橋悠治が女の子を連れて聴きに来ていた。

水牛楽団の本を読んだり、新宿でやっていたコンサートに通ったりしながら、高橋悠治を気にしていた。
高橋悠治は高校時代にすでに国語の教師だった丸谷才一を越えていたという逸話があるくらいの天才なんだとICUに行っていた友人からきいた。
トーキョーミュージックジョイで高橋悠治が歌った「アラバマソング」でクルトワイルを知ったことも。
そういえばあの日の三宅榛名のオーケストラ作品に感動したあの曲はどんな曲だったのだろう。


2008年03月28日(金) すごいのは井上道義マエストロ




すごいのは井上道義マエストロ、も、なのだ。

同僚の女性に話すと。
「サントリーホールですごい響きを聴いてきたんですよー。
オーケストラ・アンサンブル金沢と言って。
名前は日本人なんだけど、2メートル50センチくらいあるハゲで目がぎょろっとしたハンサムな白人が指揮者なんだけど。
この指揮者の指揮、カンペキだし、すごく伝わる指揮で、世界レベルですごいものだとわかったんだけど。」

「それって井上さんでしょ?」

「へ?なんで知ってるの?」

「いやですよたださんー。井上さんを知らないなんて、音楽ファンとして恥ずかしいですよー。
岩城宏之のあとを任されたくらいの指揮者なんですよ。」

「えー?岩城宏之って、ネスカフェゴールドブレンドの違いがわかるオトコの?」

「そうですよー。」

「いやー、おれは内心、今日、知られざる金沢の天才を発見した!と思っていたんですよー。」

「あらやだ。」

「あらまー。そですかー。カッコイイだけじゃない、この指揮はホンモノだとばっちりわかりましたよおー。」

「よかったですねー。」


2008年03月27日(木) 『Day Trip / Pat Metheny』




パットの新作。パットは今日もごきげんだ。
クリスチャン・マクブライド(ベース)、アントニオ・サンチェス(タイコ)とのギター・トリオ。

このところ、パット・メセニー・グループとしての『The Way Up』とそのライブDVD、メルドーとのコラボレーション、アントニオ・サンチェスの『マイグレーション』やブレッカーの遺作『聖地への旅』への参加といった活動を聴かせてくれていたメセニーである。

メセニーのギター・トリオといえばベースのラリー・グレナディアとの『Trio 99→00』『Trio→Live』(いずれも2000年)の成果を即座に連想する。おそらくグレナディアのエスコートによって、メセニーはそれまでになく弾きまくったし、そのことによって、おそらく予期できなかった楽想的な展開を手に入れているらしいし、しかもいずれもライブ感覚でもって聴く者は文字通り音楽の創造現場に連れて行かれた。わたしはこれらをメセニーのジャム化回春謳歌熱盤などと言いつけるが、メセニーの(ある意味)弾くだけの衝動は、自己のグループのトータル・ミュージックとしての構築、各種のコラボレーション事業(オーネット、ライヒ、ホール、ベイリー、メルドー、ブレッカーとかみんなこれ)、との相関において三位一体であることは明白で、相関を読み解く予兆としてこのギター・トリオの新作を聴くことにもなる。

ファンク気質に抑制を効かせてほとんど聴こえないかもしれないベースのマクブライド(ほとんどまともなソロはとらない=とれない)、と、手数がやたらと多過ぎて黙っていても加速してしまうタイコのサンチェス。この二人を従えられるギターは、微細にこのサウンドを耳にすると、ほとんどローゼンウインケルかスコフィールド水準でなければ無理ではないかと思わされる。1曲目の軽やかに何てことないようにラインを弾くメセニーの速度、は、実は驚異的なテクニックによって支えられていることに思わず息をのむ。この1曲目は、その何気なさに反比例するように、メセニーがおのれがジャズの最前線にいることを凄みをきかせて主張しているような重く衝撃的なトラックにわたしは聴いた。

それだけで、この盤はいいのである。メセニーの三位一体を形成する布石は置かれたと認められるのである。今なら、ジム・ホールとデュオをしても勝てはしないものの何かは出せるかもしれない、と、叶わぬ夢想に遊ぶことも可能になった。トリオ99→00から進化し、軽やかに高みにあって弾くメセニー。2008年の春に、この曲をかけてお花見のドライブに行くこと。新作のかけがえのないリアルタイム感を、メセニーは届けている。明日への期待を響かせている。その反面、記憶にも記録にも残らない盤であることもうっすらと理解できるところがはかない。それはヒットチューンとなるような楽曲がないせいでもある。カトリーナ台風に寄せたトラックのとりとめのないゆったりとした旋律もよそよそしい。

何度か聴くうちに、このジャケットのポップさが禍々しいものに映りはじめる。摩天楼の街角を歩く若いアメリカ人、内面は内ジャケにあるとおりペプシを飲み屋根の上のディレクター・チェアーに座って、トレーラートラック、アメリカ製の大型自家用車、牧場、牛の放牧、空にはジャンボジェット機を眺めて青い空の下。それはアメリカン・ドリーム。明らかに破れたものと認識される2008年のアメリカンドリーム。まだ、ウィチタをリリースした頃のメセニーが描いたアメリカンドリームには青春といったものが煌めいていただろう。CDのアートワークは演奏を語るわけがない?そうだろうか。マックでエビフィレオバーガーと三角チョコパイを買って花見ドライブに出かけるわたしのBGMに、この上ないオシャレを演出するこの盤が、現在のアメリカの禍々しさを映しているとするならば、これはメセニーの現代的な批評行為だと考えてもいいのではないだろうか。


2008年03月26日(水) 淡交社の『日本の伝統音楽講座音楽』






おれに、狂言と能のライブに行かせてくれ!
この日経の広告・・・。1公演1まん。2公演1まん9せんえん。
読売では連日のごとくジャレットの3年振りピアノ・ソロ・コンサート1まんえんの突き出し広告が出てるが、売れてないのはあたりまえだろ。
この日本の文化がいちばんヴィヴィッドに新しいんだ、2008ねんは。

たとえば、即興と現代音楽と日本の伝統音楽とのおびただしい融合の失敗の試みたちを、その屍たちを、見据えるときに、
やはり残るものはこれなんだと、後進に指し示す義務がおれたちにはあるだろう。
残るものは伝統だけなんだと、指し示す義務さえある。

淡交社の『日本の伝統音楽講座音楽』という書籍が発行された。



おれはこの本を手にして魂が震えたぞ。
アイヒャーが1969年にEdition of Contemporary Musicと宣言して音楽のラインナップを見据えたときの気持ち、と、同格の視野を持つ。

精神を受け継ぐのはおれたちだ。



おれが視た三善先生はこの本の最初の写真になっている楽器を持った埴輪だったのだ。


2008年03月25日(火) オーケストラ・アンサンブル金沢はすごい!




金沢へ行こう!

すごいのは井上道義マエストロの存在感なのではない。
オーケストラ・アンサンブル金沢の響きがなんとも素晴らしい!金沢まで聴きに行く価値があるぞ。

「ドビュッシー :バレエ音楽「おもちゃ箱」(お話付き)」
という珍しい曲のコンセプトを井上道義は日本語の語りにして演じて見せた。

な、なんとドビュッシーがアニメの先祖にあたるのか?と、おれは思った、これはちょっと歴史的な検証してないのであれだけどー。

第一部ではヴァイオリンのネマニャ・ラドゥロヴィッチがサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」。唖然とするくらいに音楽的にかつ技巧的かつ。

3月25日のサントリー・ホール。
能登半島地震からちょうど一年、天野誠さんが制作した輪島うるし塗りのお箸(写真)が配られた。
この贈り物に応えるってのが、この日の音楽会の素晴らしさに対する心意気だろ!
音楽だ、音楽だ。これが音楽だ。


2008年03月24日(月) がっきー広告三ツ矢サイダー




けいまが日記で「がっきーが好きな人は、寿司で大トロが好きって言ってるのと同じだぞ!」などと書いていたその時間に、
おやじは新大久保の駅で2階建のがっきー広告三ツ矢サイダーを写メしていたのであった。
おまえ、反抗期か?
とゆより、書いてる意味わからん。大トロって高いだけだろ。寿司で何か特定のネタが好きだなどと言っていること自体が未熟者の証しだろ。
寿司をくうというのは、コンビネーションであり、物語りであり、ロジックであり、文化を味わうということであり、おのれが食べるコンポジションに趣きを味わうということだ。
ふっ・・・築地の白子の味噌汁への道はまだまだ遠いな。
・・・あ、秀吉の800円分のサービス券は4月いっぱいなので憶えておけ。


2008年03月23日(日) 『命に国境はない』という高遠菜穂子講演会DVD




『命に国境はない』という高遠菜穂子講演会DVDを観る。
この記事参照>
イラクが以前はどのような国であって、現在にどう至っているのか、を、語る。

とてもテレビでは放映できないおびただしい数の死体の映像、も、語る。

この映像に触れる衝撃といったもの。

仮説として、パウロがキリスト教に改心したのは、キリストの磔刑の残虐性に触れたことにその理由を求める、というものがある。

このDVDは、九条の会とか共産党支持団体の主催する会合で手に入ることが多いとすれば、
そのような衝撃による情動によって、何か認識が開かれるというのは、精神の操作としては、ほぼ同型であると思う。

なんかあまいと感じる。おれがひねくれてるんかな。


2008年03月22日(土) 小沼純一が書いたコリン・マクフィー本




なんだっけな・・・。あ、長女のはたちの誕生日を祝うデートなんだけど・・・。みごとにフラれた・・・。うえええん。サントリーホールへオーケストラアンサンブル金沢をひとりで聴きに行くのだ。帰りに亀戸の山本でもんじゃ焼きでも食べてくるのだ。

エクスワイフより、高橋悠治のCD『ぼくは12歳』を持っているか?という質問メールがあった。もちろん持っているが、持っていると返信すると、「じゃ、くれ!」と速攻で返信されるはずなので、とまどっているのだ。あげることに異存はない、まったくない。ただ、部屋のどこにあるのかわからないのだ。

高橋悠治の76年ものゴルトベルク(当時「カツラを脱いだバッハ」と絶賛されていた)を友人から借りる。ピータ・ゼルキンのも持っているのだけど上記と同じ理由で借りる。コレット・マニー・・・じゃねえや、コリン・ウイルソン・・・でもないや、ええっと、コリン・マクフィーの『タブー・タブハン』、まるでジャレットの名作『セレスチャル・ホーク』の原型としか聴くことができない作品、を、聴いておののいている。

小沼純一が書いたコリン・マクフィー本は、とても素晴らしいと音楽ファンの間ではもっぱらの評判だ。
小沼純一の音楽評論はわりとよく読むほうだけど、文体から感じる音楽を愛する姿勢にはいつも感動させられる。

ジャレットはJazz Tokyoのインタビューでコリン・マクフィーの参照を否定しているけど、偶然の創造の類似ということであれば、それはそれで素敵なことのように思える。


2008年03月20日(木) 明治学院白金チャペルでバッハのマタイ受難曲



例のブツ、アイヒャリアン必携のDVDがHMVに入荷したようです。

昨夜(3月21日)は明治学院白金チャペルでバッハのマタイ受難曲を聴く。これがチラシ> 
3月21日はJSバッハの誕生日であり、今年の3月21日は聖金曜日にもあたる、という、何十年に一度とかいう日だったとのこと。
この日の公演は、チラシにあるとおり22日の公演が完売したことにより追加公演となったもので、
「意図していない偶然は何かが起こるかもしれない」という恋の予感のような気持ちと、このところの寒さ続きが小休止した夕暮れの白金台は明治学院の夕暮れに。

んかー、高輪図書館でマイケル・ブレッカーの遺作『聖地への旅』をめっけー、買わんですんだー。なんやこの生前友人葬みたいなお題は。

メセニーの新譜『デイ・トリップ』、日帰り旅行、てのは、ま、そんなカンジ、なれど、これがまた聴かせる出来。もうかってまっかーもうかってまっせーほなほなくすぐりくすぐりとホストしあうようなメセニーメルドーのあやつり人形ごっごとは違い、この作品でメセニーはメルドーくんよはじけちゃってみれば?だけどこんな具合にさ、と、据わった目で助言めいた挑発とおれは聴く。

寝る。


2008年03月13日(木) Point de Vue vol,2 @府中の森芸術劇場ウイーンホール




Point de Vue vol,2 府中の森芸術劇場ウイーンホールに邦人作曲家の作品を聴きに。

今月はたちの誕生日を迎える長女にどんなプレゼントがいいんだろうと相談したら「おとうちゃんが選んだ服がいいよ」などと想定外な返答があって、そんな服を選べる感覚なんててんで自信ないし、そんなすてきな返答をくれただけでわたしはうれしいのだった。府中の森公園へは彼女が子供のころによく家族で出かけた。公園にあるモニュメントをさして「めだまの公園」と呼びあっていた。夏には4さいの長女と2さいの長男が公園の池で水あそびをした。モニュメントを中心に子どもたちと写った写真があった。あの構図でまた子どもたちと写真になりたいと思う。

コンサートが終わって友人と興奮気味に感想を言いあって小金井街道を右折するときに、府中の森公園の子どもたちが水あそびをした池を暗闇に一瞬見る。

この日は三善晃の「マリンバ協奏曲」を目当てに出かけた。三善作品を奏でるアンサンブルはとても音楽を自分たちの手の中にしていて、なかなか良かった。スコアが優れているから、三善の響きをばっちり堪能できた。

鈴木輝昭の「Dialogue」がものすごく良かった。
パンフレットに「クラリネット、チェロ、ピアノという編成の背後にはベートーベンの顔があり、ブラームスの姿を感じる。豊かな伝統の延長にある現代(いま)を認識し、同時代の言葉を発信してゆく個の在り方、語法を探っている。」とあった。伝統をうけとめた上で創作するこの静かな覚悟といったものを読み取る。だけど、そんな表現こそが最もむずかしいところだと思うし、現代音楽の世界的な大家たちでさえ、自らの語法(発明)とかエキゾチズムとか古典の禁忌とか戦略とかで汲々とするわけでしょう?おおざっぱな物言いだけど。
それはさておき、「Dialogue」には耳をみはった。旋律の相互関係、古典的であり現代的である語法、演奏の緊張関係の必然、息をのんだ。これはスコアリングされているのか?と驚く瞬間が何度かあった。ときに完全即興的感覚さえおぼえた。この作曲家はすごい。
追いかけるリストに入れるとわたしは現代音楽好きの友人に宣言しました。

この日のコンサート、演奏者として優れたものを感じさせたのはクラリネットの檀野直子、ヴィオラの江副麻琴、ピアノの黒田亜樹でした。
黒田亜樹のピアノが奏でた杉山洋一「間奏曲II」は、「ほとんど瞬間的にこの作品が出来上がっていた」と作曲家が書いたのは曲の前半までであって後半はコンポジションが息切れしていたし、ピアニストにあの負荷をかける表現はわたしには凡庸な逃げに感じられた。

青梅街道を抜けて帰路を飛ばしながら、現代音楽作曲家小山薫の作品、プログレのルネッサンス「Ashes Are Burning(燃ゆる灰)」(1973)を聴く。小山薫の作品はこの世のものからはみ出るようなものだ。

今日は鈴木輝昭と小山薫という現代音楽作曲家を知ることとなったわたしとしてはエポックメイキングな一日でした。


2008年03月12日(水) Jazz Tokyoではテオ・マセロの追悼特集も組まれた




8日に山下洋輔が石川県の海岸で炎上するピアノを演奏したという記事に「たださん、こんな演奏どーなんですか」と問う。

こっちはアレクサンドル・タロー(Alexandre Tharaud) のピアノ・タッチにおののいて震えながら出勤して上着を脱いだところなのに。せかいはいびつだよ。
タローって太郎だから日系なのかと思ったら純粋なフランス人のピアニスト。「何を弾いてもドビュッシーのように聴こえる」なんて形容されるのですね。

Jazz Tokyo にこないだ書いた三善晃作品のコンサート評が掲載された
これはこれで読んでもらいたくて書いたので読んでね。
あ、何書いてんだ。ここでも小沢健二の名を書いている。おととい仕上げた「マタイ受難曲」のコンサートにも小沢健二の名前を書いている。それをぜんぜん自覚していない、おれ。ばかみたい、おれ。

Jazz Tokyoではテオ・マセロの追悼特集も組まれた。
「Black Knight」についてぼくが書いた短いレビューもリンクしてくれていた。
「ごく稀に、音楽が人を聴くことがある。」という書き出し、そういえばそんな奇跡のような録音もあったのだ。

こんな謎に満ちた音楽に、ぼくたちは届かない。

届かないところに鳴る音楽にぼくたちはあこがれ途方もなく長い道のりを歩く。

世界はぼくのものにはならない。世界は誰のものでもない。ぼくは世界のほんの一部にすぎなくて、思いつめるのは手の届かないところにあるものに触れたいということ。そしてそれは隣に座っているひとの中にあったりする。

稲岡さんの「テオの思い出」という追悼文がマセロの人柄を偲ばせる。


2008年03月11日(火) 読売日本交響楽団「三善晃/アン・ソワ・ロアンタン」@サントリーホール




第469回
3月10日(月)  午後7時開演 サントリーホール(赤坂)
指揮:下野 竜也
ヴァイオリン:チョーリャン・リン
◆ 三善晃/アン・ソワ・ロアンタン 《遠き我ながらに》 〈創立20周年委嘱作品〉
◆ バーンスタイン/セレナーデ
◆ 伊福部昭/倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク
◆ バーンスタイン/〈ウエストサイド物語〉からシンフォニックダンス

読売日本交響楽団の定期演奏会に出かける。4000えんのP席、初めて。

にしても・・・三善、伊福部、バーンスタイン、て、どういう意図のコンサートなのでしょう。
そういうふうに並ぶようなモンだとあの三善作品を読売オケは認識しているのか?と思ったが、やはりそうだった。
スコアを優等生楽団が読解しただけの演奏。

三善の「アン・ソワ・ロアンタン 《遠き我ながらに》」、弦の響きはさすがスコアのちからで、聴かせました。
だけどハープ、チェレステは可も不可もないですがピアノはがっかりな響かせ方。
三善作品でも過渡期の作品なのではないか、もしくは、もう少しだけイントロとエンディングをゆっくり振るかオケを泳がせるようなサジェスチョンがあれば、たゆたうような夢幻な感じをもっと響かせることができたのではないか。

おれにとっての三善晃は合唱+オーケストラの、いわゆる「詩篇頌詠形式」、だれも言ってないか、おれだけが言っている「詩篇頌詠形式」、
が、いわゆる三部作であり四部作でもあり。
「アン・ソワ・ロアンタン」については、思わず「あんたタケミツかい!」と突っ込みを入れたくなるような弦楽巧者ぶりを見せつけられては、そのタケミツとの明確な違いを、それは主に楽曲構造のダイナミックさの落差に、チェレステの異化、ピアノの配置、に、様子伺いをたてる。

とまれ、おいらがコンサート冒頭の「アン・ソワ・ロアンタン」に思わず口にしたのは(こころのなかでね、あくまでも。しゃべるわけないでしょ?)
「宮崎アニメのサントラに使ったらさぞかし・・・」と、『ハウルの動く城』の最も静かなシーンを思い浮かべたこと。

それはこの日のコンサートのコンセプトに合致していたのではないか。
三善、伊福部、バーンスタイン、どれも“アニメのBGM的であった”ということ。

個々に言えば、バーンスタインについては、かなり見直した。バーンスタインは聴くものではないと思っていた。だけど、このスコアリングはやはり革新的なエキゾチズムの成果だったのだ。バーンスタイン、かなりまじめでインテリなん。残酷なくらいにクールなん。ぜにもうけも。
他者を感動させるのにクールに技巧的な視点を持つ、という資質では、テレビで大衆をこばかにし続けたマユズミさんと似ている。
なんでそんなこと今日のコンサートでわかったんやろ。

で、バーンスタインの演奏は、みごとに日本人っぽかった。日本のジャズメンがバークリーから帰ってきてハードバップを演奏して日本人にだけウケている様相とほぼ同じにおいがした。

ちなみに。バーンスタインは革新だったとして、ポール・モーリアは過激なのですね、あたしの見立てとしては。


2008年03月10日(月) 小沢健二




3月2日オペラシティでの『ヨハネ受難曲』のレビューの第一稿を仕上げた。最終段落をこう締めた。

「初めにコトバがあった、コトバによって殺されたかたくななひとりのオトコに対する罪の意識、おのれの野蛮さを肯定もするように罪の意識を定位し自分たちの社会や文化の“起動エンジン”にしている、というのがこの宗教だろう。「ヨハネ受難曲」の透明で崇高なる表現の裏側には、血塗られた野蛮さの裏打ちがある。この日のコンサートで聴いた透明さと崇高さ、に、わたしの耳はミシェル・ンデゲオチェロの『ザ・スピリット・ミュージック・ジャミア』(2005)と小沢健二の『毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life』(2006)との同質性を感じている。それも直感的な断定に近い。エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団とこの二人の姿勢や思考の同質性について、は、これから考えてゆきたい。」

小沢健二との同質性、は、かくかくしかじか、と、書くことではない。

ここに小沢健二の最近の言葉が伝えられている。>

オザケンの回答はこんな意味のこと。(メモがなく思い出して書いたものなので注意。文責は松永)
「さほど転換したという記憶はない。“ほんとうのこと”って何だろう、ということに興味があるが、少なくとも日本に住んでいるかぎり、“ぼくが見ているようなもの”になれる自信はないし、なれなかっただろうと思う。たまたまいろんな巡り合せで、だんだん“ほんとうのこと”が見えるようになってきた。大きな転機があったのではない。もともと「どっかに光があるんだけど」と感じていて、それを探した結果にすぎない。カローラのCMを受けるときに、トヨタという会社を根本から考えてみるだけの力は僕にはなかったが「何かがおかしい」という違和感だけはあった。だから、大きな方向転換かといったら、そうとも言えない。お金は必ず“灰色”と関係がある。足を洗ったわけでもないし、驢馬に乗っているわけでもない。“見えるもの”に向って一所懸命に歩いているだけ。大きく転換した感じがないので、難しい質問です。」

こんなダイレクトにわかる言葉だった。転向でも何でもないじゃん。
たとえば彼が連載している創作童話「うさぎ」を文学的な価値体系で評価することに、ぼくは意味を見出さないし、「一所懸命に歩いている」のがわかるテキストだと思う。ぼくはぼくの言葉で、ぼくはぼくの生活で、なんとかするだけなのだ。

「ほんとうのこと」は、オザケンの表現ですでに伝わっているし、彼にもっと音楽を制作してほしいなど希望することもない。
「ほんとうのこと」への歩みは、ぼくはぼくでしている。


2008年03月09日(日) わたしの師匠の年間ベスト




とある小学校の音楽クラブによる「風の谷のナウシカ」の演奏を聴き続けている。

「この小学生たちは一生懸命上手くなろうとしている。でも、下手(笑)。
その真っすぐな感じに打たれるんです。
で、ですね。まったく僕の妄想かもしれませんが(笑)、この演奏をアレンジした先生(?)は
何となく「ペットサウンズ」のあの空気感に影響されているような気がしたんです。」

な!なんと。わかった!


わたしの師匠の年間ベスト10

1 くるり/ワルツを踊れ(2007)
2 ゆらゆら帝国/空洞(2007)
3 ロジャー・ニコルス&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ/フル・サークル(2007)
4 フランク・ザッパ/you can't do that on stage anymore Vol.3(1989)
5 アレクサンドル・タロー(pf)/F・クープラン作品集〜tic toc choc〜(2007)
6 デヴィッド・ギルモア/オン・アン・アイランド(2007)
7 G・SIMONACCI(プリペアードピアノ)/ジョン・ケージ〜プリペアードピアノ全集(3cdセット)
8 ニール・ヤング/プレイリー・ウィンド(2005)
9 ジョー・ヘンリー/シヴィリアンズ(2007)
10 ミシェル・ルグラン/映画音楽集成(4cdセット)
11 細野晴臣/フライング・ソーサー1947(2007)


2008年03月08日(土) ディスクユニオン新宿店!ジョー・マネリのコーナーを撤廃してはならん。



たしか日経で読んだけどゴールドマンサックス証券の従業員の平均年収は7千万になるのだそうで、
勤務先はヒルズだからサントリーホールとブルーノート東京に行き放題だし寿司も焼肉も大盛軒ラーメンも食べ放題、
CDも本も買い放題、ガールフレンドもつくり放題、エルグランドで家族そろって日本中のジャズ喫茶行脚の自由行動旅行し放題、
という、それはそれは夢のような人生が待っているようなのである。
あれ?・・・入社した若者は「これからの自分の人生に休暇は無いと悟った」とかその日経に書いてあったよな気が・・・。

で、東大経済学部法学部卒の若者たちは大蔵省などの官僚の道は選ばずにそっちに行くというのだ。
医学部行っても医者の過労死が問題となっている昨今ともきく。

ま、東大文科に進んで文学部に進むような資産家のご子息の高等遊民としか思えない優雅な人生もあるらしいが。
詩人と自称して音楽評論でもするのか?おい、ディスクユニオン新宿店!ジョー・マネリのコーナーを撤廃してはならん。

ケインズは、1920年代の投機マネーが国際的に野放しになりバブルと大恐慌と戦争を生んだことを教訓に
「私は、国と国の経済関係を増やそうとする人々よりも減らそうとする人のほうに共感する。
思想・知識・芸術・理解・旅といったものは、本質的に国境に縛られるべきものではないが、
モノについては無理のない範囲で国産のものを使うべきだし、なによりも金融を国内にとどめるべきだ。」
と述べている。

なんか、資産証券化という金融技術が一国家には制御できない濫用をされている現在にピッタリあてはまるでないの?

二酸化炭素はすでに証券化されたんだっけ?

そのうち遺伝子も証券化されるぞ。

おれのは高騰するぞ毎日ストップ高だぞ。


2008年03月07日(金) 父兄同伴演奏みたいなもんだろ




表紙の田園風景に惹かれて読んだロシア初のノーベル賞作家ブーニンの掌編『アントーノフカ』。

どこか北海道を思い出すぞ。

ブーニンが古きよき帝政ロシアの領主屋敷を中心とした村落の風景を描写している。

わたしの曽祖父は明治以前に入植した大地主で見渡す限りの土地を持っていた、そうだ。
世が世であれば。傲慢なところだけが遺伝子として継承されているというこのありさまだ。政治や拝金では書かんぞ。

いっしょに仕事している若者がゴールドマンサックスに転職が決まった。
いっしょに仕事している若者がブラッド・メルドーに酷似している。

あそだ、ジャレット・インタビューだけど、言うに事欠いてメルドーについて何か言っていたな。
ガルバレクの高みに気づかないほどに鈍感なジャレット。
言うも言ったり、レイディアンスが宝石でありカーネギーがゴミであることは、地域の文化の問題などではない、すり替えである。
東京の演奏での真摯な企てと、ニューヨークでのつい嬉しくってワクワクしちゃって弾いちゃったんだもんオレもうトシだし、だろ。
だいたいスタンダーズってジャレットにとって父兄同伴演奏みたいなもんだろ。わかってくれるゲイリー姉さんとジャック兄い。
ゲイリーもゲイリーだ。
トニー・ウイリアムスのセカンドとアイラーのスピリチュアルユニティをほぼ同時期にジャズ界に提出できたくらいなのに。
ジャレットには、いいかげんにしなさい、と、言いたい。
スタンダーズのNYセッション3CDボックス(最初のセッション)は、やっぱり名作だなー。
スタンダーズは歴史的名盤としてこれだけ残るだろう。それだけは明白だ。


2008年03月06日(木) アンサンブル・ヴィーヴォ2008@東京オペラシティ




アンサンブル・ヴィーヴォ2008を初台に聴きに行った。

クロード・ヴィヴィエ(1948〜1983)というカナダ生まれの現代音楽作曲家の作品におののく。
ピアノの鳴らしかた、フルートとの描く時間の図形は、まさにECM70年代作品と同時代的に発生していたものだし、そんな現代音楽があったとは思わなかった。濃厚にロマンチックで狂気をのぞかせる楽想なのだ。演奏した大須賀かおり(ピアノ)と難波薫(フルート)の演奏の良さもあってか、『レッド・ランタ』(ECM)を凌駕してあの世界というのかな。というか、ヴィヴィエは70年代ジャレット(たとえば『イン・ザ・ライト』)を聴いていた可能性はかなりあると思う。
ヴィヴィエはパリのゲイバーで出会った男に刺殺されたという。

大須賀かおりのピアノはしっかりと音楽を捕まえていてなおかつそこに表現を置くことができるレベルのピアニストで群を抜いていた。ヴィヴィエの作品をCDにしてくださいー。

現代音楽でテナーサックスの作品を初めて聴く。演奏する原博巳はアドルフ・サックス国際コンクールで1位日本人初というだけあって、見事な演奏を聴かせた。ジャズ・即興リスナーの耳で聴くに、楽譜の技巧だけが手にとるように見える演奏で、ヴォイスがないという厳しい評価になる。

ヴィヴィエ以外の作曲家についてはまったく興味がわかなかった。

アンサンブル・ヴィーヴォ2008
Ensemble Vivo 2008 Creative Works in 20th → 21th Century European Tendency
・クロード・ヴィヴィエ:フルートとピアノのための小品 (1975)
・クロード・ヴィヴィエ:ヴァイオリンとピアノのための小品 (1975)
・クロード・ヴィヴィエ:パラミラボ〜フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための (1978)
・ベアート・フラー:粘土の足で立って[日本初演]〜声とフルートのための (2001)
・フィリップ・ユレル:墓(トンボー)ジェラール・グリゼーの思い出に〜打楽器とピアノのための(1999)
・セバスチャン・ガクシー:ジグゾーパズル[日本初演]〜テナー・サクソフォンのための (2004)
・アラン・ゴーサン:球体のハーモニー[日本初演]〜フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器のための(2006)


2008年03月05日(水)


『中欧、東欧のジャズを中心に紹介するプログラムがアップリンク(渋谷)で始まる。』
 このところその方面のジャズの紹介が増えてきたが、実際の音を紹介してくれる場はまだまだ少ない。関心があるのに、聴きたいのに、聴くつてがない。そんなお悩みをおもちの方にとって渡りに舟の企画が、当サイトで「オデッサへの手紙」を担当している岡島豊樹氏による「夜霧のジャズ・トレイン」と言えるだろう。
 岡島氏はロシア・ジャズに目がないといわれるが、実はハンガリー、チェコ、ポーランド、旧ユーゴやブルガリア、ルーマニアなどのバルカン諸国といった中欧、東欧のジャズにも愛を注ぎすぎて家庭生活に破綻をきたしつつあるという情報もあるとかないとか。とにかく、お気に入りのLP、CDを紹介してくれるという。
 第1回は、3月16日(日曜)、哀愁のモラヴィア・ジャズ・ピアノの詩人エミル・ヴィクリツキー(チェコ)、フォーク・メロ重視の熱情サックス奏者ドレシュ・ミハーイ(ハンガリー)をはじめ、あの方面ならこの人という極め付きを多々紹介してくれるそうだ。

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三善 晃・合唱音楽の夕べ
2008年3月9日(日) 
16:30開場 17:00開演
杉並公会堂大ホール(JR中央線・東京メトロ荻窪駅下車)
チケット料金=一般:3000円・学生(大学生以下)1500円

混声合唱のための「地球へのバラード」より
金子みすゞの詩による「五つの詩曲」より
女声合唱のための「悲しみは」
無伴奏女声合唱のための「かなしみについて」
女声合唱組曲「詩の歌」より
女声合唱とピアノのための「三つの夜想」
合唱組曲「五つの童画」
混声合唱のための「五つの日本民謡」
男声合唱とピアノ(四手)のための「遊星ひとつ」より
混声合唱と2台のピアノのための「交響詩 海」

合唱:樹の会
指揮:藤井宏樹

藤井宏樹氏が音楽監督を務める8つの団体が集まって活動している「樹の会」が、三善晃作品ばかりを特集して演奏する演奏会です。

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以上2つの告知です。仕事でどちらも行くことができないのですが・・・。

夕張の財政破綻>


2008年03月04日(火) ストラヴィンスキー。目がかわいいぞ。



ストラヴィンスキー。目がかわいいぞ。

進むべき道はない、だが進まねばならない・・・アンドレイ・タルコフスキー

こないだ長女と行った杉並区中央図書館から借りていた「トゥリーナ室内楽曲集」と「ノーノ」と「シュニトケクレーメル聖しこの夜」と「ピリスのベートーベン月光」を聴いたあと、16時間も寝くさってしまう。途中でカレーとヨーグルトたべてまた寝てしまう。

ヨハネ受難曲の公演感想文を途中まで書く。ほかの2公演は手付かず。

読んでいる本が3冊途中である。

ガソリンを入れに。

ハル・ラッセルのECM盤、師匠への編集CDR作成、ちあきなおみのファド、musicircus年間ベスト作文、・・・、
すぐに睡眠管理に失敗して体調不良で仕事を休んでは有給休暇をなくしているばかりでまったくさえない3がつである。


2008年03月03日(月) おい恋ちゃん!おまえはバッハの生まれかわりだったのか。



おい恋ちゃん!と、思わず声をかけてしまったバッハの頭蓋骨複製から科学的に再現した顔。
おまえはバッハの生まれかわりだったのかー。おれはうれしいよ、泣いちゃうよ。
今年のお年玉を2500円を4回分割支給とすると告げる2月22日発メールによろこんでくれる心優しい息子がバッハだったとは。

28日29日1日2日とコンサート4連続ラッシュだったので、それについて書け次第アップしまふ。転載メディアによっては改稿の。

ところで、バッハといえば、ECMが2003年にリリースしたシフのゴルトベルクはみんな聴いたのか?
おれはおとといの夜に聴いた。
まじやばいこれ。
グールドの55年録音と81年録音以降、おれは高橋悠治04年をすすめてきたけど(あー、高橋悠治76年ものがあるのか!)、
このシフのゴルトベルクは最初に挙げたいくらいにすばらしいと感じた。
正統かつ現代的な演奏だと、ぼくはこの演奏この録音から教わったというか、この感じたことを伝えるためにはおれには相当な困難があることも、いろんなことを・・・。
ゴルトベルクはいろんな演奏を許容するすごい曲なのですが、それゆえに演奏者にとってはむずかしいのです。
眠るための曲なんかでなく、覚醒せよと静かに迫ってもくるシフさんの演奏でした。

え?高橋悠治76年ものは当時「カツラを脱いだバッハ」と絶賛されていたのですか。
それって上の画像のような演奏?・・・。あー聴きたいー。だれか持ってない?


2008年03月01日(土) 児玉桃ピアノリサイタル〜メシアン生誕100年を記念して〜




パリ在住の国際的なピアニスト児玉桃のリサイタルを彩の国さいたま芸術劇場で。

日本初演の「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」(1933)はメシアン25さいの作品で、彼女がメシアンの未亡人イボンヌ・ロリオから手書きの楽譜を譲り受けて2006年にフランスで世界初演をした。
これ、あまりメシアンらしくないというか、ドビュッシー〜ラヴェルのラインというより、突拍子もなくブレヒト〜ハンス・アイスラーの音楽に連想が飛んでしまうところがあった。それってフランスらしくもないってことだよね。

1曲目のメシアン演奏で児玉桃が披露したのは、鳥のさえずるメシアン、を、さらに鳥が歌うメシアンにまで演奏の表現を、深めたのか変化させたのか、今まで聴いたことのないメシアンの表情だった。もしかしたらこっちのほうがほんとうのメシアンだったの?おそらくそうなんだろう、可憐で速度があってポップでさえあるドキドキするようなメシアン『鳥のカタログ』。

だからこの日演奏されたドビュッシーとラヴェルも、そんなメシアン調にカラフルだったのだ。
まあ、おいらが聴いてるラヴェルドビュッシーはコチシェとかミケランジェリみたいなピアニズムなのだからたいていの演奏はカラフルに感じるのかもしれないけれども、児玉桃の指はメシアンを弾く身体になっていると判断するのは間違いではないと思う。

そんな指で弾いたアンコールのショパンだ。そもそも彼女はショパン弾きでもあるのだったが、すっごく良かった。おれはショパンは嫌いである。ピリスのショパンは聴くかなーくらいにショパンは聴かない。ろくなもんでないと思っている。だけど彼女のショパンはとてもいい音楽だった。

彩の国さいたま芸術劇場は、ハイナー・ゲッペルスの劇場作品を、あれは何だっけイブ・ロベールがトロンボーンだったよな、10年くらい前に聴いた以来、だけど、この音楽ホール、造りは外見立派だけど音の響きはいまいちな気がする。きちんとしたコンクリを使ってないよな気がする。


児玉桃ピアノリサイタル〜メシアン生誕100年を記念して〜
メシアン: 《鳥のカタログ》 第12番 〈クロサバクヒタキ〉
ドビュッシー: 2つのアラベスク
ドビュッシー: 版画
ドビュッシー: 喜びの島
メシアン: ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(日本初演)
ラヴェル: 夜のガスパール
メシアン: 《幼児イエスにそそぐ20のまなざし》より 第10番 〈喜びの聖霊のまなざし〉 ほか
【アンコール曲】
ショパン: ワルツ第3番 イ短調 作品34-2
メシアン: ヴァイオリンとピアノのための幻想曲


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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